古代の中央アジアの大月氏国の人々も原日本語を喋っていた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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(世界史の窓より、参考)

古代の中央アジア、タリム盆地より西に大月氏という国があった。この国の人々が、どうも縄文人と同族で原日本語を喋っていたようだ。

その理由として、大月氏を月氏の大部分とすると、一部分の小月氏が羌族と同族のようで混住・同化していること、この羌族が当時の秦の人々と同族で、そして秦や後の魏の人々は縄文人と同族の殷人の末裔でもあった。(注: ここでの同族とはY染色体ハプログループDを共有して、言語・気性・価値観・習俗・文化がそんなに違わないことである)

また、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の王から親魏倭王の金印を貰っているが、大月氏も親魏大月氏王の金印を貰っている。当時、東アジアでは魏呉蜀の三国が互いに覇を競っていたが、東西両端の日本(邪馬台国)と大月氏国と魏は同盟を結んで、呉と蜀を挟み撃ちにしていたことになる。

ところで、大月氏は匈奴に圧迫されて西進したが、匈奴の東にあった東胡が、やはり原日本語を喋ったようだ。実は、烏丸、鮮卑、契丹は東胡の後裔といわれ、鮮卑・契丹が原日本語を喋る国であったことは分かっているからである。


雑談

日本に渡来して仲哀天皇に蚕の繭を献上したと日本書紀に書かれた秦氏の王の弓月の君の故国の弓月国がタリム盆地の北、バルハシ湖の近くにあった(参考)。


こんな遠いところから島国の日本に渡来してくることも、有り得ると納得出来る。


参考

①-1 月氏(げっし、コトバンクより)


古代中央アジアに活躍した民族名。中国の春秋時代の末から戦国時代の末にかけてモンゴル高原の西半を支配し、東方の東胡(とうこ)民族と内モンゴル方面で境を接していた。秦(しん)末、月氏の人質となっていた匈奴(きょうど)の冒頓単于(ぼくとつぜんう)は月氏から逃れて帰り、匈奴民族を率いて月氏を討ち、これを西方に圧迫し、さらに漢の文帝の4年(前176)ごろ月氏を大征伐してその支配下にあった楼蘭(ろうらん)、烏孫(うそん)、呼掲(こけい)など、タリム盆地、天山山脈以北およびその周辺の諸国・諸民族を征服した。月氏の主力(大月氏)が天山山脈の北方イリ方面に移動したのは、おそらくこのときのことであろう。このとき、月氏の一部は甘粛(かんしゅく)、青海両省の中間山脈地帯から黄河の上流域に残存して小月氏とよばれ、羌(きょう)民族と混住同化した。その後月氏の主力(大月氏)はふたたび匈奴に攻撃され、今日のアフガニスタンの北部に移動してバクトリア王国を倒したと考えられる。ストラボンにバクトリア王国を滅ぼした民族として伝えられているアシイ(AsiiまたはAsiani)、パシアニPasiani、トカリTochari、サカラウリSakarauliまたはSacaraucaeのうち、アシイあるいはトカリが月氏であろうともいわれているが、明らかでない。紀元前129年ごろ、張騫(ちょうけん)はバクトリアに赴いて月氏に接触しているので、月氏のバクトリア移動はそれ以前のことである。その後唐代に至るまで、いにしえのバクトリアの地域およびそこを根拠とした民族は中国人から月氏とよばれた。紀元前後、月氏はクシャン(貴霜)民族にかわられた。[榎 一雄]


①-2 月氏(wikiより)



② 魏から授けられた印綬(wikiより) 

・229年、魏の曹氏、「大月氏国」(クシャーナ朝)に金印、「親魏大月氏王」贈る。

・239年、倭女王卑弥呼、魏に朝貢、金印紫綬の「親魏倭王」印、銅鏡百枚等を賜わる(晋、陳寿 『三国志』魏書・東夷伝・倭人の条 「今以汝為親魏倭王仮金印紫綬」)。


③ 縄文人と同族の殷人の末裔の秦、楚、斉、、、魏、晋、契丹、鮮卑、隋・唐の支配者層、そして東夷諸国などが原日本語を喋っていた(参考)


④ 魏と邪馬台国とは原日本語が通じた(参考)


⑤ 日本語の起源(参考)

かつての東アジアでは広く原日本語が喋られていた。


⑥ 契丹古伝とは(参考)

古代の東アジアは契丹のルーツ(殷)が支配し、原日本語が喋られていた。


⑦ チベット地域周辺の少数民族に、Y染色体ハプログループ Dで、日本語に親和的な人々がいた(参考)


⑧ 羌族とは、、、Y染色体ハプログループDで日本人と同族であった