組織の内情が暴露
1987年の初頭になり、トラストの代表レミ・カポはマスコミに答え、センターの独自性や将来性を高らかに語り、計画がいまだ健在であることをアピールした(※1)。それもこれも前年までに資金問題に道筋がつき、もうこれ以上つまづくことはないと信じていたからだろう。しかしその2週間後に事態は急変する。
それは2月初頭に発覚した運営メンバー4人の辞職劇だった。辞職の理由はセクハラを含むハラスメントだ(※2)。さらに日を同じくして追い討ちがかかる。それは元広報担当のあの人物、そう、CIAスパイ疑惑の主役リチャード・ギブソン(第60回参照)が新聞の投書欄に登場し、トラストの惨状を暴露したのである(※3)。
セクハラ事件については今回さらなる詳細を得られなかった(後に調査が行われるが調査結果は未公表となる)が、一方のギブソンによる暴露記事は実に生々しく具体的だ。
それによれば、センター計画当初にあって、旧ロンドン市の特定の芸術官僚と商業黒人音楽プロモーターに癒着があり、それに関し、トラストの理事で黒人のポール・ボアテングが黙認したという。さらに計画にまつわる旧ロンドン市の汚職を示す書類の証拠隠滅があったともいう。
さらにセンターに参加する芸術団体の代表数人が理事会から排除されたことと、そこには抗議のため辞職した女優のエフア・テイラー(第63回参照)や、画家のラシッド・アラエーン、アジア舞踊専門家のジェイ・P・ヴィスヴァ=デヴァがおり、運営内部に激しい対立があったことが晒された。
テイラーはボアテング理事に対し警告しており、黒人やアジア系コミュニティの大半、スポンサー候補もこの状況に飽き飽きしていると伝えた。また彼女はカムデン区議会の労働党リーダーに手紙を送り、プロのアーティストの多くが排除される不安を必死に訴えた(※3)。この訴えに対し、労働党議員も理事会も頑として耳を貸さなかったことが彼女の辞職の真相だろう。
彼女の弁である「真の問題は資金不足ではなく、すばらしい理想を掲げた計画に反し、明確で首尾一貫した政策の欠如」を、ギブソンは的確な指摘とした。またギブソンは抜本的な改革が早急に必要であり、さもなくば失敗と多大な損失は避けられないと述べた(※3)。
(※1)Guardian, 1987年1月27日, p10
(※2)Evening Standard, 1987年2月10日, p6
(※3)Guardian, 1987年2月10日, p10
多民族の罠
先述のギブソンの暴露はさらに続くのだが、それを理解するための前知識として、そもそもの黒人芸術センター計画に補足しておきたい。
この計画が旧ロンドン市による反人種差別政策の一環であることはすでに述べたとおり(第55回参照)で、その発端は1981年のブリクストン暴動、つまり黒人ゲットーでの暴動である。しかし、だからといってセンターが黒人だけを対象としていたわけではない。
第59回で先述のとおり、センター計画は旧ロンドン市における1984年反人種差別宣言を受けたもののため、有色人種を含む国内の少数民族すべてが対象だった。このことこそ、次に述べるギブソンの暴露を理解する鍵となる。
前節でのギブソンの暴露には、センターと資金提供者であるアラブの銀行や企業との関係悪化が書かれている。その理由は、センターがユダヤ人展覧会を開催するため、スピロ・ユダヤ歴史文化研究所に接近したためだという。知ってのようにアラブとユダヤの反目は古来より続き根深いもので、2024年現在もパレスチナではイスラム組織ハマスとイスラエルとの戦闘が行われている。
これはつまり、多民族施設を設立するということが民族間の対立も孕むということでもある。もちろんセンターの理想「民族の融和」は美しいが、かといってその資金をアラブマネーに依存すれば、ユダヤへの積極性を失うことは自明であって、それは明らかな差別行為となり大いなる矛盾となる。
そしてこのユダヤ人組織との交渉を指示していたのが、他でもない黒人理事のボアテングだとギブソンは主張する(※3)。もはや同民族でも対立、別民族間でも対立、また金と権力のパワーゲームによりセンターは内部崩壊状態にあり、これが世間に知れ渡った。
またまた愉快なギブソン
この暴露で愉快なのは、かつて暴露された側のギブソンが、今度は暴露する側に代わり、再度世間を引っ掻き回すという「暴露返し」である。しかも発言主のギブソンは当時、法廷闘争で疑惑を晴らしてはいたものの実際には間違いなくスパイであって、それが判明するのは30年以上経た2018年のことだ(第60回参照)。
正体を隠し通したギブソンが、今度は正義ヅラして古巣の暴露をするこの展開は、善悪と欲望が入り混じるまさにスラップスティック喜劇、そしてそれが繰り広げられたのが、イギリスで常に時代の最先端芸術を牽引することで名高い劇場ラウンドハウスである(第27〜30回参照)。
もちろんギブソンの心情もわからないことはない。スパイ疑惑を裁判で晴らしたにもかかわらず、おいしい職を不条理に奪われたことへのウサばらしなのだろうが、そうはいっても実際はスパイだったのだから職を失うのは天罰といっていい。これまで金のために裏切った仲間たちの心情を考えれば、ギブソン失職の落胆は逆恨みに等しく、どうにもツラの顔が厚い。
それはともかく、この黒人芸術センター計画は、足掛け5年のここにきて波乱の頂点に達する。まるで年次行事のごとく続々と事件が湧き起こり、肝心のセンターはいつになっても開館しない。無駄に庶民の血税が流出し続けるこの状況に、もはや世間はイギリスだけにウンザリのダブルデッカー(二階建てバス)だ(ウマい!)。
それでも強気
以上の状況に見覚えはないだろうか?
ここで1年前の悪夢を思い出してみよう。2月に入って助成金問題が沸き起こり、泥沼裁判中の3月末に、民族芸術フェスティバルが開催、これをプレオープニングとして秋の本格的オープンをアピール、しかしオープンは泡と消えた。
その1年後の1987年はどうか? 2月に入ってセクハラ・汚職が発覚、そして内部崩壊の暴露。その騒動の余韻も冷めやらない3月末にあって、プレオープニングのフェスティバルが開催され、秋の本格的オープンをアピール。これはまさにデジャブだ(図1)。
(図1)1986年と1987年の共通性
ちなみにこの年、1987年のフェスティバルの名称は『チャイニーズ・ストリート・フェスティバル』で、国内初の中国総合文化イベントである。期間は前年の半分以下である5日間で、3月26〜30日に改装中のラウンドハウス建屋内で行われた。
一見すると奇妙なのは、黒人芸術センター(ブラック・アーツセンター)と称する施設で行われるイベントが、中国、つまりイエロー(黄色人種)のイベントということである。もちろんこれはセンターの名称の話にすぎない。むしろセンターが、その名称に反して多民族施設であることをアピールするにはうってつけだ。
このイベントは前年と異なり、新聞に紹介記事やレビューが複数みられ、またテレビ取材も確認できることから、広報活動に去年からの改善がうかがえる。
このイベントでは、本格的な中国製品や中国サービスのマーケットが開かれ、その中には、工芸品、料理、手相占い、武術、鍼治療等があった。また催し物も複数行われ、その中には福建省で18世紀から続く伝統的な人形劇や、音楽演奏、民謡歌唱、カンフー演武もあった(※4, 5, 6, 7)(図2)。
(図2)
そしてイベントは無事に終了、あとは秋に予定されたセンターの本格オープンを待つのみである。さてどうなることやら。
(※4)Evening Standard, 1987年3月20日, p43
(※5)Independent, 1987年3月23日, p20
(※6)Guardian, 1987年3月20日, p11
(※7)Independent, 1987年3月26日, p29
ギブソン再び
先のギブソンの投書はセンターの腐敗を世間に知らしめる告発、いわば正義の声だった。そもそも彼は左寄りの黒人人権活動家・ジャーナリストであり、その筋では確固とした経歴や実績があった(第60回参照)。よって彼の告発はスパイ疑惑の名誉回復以上のものになっただろう。また彼はセンターの広報職を不当にクビになったこともあり、暴露により人々の同情を誘ったかもしれない。
これに気をよくしたのか、ギブソンは5月になって再度新聞に投書し、芸術にまつわる人種問題に触れた。内容そのものはセンターとは関係なく、黒人芸術家フランク・ボウリングの作品を、権威あるテート・ギャラリーが購入したことを賞賛したものだった(※8)。
ギブソンはこの記事で、黒人芸術センターの不振を引き合いに出し(ウサを晴らすためか)、これとは逆に大躍進した例としてボウリングを語って、これを黒人芸術の勝利と誇った。さらにはテートの広報がボウリングを黒人と知らず評価したとまで言い放ち得意満面だった。
しかしその2日後になって、これへの反論投書が寄せられ、そこにはギブソンの発言が偏狭で植民地的な偏見の典型例とあり、民族芸術の問題とは無関係と断じた。この批判者が何者かはわからないが、文章と批判箇所から推測するに、白人でテートの関係筋か、芸術鑑賞の専門家だろう。
批判者の論旨は抽象的で、正直なところ私の語学力や読解力では追いつかないのだが、どうやら芸術鑑賞の幅や鋭敏さに関わる指摘のようだ。要約すれば、ギブソンが専門家でもないのに的外れの芸術評価を下した、といったところだろう。
それも当然である。ギブソンは芸術には素人であって、あくまで行政側から組織運営職に任命された著名人にすぎない。にもかかわらず芸術鑑賞や評価の専門分野にうかつにも踏み込み、ボウリングの評価を人種や民族の評価に単純化した。この無理解こそ民族芸術組織が抱える落とし穴と指摘されたのである。
ギブソンによる先の告発は、腐敗したセンター内部にも良心ある人物がいたことを示すものであり、その一人がギブソン自身であることをアピールするものだったわけだが、その彼ですら何もわかっていないことが世間に晒された。
(※8)Guardian, 1987年5月6日, p12
(※9)Guardian, 1987年5月8日, p12
そして1987年は終わる
3月の中国フェスティバルが終了すると、ギブソンの的外れな投書以外は、センターに関するメディア報道はぷっつり途絶える。その沈黙はさらに続き、センターのオープン予定だった秋をすぎても何も起こらなかった。ここに去年の展開が完全再現された。
そして年末を迎え、新聞に黒人俳優ノーマン・ビートンへのインタビューが掲載され、そこにようやくセンターへの言及が登場する。彼はこう語る。
「ラウンドハウスが黒人演劇の成功例になるとはまるで思わない」(※10)。
それもそうである。この年、開館予定の秋に別の会場で、まるで当然のように第4回ブラック・シアター・シーズンが開催されたのだから(図1)。
こうして悪夢のダブルデッカーはロンドンを走り去った。
(※10)Guardian, 1987年11月7日, p12