今回は1984年、カムデン区がラウンドハウスを購入した翌年の動きを追う。

 

 

 

 

反人種差別年

 

 1984年は黒人芸術センター計画にとって重要な年だった。

 

 この年の1月4日、ロンドン市は年始の式典で、1984年「反人種差別年(Anti-Racist Year)に定めることを宣言し、積極的に差別解消に取り組むことを表明した(※1)

 

 この政策の決定時期をさかのぼると、前年である1983年10月にその形跡がみられ、新聞でのロンドン市による職員募集広告(※2)の中に「ロンドン1984年反人種差別年(GLC Anti-Racist Year 1984)」という正式名称が確認できる。つまりこの時点で翌年を見据えた計画があったことがわかる。

 

 この1983年10月という時期(※3)は、前回紹介したロンドン市の開催による「ブラック・シアター・シーズン」の初開催時期とも重なる。これはあくまで具体的な活動段階なので、政策そのものの決定時期はさらにさかのぼる。

 

 決定時期は先述の1984年1月4日の式典で示された、人種差別企業への対策でわかり、その担当部署が設置されたのが1983年4月だと言う(※1)。これが反人種差別年の原点だろう(図1)

 

 この対策の内容は、ロンドン市と契約を結ぶ2万社の雇用環境を調査し、少数民族や女性への差別を改めない企業との契約を解除し、ブラックリストに記載するというものだった(※1)

 

 つまりこの宣言の準備は1984年の初頭に始まったものではなく、前年の年度始めから周到に計画されたものなのだ。

 

(図1)1984ロンドン半人種差別年

 
(※1)Guardian 1984年1月5日, p2
(※2)Guardian 1983年10月24日, p7
(※3)ちなみに、労働党支配のカムデン区がラウンドハウスの購入契約を正式に結んだ時期も1983年10月であり、この計画にロンドン市との連携があったことがうかがえる。
 

 

 

 

 

 

人種差別ブラックリスト

 

 こうしたロンドン市の積極的な姿勢は、反人種差別年直前の1983年末にも先立って行われた。それが人種差別芸能人のブラックリスト公表である。ここには差別に関わった芸能人やスポーツ選手の実名が記され、ロンドン市内での活動禁止令が敷かれた(※4, ※5)

 

(図2)芸能界ブラックリスト発表

 

 

 注目すべきは、ここで指摘された差別が、ロンドン市内のものでもなければ国内でのものですらないことであり、当時国際的に批判を集めていた南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)を対象としていたことだった。ここで名指しされたのは、南アフリカで経済活動を行なった芸能人であり、そこにはアメリカ人など外国人の名前まで含まれていた(※6)

 

 ここまでの広範囲に及ぶ徹底した反差別運動を、一都市にすぎないロンドンがあえて行う背景には、おそらく市議会を支配する労働党の強力な政治的思惑があったのだろう。

 

 繰り返し先述したように、当時の国政は保守党に支配されており、政府はロンドン市を2年後に解体することで労働党を追い込むことに成功していた。この時点で労働党ロンドン市にできたことは、残す2年をかけて票田となる労働者階級や貧困層を抱き込み、来る選挙で勝利すべく策を講じることだった。その目玉が反人種差別政策だったと思われる。

 

(※4)Evening Standard 1983年12月21日, p1

(※5)Daily Telegraph 1983年12月22日, p3

(※6)紙上に公開された名前は以下の通り。フランク・シナトラ、ロッド・スチュワート、クリフ・リチャード、シャーリー・バッシー、スパイク・ミリガン、バリー・マニロウ、ドリー・パートン、ウェールズ男声合唱団、ジョン・リル、クリスチャン・ブラックショー、マルコム・ビンズ、モンセラート・カバジェ。

 

 

 

 

 

芸能界との乖離

 

 芸能界では、この2年後である1985年7月13日に、ロンドン郊外のウェンブリーで歴史的なロックのイベント『ライブ・エイド』が開催されたが、このイベントこそ、今回のテーマである反人種差別年の反応を語るにふさわしい。

 

 

 ライブ・エイドといえば、近年大ヒットを記録したロックの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』の山場になっているので、それをイメージすると現実味をもって理解できるだろう。

 

 

 

 あの映画にも描かれたように、ライブ・エイドにはイギリスの国民的ロックバンドであるクイーンが出演しているが、当時クイーンは人種差別のA級戦犯とされたバンドだった。というのも、クイーンはその前年である1984年10月、アパルトヘイト下の南アフリカで9回の公演を行ったことにより国際的な批判にさらされていたからだ。国内の音楽家組合からは罰金を科されブラックリスト入りし、国連のブラックリストにも名を連ねたのだが、この1984年10月というのは先述のように、ロンドン市が定めた反人種差別年の真っただ中である。

 

(図3)クイーンの南アフリカ公演とライブ・エイドの時期

 

 

 これは明らかにクイーンの意思表明であり、それは労働党ロンドン市が掲げる反人種差別政策への異議だろう。誤解がないよう先にことわっておくが、これは私がクイーンを指して人種差別主義者とするものでは決してない。ここで指摘したいのは、政治が掲げる人種差別と、芸能界やアーティスト側の考えるそれとの間に明確な乖離があったということだ。

 

 これは前回で触れたように、ロンドン市の反差別行政が、差別について幅広く議論を尽くすことのないまま独走したものであり、それが市民の意識との乖離していたということであって、その象徴がクイーンだということである。

 

 ともかく、この状況をロンドン市当局が快く思ったはずはない。当局からすれば戦犯であるクイーンが、国際的な平和コンサートに堂々と出演し、しかもその会場はロンドンのウェンブリー・スタジアム、つまり当局の縄張りである。ロンドン市の面目は丸つぶれだ。

 

 

 

 

 

黒人演劇当事者の声


 1984年1月に反人種差別年が宣言されると、各メディアがこれをテーマに記事を発表する。記事の内容の多くは「そもそも論」つまり、人種差別とは何か、どう判断するのか、といった根源的なものであり、それは本ブログのテーマから外れるので割愛する。

 

 一方で、この年の7月に当の黒人芸術家がこの問題をメディアで発言している。発言者は劇作家のアルビー・ジェームズで、彼は当時29歳、黒人劇団テンバ・シアターで芸術監督をしていた。これはラジオの1時間番組として放送されたもので「黒人演劇とは何か」をテーマにしたものだったという(※7, ※8)

 

(図4)アルビー・ジェームズのラジオ番組放送時期

 
 

 残念ながら番組内容は未確認だが、新聞のラジオ欄に書かれた短い説明文によれば、黒人芸術センター計画を踏まえて行われていることが明記されている(※7, ※8)

 

 また放送後に新聞に掲載されたラジオ評(※9)では、この番組の具体的内容は示されなかったものの、筆者の理解として、当時の黒人劇団に2流派がいたことが示された。その一派は、これまでの演劇とは決別した劇団を目指し、観客も制作側も演目も黒人に限定した形を取る人たちであり、もう一派は既存の劇団同様を目指しつつ、現状では黒人俳優の受け皿でいる人たちだという。

 

 ジェームズがこのどちらに属すかはわからないが、本ブログで重要なのは、彼が率いるテンバ・シアターが、その翌年(1985年1月)に開催された第2回ブラック・シアター・シーズン(※10)に参加していることだ。というのも、この企画はそもそもロンドン市開催の演劇企画であると同時に、黒人芸術センターへと続く企画だからである前回参照。またジェームズはその後に、黒人芸術センターの主要な運営スタッフとして登用されており、計画のキーマンである(詳細は別回で後述)。この流れからすると、このラジオ放送とロンドン市の結びつきが見えてくる。

 

 ちなみにジェームズの新聞記事を検索すると1983年まで出てこない。その後に登場が頻出するため、彼の躍進には当時のロンドン市による黒人芸術政策が無関係とは思えない。このラジオ番組がそもそもロンドン市が企画してジェームズを起用したものかもしれず、もしくは逆にジェームズの番組を耳にしたロンドン市が彼を引き入れたかはわからないが、いずれにせよこの放送により彼は確実に黒人演劇のオピニオン・リーダーになった。

 

(※7)Guardian_1984_0707_p10

(※8)Guardian_1984_0712_p30

(※9)Guardian_1984_0713_p18

(※10)ブラック・シアター・シーズンは複数の黒人劇団の公演週間であり、ロンドン市が企画する反人種差別政策の一貫。よってテンバ・シアターがそれに参加した時点で、ロンドン市とジェームズとのパイプがうかがえる。また黒人芸術センターは、そもそもロンドン市とカムデン区による労働党の政策(詳細は前回参照)。