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ケニアのマトマイニ(希望)を育てる

1987年から30年続いたマトマイ二・チルドレンズ・ホーム。その卒園生達と共に、貧しさ故に子どもを困窮状態に追いやっているスラムのシングルマザーの自立援助に力を注いでいます。マトマイニ第2章の始まりです。

ジェーンは朝早くから夕方まで学校の用務員の仕事で忙しく、日曜の教会のミサが終わった後は、体の不自由な高齢者のケアーをする教会の活動に参加しており、日曜の夕方しか時間がないそうです。2人の子どもと一緒に会いに来てくれました。

 

コロナ禍で3年間閉鎖していたフェルト工房の活動を、今回のケニア短期滞在中に「小規模でもスタートしよう」という所まで何とか漕ぎつけることが出来ました。

 

3年前まで工房はセルフヘルプ・グループとしてケニア政府に認定され、乳幼児のベビーシッターさんも含めた22人がフルに稼働していました。

 

でも、今は羊毛加工部門のマグダリンとユニス。アニマル製作部門のラハブとポリーン。ボランティアのエテメシさんを加えると5名でのスタートです。

 

病気で亡くなったママが2名。他にはサウジアラビアやカタールに出稼ぎに行ったママ。遠い田舎の実家に帰って農作業しているママ。このオンガタロンガイの町に住みながら、「他の仕事が入ったから、もうマトマイニには行けない」というママ。みんなコロナ禍の中懸命に家族を守りながら生き抜いてきたママ達です。

 

マグダリンとユニスとラハブは面接した時、「直ぐ来ます」と即決でした。ポリーンは週に2日入る他の仕事を続けながらの2刀流です。

 

大ベテランのジェーンとモニカは、まだ正式に「戻って来て」とは言えません。日雇いをしている中、やっと手に入れた学校の仕事は決して楽ではないとはいえ、勤勉な仕事ぶりを認められ正式な職員として雇用契約を結んだばかりの2人は安易に辞職する訳にはいきません。

 

小規模で始めてみて必ず進めて行くから、一緒に仕事をしようね。3,4ヶ月待って、との約束を私は守らなければならないのです。

モニカにピーナッツバターを注文しました。以前から自宅で作っていたのですが、今は忙しいので、注文がある時だけ作るそうです。次女と一緒に配達に来てくれました。

 

 

 

マトマイニの夜もあと1晩。久しぶりに停電でロウソクの灯で夕食を終えました。木々を飛び回る小動物のギャーという鳴き声が暗闇に響きます。あの動物の正体は何なのか?スティーブンいわく、「鼠より大きい奴だ」とか。きっと6年前に出会った、あの幻のアフリカ鬼鼠だろうと勝手に想像しています。

 

「ここは空気がきれいです」とマスクを外して笑顔を見せて下さった訪問者は、マクセル・ムセンビ氏です。プロのランナーとして活躍中、マトマイニの子ども達のコーチをして下さったことを私は忘れ得ません。今も毎日25キロは走って体を鍛えておいでだそうです。また、食養学にかけても卓見をお持ちでいろいろ教わりました。最後に一つお聞きしたかったのは、「日本に住んで、日本の食べ物でベストとお思いなのは何ですか?」「納豆です」そうか、と修三と顔を見合わせた次第です。

「うわあ、チャンピオンだって」キンキンは尊敬の眼差しでマクセル氏を見上げてます。

小規模ポレポレで始めたフェルト工房の、原毛を洗って染めるママ達の作業を見て頂きました。マクセル氏も日本への帰国前でご多忙の中、遠路はるばるおいで下さったのです。

 

苗木作りもしたいなあ、と語るカマウ君(写真右)。3人の娘さんの父です・

今は深い森になったマトマイニの木々のほとんどを植えたのは、孤児院一期生のカマウ君です。近所に住んでいる彼は小規模ポレポレで有機農業も始めたいと言ってますが、手始めに壊されたフェンスの修理を担当し、その作業を腰痛の私は「お願いします」と頼んでマトマイニを後にします。次回には一歩も二歩も進んだマトマイニを見ることが出来ると信じて。

 

 

ご心配をおかけした足腰の痛みは鎮痛剤で抑えながら、ソロリソロリと動いてます。

 

ケニアを発つ日が迫って来て、フェルト工房の再開に向けて少しずつ事が動き始め、普段は静かなマトマイニに賑やかな会話や笑い声が 響いています。

今週は、3人のママが大掃除と機材や材料の状態を調べに来ています。キンキンも一緒です。

ママ・ムクブワ(ビッグマム)と背の高い男性が私に呼びかけてきました。先般足を運んだマサイ・マーケットのザンギ君です。

「菊本さ~ん」と元気の良い声は、ママ・カマウこと恵子さん。ザンギ君と恵子さんが会うのは何年振りでしょうか。

2001から7年間実施したILCP貧困層の生活改善プロジェクトで、恵子さんと私はナイロビのスラム住民対象の活動を共にしました。マトマイニのカマンデ氏もザンギ君もマザレスラムの住民で、その当時からの長い付き合いです。話は尽きません。

持ってきた作品をその場に並べ、ミニマーケット。恵子さんにも選んでもらいました。

「夏はトルコ石入りのバングルなんかいいかも」

 

「ところでザンギ君、何歳になったの?」

「57歳。孫が3人」

 

今はマザレを出てジュジャという町に住み、週3回マーケットに出店し、あとは自宅で地域の若者達にアクセサリー作りを教えているそうです。ペンチ一本で生きる姿に付いて来る若者も多いのでしょう。

 

 

ラハブさんとポリーンさん姉妹は、キリンとシマウマ作りのベテランです。フェルトアニマルの中で最も売れ目のアニマルですから、この2人には「今、どういう生活をしているの?」「再開すると決めたら、戻って来れそう?」と聞いておきたかったのです。

 

子連れで来てくれました。ラハブさんの娘のホープちゃんはズンと伸びていました。

「あれっ?」ポリーンさんは小さな男の子を連れているではないですか。

「キンキンって呼んでやって」 キンキンは人見知りもせずホープちゃんと走り回わります。もうすぐ3歳とか。

 

ということは、コロナ禍で工房を閉めた2020年3月に、ポリーンさんのお腹にキンキンが居たのかな。ふむふむ。思い起こせば、当時ポリーンさんはお母さんの介護で疲れ果て、亡くなった時にはガックリと疲労困憊の様子で、よく机に臥せて気分悪そうにして、遅刻も早退もありました。その頃は生産性も落ちていました。

 

でもあれは、もしかしたら妊婦さんの辛さもあったのかもしれない!今は元気になった親子を見て納得した次第です。目下、週に3日のパートの仕事をしているとかで、空いている日は工房の機材や材料を調べるためにマトマイニに来てもらいます。キリン・シマウマ作りのママ、復帰するかも知れません。

マトマイニに着いて水無し生活に閉口していた日曜の朝、起きて外を見たら見慣れない車がアカシアの樹の下に止まっていました。「誰かしら?こんな朝早くに」と訝っていたら、車の中からシナイ君とポリーン夫人、1歳半の幼い娘の3人が現れたのです!

 

「サプライズだよ」とにっこりするシナイ君。100キロ以上離れた遠いカジアド西部の町から、朝5時起きで、車をハイヤーして来てくれたのです。水無しのマトマイニですが、大干ばつで家畜の90%が死んでしまったマサイの人々の暮らしを思いやると、雨水があるだけで何と幸せなマトマイニか、文句は言えません。ポリーンさんは、「あの干ばつで家畜は死んだけど、私達の町では餓死者は出さなかったのよ」と誇らしそうでした。

 

話すことは山ほどありました。短大を卒業し、会計学を学んだポリーンさんは、学んだことをしっかり生かし、地元で小さなお店を開き、ウガリ粉や砂糖、小麦粉などの食糧を売って、今では大繁盛で店員も雇っているとか。

 

「最初はこれでやっていけるかと心配したけど、5シリングでも10シリングでも売り上げがあれば、必ず次へ進めます。チリも積もれば山となるっていいますよね」と自らのビジネスの体験をとうとうと語るのです。淀みないきれいな英語です。私の質問にも真剣に細かい事例を引いて、丁寧に答えてくれます。バリバリのビジネスウーマン。

 

シナイ夫妻が良き指導者として地域活性化に努めているのは確かです。

1昨日から夜は雨です。屋根から樋を伝って大きなタンクに流れ入る雨水の音を聞くのはマトマイニに来て初めてです。川の水を水道管理会社が浄化して回すため、水道の蛇口から水が出ます。乾季に川が干上がる事態が起きるまで、何とか少量の原毛を洗ったり染めたりするのは出来そうです。

 

コロナ禍で需要と供給のバランスが崩れ、一時、危機に陥っていた羊農家は、ヨーロッパへの原毛輸出が急増しで高値で売っているようです。高値でも調達できるかどうか、まず少量で注文をしてみる話を進めています。

 

フェルトアニマルの芯に使うスポンジは、Bobmilという大手の会社から購入していましたが、4月21日夜、この会社の工場が原因不明の火事で焼け落ちました。連絡すると「在庫あり」との返事なので、少しだけ購入し、品質と値段を確かめます。

 

さて、肝心の作り手であるママ達。コロナ禍で彼方此方に散らばっています。遠くはサウジアラビアやカタールに出稼ぎに行ったママもいます。フェルト工房で働いていた頃より、良い稼ぎを得ているママもいるはずです。

 

「さあ、直ぐに仕事を始めましょう」とは言えず、「まだ情報を集めている段階だから、うまく行きそうなら工房を小規模でスタートしたいの、その時戻って来れる?」と聞き込みをしているところです。

 

皆の主食であるウガリ粉が3年前の2倍の値段になっているこのご時世。フェルトアニマルの値段も前と同じではなくなるということです。

かわいいアニマル作りが得意で商品開発にも貢献していたジェーン。

今は私立の小学校の用務員の仕事をしています。

「アニマル作りが大好き」 チータとライオンを手に持って。

 

フェルトボールのキーホルダーやアクセサリーでは誰にも負けない腕を持つモニカ。

今は、教会が運営する小学校の先生です。

「仕事は家にも持ち帰るほど大変。休む間もなく働き詰めでプレッシャーに押しつぶされそう」とか。

雨水でトイレとシャワー(行水かな?)を済ませ、5リッターのミネラルウォーターをケチケチ飲食に使っていた水無し生活でしたが、1昨日、上水道のマジ(スワヒリ語で水)が蛇口から出てきたのです。

 

この辺りの水源はマトマイニの下方を流れるバガシ川です。

 

川に水があるのに、マトマイニに水が来ない元凶は2つありました。夜こっそり石や土砂をマトマイニの隣の空き地に捨てに来る(違法)ダンプカーの重みで地下に埋めた太い配水パイプが破損してしまったこと。もう一つは、敷地内の細い配水パイプをドロボーが盗んでしまったこと。

 

カマンデ氏が大きい男の子と一緒に一週間かけて直してくれました。ありがたや!水が流れる音を聞くと幸せ気分です。

 

左からカマンデ氏、スティーブン、アイダン、ギルバートと近くに住むOBのカマウ。

 

でも、乾季になると、どうなることやら? まだ大雨季シーズンなのになかなか雨が降らない青空を見上げているところです。

 

足元を見ると、マトマイニの庭の草々や花々が雨季のお花畑とは思えない乏しさです。だんだん乾いているのです。それでも、あちこちに懐かしい顔が見えます。「まあ、厳しい乾季にもめげす、よく生き延びていたわね」

 

英名Foxglove「狐の手袋」の一種。表土の薄いサバンナ地域に広く分布し、乾くとサッと姿を消し、雨が降るとサッと咲きそろうと説明がある。ほんと、夜、小雨が降った翌朝には真っ先に顔を見せたけど、晴れ続きの今はもう見えない。2度と会えないかも。

 

 

ケニアは大雨季です。この時期には豪雨で道がグチャグチャになり、悪路で名高いガタカロードが通れるか心配でしたが、何とかタクシーでマトマイニに辿り着きました。

 

3年振りのマトマイニ。留守を頼んでいたカマンデ氏がゲートを開けました。

 

積もり積もった3年分の埃は、まあ、大変なもので、寝るスペースを作るのが精一杯です。

 

問題は山積みですが、目下の最大の課題は「水がない」ことです。大きなタンクに溜まった雨水を使いますが、カマンデ氏や大きい男の子達は「雨水はナチュラルだ」と飲んでいます。修三と私は料理用にはミネラルウォーターを買い、トイレとシャワーは雨水を汲んでます。究極の節水生活です。

 

雨季とはいうものの、ケニアに到着して以来、まともに雨が降ってません。このまま乾季に入るのでしょうか?

 

毎日、卒園生や知人友人が訪ねて来ますが、「英語の試験を受けにナイロビに行くので、マトマイニに立ち寄ります」とメールをくれたのはマーガレット。

電話が来ました。

「今、試験が終わったのでマトマイニに向かいます。お土産は何がいいですか?」

「5リッターの水を買って来て」

「分かりました」

水の他に果物やパン、ケニア製のラーメンなど、手土産を沢山持ってマーガレットが会いに来ました。

彼女はこの試験に合格したら、アメリカに家族で移住する予定です。

           

マーガレットはケニア最大のミッション系の総合病院の看護師長として働いていますが、さらなる高みを目指しています。

カマウは有機農業のコンサルタントとして独立して仕事をしており、マトマイニの近くに住んでいます。草ボーボーの畑を何とかして、と相談しているところです。

ケニアに着いてマトマイニに入る前に、ナイロビの町の様子を見て回りました。賑やかだったビアシャラ通りは数軒の店が開いて客足もチラホラ。シャーさんの店に寄ってみたら「叔父はロンドンに行ったよ」と代替わりしてました。子ども用品の新しい店が増えてました。この国は赤ん坊が次々と生まれてるんだなあ!

 

写真右が閉鎖されたヒルトンホテル。キマチ通りにはケニアの独立の勇者キマチ氏の銅像が立っていて、台座の下をねぐらにしていた男性が居たのですが、今は中に入れないようになってます。彼はどこで寝てるのかな?

 

インターコンチネンタルホテルなど五つ星ホテルの殆どは閉鎖され、静かなヒルトンホテルの一角に位置するバブさんのお土産物店だけが賑わっており、店内はてんてこ舞の忙しさ。

「やあ、キクモト」「はい、バブ、また別の日に来るわ」と挨拶だけしました。

 

マサイ・マーケットには顔なじみのザンギ君がいて、冷たいスプライトを奢ってくれました。あまり詳しい話はしませんでしたが、並んでいる作品を見ると、コロナ禍でも創意工夫を重ねて生き延びたザンギ君の心意気に感じ入りました。

 

 

ザンギ君は、かつて高級工芸品店で働いてましたが、店が倒産した後、自立したアクセサリー作りの職人です。30年来の友人です。

 

バブさんの店とマサイ・マーケットの喧騒にはホッとしましたが、道を歩くと物乞いが待ち構えてしつこく付きまといます。いつもの風景が戻ったのですね。

2020年4月カタールのドーハ・ハマド国際空港を経由して帰国しましたが、コロナ禍で閑散としていた空港は、今回は見違えるように豪華絢爛。彼方此方にド派手なモニュメントがありました。

 

フードコートの近くのキラキラの木。

 

エアライン・オブ・ザ・イヤーで6度受賞したこの空港は、拡張工事が進行中で、ケニア行きのC56ゲートは,空港の端っこで遠いため空港内のトレインを使い移動します。

 

トレインは空港の2階を走っており、銀河鉄道みたいです。

 

Cゲート付近は、まだテレビも椅子も包装が解かれてないピカピカの真新しい物でした。

 

このCゲートの地階に、「うつぼかずら」が絡まる木々が生い茂る深い森があるのです。

 

 修三が「見て!」と上を指さしたのは、この森を覆うガラス張りの天井。うつぼかずらも花も木々も、人の手をかけ作られた人工の森だったのです。「もっと驚くよ!」と言われて見上げると、機械を使って3人の男性が天井のガラスを拭く作業が進み、地上には指示する人がいるのです。

 

 

 首が痛くなるほど作業を見上げていたら、若者3人が通りかかりました。スワヒリ語をしゃべっている!「何処から来たの?」と話しかけたら、「ケニアだよ」とニッコリ。「この森の植物に水をやる仕事をしてるんだ」

 

そういえば、税関や手荷物検査場、フードコートの料理人や給仕人等、空港の仕事は、ケニア出身の若者が90%を占めているのではないかと思う程多いのです。

 

有り余るお金があって、世界一の空港作りにケニアの若者を雇用しているカタール。ここは日本ともケニアとも違うアラブの国でした。