今回は1985年、カムデン区がラウンドハウスを購入した2年後の動きを追う。

 


 この年は1月に第2回「ブラック・シアター・シーズン」第58回参照)開催で幕を開ける。この企画は3月末まで続くものであり、前年のロンドン市が高らかに掲げた反人種差別年の勢いが依然衰えていないことをアピールした。

 

 しかしその真っ只中の2月末思わぬところで事件が起こる。それが今回のテーマ「スパイ疑惑」。この事件は、昨年1984年12月に黒人芸術センターの広報担当に就任したリチャード・ギブソンがアメリカCIAスパイと報じられたものだ(※1)

 

(※1)Evening Standard 1985年2月26日, p6

 

 

 

 

暴露本

 

 事の発端は、その4年前の1981年に出版された暴露本『インサイドBOSS』(図1)にさかのぼる。この本はかつて南アフリカの情報機関BOSS(国家保安局)(※2)に所属していたゴードン・ウィンターが書いたものである。

 

(図1)『インサイドBOSS』ゴードン・ウィンター著(1981年)

 

 

 この本の中で、アメリカの黒人ジャーナリスト、リチャード・ギブソン(図2)CIAスパイと暴露され、その後1985年になってその人物が黒人芸術センターの広報担当と同一人物と特定された(※1)

 

(図2)リチャード・ギブソン

 

 

 この本によれば、ギブソンはかつて汎アフリカ会議(PAC)(※3)の中心人物だったのだが、ウィンターがPACの幹部3人の手紙を傍受したところ、ギブソンがCIAのスパイと発覚したのだという(※4)

 

 しかし当のギブソンは疑惑を完全否定し、裁判に出るかは今後をみるとした(※1)

 

(※2)国家保安局(BOSS:Bureau Of State Security) かつての南アフリカ共和国の中央情報機関で、国内外における反アパルトヘイト活動の監視・妨害活動を行なっていた。

(※3)汎アフリカ会議(PAC:Pan-African Congress) アフリカ諸国が旧植民地だったことで起こった問題に取り組む国際会議。計7回が行われ、ここでは第6回の1974年のダルエスサラーム会議を意味する。

(※4)『Inside BOSS』(Penguin Books) by Gordon Winter, 1981, pp431-432

 

 

 

 

黒人芸術センターの対応

 

 この報道は連日行われ、4ヶ月超続くこととなるが、その中でギブソンを起用したロンドン市は対応に追われることとなる。当局はギブソンを自宅待機させ調査を行うとした(※5)

 

 それから約3ヶ月後の5月になって調査が終了、疑惑の証拠はないとの結論に達したが、大騒動になったことからロンドン市はギブソンの復職に難色を示し、別のポストへの昇格人事を提示することで彼をなだめようとした(※6, ※7)。ギブソンはこの措置が疑惑を事実と認める行為だとして拒否、この一件が極左による謀略だと言い放った(※6)

 

 この間ギブソンは実務に携わることなく、当初の契約どおり年俸14000ポンド(現在の約1020万円)の給与を手にするわけだが、そもそも黒人芸術センター計画には、当初から巨額の予算が投じられた上に逆差別との批判が多かった第59回ため、さらなるイメージダウンとなった。

 

(※5)Evening Standard 1985年3月15日, p6

(※6)Evening Standard 1985年4月23日, p6

(※7)Evening Standard 1985年5月24日, p6

 

 

 

 

名誉毀損裁判

 

 この話はここで終わることなく意外な展開をみせる。順を追って説明しよう。

 

 ギブソンの怒りは収まらず、10月になって暴露本の出版元であるペンギン・ブックスを訴えた(※8)

 

 そもそもこの本には他にも要人数人がスパイとされており、ギブソンの訴訟以前にすでに6件の訴訟が起こされ、ペンギン・ブックスは全員に賠償金を支払うことになっていた(※8)。ギブソンの訴訟も同様で、翌1986年2月にペンギン・ブックスが3500ポンド(現在の198万円に相当)を支払うことで幕を閉じている(※10)

 

 ここまで聞くと、事態は一件落着し、晴れてギブソンの復職を想像するが、実際はそうならなかった。

 

 というのも、この判決の2ヶ月前にあたる1985年12月のこと、ロンドン市はギブソンとの契約を更新せず、これによりギブソンは失職する。当局はその理由を、あくまで別のトラブルからの決定としているが、その真偽はどうあれ、人種問題に直結した黒人芸術センター計画にとって、このスパイ騒動が大きな痛手であることは事実であり、その幕引きをギブソンの首で当てるのは政治判断としては常套だ。

 

 一方のギブソンからすれば、この処遇は到底承伏できるものではないだろう。無実の罪で職務を妨害され、理不尽に首を切られるのだから。しかもこれでは、職務不履行で年俸を満額手にした税金泥棒のイメージが世間に広まる。ギブソンはこの怒りを隠すことなく、当局に対し訴訟を起こすと息巻いた(※9, ※10)

 

(図3)ギブソンのスパイ疑惑

 

(※8)Evening Standard 1985年10月15日, p6

(※9)Evening Standard 1985年12月12日, p6

(※10)Evening Standard_1986年2月21日, p6

 

 

 

 

思わぬ発覚

 

 それから時は流れに流れ、32年後2018年のこと、この事件は思わぬところから展開をみせる。

 

 アメリカの国立公文書館がケネディ大統領暗殺(1963年)に関する大量の文書を公開したのだが、そこになんとギブソンに関するCIAファイル3点が含まれており、図らずも彼の正体が明るみになったのだ。

 

 それによれば、ギブソンは1965年から1977年にわたりCIAのスパイとして活動しており、コードネームはQRPHONE-1、月給900ドル(現在の約100万円に相当)、その他任務の内容や勤務評価、実績の数々がファイルに記されていた(※11)

 

 この内容は先述の暴露本『インサイドBOSS』とも合致し、それはこの本の1986年2月における裁判誤認判決だったことを示している。有り体でいえば、あの裁判でギブソンは世間をだまし切ったあげく、まんまと賠償金まで懐に入れたわけだ。もちろん年俸14000ポンドのおいしい職を逃したのは痛手だが、古傷の発覚を考えればそれなりの落としどころだろう。

 

 それはともかく、ギブソンはなぜケネディ暗殺ファイルに名を残したのだろう。それはもちろん彼が暗殺事件の周囲にいたからだ。では一体どのような位置にいたのか。

 

(※11)Newsweek(WEB版)2018年5月15日付

 

 

 

 

スパイ・ギブソン

 

 ここでギブソンの経歴を紹介しよう。

 

 1931年ロサンゼルス生まれ、フィラデルフィア育ち。大学を卒業するとヨーロッパへわたり、ローマやパリで作家活動を行いつつ、パリでは同じくアメリカから移住した黒人作家リチャード・ライトらと親交を深める。これが後の国際スパイの素地となる。

 

 1957年に帰国するとCBSラジオ・ニュースに職を得て、そこで左翼運動に出会い傾倒、1960年に左翼結社『キューバのためのフェアプレー委員会(FPCC)を立ち上げるが、そのメンバーには後にケネディ暗殺犯とされたリー・ハーベイ・オズワルド(図4)がいたとされる(後述)。これこそギブソンがケネディのファイルに名を残した理由である。以降ギブソンはCBSを辞め、FPCCでの活動に専念しつつ、公民権運動にも近づき黒人指導者たちと連帯する。

 

(図4)リー・ハーベイ・オズワルド

 

 

 ここで転機が訪れる。ギブソンは1962年にFPCCを辞してスイスへと渡り、左派雑誌『ラ・レヴォリューション・アフリケーヌ』の創刊に携わるが、その後しばらくしてCIAに自ら手紙を送りスパイになると申し出るのだ。

 

 以後ギブソンは、表向きは左翼編集者・黒人活動家を装いつつ、同胞の情報をCIAに提供する二重生活を送ることとなる。スパイとしての彼の役目は、ヨーロッパやアフリカの急進派や共産主義勢力の監視であり、メディア従事者の利を生かし取材とスパイで各国を駆け巡った。

 

 その後の動きは暴露本『インサイドBOSS』に書かれた通りで、1960年代にはイギリスを拠点に活動するほか、シカゴの『ニグロ・プレス・インターナショナル』の編集者となることで、反人種差別活動家の顔の裏でスパイ活動を続けた。

 

 先述したように、ケネディのファイルによれば、ギブソンは1977年にスパイから足を洗ったわけだが、それから8年後の1985年12月に、本ブログのテーマであるロンドンの黒人芸術センターの広報担当に就任し高給を約束されたものの、そのわずか約2ヶ月後にスパイ疑惑が持ち上がる。それが今回のテーマである。

 

(図5)ギブソンの歩みと黒人芸術センター

 

【参考資料】

(※11)Newsweek(WEB版)2018年5月15日付

(※12)Guardian(WEB版)2006年1月7日付

 

 

 

 

周知の事実

 

 実のところギブソンがスパイであることは、すでに1960年代には政治/社会メディアの関係者間ではよく知られていた。彼がスパイに手を染めたスイスでの編集者時代にはすでに同僚から糾弾されており、さらにアルジェ(アルジェリアの首都)で立ち上げた雑誌『レボリューション・アフリケーヌ』時代には、スパイ疑惑で解雇された上に同誌でそれを報道されている(※11)。ギブソンの職歴の数々は、実はこうしたトラブルによる転職の積み重ねでもあったのだ。

 

 メアリー・ファレル財団(陰謀論に関する情報共有財団)のWEBサイトには、ギブソンに関する1962〜70年の6件のメモが公開されているが、その中には「南アフリカのほぼ全団体、ブラックパンサー党、パレスチナ人団体も彼をCIAのスパイとみなしていた」というものがある(※13)。また作家のアイシャ・サバティーニ・スローンは2021年に書いた雑誌記事の中で、かつて黒人ジャーナリストだった父親に尋ね、ギブソンがスパイなのを知っていたかと言うと「もちろん」と答えたという(※14)

 

 こうしたギブソンの危うい動きは、すでに20代パリで過ごした1950年代後半にあって、仲間内で大問題となり、当地のコミュニティから蹴り出される形で帰国している。当時のことをリチャード・ライトはモデル小説『幻覚の島』(Island of Hallucination)(1958)に書き、そこにギブソンをモデルにしたスパイを登場させているが、これはまだギブソンがCIAの活動を行う以前の話である(※12)。いわばギブソンは当時からスパイ体質だったのだ。

 

(※13)(WEBサイト)MARY FERRELL FOUNDATION: unredacting history(2024年3月現在)

(※14)Vanity Fair(WEB版)2021年5月6日付

 

 

 

 

ギブソンの不運

 

 1963年にケネディが暗殺されると、CIAはオズワルドを追って彼が所属していたとされるFPCCを探り、その設立者ギブソンにたどり着く。これによりギブソンはケネディ暗殺ファイルに記録されることになったが、同時にファイルは国家保安上秘匿とされたことで彼の正体も厳重に守られた。おそらくこれが1985年にペンギン・ブックスを訴えた際の勝因だろう。

 

 しかし後に予想外のことが起きる。1991年に公開された映画『JFK』の影響から、ファイルの公開が早まり、何度か延期を繰り返した後の2018年になってついに公開され、ギブソンの正体が明るみに出たのだ。

 

(図6)映画『JFK』(1991年)

監督:オリバー・ストーン

出演:

ケビン・コスナー

トミー・リー・ジョーンズ

ジョー・ペシ

ゲイリー・オールドマン

 

 

 彼にとって不運だったのは、そもそもオズワルドがFPCCに所属していなかったことである。あくまでウォーレン報告(ケネディ暗殺に関する正式な調査報告書)によればだが、オズワルドは単にFPCCに憧れる片田舎の共産主義者にすぎず、勝手に支部を名乗ってたった一人で近所でビラ配りしていただけだった。つまりギブソンにとっては単なる「もらい事故」だったのである。

 

 そもそもケネディ暗殺ファイルの公開は、当初2039年まで行わないことになっており、その理由は、ファイル内の人物が存命中に公開しない不文律があったからだ。しかしなぜか2018年の公開時にはギブソンは健在で、これもまた不運だった。

 

 もうひとつこの騒動でおもしろいのは、1985年のスパイ疑惑の連日報道が『イブニング・スタンダード』1紙によるもので、主要高級紙3紙は一切手を出さなかったこと。これほどの疑惑にも関わらず主要メディアが動かなかった理由は、ギブソンが黒なのは確定ではあっても、あくまで報道に十分な裏が取れなかったからだろう。イブニング・スタンダードがこのおいしいネタへの欲に溺れたこともまたギブソンには予想外で不運だった。後に同紙は紙上で謝罪記事を掲載している(※15)

 

 なんともドタバタなスパイ喜劇である。

 

(※15)Evening Standard 1988年8月12日, p10