今回は1986年、カムデン区がラウンドハウスを購入した3年後の動きを追う。

 

 

 

 この年もまた2月に「ブラック・シアター・シーズン第58回参照)で幕を開け、黒人芸術センター設立活動が健在であることが示された。しかし前回で先述のとおり、これとほぼ同時に前年のスパイ騒動の幕引き裁判の判決もあって、反人種差別運動の勢いに影が差した。

 

 そもそもこの1986年には別の重大問題がひかえていた。それは先述第54回のとおり、3月末のロンドン市解体である。そうなれば黒人芸術センターへの市の助成金が途絶えることとなる。かといってカムデン区単独の資金では賄いきれない。この助成金問題が国内二大政党の一大政争を引き起こす。

 

 

 

 

労働党の策略に異論

 

 事の始まりは、ロンドン市解体の約2ヶ月前にあたる2月6日のこと、ロンドン市議会の与党労働党が多額の助成金交付案を発表したことによる(※1)

 

 この案の内容は、ロンドン市の莫大な内部留保の実に3割強を、各種機関やボランティア団体に交付するというもの。その総額は5000万ポンド(現在の280億円相当)であり、これは内部留保全体(1億5700万ポンド〔現在の860億円〕)32%にものぼる巨額だった。その中には黒人芸術センターへの助成金約1000万ポンドも含まれていた。

 

 そもそもロンドン市解体は、イギリス政府与党である保守党が掲げる緊縮財政の一環であり、そうであれば内部留保も節減の対象であって、それを切り崩してバラまくなど許せることではない。

 

 ロンドン市与党労働党の狙いは、市の解体前に傘下組織に大金を移すことにあった。この計画は最終的に9600万ポンド(現在の525億円)に増えると発表され、そうなると内部留保全体の実に61%にもなる。

 

(図1)ロンドン市による助成金交付案(1986年2月6日)

 

 労働党はこの計画を採決でどうにか過半数(49対43)(※5)を獲得し押し切るが、これに保守党は猛烈に反発、法廷で争うこととなり、2月12日司法審査を申請した。ここに労働党ロンドン市 vs 保守党イギリス政府(※2)の熱き戦いが火蓋を切る。

 

(※1)Daily Telegraph 1986年2月7日, p6

(※2)正確には原告はイギリス政府ではなく、保守党支配のウエストミンスター区議会と他7区議会だが、そもそもこの訴訟は政府与党保守党からの指示によるので、実質両党の戦いである。

 

 

 

 

イギリスの裁判制度

 

 ここであらかじめイギリスの裁判制度についてごく簡単に説明する。

 

 イギリスの裁判制度も日本と同じく三審制であり、もし判決に不服があれば、上級裁判所に対し最大で2度上訴できる。当然ながら上訴はすべての場合で認められるわけではないが、今回の場合、政治の司法審査のため上訴が通ることは確実であり、また国内二大政党の一大政争なので、両者引かずに三審までもつれることは確実だった。

 

 なお、今回の舞台となる法廷は通常の裁判とは異なり、一審は下級裁判所ではなく高等法院で行われた。以後二審は控訴院で、三審は貴族院(当時)で行われた(図1)

 

(図2)イギリスの裁判制度

※貴族院裁判所は2009年に廃止され、現在は最高裁判所に置き換わっている。

 

 

 今回の裁判で特に注目してほしいのは、訴訟期間が計算上たったの23日間というところ。これは被告となるロンドン市が3月末日をもって解体されるため、それ以降では被告が存在せず裁判が成立しなくなるからだ。この23日で3つの裁判を連続で行うのである。こうなると原告の保守党、被告の労働党はもちろん、3つの裁判所も準備や審理に大あわてである。

 

 さて注目の判決はいかに。

 

 

 

 

一審:高等法院

 

 訴訟のあわただしさは、原告となる保守党の初手からもうかがえる。

 

 保守党は、まだ議会で助成金案が採決される前の段階で動き、労働党に対し高等法院で「合法の宣言」をするよう圧力をかけた(※3)。また2月10日の議会での助成金承認直後には、高等法院に助成金支給の差し止め請求を行い(※4)、1ポンドたりとも動かせないよう試みた。

 

 本格的な裁判開始は、それからなんと16日後の2月26日であり(※4, 5)、これこそがタイムリミットがわずか23日後になった理由だ。

 

(図2)裁判カレンダー:一審

 

 一審判決はその5日後である3月3日に下り、高等法院は保守党の訴えを退け、ロンドン市による助成金支出計画を合法とした。同時に保守党が求める助成金支給の差し止め請求も退けた(※6)

 

 判決理由はいたって単純なもので、そもそも議会が有権者に選ばれた議員集団である以上、原則その決定を覆すことはできないというものだ(※6)。しかしこの論理では司法審査制度の存在意義はなくなるだろう。

 

 ともかく判決は判決、敗訴した保守党即時抗告を申し立て、戦いは二審へと引き継がれた。

 

(※3)Daily Telegraph 1986年2月11日、p2

(※4)Guardian 1986年2月12日、p4

(※5)Times 1986年2月27日、p2

(※6)Daily Telegraph 1986年3月4日、p2

 

 

 

 

 

二審:控訴院

 

 その途中にあって、ロンドン市議会では助成金の具体的な支給先と金額が明らかにされた(※7)(図3)

 

 その中で最大の支給先がインナーロンドン暫定教育局(ILIEA)への4000万ポンドであり、これは助成金全支給額の42%にものぼる。このILIEAはいわば労働党の銀行口座であり計画の本丸である。

 

 また支給先のボランティア団体の内、2団体が労働党の傘下組織であることが発覚し、不自然な支給増額幅(前年比8倍強)実態のない名目団体であることが明らかとなる。これで保守党の追撃にも拍車がかかった。

 

(図3)助成金支給先と金額

 

 保守党が上訴を申請したのは、一審判決の7日後である3月10日(※5)のこと。そして10日後の3月20日二審判決が下された(※8, 9, 10)(図4)

 

 結果は保守党逆転勝訴、助成金計画はそのすべてが違法とされた。

 

 判決理由は2つあり、1つは来年度の助成金支給を今年度に行う法的根拠がないこと。もう1つはロンドンを構成する各区との協議を怠り独行したことだった。

 

 戦いに破れた労働党即時抗告、ついに三審へともつれ込む。

 

 ここまででタイムリミット残り7日となったわけだが、この年は事情が違った。

 

 というのも、そもそもイギリスの春にはイースター連休がひかえているのだが、この連休は毎年日にちが異なり、この年は月末にあたっていたことから、結果としてロンドン市の最終業務が3月27日になったのである。つまりタイムリミットはたったの5日(図4)

 

(図4)裁判カレンダー:二審

 

 さすがにこれでは原告・被告ともに訴訟準備が困難であり、法廷での審理にいたってはほぼ不可能である。そのため三審はやむなく4月を割り込むことが決定した。そうなると結審後にロンドン市が存在しないため、当然その金庫も存在しなくなる。よって問題の資金は裁判所の口座に預けられた(※14, 15)

 

(※7)Evening Standard 1986年3月12日、p1-2

(※8)Evening Standard 1986年3月20日、p1-2    

(※9)Daily Telegraph 1986年3月21日、p2

(※10)Times 1986年3月21日、p2

 

 

 

 

三審:貴族院

 

 三審は3月24日に審理が開始(※11, 12)されると、翌25日インナーロンドン暫定教育局(ILIEA)への4000万ポンド違法と判断された。一方で本ブログの眼目である黒人芸術センターへの1100万ポンドを含むボランティア団体への支出については審理継続となった(※13, 14)

 

 最終判決4月17日に下され、ロンドン市による助成金支給計画はそのすべてが違法とされ結審、黒人芸術センターへの支給は泡と消えた

 

(図5)裁判カレンダー:三審

 

 判決理由控訴院と同様で、来年度の助成金を今年度に行う法的根拠がないということだった(※16, 17, 18, 19)

 

(※11)Evening Standard 1986年3月24日、p10

(※12)Times_1986年3月25日、p2

(※13)Times_1986年3月26日、p1

(※14)Evening Standard 1986年3月26日、p2

(※15)Times 1986年3月27日、p2

(※16)Evening Standard 1986年4月17日、p7

(※17)Guardian 1986年4月18日、p2

(※18)Daily Telegraph 1986年4月18日、p10

(※19)Times 1986年4月18日、p5, 34

 

 

 

 

お金はどこへ?

 

 ロンドン市の内部留保ならびに各種資産の行方は、前年(1985年)に成立したロンドン市解体法で設立された、専門の整理組織であるロンドン残余機関(LRB)である。以後LRBは、市の業務を受け継いだロンドン各区や各機関に数年かけて配分し、最終的に1996年に業務を終え解散となった。

 

 当然ながらLRB保守党支配下なので、労働党色の強い組織・団体への支給には厳しかっただろう。実際に労働党が支給予定としていた団体のほとんどが弱小ボランティア団体であり、支給なしでは廃止になることが確実だった(※6, 18)

 

 そうした団体は当時は極めて少数派であり、また当時の倫理観からみてキワモノ扱いされるものが多かった。たとえば少数人種、LGBT、母子家庭、薬物乱用、青少年育成、暴力被害女性などであり、当時の多数派である中産市民からすれば当然の仕分け対象に思えただろう(※20)

 

 この裁判とロンドン市解体により、1984年にロンドン市が掲げた反人種差別活動は大きく力を失うこととなり、以後の活動はロンドン構成区の中で、労働党を与党とする区の活動として継続することとなった。

 

 何より本ブログの主眼である黒人芸術センターは、この騒動で最大の憂き目にあい、設立費用1100万ポンドを失った。どうするラウンドハウス?

 

(※20)当時のイギリスでは特に同性愛に反対する倫理観が根強く、イングランドとウェールズでは1967年まで同性愛は犯罪であり、スコットランドでは1980年、北アイルランドでは1982年まで犯罪とされた。

 

 

 

 

 

 次回は、この裁判の裏側で起こっていた別の事柄について。