韓国で買い物していると突然話しかけられることが結構あります。

 

買い物かごの中にあるものを見て、
「これどこにあったんですか?いくらでしたか?」から始まり、
野菜コーナーにいると「この野菜、どう調理するかご存知ですか?」
しょうゆコーナーにいると「このメーカーとこのメーカー、どちらが美味しいですか?」
などなど。

 

話しかけることに対してほとんど抵抗がありません。

 

逆に私も
「この野菜でキムチつけたいんですけど、ほかにどんな野菜買ったらいいですか?」とか
「どうやってつけたらいいですか?」まで。
いろいろ聞いちゃいます。

 

そうすると大抵「それはね~。」と待ってました!とばかりに丁寧に答えてくれます。

聞くのも聞かれるのも、当然って感じです。

 

一人旅が好きで、

初めて出会う人とお話ししたりするのが好きだった私にとって、

韓国のこの感覚は大好きです^^

 

世話好き、話好きなんですね。

 

ハングルが話せるようになったら、韓国人に話しかけたら面白いと思います。
話しかけられて無視するような人、今のところ私は出会ってませんから^^

割と交通の便はよく、日本ほど車がなくても苦労しない韓国。
ですが、田舎はやはりバスの本数が少なく、交通が不便なところも多々あります。

 


ある日、田舎の駅から街へ出るバス停まで行こうとしていた時、
駅からバス停があまりにも遠く、たくさんの荷物を抱えてひぃひぃ言いながら歩いていると、
突然、素敵な車に乗っておばさまが
「どこ行くの?乗ってく?」と声をかけてくれるではありませんか!

 

ヒッチハイクしてないのにヒッチハイク成功!

 

おかげで無事にバス停まで着くことが出来ました。

 

おばさまはクリスチャンのようでした。
韓国はクリスチャンがめっちゃ多いです。
夜のソウルは「お墓?」と思うくらいそこらじゅうに十字架のともしびが見え、教会の多さを実感することが出来ます。

 

人がいい(困ってる人を見ると手を貸したくなる)韓国人の気質と
信仰という二つが相重なって起こった出来事でした。
また、田舎という要素も手伝ったのかもしれません。
さすがにソウルではなかなかこういうことないかもしれませんね。
最近のテレビ番組でも「知らない人に声をかけられて、子供はついていくか否か」を試すような番組も多くなってきていますから。

 

現代化の波に押され、様々な物騒な事件とともに人々の心に猜疑心や警戒心が生まれ、
韓国の良き文化を変えざるを得ない状況が増えてきているのは寂しいことだなと感じてます。

以前夫とソウルに出かけたときのことです。
バス停でバスを待っていると、女子大生が手持ちの荷物を全部ひっくり返すような勢いで何かを探しています。
すると彼女は私の夫に声をかけました。
「私の携帯に電話してもらっていいですか?」
夫は快く答え、電話をしてあげると、カバンのどこからか音がして、彼女は携帯を探し出すことが出来、「ありがとうございます」と笑顔で去っていきました。

この様子を見て「日本じゃあり得ないな」と思いました。

電話をかけてあげる方も、かけてもらう方も警戒するだろうし、近くの見ず知らずの他人にかけてもらおうなんて発想すら浮かばないのではないでしょうか?

この女子大生の行動も、夫の行動も褒められるものではないのかもしれませんが、なんか面倒くさいことは抜きで、とにかく目の前に困っている人がいたらほっとけないというのが韓国人だなと感じました。
日本人として自分は色々難しく考えすぎかもと思った出来事でした。

韓国は自分がどう思っているということを伝える必要があります。
「情」を中心に生きているので、他人にしてあげることも
「自分がこうしてあげたいからする」というのが基本です。
なので、相手に悟ってもらうという考えがあまりありません。

 

それに比べて日本は「和」を中心に行動するため、
その場で何が一番求められ、どうしていくことが一番平和的に物事が進むかということが基本にあります。

だからお互いが自らその場を思い、全体を見て、合わせるという考え方が中心です。

 

ですので、韓国に来て日本の感覚でいると損をします。

 

韓国は基本「言わないとわかってもらえない」からです。

相手が自然に言ってくるだろうと思われているので、
向こうから「こうしましょうか?」とか言ってくることってあまりありません。

 

韓国に来てくださった日本人の方が、
コーヒーショップで水をもらいたくて店員を待っていたのですが、
店員さんは目の前のお客さんだけを見ていて、
全く自分らに目を向けてくれず、
一人のお客さんへの投入する凄さと
周りを気にかけない韓国人に驚いていました。

 

これは「お客さんに何かあったら当然なんか言ってくるだろう」
という思いがあるからだと思います。

 

日本人のような気づかいはビジネスには必要不可欠ですが、
「なにかあったら言ってくるのがあたりまえ」で
物言うお客さんに嫌な感情が起こらないとわかれば、
お互いがもっと精神的に楽じゃないかなと私は思ってしまいます。

 

この心遣いが日本の良さでもあり、
時に効率の悪さにもつながるかなと思った日でした。

渡韓して、結婚し、韓国での家庭生活が始まりました。

 

正直結婚するまで韓国の文化とか、

全然考えたこともありませんでした。

 

見ることすべてが新鮮でした。

 

そこで始まった姑との生活も最初は楽しいものでした。

 

しかし、韓国と日本の文化の違いから、誤解やすれ違いが生じ、

互いに傷つけあってしまいます。

 

韓国の姑は自分のところに来た嫁を

「責任をもって干渉する」

のだそうです。

 

ですが、日本人の私にはそれが

「自分が信頼されてない、信用されていない」

のだと感じ

嫌な思いになり、窮屈に感じました。

 

愛の反対は無関心だと言いますが、韓国は

関心を持って

干渉することが

「愛」なのです。

 

私にはその愛が分からず

夫もそうだし、夫も家族もそうだし、

「なんでこんなに自分を信じてくれないのか」

と不安や怒りまでも覚えました。

 

しかし生活してみると、

私にだけでなくほかの人に対してもそうで、

日本人のように

「この人に任せよう」と見守るというのが

ある韓国では薄情になるということに気付きました。

 

ですので、私が良かれと思ってしてきたことで

きっと夫の家族も傷つき、寂しい思いをさせてしまったのだと思います。

 

家族間の情が近く、

人との関係を重要視するがゆえに

お互い距離をとるよりも

近くにいることで

迷惑をかけることもあり得ることだと腹をくくっている。

 

それが韓国の情の世界だということを知りました。

 

日本がどれほど個人主義なのかも韓国に来て知ることになりました。

 

日本は適当な距離感を保ち、衝突しないようにする。

韓国は情をぶつけ合って解決していく。

そんな違いも知ることになります。

 

もともと他人との距離を取り、衝突を避けてきた根っからの日本人気質だった私は

韓国の生活はかなり衝撃的でした。

 

韓国に来てもう一つ感じたのは韓国人の「根拠のない自信」です。

彼らは親や自分の先祖(ルーツ)大切にすることで

自身の存在価値を確固たるものにしているんですね。

 

ですので、親や家族を大切にすることは

自分の存在価値を確固としたものにすることであり、

そうした自分の行動が後にもつながり、

やがて自分の将来にもつながっていることを潜在意識的に認識しているのです。

 

ですから、

「今が良ければいい」

「自分だけよければいい」

という発想にはならないんですね。

 

これは私が今訓練中ではあるのですが、

もし、英語で学んできた

「個々を大切にする」というスタイルを

「家族」や「先祖」というところに目を置かずに貫いてしまった場合、

「今の楽しみ」が得られたとしても

虚しさと将来の不安が残ります。

 

その虚しさの原因の一つをここに見つけたように思うのです。

 

これは英語圏ではよく聞かれる話のようですが、

韓国のように年配者を敬い、侍ろうとする文化は

諸外国の高齢者には美しく羨ましい文化なのだそうです。

 

韓国にも美しい文化が沢山あります。

しかしいかなるものも美しいものを守るには努力が必要です。

韓国にも近代化の波が押し寄せ、個人主義に傾きつつありますが

日本が持つ美しさを守ってくれている日本の文化に感動した外国人がおられるように

韓国が持つ美しい文化も韓国人だけでなく、

諸外国の方々にも守られて行ったらいいなと思いますし、

私もそれを守る一人でありたいと思っています。

 

自分の良さを自分で気づくのが難しいように、

韓国文化の素晴らしさを韓国の方が気づかずに、

近代化の波にのまれてる可能性もありますからね。

 

それが結局その人の年老いたときや死後の自分の糧になると思います。

手術室はスタッフが育つまでに時間がかかる部署でした。

私のいた病院は整形外科、消化器外科、心臓外科、眼科の手術を行っていたので、

それぞれの手術の術式、機械、流れ、必要物品などを覚えるのは2年前後はかかりました。

病棟であれば3か月くらい日勤をしたら夜勤を始めて、みたいな感じになると思うのですが、

手術室は、整形外科の簡単な手術から入り、外科の手術、腹腔鏡の手術、心臓外科の手術、眼科の手術と覚えることが多く、変則勤務に入るのも半年くらいしてからが普通でした。

ですので、手術室のスタッフが一人減るということは、また一人教育していかなければならず、その教育に時間がかかるのでなかなか異動が出来ませんでした。

 

ですので、私より早く「病棟に行きたい」という先輩方も多かったし、

私がその先輩方を差し置いて病棟に行くということはなかなかあり得ない話でした。

 

かといって、違う病院に行こうかという考えも浮かびませんでした。

 

また1から始めるのは不安もあったからです。

また自分は仕事ができないと思っていたので、

ほかの病院に行く自信がなく、怖かったというのもあります。

 

そんな青年海外協力隊の結果を待っていた時、恩人に出会います。

その人は私の今の状態や過去の話、家の事情まで全部聞いて受け入れてくれました。

そしていろんな人を紹介してくれ、

私の家系や私自身のそれまでの人生を全部聞き出してくれ、

客観視させてくれ、

自分が今持っている問題が何で、

それがどこにあり、

どうしてそうなったのか一緒に考えてくれ、

提案してくれ、

導いてくれました。

 

それが私が以前恨みまで持ってしまっていた「信仰の道」でした。

 

幼少のころから天理教の信仰があった我が家は

朝晩祈祷(瞑想?)の時間がありましたし、

毎月1回教会でお勤めというキリスト教で言ったら聖歌に合わせて庶民の日本舞踊のような踊りをしたり、講和を聞くという日がありましたし、

日曜には礼拝はありませんでしたが、参拝に必ず教会に通っていました。


それでも両親が喧嘩したり、愚痴を言い合ったり、

祖父が祖母や父や母を怒鳴りつけたり、

私も自身の問題が解決できなかったりで

「信仰してもいいことない」 と思っていました。

 

いじめられてた時も

「おまえのうちは宗教やってんだな。宗教は心の弱い奴がやるもんだ」

とけなされたこともあり、

「宗教は弱いものがやるもの」という思いも少なからずありました。

 

でも実は私がぐれてもおかしくないような環境に置かれても

変な道にそれたりしてこなかったのは

信仰のおかげだったと気づきました。

 

神様なんていないと思いながら神様を求めている自分がいたことにも気づきました。

 

試練も神様の愛だということも学びました。

 

 

foodprintという詩人不明の詩のなかでも

 

私が歩いてきた道を振り返ると私と神様の足跡が残っていた。

でも一番苦しかった時、足跡は一つしかなかった。

そこで私は神様に「一番苦しいときどこにおられたのですか?」と尋ねると

「おまえをおぶって歩いていた」と答えられました。

 

みたいな内容の詩があるのですが

(私の記憶なのでちゃんとした文章ではありません、すいません)

そうか、私が傷ついてる時、自分の苦しみしか見えなかったけど

そんな環境に置かざるを得なかった神様がもっと涙しておられたのかもしれないな

と思いました。

 

「されて嫌なことはほかの人にもしちゃだめ」という教えも

「やり返せばよかった」と成人してから後悔したこともありましたが、

傷つけて傷つくより良かったかもと思うようになりました。

 

そんなわけでいやいやながらも神様の話を聞いて育ってきた私にとって

自分が通ってきた道も間違いではなかったんだと思えるようになりました。

 

と同時に、本当の「罪」が何か知るようになり、

自分が気づかないうちに犯している罪にも気づくようになりました。

 

無知も罪であることを知りました。

今まで人類も

外的無知は「科学」で、

内的無知は「宗教」で

解決しようと努力してきたことも知りました。

 

信仰の世界はあまりにも深く、いまだに私は深く信仰したいと思いながらも

ほかの人にどう思われるだろうか、

日本という国自体が宗教を怪しいと思っている

(いじめられた原因の一つに天理教の信仰もあったので、身をもって日本の信仰に対する警戒心、猜疑心、怪しい、弱いものがすがる場所だという認識があることは痛いほど実感していました)

自分も怪しまれるのではないか、

誤解されるのでは

などという思いがあり、今もあまりネット上では聞かれない限り伝えないようにしています。

 

嘘は苦手なので聞かれたら答えちゃいますけどね。

 

 

でも正直言って私にとって信仰は生命線であり、重要視しているものです。

とは言えなかなか信仰生活は送れていないのですが^^;

 

話がだいぶそれましたが、

仕事を辞めて青年海外協力隊に行こうと思っていた私でしたが、

それもかなわなくなりました。

 

でも信仰に出会った私は看護師を辞め、信仰の世界に入ることを決意します。

 

そして2年間の教会生活の後、教会の紹介で今の韓国人の夫に出会うようになりました。

 

自分でも想像したこともなかった「韓国に嫁ぐ」という道が開かれました。

看護学校を卒業し、手術室勤務になった私はストレスで生理があまり来なくなりました。

ひどいときは300日来なかったので病院に行きました。

おかげで卵巣嚢腫が見つかって自分が手術を受ける体験もしましたが。

 

生活的には特に不自由することなく過ごしていました。

なのになにか虚しさや満たされない思いを抱えていました。

 

そんな私を助けるきっかけをくれたのも「英語」でした。

 

看護学校を卒業して間もなく英会話スクールに通い始めました。

そして当時県庁で行われていた「Globalかふぇ」という

一つの話題について各々がセッションしあうという場にも参加するようになりました。

 

そこでいろんな人に出会い、異文化交流が好きな日本人にもたくさん出会いました。

そしてその人たちの紹介でさらなる英語圏の友達を紹介してもらったりして、

ネイティブの集まりがあると積極的に行き、交流しました。

 

そこで英語にも方言のように国によって癖があることを感じたり、

第二言語として英語を使う人々に会うことで「完璧に話そうとする必要ないな」って学べたり、

英語の面白みを感じていきました。


 

そんな時、名古屋で万博が開かれました。

せっかくだから一回くらいと思い覗いてみたところ、その魅力に魅了されました。

121か国から自分の国をアピールしようと様々な文化を持った人が集まっているのです。

日本にいながら様々な国を知ることが出来、現地の人ともコミュニケーションが取れるのです!

まるで世界旅行のように。

私にとっては夢のような空間でした。

 

私はそれぞれのパビリオンでいろんな人に話しかけました。

だいたい、英語が通じました。

 

でも、そこで衝撃的だったのが、「赤十字館」でした。

 

ごみの中に住む子供たちの写真や

美しい自然の写真、

銃を持った幼い少年たちの写真、

みそぼらしい姿だけど、まぶしい笑顔を見せてくれている子供たちの写真

 

そこには地球の美しさと、劣悪な環境でもたくましく生きる人々の姿が映し出されていました。

 

そして私をとらえたのがアンリデュナンの名言とともにあったメッセージでした。

 

人は
右の手で戦争をして人を殺し、
左の手で赤十字を作って人を助ける。

 

あなたのその手は何に使いますか?

 

何不自由なく生活しているのに、なんてくだらないことに悩んでいるんだろう。

そう思いました。

 

手術室でまた自信を失っていた私が

「こんな私でも役に立てるかもしれない」と再び思うきっかけをくれた言葉でした。

そして、ボランティアをしてみたい!と思うようになりました。

 

そこでJICAの青年海外協力隊に応募します。

 

ところが、健康診断で落とされてしまいます。

 

それほど健康に問題はないはずなのですが、

2年の海外生活に耐えうる基準にかなわなかったようです。

 

筆記で落とされたのであればまた挑戦できますが、

健康診断ではどうしようもありません。

 

そうして涙を呑んで青年海外協力隊はあきらめました。 

 

でも以前のひねくれ、すねまくっていた私だったら

ボランティアなんて考えも及びませんでした。

めんどくさい、くだらない、何が楽しいの?と。

 

そんな私が人の役に立ちたい、自分の生を精一杯生きたいと思えるようになったのは

英語と看護のおかげだと思っています。

というわけで、お世話になった田舎の温泉病院を出て、

県庁所在地の前橋の総合病院に行くことを決意します。

 

そして面接のときに「私は子供が好きなので、小児科に行けたら嬉しい」と伝えます。

そして、そのとき一緒に面接を受けた友達は「自分は外科を学びたいです」と伝えます。

 

ふたを開けてみると小児科に行きたいと言っていた私が「手術室」

外科を学びたいと言っていた彼女は「小児科」に配属になります。

 

友達は所属先で「小児科に来たかったんでしょ?」と聞かれたそうです。

それ、私ですけど…ひょんなことから全く想像もしていなかった手術室に配属されます。

 

それまで年上の人に愛されてきた私でしたが、スタッフとの人間関係を作るのは苦手でした。

というのは、

自分より上の人に喜ばれることは学んだのですが、

自分と同じ一の人と上手にやってくということをしてきてなかったんですね、私。

 

友達関係を築くことが難しかった私には、

同僚関係をうまく作るの、壁が高かったんです。

 

なんだかみんなに馬鹿にされてるとか勝手に思っちゃうとこがあったこと、

また、遠くでこそこそ話されると私の悪口を言われているんだと感じてしまう事

周りの目が気になっちゃうこと

などなどが

問題を大きくしていきました。

 

病棟にいたときは、

スタッフ間で何かあっても患者さんによって癒されたりしてました。

 

でも手術室は医者と看護師しかいません。

手術を成功させるために、どれだけ良い環境を作れるかが重要でした。

 

だから術式はもちろん

Drによって異なる手術の手順をおぼえたり、

使う器具たちを覚えたり、

手術がスムーズに進む努力をしていくようになります。

 

手術室は患者さんの名前より「術式」と「術名」が記憶に残ります。

「○○さんの手術」というより「横行結腸がんのあの人」といった方が伝わりやすいのです。

それだけ手術に集中しているからです。

 

そこで私は

手術の名前、流れを覚え、

今進行している手術で次は何が必要

医者が何を求めているか

を考え、行動するという訓練を受けました。

 

病棟は自分の受け持った部屋のケアを自分で管理していきます。

手術室は手術がうまくいくことが一番の目的なので、術者がスムーズに手術を行える事が最優先です。

 

ですから関与するスタッフは手術がスムーズに進むようにチームで最善を尽くします。

どちらかいうと個人主義でやってきてしまった私が

最高に密なチームワークが必要とされる場所に来てしまったのです。

 

病棟ももちろんチームを組みますが、

病棟とは違うチームワークが手術室にはありました。

密です。

超密です。

 

ここでの経験は私にとって貴重なものとなりました。

 

出来て当たり前、できなければ大問題という世界でした。

 

周りからの評価や周りの目を気にして

ただ黙々と仕事をこなすのは

私にとって苦痛でした。

 

仕事ができないというレッテルを人にも自分にも貼られた私は

病棟へ移りたいという思いと

辞めてしまいたいという思いにさいなまれていました。

 

そんな時にプリセプターという新人教育の役割を頂き、

新卒の新人を育てることになります。

 

兄弟が多かった私は、下の子の面倒を見るのは割と好きで、

その教え子が従順で純粋で、素直だったので、

その子の成長が楽しく、嬉しく、

その子が育つまではやめまいと手術室にとどまります。

 

今思うと、私は

長女

いじめられっ子だったので、見下されるのが大嫌い

ということもあってか、

助けを求めたり、人に甘えたりするのがとても苦手でした。

(まぁ、今も苦手ですが)

 

それゆえ一人でどうにかしようとして

事が大きくなって

迷惑をかけるというパターンが多くありました。

 

私が「こいつ仕事できない」「任せられない」と思われる原因が

何かあっても言ってくれない というところにあったかもしれないと今は思います。

そんなこと言ったら馬鹿にされる、見下されるという恐怖感がいつもありました。

だれかを信じて頼るということが上手に出来ませんでした。

 

スタッフの方はそれぞれ個性がありつつも一人ひとりみんないい人ばかりでした。

ただ、私のメンタルが伴っていませんでした。

 

そしてその子が一通り仕事を覚えた手術室勤務6年目に、

手術室を離れることを決意しました。

 

さて、そんなわけで、私は自分に価値があるとか思ったことありませんでした。

 

そんな私に

「お前にも出来ることがあるんだよ」

「お前を必要としてくれる人がいるんだよ」

と教えてくれたのが、

看護でした。

 

私が初めて務めた病院はリハビリが有名な温泉病院でした。

准看護学校から通い始めた私は、午前中は仕事、午後は学校という生活を2年、

高等看護学院に通い始めてからは8時から4時まで仕事、9時まで学校という生活を3年送り、

晴れて正看護師の資格を取りました。

 

リハビリ病院の患者さんはそのほとんどがお年寄りでした。

脳血管障害で

麻痺になったり、

言葉がしゃべれなくなったり、

言葉は話せるけど理解できなくなったり

という日常生活に介護が必要な患者さんが沢山いました。

 

中には事故で半身麻痺などになり、リハビリを受けてる若い人もいましたが、

多くはありませんでした。

 

当時の私は18歳(若い!!)。

准看護の学校に通っている間は「看護助手」扱いなので

医療行為はもちろんできません。

 

なので、患者さんの身の回りのお世話をするのが私の仕事でした。

車いすに乗るのを手伝ったり、

起き上がるのを手伝ったり、

食事を配ったり、

ご飯を食べるのを手伝ったり、

洗濯物を干したり、

検査室まで送り迎えしたり、

トイレを手伝ったり、おむつを替えたり、

 

そんな業務をこなす中で患者さんからたくさんの「ありがとう」を頂きました。

 

テレビなどで「ありがとうって言われると嬉しい」とか

「ありがとうって言われるために頑張ってる」とか

すねた人生送ってきた私は

「何綺麗事いっちゃって」って思ってました。

 

でも実際自分が言われる立場に立った時、

その言葉が私の心の栄養になっていくのを感じました、

 

「私も役に立てるんだ」「必要とされているんだ。」

そうやって低かった自己イメージが少しずつ修正されていきました。

 

患者さんにとっては私は孫のような存在だったのでしょう。

患者さんにもだいぶかわいがっていただきました。

 

採血を覚えたての頃も

「私は痛くないから、何回やっても大丈夫だから、気にしないでやってね」

と言ってくださる患者さんもおられましたし、

「あなたの笑顔で元気になれるわ」と言っていただいたり、

「昨日は休みだったの?顔が見れなくて寂しかったわ」と言っていただけたり。

患者さんの前では自分の存在価値がありました。

 

もちろん嫌な患者さんもおられました。

 

患者さんは突然脳梗塞や脳出血などで

それまでの生活に不自由することなく使ってきた体の機能を

いきなり奪われ、リハビリを強いられておられました。

 

受容して、前向きに頑張っておられる方もおられましたが、

自分がそれまでの体の自由を失ってしまったことを受け入れられず、

周りにあたったり、暴言を吐いたりする人もおられました。

当然ですよね。

 

脳血管障害は場所が脳なだけに、失う機能もいろいろです。

ある人は右半身の自由を失い、

ある人は言葉を失い、

ある人は理解したり、思考することを失う。

 

ですので、理解したりすることころを失った方は

介助は大変だとしても

むしろ嫌な患者さんではありません。

 

むしろ理解したりする能力は守られ、

言葉を失ってしまったり、

体の機能を大きく失ったしまったりした患者さんが、

周りにつらく当たる患者さん=嫌な患者さん

になるわけです。

 

その患者さんに現状を受け入れてもらい、

リハビリを受け

今ある機能を最大限に活かしてもらうよう務めるのも医療従事者の役割でした。

 

そういった課程の中でも学ぶことが多くありました。

 

患者さんとの数えきれない出会いと別れが私を育ててくださったのです。

 

 

看護学校を卒業した私は

「看護師としての経験をもっと積んでみたい」

と思うようになりました。

 

そこで田舎の温泉病院を辞め、町中にある総合病院に転職することを決めたのです。

私が英語が好きだったのはネイティブの先生だけが理由ではありませんでした。

 

これは後になって気づいたのですが、英語の背後にある「キリスト教文化」に

少なからず心惹かれていました。

 

というのは例えば日常的な会話でも

「おはよう」が「いい朝ですね」だし、

「どういたしまして」が「気にしないでね」「いつでもどうぞ」「あなたの喜びが私の喜びです」だし、

「頑張ってね」が「あなたの幸運を祈っています」だし、

「お大事に」が「あなたに神のご加護がありますように」だし。


日本は感情を出さない表現が美しいとされますが、

英語の場合は、相手の幸せを願う言葉や

相手を尊重する表現が多いんです。

 

自分をないがしろにし続けてきた私にとってその言葉自体が暖かく私の中に入ってきました。

 

また、私が好きだったのが「リズムや韻」です。

言語の中でも英語は音楽のようだと言われますが、

その抑揚やリズムが好きでした。

 

看護学校を卒業し、看護師になってからも私は

某英会話スクールに通うようになったのですが、

そこでネイティブの先生と友達になって、交流を深めていくうちに

私が英語が好きだった理由がさらに見えてきました。

 

英語は自己表現をしっかりする言語です。

でも、人が話しているときはしっかり聞くように教育もされてくるんですね。

 

ですから、自分を含めた個々を尊重することを幼いころから学んでくるわけです。

 

私が出会った先生方はやはり先生をするくらいの方なので

生活水準が高かったのだと思いますが、

自己主張もしっかりしながら、相手もしっかりと尊重することのできる方々でした。

 

日本のように和を大切にし、なるべく衝突することなく、間違いを正しながら生きるのではなく、

個々の個性を尊重し、違いを認め、いい部分を高めていくのが英語だと感じました。

 

私が感動したのが「感謝祭Thanks giving party」に呼んでもらった時でした。

彼らは集まって「今年感謝すること」を一言ずつスピーチしていくのです。

 

「家族と離れて迎える感謝祭は寂しいですが、

自分を日本に行くことを理解してくれた家族に感謝し、

日本に来れたこと、

こんな素敵な友達と出会えてともに時間を過ごせることに感謝します。」

なんていう言葉が

何のためらいもなく彼らの口からスラスラ出てくるのです。

 

友達を目の前にして、こんな言葉、素直に言えるだろうか…と思いました。

 

その場にいた日本人は私一人で、

私の番になったときはかなり焦りました^^;

でも英語という言語を使うことで、日本語では絶対に言えないことが結構言えちゃったりするんです。

これが文化のすごさだなと実感しました。

 

また、彼らはボランティア精神も高い人たちでした。

 

クリスマスの日にダイソーで小さなプレゼントをたくさん買って、

前橋から高崎の駅まで歩きながらホームレスの人にプレゼントを渡して

クリスマスを楽しんでもらおうという企画を立てたりもしていました。

(残念❓ながら思ったほどホームレスがおらず、あまり渡せなかったみたいですが)

 

こんな文化に触れ、私は英語圏に実際に行ってみたくなり、

先生の母国だったカナダに一人旅に出ました。

 

自分でホームステイ先を探して、

現地はどこを回りたいのかあらかじめリサーチして、

初海外を体験しました。

 

しかし、ホームステイはかなり商業化されていて、

「ホストファミリーの義務」なことがあるのですが、

それ以外はノータッチでなんだか寂しい思いをしました。

 

でも、カナダに行くことで移民の英語を話す人にも出会い、

英語が世界語というのを身をもって感じました。

 

2005年には愛知万博で様々な国の方と英語でコミュニケーションを取ることができ

アトラクションを何倍も楽しむことが出来ました。

 

アフリカなどは英語の話されない国も多かったのですが、ほとんどの国の人と英語で会話が出来ました。

 

そうやっていろんな人とコミュニケーションをとる中で、

自分が人と触れ合うことも

外に出ることも

いろんなことに挑戦してみることも

大好きだということに気付き始めたのです。

 

まさに英語は引きこもってた私を解放してくれた強力なツールでした。