今回から黒人芸術センターの具体的な話に入るが、数回にわたるので結論から先に言うと、この計画は実現せずに終わった。予定地だったラウンドハウスは空き家状態が7年も続き、その間に莫大な公費が闇に消え、1990年に計画は完全につぶれた。

 

 今回はこの計画の初年である1983年を解説する。

 

 しかし十分な資料が得られたわけではなく、主に新聞の関連記事を追ったにすぎない。具体的に何があったかを知るには、実際にロンドンへ行き運営資料を閲覧する必要があるが、私のような日本に住む素人ができることではない。そこでもしプロの研究者や、ロンドンで活動できる方がおられたら、ぜひご協力いただきたいと願っている。

 

 

 

 

 

動向と関心

 

 1983年3月末に閉鎖となった旧ラウンドハウスは、これまでに何度も述べたように単なるイベント会場ではなく、様々な先鋭芸術の専門会場だった。しかもこの種の会場としてはかつてない規模を誇った。

 

 そうした建物が今度は黒人に限定した芸術施設になるというのだから、ロンドン市民や芸術愛好家の関心は高かっただろう。ただしこの計画はそもそも純粋な芸術支援活動ではなく、あくまでカムデン区が人種差別解消政策として行ったものであり、極めて政治的なものだった。これは第55回で説明したように、ブリクストン暴動(1981年)を機に生まれた労働党の公約だった。

 

(図1)黒人芸術センターのパンフレット

 

 

 1983年4月に新年度が始まると、ロンドン市は芸術の助成金額を発表、民族芸術の機関に対しては軒並み20〜30%の大幅増となったが、これはその他の機関が10%前後増にとどまったのとは対照的であり、明らかに人種的少数派を優遇している(※1)

 

(※1)Daily Telegraph 1983年4月19日, p12

 

 

 

 

 

1983年イギリス総選挙

 

 この年、1983年6月9日には国政選挙が行われ、与党保守党が獲得議席率42.4%で勝利した。これは保守党の勝利というより、むしろ労働党の敗北であり、労働党の獲得議席率は27.6%で、これは前回を9.3ポイントも下回る大敗だった(図2)

 

(図2)イギリス総選挙結果 議席率(1979-1983)

 

 

 この選挙で保守党が掲げた公約のひとつが、ロンドン市解体第54回参照)であり、これが国民の信任を得た形となった。

 

 国民がロンドン市解体を支持したのは、あくまで政府の財政立て直しのためであって、不必要な組織を閉鎖/統合することによって経費削減を図るためだった。一方で与党保守党の目論見は政争戦略であり、政敵である労働党の牙城ロンドン市を消し去ることで弱体化を狙っていた。

 

 一般に行政の仕分け対象になるのは、衣食住や医療に直結しないもの、たとえば芸術行政の類である。特に黒人芸術センターのような巨費を要する計画は格好の標的となる。実際にこの計画は1986年のロンドン市解体で存続困難に陥るが、それが判明したのがこの1983年総選挙だったわけである。

 

 しかし労働党支配下のロンドン市は、3年後の困難を知りながら計画を続行、この約4ヶ月後にラウンドハウスの購入契約を結ぶ。そして後にこの危機を乗り切るため、ある大胆な行動に出ることとなるのだが、それが大騒動を引き起こすこととなる。この顛末は第61回で後述する。

 

 

 

 

 

計画に対する市民の声

 

 黒人芸術センターの設立計画は、それまで不遇にあった黒人芸術家への優遇策であり、それにより人種平等を目指すものだった。しかし黒人に限定した公共施設を作るということはつまり、白人に対する逆差別でもあった。労働党はこの矛盾にまるで向き合うことなく突き進む。

 

 この矛盾への市民からの批判はかなり早い段階から起こっており、なんとカムデン区がラウンドハウスの購入契約を結ぶ前の段階で新聞の投書欄に登場する。当然ながら当時はまだセンターの具体的な計画やスケジュールは一切発表されていない。周知されていたのは、ただ単に黒人芸術専門の施設設立ということだけだ(図3)

 

(図3)投書欄でみる計画批判の時期

 

 

 最初の投書(※2)購入契約締結の約4週間前のことで、カムデン区議会の野党保守党リーダー、トニー・カーペイのものである。この投書は与党労働党の失策を列挙して批判に明け暮れているが、その筆頭に挙がったのが他でもないこの黒人芸術センターだった。

 

 その論旨は、先述の矛盾、つまり差別解消策が逆差別を生み出していることと、そこにかつてない莫大な公費までが投入されている(購入費33万ポンドと維持費100万ポンド)という批判である。さらに計画の見直しについて、区議会野党と周辺住民の声が無視されたことにも触れている。

 

 同様の巨費投入への批判投書には、他にも地元カムデン区の住民男性によるものがあり(※3)、医療のような他に優先すべきものがあると述べている。こうした批判がある一方で、計画への賛成投書はなく、またそれに対する行政の弁明もなかった

 

(※2)Daily Telegraph 1983年9月10日, p14

(※3)Evening Standard 1983年9月16日, p16

 

 

 

 

 

動き出す計画

 

 1983年に黒人芸術センターの動向を報じる記事はないが、間接的に計画の進捗をうかがわせる言及がある。それが「ブラック・シアター・シーズン」と題された演劇企画である(図4)

 

(図4)「ブラック・シアター・シーズン」ポスター

第1回:1983年(左)、第2回1985年(右)

  

 

 

 これはロンドン市が企画したもので、イギリス国内の黒人劇団4社の演目を約3ヶ月にわたり順次上演していくというイベントだ。会場で掲示された掲示物には、この企画が黒人芸術センターへと受け継がれる一連の活動であることが示された(※4)

 

 その後、ブラック・シアター・シーズンはほぼ年次企画となり、1986年のロンドン市解体後は、主催をカムデン区が受け継ぎ、1990年まで続いて計6回が開催された(図5)。会場となったのは当然ながらラウンドハウスではなく、第4回までがアート・シアター、第5回がショウ・シアター、第6回がリバーサイド・スタジオといった具合に、主流の有名劇場で行われており、これは当時の黒人劇団にとっては異例の大舞台だった。

 

(図5)「ブラック・シアター・シーズン」開催時期

 

 

 この企画により黒人演劇への注目が高まり、テンバやタラワといった後の黒人演劇史を代表する劇団が躍進、またアルビー・ジェームズやイボンヌ・ブリュスターなど、後の演劇界で活躍する黒人俳優・演出家が躍進した。

 

(※4)Evening Standard 1983年10月10日, p23

 

 

 

 

 

センター設立の動き

 

 これ以外に具体的なセンター設立の進捗は確認できない。これはあくまで私の調査環境や資料の限界からくるものだ。

 

 私が唯一確認できたのは、新聞に掲載されたロンドン市によるセンター職員の募集広告だけであり、それは翌1984年2月になって掲載されたものである(※5)。同様の広告は同1984年8月にも登場しており、その頃にはさらに募集部門が増えている(※6)(図6)

 

(図6)黒人芸術センター計画の動き(1983〜84)

 

 

 この様子からすれば、ラウンドハウスの購入後1年を経た1984年の段階ですら、組織構成すら固まっていなかったことがうかがえる。となれば当然のこと具体的な計画などなく、実行段階にもなかっただろう。この時点で確かなことは、少なくとも1984年9月以降までセンターが開館しないということである。

 

 その後もこのような計画段階がダラダラと6年続くが、その間にスキャンダルが次々と沸き起こる。

 

(※5)Guardian 1984年2月27日, p10

(※6)Guardian 1984年8月20日, p12,14