こんにちは、みなさんお元気ですか?

ずいぶんと時間が経ってしまい恐縮ですが、前回の「筑西の美術2010-絵画展-」に続き、東日本大震災のために更新できずにいた話題を紹介させていただきます。

3月3日ひな祭りの日、茨城県筑西市にあるしもだて地域交流センター・アルテリオで開催された「第8回波山の夕べ 小川三知と板谷波山」に行ってきました↓

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「波山の夕べ」は市民グループ「下館・時の会」(会長・一木努さん)が主催し、筑西市出身の陶芸家・板谷波山先生(いたやはざん 明治5年~昭和38年、陶芸家として初の文化勲章受章者)の誕生日である3月3日に毎年実施しているもの。
ちなみに昨年は、「陶片から波山を語る」と題し行なわれています。

さて第8回となる今年の「波山の夕べ」では、ステインドグラス史研究家の田辺千代さんを講師に迎え、大正から昭和の初めにかけて活躍した日本初のステンドグラス作家・小川三知(おがわさんち 慶応3年~昭和3年)と波山先生の交流についてお話をうかがいました↓

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波山と三知は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の同窓生。
後に文士村と呼ばれることになる田端(当時は東京府北豊島郡滝野川字田端)に住み作陶を続けていた波山の勧めにより、大正2年に三知もまた田端の住人となっています。
二人は気心があったらしく、デザインの勉強やお茶の稽古をともにするなど交流を深めました。
田辺さんによると、現存する三知の5冊の日記に一番多く名前が出てくるのが波山とのこと。
また、三知のステンドグラス工房・小川スタヂオで波山の五男・板谷梅樹さんが仕事を手伝っていたこともあり、横浜水道記念館には梅樹のステンドグラス作品が現存するそうです。

田辺さんのお話の後は、「波山の夕べ」には欠かせない、波山研究の第一人者である荒川正明学習院大学教授の登場↓

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荒川教授のお話によると・・・
田端文士村では現在、北区による区画整理事業が進んでおり、重要文化財を含む数々の作品を生み出した三方焚口倒炎式丸窯(通称:夫婦窯)があった波山邸も消滅しようとしているそうです。
なんと残念なことでしょう・・・。

波山邸から出土したという陶片の一部と、それに見入る村田あきこさん(波山先生のお孫さん)↓

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こちらは、この日出席されたもう一人の波山先生の孫・板谷駿一さん(板谷梅樹さんの息子さん)↓

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ちなみに出土した陶片の中には、ふるさと下館市(現在の筑西市)から敬老のお祝いに贈られた「敬老 下館市」の湯呑茶碗もあったそうです↓

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波山先生はこの湯呑を愛用していたとか・・・。

田端の波山邸で出土した陶片や遺物は、波山先生の、いや日本近代陶芸の足跡を語る貴重な文化財です。
北区が必要としないなら、ぜひ筑西市で保存活用していただきたいと思います。

というわけで、「第8回波山の夕べ」のご紹介でした。

■田端文士村
田端は明治の中頃まで、雑木林や田畑の広がる閑静な農村であった。しかし上野に東京美術学校(現、東京芸大)が開校されると、次第に若い芸術家が住むようになる。明治33年に小杉放庵(洋画)が下宿し、36年に板谷波山(陶芸)が田端に窯を築くと、その縁もあって吉田三郎(彫塑)、香取秀真(鋳金)、山本鼎(洋画)らが次々と田端に移り住む。画家を中心に「ポプラ倶楽部」という社交の場も出来、まさに芸術家村となった。大正3年に芥川龍之介(小説家)が、5年に室生犀星(詩人・小説家)が転居。続いて萩原朔太郎(詩人)、菊池寛(小説家)、堀辰雄(小説家)、佐多稲子(小説家)らも田端に集まり、大正末から昭和にかけての田端は文士村と呼ばれるようになった。