ニューヨーク狂人日記 -20ページ目

ひと気が消え一段度と広い。
先週までのオフィス。
中古家具家の作業する音が、
うす雲の向こうに見える山のように、
どこか遠くから聞こえてくる。

最終確認のため廃墟を歩く。
鍵の束、写真の中の笑顔、靴、鍵、洋服、コップ......
ガレキの中、家族を探し歩く気分になってきた。

「ゴミ」。札を貼られたプリンター。
山と積み上げられた黒い電話機。
電子レンジ。
Microsoft Office2003。
チューブ式モニターの黄ばんだ肌。
フロッピー・ディスク。
扇風機。
めくれたカーペット。
開けたままの引き出し。

ここにも。
あそこにも。

重い。
鉄の塊のように。
久々に抱えてみたIBM製のタイプライター。
かつてのオフィスの華。
置き去りにされた花。
この重さは何のためだったのだろう?

ここにも。
あそこにも。

それにしてもこれだけの部署が、
いまだに持っていたことの方が不思議にも思えてくる。
土の中で眠る亀のように。
薄茶、アイボリー、灰色、くすんだブルー。
黒いキー上の白抜き文字。
見かけただけで6台はあった。
まだ眠っている。
起こさぬようそっと机に戻した。

人は。
いつかに。
もしもに。
備える動物らしい。
不毛に終わるとわかってはいても。

それでも機会が訪れると、
あきらめてしまう。
まるで申し合わせたように。
いとも簡単に。



ここにも。
あそこにも。

並ぶ観葉植物の鉢。
床に転がる。
大きなゴミ箱に放り込まれ、
根の張ったスポンジを見せているものも数え切れない。
ボクらだって生きているんだ。
5日間飲まず食わずだって。

「カワイソウ」
届け物をしてくれた小柄な女性が薄暗がりに立っていた。
水活けにしたポトスを胸に抱き。

ヨカッタ。
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似とる

な。

初めてだった。
写真を見たのは。

考えてみれば不思議。
大好きな随筆家なのに顔を知らなかった。
明治の人だから写真は少ない、それにしても......。

人というのは実に勝手なもんだ。
永井荷風似の顔を貼りつけ、
本と読むときはいつもアルバムのそのページを頭に置く。
まったく違うじゃないか。



■■■■■
われわれが存在の光栄を有する20世紀の前半は、
ことによると、
あらゆる時代のうちで人間が一番思い上がって、
われわれの主人であり父母であるところの天然というものを馬鹿にしているつもりで、
本当は最も多く天然に馬鹿にされている時代かもしれないと思われる。

科学がほんの少しばかり成長して、
ちょうど生意気ざかりの年頃になっているものと思われる。

天然の玄関をちらと覗いただけで、
もうことごとく天然を征服した気持ちになっているようである。

科学者は落ち着いて自然を見もしないで長たらしい数式を並べ、
画家はろくに自然を見もしないでいたずらに汚らしい絵の具を塗り、
思想家は周囲の人間すらよくも見ないで独りぎめのイデオロギーを展開し、
そうして大衆は自分の皮膚の色も見ないでこれに雷同し、
そうして横文字のお題目を唱えている
(寺田寅彦『烏瓜の花と蛾』)
■ ■■■■



今は21世紀のはじめ。
100年を経てもまだ生意気ざかり。

随筆家でもあるのだけれど、
本業は物理学者。
東大の先生。
「天災は忘れた頃にやってくる」
去年、あちこちでプレイバックされた有名な言葉を残した。

大好きな人の顔を知らなかった。
そして知った。
それが似てる。
だれに?
ぼくに。

ページを繰り写真が目に入ったとき、
口へ運びかけのビール宙に止まる。
夜中の2時35分。

現物のぼくを知る人にはどう映るだろう?
やはりコスプレ境だろうか?


$ニューヨーク狂人日記

奇しくも寅彦さん。
ぼくと同じ寅年生まれ。
それにしても不思議だね、
子供の頃は寅より虎にあこがれたのに、
今じゃ好んで寅と書く。

新しいものが好きなくせに古いものを愛でる。
これはこの星に生まれた者のめぐりあわせなんだろうか。
ちなみにこの本は紙のまま読んでいる。

親父とよく似ているらしい。
人に言わせると。
ぜんぜん似てないと思うんだけれど。
でも、性格が似ていることは認めざるをえない。

今日はそんな死んだ親父の誕生日。
戌年だけれど。
オメデトウ!
帰ったら乾杯しよう。
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貝ほり

綿になったホコリを見つけたり。
それのたまっている場所だったり。
チェリーだったり。

つくづく痕跡のあるものが好きだなあ、と思う。
いまさらどうすることもできないだろう。

スリフト・ストアに出会うと素通りできないのも。
安さだけでなく古本に惹かれてしまうのも。
電車の中しげしげと他人の顔を見つめてしまうのも。
道端に落ちているメモに見入ってしまうのも。
ゴミ箱をのぞくのがけっして嫌いではないのも。

自分の芯にそんなものがあるからかもしれない。



仕事場の引越しもなんとか終了。
いまは今年はじめに総入れ替えをしたPCの
ハード・ディスクの取り出し作業をしている。
百数十台分。

「あー、床に置いてたんだな」
「こいつは一度修理してるな」
「それにしてもこのホコリは......」
「ずいぶん古いPCを回されてたんだな~」
「どうしてチェリーの絵なんて描いたんだろう?おやおや、横に“さくらんぼ”なんて書いてあるし」

各機に貼り付けられている4ヶ月前の持ち主の名前。
黒い箱とその人の顔を結びつけたり。
名前を知らぬ人の顔を思い描いたり。
辞めていった人の今を思ったり。
無表情の機械から持ち主の日常や、性格を勝手に導き出してみたり。
その人とのある日の会話を思い出してみたり。

均一という名のもと、かつて箱に納められたものたち。
歳月とともにわずかばかりの表情をのぞかせる。
同じものは2台とない。

単純とも。
根気とも。
呼べる作業を楽しんでいる。

貝塚を掘る。
小さなスコップで地面をなでるようにしながら。
掘り出した石くれを洗う。
それまでにあった事実と結びつける。
ほどく。

考古学者というのは今のぼくみたいな心情なのかもしれない。

わずかばかりの材料の向こうに、
遠い昔を、見知らぬ人たちを見る。
だが、そこにあるのはわずかばかりの事実で、
それをつなぐのは人間という、勝手という、
第三者、傍観者というたよりない糸、意図にすぎない。

たとえつむぎ合わせたものが事実に近くても、
それは事実ではない。
事実ではあっても、
100パーセントになることはない。
たとえ歴史の当事者が編んだとしても。
そこに絶対公平となりえない人間というものが介在するかぎり。

刑事だって。
精神科医だって。
だれも知らない。



さあ、あしたも。
電車の前に座る男の顔をのぞきこもう。
夢の世界であそぶ。



人気の消えた先週までのオフィス。
遠い夏の日を思い出していた。
ポンペイ遺跡で陽にあぶられた日を。
潮干狩りに行きたいな。
地元では「キャー(貝)ほり」と呼んでいたことを思い出す。

海鳥につつかれた。
割れてしまった。
貝のかけらを見たい。
濡れた砂浜で。
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ドゥ、ドゥ、ドゥ

「んんっ......」
なんとか自分を押さえ込んでいるときがある。

下着姿の女性もそうだし、歩道に落ちている財布だって。
帰ろうと思っているのに店の人が出してくれたビールを前にしていたり。
ただ、幸か不幸かどちらにもなかなかお目にかかれない。
帰ろうと思っているのに店の人が出してくれたビールを前にしていたり。
これはたまにある。
行くとわかっているのに、飲みに行こうかやめようか、考えてみたり。
これはよくある。

「ドゥ、ドゥ、ドゥ」
やさしく。
気持ちを込めて。
馬の首をたたくように。
本能をなだめる理性。

そんなひとつ。
寝袋。

日ごろはほとんど忘れてしまってるのに。
いざ目にしてしまうと、
「ドゥ、ドゥ、ドゥ」
なかなか効かない。
テントもそうだ。

どうしてこうも寝袋は心に波を立てる。
長い間ホームレスをやっていたからではなくて、
そんな時代の前から。

ヘビー・デューティー。
そんなファッション、ライフ・スタイルが注目されたことがあった。
中学生の自分にはなかなか買えない高価なもので、
買えなかった恨みかもしれない。

いや、小学の頃から野生へのあこがれはあった。
『冒険手帳』
という、今で言うならサバイバル・マニュアルが、
近所の金善堂という本屋で買って宝物にしていた。

とにかく寝袋を見ると、
「ドゥ、ドゥ、ドゥ」



半年前も、
「ドゥ、ドゥ、ドゥ」

朝、濡れた歩道に落ちていた寝袋は、
帰宅するときには3mほど動いていた。
歩道にあったものが車道に停められたバイクの横へ。
親切な人が風に飛ばされたとでも思って、
元の場所へ置いてくれたのか。
バイクの持ち主がカバーと勘違いして、
かぶせようとして寝袋であることに気づいたのか。

3日間そこにあった。
80年代のNorth Face製。
まだファッション・ブランドでなかった頃のもの。
作りがちがう。

拾えなかった。
家の前の通り、アパートから50mほど。
近所の人の目が気になってしまって。
この10年間でだんだん縮んでいってしまっている自分を、
こんなところで感じてしまう。

電車やバスで、
たまに郊外へ出る。
長い、長い紙芝居を窓の向こうにぼんやりと見ながら。

「ドゥ、ドゥ、ドゥ」

「うーん、あそこなら冬でもいけるな」
「あの奥は道からは見えないはず」
「おや、あそこは間違いなく人が住んでいる」
「斜面がちょっときついかな」

茂みを見つけてしまうと抑えきれない。
テントを張るのに適しているかどうか。
ついつい評価してしまう。

習い性。
これはやはりホームレスの頃のくせが抜けないから。
ねぐら探しの目線。
こんな自分も時のやすりにかけられて風化していくのだろうか、いつか。



久々に寝袋を買った。
3週間前だけれど。
もちろん必要でもあった。
柄と作りを見て、
「ドゥ、ドゥ、ドゥ」
とうとう抑え切れなかった。
理性を寄り切る本能。

今日からは仕事場の片隅で1時間ほどの仮眠。
もちろんキャンプマットを敷いて。
ダンボールでもかまわないんだけど一応会社だから。

快適。
これでだいぶ楽になった。
残る3週間は何とか乗り切れそう。

「ドゥ、ドゥ、ドゥ」

ニューヨーク狂人日記


やっと帰って。
「ドゥ、ドゥ、ドゥ」
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ホンダラダラ

雨が多い。
やっぱり春なんだ、今は。

朝食のあと。
濡れたアヤメを見ながらたばこを吸う。
浮かんだのがこの言葉。
ホンダラ。

少し前にも蘇ってきたことがあった。
調べてみるとクリスマス前のブログに書いていた。
ホンダラ。

今日山をひとつ越える。
たいへんだ。
疲れてる。
息が切れてる。
頭の中も
でもあれを越えれば。

植木等の声が聞こえてくる。
ただ陽気に。
♪ひとつ山越しゃ ホンダラダッタ ホイホイ♪
なんとかいけそうな気がしてくる。
今日という日をやりこしてしまえば。

それでも歌はこうなっていくんだ。
♪越しても越しても ホンダラホダラダホイホイ
何をやっても ホンダラダッダホイホイ
だからやらずに ホンダラホダラダホイホイ♪

またすぐに山が立ちはだかる。
わかってる。
でも今はホンダラダッダ ホイホイ。
ホンダラでいこう。

何をやってもまたきつい上り坂がくる。
でも何かをやっていこう。
とりあえず今は。



ホンダラ。





あと少しで山を越えきりそうなときに。
右足が左かかとを踏んで。
こけた。
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Hourglass

落ちゆく砂の音をきいた。

今日も昼夜勤。
キャビネット向こうでは業者さんが作業中で。

“May I use your telephone?”
“Sure, go ahead.”

それなのに二言三言で切ってしまう。
と、思いきや。
空調音しかない部屋にベルが響く。
ああ。

携帯があたりまえになり。
一方で普通の電話は、
国内どこにかけても基本料金。
いつからだ?

他人の電話への障壁が下がっていた。
ちょっと前は意を決して、おそるおそる。
「あのー、電話お借りしてもいいですかぁ?」
電話を借りるのはお金を借りるのと同じだったから。
借金は断られることがある。

「貸してくれる」
気づかぬ確信に満ちるようになっていた。
「断ることないでしょ」
ここでも顔を出す「あたりまえ」。

「あたりまえ」の埋もれそうな習慣があった。
少なくともぼくの中では。
もう長いことこんなことをした覚えがない。
見かけた記憶もない。

そう、たしかに以前はあらかじめ番号を聞いておき、
相手が出たら手短に伝えてからかけ直してくるのを待ってた。
場所によっては「市外通話お断り」、
太い文字のおっかない貼り紙があったり。

年々電話がきらいになっていくせいかもしれない。
かけるのも、かかってくるのも。
携帯の普及で電話を借りることが少なくなったのもある。

考えれば色々な理由が出てくるのだけれど、
自分の中で消えかけていたことだけはたしか。
芯のところでもたついていたロウソク。
また炎に勢いがつきだした。
なくなろうとしていた砂時計。
だれかが上の管に砂を足してくれた。
そんな安堵感。

減っていく砂に。
砂があったことにすら。
気づくこともなかったのだから。
砂時計のあることも忘れていた。

ぼくの中には様々な、たくさんの砂時計が置かれていて、
こうしている今も少しずつ、少しずつ。
あり地獄のように吸い込まれていく。

落ちた砂はどこへいく。
小石を放り込んでも音もしないような穴でありませんように。
細くなった首の下にもちゃんと管がついてることを願うばかり。

そうして下の管がいっぱいになり、
砂の流れが止まったらまた小気味よくひっくり返そう。
あっちのも、こっちのも。
太陽は回りつづけるけれど、
砂時計はひっくり返さなければならない。



睡眠不足でぼやけた頭をすっきりさせてくれた数秒。
そろそろ砂時計をひっくりかえそうか。



あと2時間もすればスリッパはけるさ。
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Sloop John B: スリッパ意識不明

スリッパに意識なし。
形はあるけど。
気持ちは行き来しない。
「行き」すらもあるかどうか。

スリッパをはく。
無意識に。

靴を脱ぎ、鍵を開け、かばんを置く前に。
食卓に座り、箸を取り上げ、味噌汁椀を持つみたいに。
あたりまえのこと。
いや、それ以前の次元で帰宅からスリッパまではつながってる。

帰ってきた。
感じたり、考えたりすることはそんなにないけれど、
解放、そして守られた足が。
じんわり汗ばむ指の間が。
帰宅信号を頭へ送る。

スリッパははきものじゃない。
スリッパは家。



物心ついたころ家にスリッパはなかった。
ぼくは何で家を感じていたんだろう。
まあ、スリッパとはいっても、
玄関と台所でしかはけなかったけど。

初めてのスリッパはなんだかうれしかった。
パジャマの上に着せられたガウンよりも。
そのくせ最初のスリッパを覚えてない。
青いサテンのキルティング、
姉と色違いのガウンのことは覚えてるのに。
ともあれ、スリッパに意識があった頃。



昨年、人の家へあがるときいきなりスリッパを出された。

不意打ちを食らった。
もちろんこれまでだってそんな場面はあったんだろうけど、
記憶から欠落している。
そこにいる間中、その人の家を足の裏で感じつづけてた。
その感覚を今思い出した。

江戸時代。
草履や下駄の時代はどうだったろう。

若い頃は家の中で靴をはく生活にあこがれてた。
いざ、アメリカへやって来ると家で靴をはいた覚えがない。
慌てて忘れ物を取りに帰るときくらい。
家へ帰りスリッパをはくか、
帰る場所がなくて靴をはきつづけているかのどちらかで。

家で靴を脱がない。
外と内の線はどのあたりで引かれるんだろう。

もちろん、
ドアを開け、屋根・壁があり、家族の笑顔があるんだから、
そこに家を、家庭を感じるはずだけれど。

無意識の感じが渇かないんだろうか。
無意識だから気づかれないのだろうか。
スリッパの存在しない世界では気づくことすら気づかれない。

屋根もある。
ドアもある。
壁もある。

今日からしばらくの間、
スリッパを1脱ぐと19時間はけない。
持ってくればいいんだけど、
そんな気も起こらない。



ジュークボックスを見つけるとコインを落としこの曲をかけていた頃があった。
『Sloop John B』 The Beach Boys


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電話嫌いが持つ電話

本を裁断。
電子化していると、
19歳の少年の気持ちになってくる。

田舎に残してきたガールフレンド。
都会の美しい女。

新しいものが好きで、古いものを愛おしむ。
雪の中夏を想い、海水用で冬クリスマスの夢をみる。
二日酔いの次の日にまた飲んでしまう。
ウンコをするために食べている。
死ぬために生きている。
「機種変えようかな~」電話嫌いのくせに。



おれがそんなにもてるわきゃないよ。
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4階と6階のあいだで

4階と6階の間は?


転載ということをしたことはこれまで1度もなかったけど。
今回はちょっと。


■■■■■■■■■
「涙ふきなよ、またすぐ会えるからさ。大丈夫だって浮気なんてしないから……」
 女の寝顔を見ながら故郷に残してきたガールフレンドのことを考えていた。「大丈夫」。何度もつぶやきながら。うなずきながら。いや、自分にいいわけしてただけかもしれない。カーテンからもれる朝陽の下でまた手が伸びていく。
 そんな気分の今日このごろ。申し訳なさを断ち切ろうとする鉈。別れと未来、先にある不安。きっとコイツの方がいい、間違っちゃいない……。一方でたかまりつづける喪失感、懺悔の気持ち。でも、誘惑には、希望には抗いがたく、「だって」と正当化をする。
 隣で眠る女。聡明で美人で。でも、土壌が違うからなのか、噛みあわなかったりでなかなかむずかしくて。でもそこが面白く、かわいくて。〈左)から教えなきゃならないときだってある。苦心して見つけた「お茶碗持つ方」という説明を発してみれば右手を上げる。どうやらご飯のときだけは左利きらしい。「お箸持つ方」と言い直す。

 十年来心がけてるのは「物を増やさない」。かなり身軽な方だけど、いかんともしがたいものがひとつ。本。こればかりは。細胞のようにいつまでも増殖をくりかえす。
 いかんともしがたい。いかんともしがたい。加えてノート、メモ。いつ使うのか、ほんとうに使うのか神さえも知らぬ資料。売ったり、捨てたり、処分したりはしのびない。なにせ幼少時代、親のつけたあだ名がボロ屋。長じて古着屋になるのだから洒落にもならない。
 とにかく捨てられない。だから増やさぬ決意をしたのだが、本だけはいかんともしがたい。しかしもうパンク寸前で、このままでは広いところへ越そうにも左小指の先すらも動かせなくなってしまう。
 そんなわけの一大決心。自炊。いわれるところの紙の電子化に挑んでいる。ノート以外の大部分をデータ化してしまおうと。部屋の本箱を一個にしようと。
 なめてたな。実に甘かった。
 軽さがお気に入りのeリーダで読むためには最低二度はソフトで加工しなければならなかったりで、なかなかスムースにことは運ばない。でも優柔不断なぼくには、これくらいのスピード加減が案外調子いいのかもしれない。

 本の消えた部屋というのはどうなんだろう。爽快という風が吹きそうだけれど、足元には間違いなく喪失という空気が沈殿する。ふっ切れない男だ。触れる。そこにはゆるぎない安心感がある。隣に誰か寝ている。それだけで安心する。触れることがなくても、触れようと思えばそこにある。ぼくらはとんでもない岐路に立っているような気がしている。
 形あるものに永遠はない。古び、磨耗をしていくからこそ物として存在することができる。ものとは。出会い、そして別れのこと。無常、永遠、唯物、女、距離……。本の背を切りながら流れていく。
 また十冊買っちゃった。
■■■■■■■■■


さて4階と6階の間は?

答えはあした。
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The Weight

夜10時すぎ。
金曜夜。
夜の繁華街を歩く。
ずしり。
右手に不安定な重量を感じながら。

華やかに着飾った女たちに混じって。

だが、逆向きの流れを感じて。



金曜夜、仕事場へ向かうことに。
どうしてこんな場所にあるんだろう。
いや、どうしてここはこんな場所になってしまったんだろう。

昔も今もMeatpacking Districtと呼ばれるエリア。
今は肉を売る店はほとんどない。
ただこの近辺を夜歩いていると、
人間がただの肉塊にすぎないことを思わずにはいられない。
種々雑多な肉が歩き、叫び、ドラマを繰り広げ。

不安定にぶらさがる重さを手に職場へ戻る。
眠そうな目をした2人の男の働くサンドイッチ屋を出て。
30センチのサブマリン・サンドをぶら下げて。
忙しいランチタイムなら客からも、同僚からも、
怒鳴られそうなほどていねいに作ってくれたサンドイッチをぶら下げて。

ニューヨーク狂人日記


皿もない。
プラスチック容器にも入っていない。
ほぼ素のままの重さ。
これでけの重量が数分間で体内へと移動するのか。
あらためて考えてゾッとする。

$ニューヨーク狂人日記


地震が。火事が。津波が。
なにが起ころうと地球上にある重量というのは変わらないのだろう。
宇宙飛行士や鳥の体重程度しか。
常に形と場所を変えているだけで重さは同じ。
マグロが食べつくされても。
海亀が絶滅しようとも。

食前と食後。
今。右手にぶら下がる重量が自分の一部となる。
そうして数時間後にはまた元に戻る。
そうして数時間後には......。

いったいどっちが本当の自分の重さなんだろう。
そうして金曜夜、ぼくはこちら側にいるべきなのだろうか。
それともあちら側を歩いているべきなのか。
どっちにいてもそれほど変わりはないだろう。
食前の自分と、食後の自分ほどには。

あと3時間もしたら1.5キロ増える予定。
1.5リットルを摂取して。
1.5キロ前の自分、後の自分。
さて本物はどっち?

目指せ。
がんばろう。
1.5キロ増えるまで。

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