黒人芸術センターとは
カムデン区が計画した「黒人芸術センター」とは、担い手が黒人のあらゆる芸術を「黒人芸術」と規定し、彼らの活動拠点をロンドン市内に公費で設立するというものである。
現在の感覚からすると、なぜ黒人に特化した組織をあえて作り、なぜそこに公費まで投入するのか疑問だろう。これを理解するには、当時の社会情勢、とりわけロンドンの状況を知る必要がある。
契機となったのは、この2年前の1981年に起きたブリクストン暴動である。これをわかりやすく近年でたとえると、2013年にアメリカで起きたブラック・ライブズ・マター運動が近い。
ブリクストン暴動
事のあらましはおおよそ以下の通りである。
サウス・ロンドンのブリクストン地区(図1)で、白人警官による黒人青年への暴行事件が発生した。後の調査によるとこの暴行事件そのものは誤解との結論に至るものの、事件の前からすでにこの地区では、黒人と警察との軋轢が高まっており一触即発の状態にあった。
(図1)ブリクストンの位置
そもそもブリクストンはアフリカ系・カリブ系の黒人の居住率が高く、ロンドンの黒人文化のメッカでもある(※1)。暴動当時は国内の経済悪化が著しく、それが最貧困層である黒人社会を直撃し、彼らの高い犯罪率を招いていた。警察はこの地区の取り締まりを強化、行きすぎた拘束や逮捕が繰り返され、これが人種差別として黒人社会からの大きな反発を招く。
反発は当初、警察署への抗議運動として展開されたが、やがてそれが加熱し、1981年4月には暴動へと発展する。さらに暴動はブリクストンにとどまらず、イギリス全土に波及して国内を揺るがす社会問題となった。その結果、行政は人種問題への対応を余儀なくされる。
(※1)ピーター・ガブリエルは16歳だった1966年9月に、ブリクストンでオーティス・レディングのライブを観ているが、この地区が危険地帯であることや、客で白人は自分と友人だけだったことを述べている(『ピーター・ガブリエル(正伝)』p53)。
『ピーター・ガブリエル 正伝』
スペンサー・ブライト 書/岡山徹 訳
(音楽之友社)
ジャンルとしての黒人芸術
私たち日本人が人種問題と聞いて瞬時に思い浮かぶのはアメリカだろう。しかしイギリスもまた移民による多民族社会であり、アメリカ同様に人種問題が大きな社会問題になっている。
特にブリクストン暴動以降、政府の人種差別解消策は多岐に渡り行われ(※2)、その一つに黒人層の芸術活動支援があった。その一端が黒人芸術センターの設立である。
当時の黒人芸術は人種問題や民族意識との結びつきが強かった。今でもヒップホップ・カルチャーは担い手が黒人の場合が多く、中でもラップには黒人側からの人種差別への抗議表現がよくみられる。
また当時のイギリス芸術は担い手の人種が限定されており、たとえばバレエ団や伝統演劇は黒人に対し、実質的に門戸を閉ざさざるをえなかった(※3)。よって黒人は自分たちのカンパニーを独自に作り、その演目は民族問題を扱うものが多くなった。こうして黒人に独自の芸術ジャンルが生まれた。
このような黒人芸術の担い手は多くが貧困層のため、行政の差別解消策として芸術助成金の対象とされた。また黒人芸術家に対しては、資金だけでなく活動拠点の提供も行われることとなり、こうしてラウンドハウスを黒人芸術専用の施設、黒人芸術センターとして提供することになった。
(※2)実際のロンドン市の人種差別解消策は、すでにブリクストン暴動直前ともいうべき1981年初頭に開始されており、市議会で少数民族委員会が設立されていた。範囲は幅広く、住宅、雇用、コミュニティ事業、研修、芸術、レクリエーション、助成金援助など(Westminster and Pimlico News 1985年2月15日, p2)。
(※3)こうした舞台の演目は、シェークスピア時代の白人社会が舞台になることが多く、黒人が演じることに観客が違和感を覚えることがある。2023年に公開された実写版映画『リトル・マーメイド』 では、主人公アリエル役を黒人少女が担当したことで論争となった。
【参考資料】
論文『1980年代GLCの文化政策と「ブラック・アート」興隆と抵抗のあいだ:英国「ブラック・アート」の軌跡(2の1)』、萩原弘子、『人間科学 : 大阪府立大学紀要 10』p.3-29、2015年3月.
次回は、黒人芸術センター計画が動き出す直前までの状況を解説。