今回で1986年の動きを締めくくる。

4月17日の結審により、資金源を断たれた黒人芸術センターの行方は?

 

 

 

 

それでもやる

 

 助成金1100万ポンドを失ったラウンドハウス・トラスト(黒人芸術センターの運営団体)だったが、それでも計画は続行、新たな資金獲得に動いた。

 

 裁判の1ヶ月半後にあたる6月に、アーツ・カウンシル(日本でいえば文化庁外郭の独立行政法人)から25万ポンドの投入が決定。すでにアーツ・カウンシルは係争中の3月の段階で10万ポンドの支給を決定していたので、4月の結審を受けて15万ポンドが追加される形となった(※1)

 

 この額は一見するとかなりの額に思えるが、当初の必要額1100万ポンドを考えるとわずか2.2%にすぎない。そこで計画は大幅に変更され、規模を1/10以下100万ポンド(現在の5.6億円相当)に縮小し、残る3/4、つまり75万ポンドを各方面に求めることとなった。

 

 この募金の嘆願書にはセンターの未来予想があり、若手劇作家のフェスティバルやブラック・シアター・シーズン第58回参照)開催、また建物に関しては900席の劇場改装の他、ビジュアルアートギャラリーやスタッフ用オフィス、レストランの併設が掲げられていた。コーディネーターのレミ・カポは誇らしげに語り、このセンターが国際的少数民族アーティストの専門総合施設としてイギリス初になるだろうと言った(※2)

 

 この募金活動の結果、11月の時点でカムデン区が25万ポンドの拠出を表明、その他のロンドンを構成する2区も前向きな姿勢を示した。これで必要額の半分以上が確保できる見通しとなった。トラストはマスコミ発表で年内の資金調達に自信を示し、翌1987年秋にセンターをオープンさせる意向を表明した(※2)

 

 これにより表面上はセンターのオープンを当初の計画から1年延期する形で騒動をどうにか収めた。しかし12月の報道では少しトーンダウンし、カムデン区の寄付が他2区の寄付が得られる前提とされ、まだ不安定な状況でもあった(※3)

 

(※1)Evening Standard, 1986年6月27日, p14

(※2)Evening Standard, 1986年11月4日, p15

(※3)Evening Standard, 1986年12月4日, p17

 

 図1:年表(1986-87)

 この年表から、第4回ブラック・シアターシーズンが当初ラウンドハウスでの開催を予定しており、そのため開催時期が1987年後半にずれ込んだとわかる

 

 

 

 

 

 

組織の不和

 

 資金面では見通しが明るい一方、トラストの組織内部は分裂しており、とりわけ理事委員との間で顕著だった。

 

 すでに裁判の結審直後である4月の段階で、委員の一人である黒人女優のエフア・テイラーが辞職した。彼女はその理由について述べ、理事が所属芸術団体を冷遇したことを挙げている。また計画の現状について、単なるアーティストの寄せ集め状態であると批判している(※4)

 

 そもそも理事とや委員はどういう役割なのか。それを知るには資料が乏しく推測するしかないのだが、あくまでテイラーの弁から考えれば、おそらく理事とは、組織の経営を担う上層部のことを指し、一方の委員とは、所属する劇団の代表者(演出家や演者)を指すと思われる。

 

 であれば両者の目指すものが異なることは容易に想像がつく。つまり理事の最終目標は、あくまで反人種差別政策を政治成果としてこれみよがしに達成することだが、一方の委員の最終目標は、彼らがアーティストである以上、反人種差別活動以前に作品のクオリティ保持が当然あったはずである。先のテイラーの発言(※4)は両者が噛み合っていないことを示している。

 

 こうした委員の交代劇はその後も続くこととなるが、それが示すのは、理事が委員に耳を傾けることなく、自己の政治方針にただアーティストを従属させる強権体制だったということである。

 

(※4)Evening Standard, 1986年4月21日, p6

 

 

 

 

 

 

イギリス型組織運営の伝統

 

 この権力構造を知るにはイギリスの伝統的政治運営、あるいは組織の慣例を知る必要がある。

 

 そもそもイギリスの政治組織は階級制度と密接に関係している。代表的なものは国会における二院制で、これは私たち日本人がイメージする衆議院と参議院のようなものではない。イギリスの二院制は貴族院と庶民院に分かれており、その内選挙で選出されるのは庶民院であって、一方の貴族院はというと一言でいって世襲制である(※5)第61回で先述したように、2009年までは貴族院(最高裁)が5人の貴族院議員を裁判官とする合議制だったことでもわかるように、イギリスの政治は元来王族貴族によって行われ、国民はそれに従属する伝統があり、それが立憲君主制の現代も底流にある(※6)

 

 政務では官職のトップに任ぜられるのは形式上の貴族であり、その副官には庶民(といってもアッパー・ミドルクラス、いわゆる名家の庶民)を含む実務の実力者が選ばれて、その二人三脚で行われるようだ。これもまた階級制社会の政治組織運営をよく表している。『リー・クアン・ユー回顧録(上)』図2)によれば、英領シンガポール高等弁務官事務所のトップは貴族のセルカーク伯だったが、その副官は庶民であるフィリップ・ムーアであり、重要な局面でムーアが主導的だったエピソードがある(p265-266)し、そもそもセルカークとムーアは弁務官以前の在英時代の職務にあってもパートナーだった(※7)

 

図2:『リー・クアン・ユー回顧録(上)』

(2000年、日本経済新聞社 刊)

 

 

 

 ここで話を本題へと戻すと、黒人芸術センターの理事はそもそも労働党ロンドン市によって任命されたいわば半官職者だ。もちろん芸能行政の実績者が選ばれているのだろうが、その理事の一人は貴族のバーケット卿であり、他の理事もアッパー・ミドルクラス出身者、つまり白人政治支配層である。一方でセンターで実際に芸術活動を行う劇団やアーティストは、当然ながら有色人種少数民族であり社会階級の最下層である。ここには階級制に根ざす権力格差があり支配構造がある。

 

図3:イギリスの階級制度

 

 

 

 そもそも黒人芸術センター計画は、アーティスト側からではなく政治側から企画されたものであり、政治における反人種差別政策の一端にすぎない。だからこそセンターの上層部の眼目は「反差別」が先立つのであり、そこには「芸術の質」が重視されていないため、アーティスト側と終始折り合えず、旧来の権力構造に従い譲歩や折衝を拒んだのだろう。

 

 だとすればこのセンター計画は、反人種差別にして別の差別、つまり階級差別を含む重大な矛盾となる。おそらくこの批判をかわすためだろう。理事会はテイラーの辞職後に、理事に黒人弁護士で議員のポール・ボアテングを加えることにした。それでも理事の大半は白人で占められ、それはこの措置がジェスチャーにすぎないととらえられ、かえって組織の亀裂を広げるという逆効果になったと思われる。

 

(※5)正確にいうと、イギリスの貴族は必ずしもすべてが世襲というわけではなく、一代かぎりの一代貴族や、貴族に準ずる準貴族もいる。

(※6)イギリスの裁判官は正式名称を法服貴族(Law Lord)といい、裁判官に任ぜられた人物には、たとえ庶民であっても形式上貴族階級が与えられ、たとえば姓がスミスであれば、正式呼称が「スミス卿(Lord Smith)」となる。

(※7)ちなみに、フィリップ・ムーアの次女ジル・ムーアは、イギリスのミュージシャン、ピーター・ガブリエル(ジェネシスのオリジナルメンバー)の元妻。