*諸事情により、本記事は未完成・編集中です。ご了承のうえお読みください。


こんにちは、みなさんお元気ですか?

さて、ここ茨城県筑西市では毎年、地元出身の陶芸家・板谷波山先生の誕生日である3月3日、先生について語り合うイベント「波山の夕べ」が開催されてきました。


しかし、ここ数年は新型コロナなどの影響もあり・・・

令和4年は4月に波山の夕べ特別編 榎木孝明さんを迎えて」、令和5年は10月に波山の夕べ 特別編2 板谷波山60回忌前夜の集い」と、いずれも本来の3月3日ではない「特別編」として行なわれました。


それが今年(令和6年)、久しぶりに先生の誕生日である3月3日に開催されたのです。テーマは、令和2年に予定されながら延期となっていた「波山と窯の物語」↓



作品を生み出す上で極めて重要かつ不可欠な「窯」について、関係者のみなさんから、様々なお話を聞くことができました。相変わらず情報量が多すぎて、今回本文中でまとめ切れませんでした。すいません。


会場は、しもだて地域交流センター・アルテリオ集会室です(入口には素敵な花が)↓



場内は、例年通りの超満員↓



司会進行は、主催者である「下館・時の会」代表・一木努先生です。*以下、スマホで遠くからの撮影のため写真が残念な事になっていますが、ご理解ください



まずは、須藤茂筑西市長による来賓あいさつ↓



ここで板谷波山記念館の整備について、サプライズ発言がありました。いわく、「一木先生たちから色々とお話をいただきまして、『教育部長に(記念館整備の)図面でも描いてみろ』と指示いたしました。本日は(波山先生について)勉強させていただきます」との事でした。

ちなみに、記念館整備については既に平成2年、市教育委員会が「板谷波山記念館基本構想」と「板谷波山記念館基本計画」を策定しており、パブリックコメントを経て、当時の市公式HPで公表されていました


部長に指示した図面が、どの程度精緻なものかは計りかねますが、完成したらぜひ公開していただきたいと思います。

来賓あいさつ2人目は、波山先生の孫でもある、公益財団法人波山先生記念会の板谷駿一理事長


板谷理事長は、「(焼きものには)研鑚し尽くした中でも偶然がもたらす面白さがあります。先程は市長さんから(記念館整備について)力強いお言葉をいただきました。本日は波山の窯の、色々な物語を紹介いただけるそうですので、私も勉強させていただきます」などと語りました。
ちなみに板谷理事長は東大卒で、(株)NHKエンタープライズ代表取締役社長やNHK専務理事などを歴任。作家の故・立花隆さんとは幼馴染みで、一種波山の窯焚きを手伝った事があるそうです。

ここからは、研究者や関係者のみなさんのお話。最初は、かつて波山先生も教鞭を執った石川県立工業高等学校で、陶芸を指導されていた濱岸勝義さんです↓


まず先日の能登半島地震について触れて、「学校は建物に少しヒビが入ったものの、約500点の美術品は全て無事」との事。これには少しほっとしました。


そして本題、金沢時代の窯ついて。石川県立工業高等学校の前身である金沢区工業学校は明治20年(1887)、あの兼六園内に設立しました。実は、波山先生が着任した明治29年(1896)当時も、校舎は兼六園内にあったというのです。

「板谷嘉七(注:波山)・山脇勇吉 兼六園校舎に着任」↓


波山先生の在職期間は明治29年(1896)から明治36年(1903)。その間に、校舎は現在地に移転しました。

「明治34年(注:1901)、校舎一部(窯業科) 移転開始」↓



この窯を使って、波山先生の最初期の作品が制作されました。


続いて、東京国立近代美術館の花井久穂主任学芸員↓


陶芸家を志した波山先生は、明治36年(1903)に石川県立工業高等学校を退職し上京。同年、東京高等工業学校(現:東京工業大学)窯業科嘱託となって田端に住居と工房を建て、翌明治37年(1904)には、三方倒焔式丸窯(いわゆる夫婦窯)を築き始めます。有田出身の深海三次郎を初代轆轤師としたのもこの頃のようです。


「東京高等工業学校卒業アルすバム」明治40年(1907)の波山先生↓


波山先生は、図案科で図案を教えていました。


「東京高等工業学校卒業アルバム」明治45年(1912)の波山先生↓


こちらが、当時の東京高等工業学校の窯だそうです↓


さて続いては、波山研究の第一人者である学習院大学の荒川正明教授のお話↓



明治維新以降、日本の焼きものは輸出産業として繁栄。開港された横浜には全国から職人たちが集まり、その焼きものは「横浜焼」と呼ばれたそうです。


「横浜随一の陶磁器商・井村彦次郎
井村彦次郎が横濱に店を構えたのは明治8年(1875)頃のことである。屋号を『松石屋』とし、横浜のメインストリートであった本町2丁目に店舗があった。井村の店は、外国人の好みに合わせた品揃えですぐに評判を呼び、陶磁画工を大勢抱えて次々と製品を製作するなど、店は大いに発展した。外国からの舶が横浜に到着すると、井村の店は多くの外国人旅行者でごった返していたという。」


波山陶芸の革新「やきもの」を「アート」へ

(1)個人で窯を運営(高火度焼成の実現)

(2)図案家(デザイン・絵画意匠)

(3)彫刻家(写実的な立体表現)

(4)釉下彩の技法(瑞々しい色彩表現)

(5)□□釉の応用(釉の装飾性→幽玄美)



日本での最初期の三方焚口倒炎式レンガ積丸窯
陶芸家のアトリエ︰田端


続いて佐野市立吉澤記念美術館の末武(すえたけ)さとみ学芸員からは、黒羽(栃木県)の「かなめ焼」について発表がありました↓


黒羽には、かつて波山の指導を受けた倒炎式の窯があったそうです。



「かなめ焼」については全くの初耳。勉強になりました。


「波山の夕べ」では以前、戦時中下館へ疎開していた波山先生に作陶の場を提供した、つくば市洞下の陶芸家・古宇田正雄さんの長男・昭夫さんが出演され、思い出を聞かせていただいた事がありますが・・・

今回は、その昭雄さんの娘のアキコさん(すいません。漢字がわかりません)が登壇↓



古宇田家には、疎開中に波山先生が使用した窯が現存植生しているのです↓




こちらは板谷波山記念館にある、田端から移築された倒炎式窯↓


洞下の窯と田端の窯、形がよく似ています。残念ながら古宇田邸の窯は劣化が進んでいるようです。なんとか補修できれば良いのですが・・・。

そしてこちらは、この日参加された、もう一人の波山先生の孫・村田あきこさん↓



村田さんは、呉服全般を扱っていた「銀座むら田」(文政年間創業)の店主。令和5年からは渋谷に移転し、染織ギャラリー「染織工芸むら田」として営業されているようです。 


この後も、ステインドグラス史研究家の田辺千代さんや↓


田端の窯を筑西(下館)に移す際、移築作業を行ったという職人さんたち(すいません。お名前がわかりません)↓


日本有数の古陶磁修復家で波山作品を陶片から修復している繭山浩司さんのお話をうかがう事ができました↓



最後に、板谷波山記念館の橋本空樹学芸員から↓


記念館の次期企画展(特別展「昭和モダーン、モザイクのいろどり 板谷梅樹の世界」)の告知があって、この日は終了。相変わらず中身の濃い催しでした。



というわけで、第17回波山の夕べ「波山と窯の物語」でした。



■第17回波山の夕べ「波山と窯の物語」

日時 令和6年3月3日(日)午後5時開演

場所 しもだて地域交流センターアルテリオ階集会室(入場無料)

主催 下館・時の会

後援 筑西市、筑西市教育委員会、(公財)波山先生記念会

問合わせ T's設計室 TEL0296-23-2607


■これまでの「波山の夕べ」(会場:しもだて地域交流センター・アルテリオ)
令和5年波山の夕べ 特別編2「板谷波山60回忌前夜の集い」
令和4年/波山の夕べ特別編「榎木孝明さんを迎えて」
令和2年/第17回波山の夕べ「波山と窯の物語」*新型コロナウイルスのため中止
平成31年/第16回波山の夕べ「波山と暮らして」
平成30年/第15回波山の夕べ「実録・板谷波山」 
平成28年/第13回波山の夕べ「波山写真館」
平成27年/第12回波山の夕べ「これからの波山」
平成26年/第11回波山の夕べ「波山の妻 板谷まる物語」
平成25年/第10回の「波山とともに50年 ろくろ師 現田市松の生涯」
平成24年/第9回波山の夕べ「震災とやきもの」
平成23年/第8回波山の夕べ「小川三知と板谷波山」
平成22年/第7回波山の夕べ「陶片から波山を語る」
平成21年/第6回波山の夕べ
平成20年/第5回波山の夕べ(会場︰妙西寺)
平成19年/第4回波山の夕べ

平成18年/第3回波山の夕べ「金沢の波山」

平成17年/第2回波山の夕べ

平成16年/第1回波山の夕べ


■染織ギャラリー「染織工芸むら田」

午前11時~午後6時(日祝休) 

東京都渋谷区東4-12-29 

TEL03-3409-5622 


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