ラウンドハウス争奪戦
ラウンドハウスは1983年3月末で閉鎖となったが、争奪戦はすでに閉鎖前に繰り広げられていた。
先述のとおり閉鎖の決定が下されたのは1982年10月1日のこと。これは実際の閉鎖の半年前にあたる。また閉鎖14日前となる1983年3月17日には、早くもラウンドハウスが売りに出されたことが報じられた(※4)。これに目をつけたのが、労働組合とカムデン区だった。
労働組合は、劇場兼娯楽センターにふさわしい物件として、対するカムデン区は、黒人芸術センター設立のため、両者の思惑が激突することとなる。
競売が開始されると労働組合が競り勝ち(※5)、新聞各紙は6月22日にこれを報じ(※5、※6、※7)、この時点で労働組合の購入決定を確実視した。そもそも労働組合には資金力があり、また俳優組合の支援を取り付けているなど周到な準備があった。
(※4)Daily Telegraph 1983年3月17日 p15
(※5)Guardian 1983年6月22日 p4
(※6)Daily Telegraph 1983年6月22日 p14
(※7)Evening Standard 1983年6月22日 p3
労働組合の撤退
しかしこの状況は、7月14日の報道で一転し、労働組合が入札から撤退したことが判明、その理由は、カムデン区による説得工作だった(※8)。カムデン区が計画した黒人芸術センターは、そもそもロンドン市の意向でもあり、この計画は最初から労働党の強い政治力が背後にあった。これに労働組合が折れざるを得なかったようである。
そもそもカムデン区は、ロンドンを構成する32区(シティを含まず)の中でも伝統的に労働党が強く、1964年の区政誕生以来、選挙で敗北したのはわずか2度である(図1)。またこの1983年のカムデン区ならびにロンドン市政は労働党が握っていた。
(図1)国政・ロンドン市・カムデン区の勢力図
カムデン区が説得工作に出た理由は、購入金額で労働組合に勝てる見込みがなかったためと思われ、実際に後の購入交渉は難航している。最終的には購入に至ったものの、その後も資金問題は長らく付きまとい計画を翻弄することになる。
(※8)Evening Standard 1983年7月14 p6
ロンドン消滅
この1983年はロンドン市政にとって激震の年でもあった。なんと政府保守党の閣議でロンドン市(GLC:Greater London Council)の廃止が決定され、その後はロンドンを構成する各区が機能を担うことになったのだ。
この決定は1985年に国会を通過、1986年3月末に施行された。こうして行政組織としてのロンドンが消滅した。ちなみに再びロンドン市(GLA:Greater London Authority)が組織されるのは2000年になってからである(※9, 図1)。
このロンドン解体はサッチャー政権の策略で、改革の障害だった労働党を排除する一手であり、ねじれた国政・市政への対策ではあったが、かといって国政で市政組織そのものを葬り去るというのは実に大胆だ。日本でたとえるなら、政府の意向により東京都議会ならびに東京都庁がなくなるということなのだから。
話をラウンドハウスに戻すと、こうした状況の中で1986年以降、黒人芸術センター計画はカムデン区単独の計画とならざるをえず、政治力を大きく欠くこととなった。またそれ以後にいくつもの追い討ちが続くのだが、それは後述する。
(※9)GLCとGLAは、どちらも立法・行政機関としてのロンドン市だが、構造は同一ではなく、その最たるものが市長制度であり、GLAで初めて設けられたものである(図1)。それまでの実質上の首長は、議会第一党のトップであり、正式には「党の議会リーダー」という名称である。一方、式典等に出席する名目上の首長は市議会の「議長」であり、これは慣例的に第二党のリーダーが務める。
次回は、黒人芸術センター計画のきっかけとなったブリクストン暴動について
【註】
本稿ではイギリスの政治用語や専門用語について、あえて正式な訳語を用いていない。これは本稿が日本の一般読者を対象にしており、この読者層には正式な訳語が日本のそれと大きく異なることで理解しづらいことを考慮してのことである。念のため、以下に本稿で用いた名称と、その正式名称を記す。
ロンドン市(議会) → グレーター・ロンドン議会(GLC:Greater London Council)
カムデン区(議会) → カムデン議会(Camden Council)
労働組合 → イギリス労働組合会議(TUC:Labour Union Congress)
黒人芸術センター → ブラック・アーツ・センター(Black Arts Centre)
俳優組合 → エクイティ(Equity)