新たなる発見
引き続いて戦時資料の調査をお休みの日に行っています。
先日、星型エンジンのマウントを民家の裏庭で発見しました。
調査をしている話をしていたところ、飛行機の部品があるよとのお話を聞き行ってみました。
戦後70年も外に放置してあったのに 良い状態を保っています、特殊な金属で作られて
いるのでしょうか?
星型エンジンとは、零戦や隼に搭載されていたエンジンです。エンジンをボデーに取り付ける
為の懸架をマウントと言います。
写真の赤い部分です


こんな形です


専門家が見れば、 サイズから飛行機を特定できるでしょう。

今後、機種を特定するために専門家に調査をお願いしたいと思います。
長良川の恵み
いただきました
今日捕れた、長良川 天然アユ
塩焼きにすると、長良川の香りが漂います。
たくさん 飲みました



尻尾を取って、頭を引っ張ると、ズルズルと背骨が抜けます、これぞ、天然アユ
中骨は愛犬のところへ行きます。



こちらは イカの沖漬け 塩加減が最高です

お酒は 清酒長良川 小町酒蔵 長良川の伏流水で造られています。
天河長良川 小町酒蔵 岐阜県各務原市

たまりません
ありがたいことです。
残りのアユは後日、甘露煮で頂きます。(^-^)/
各務原空襲
現在は畑に戻されていますが、当時はこの場所に飛行機を格納する、無蓋掩体壕が多数
作られており、その中に 飛行機が格納されていました。
民家の壁に残る弾痕から
弾丸の入射角度は8.1度 方位355度です。

戦後、農作業中に畑の中から回収されたもの、薬莢と弾丸は別々に回収されて、セットされたと思われます。
市内の農家にはまだ多くの銃弾や薬莢が保管されているものと思います。

各務原空襲(7月30日) クリック→ 本文 記事は こちらです
8月13日 開催中[戦後70年特別企画展」 戦時遺跡探訪野外セミナーで
参加者24名の方を南山大学名誉教授伊藤秋男先生とご案内しました。
8月14日岐阜新聞県内版で紹介されました。

各務原空襲
民家に残る弾痕(昭和20年7月30日)
艦積機による攻撃、グラマンF6F-5とアベンジャーTBN3
市内の民家三軒に残された、戦争の爪跡「壁に残る弾痕」
かって調査された民家の弾痕以外に二軒のお宅に弾痕が残っていることが、この2年間の調査でわかりました。あらたに見つかった弾痕のうちの一軒についてご主人(当時13歳)と近くにお住まいの方から聞き取り調査を複数回実施しました。当時小学校高学年の複数の方の証言が得られて、信憑性が高いと思われるこの証言について更に調査を行いました。
壁に残る弾痕は一発で、2部屋と柱を貫通して窓の敷居で止まっていたそうです。
残念ながら弾丸は紛失して見つかりませんでした。
このお宅のご主人は当時、学生で前日から母親と在所に出かけていたが、帰ってきたらこうなっていたと証言されました。このことから、学校は夏休みか休日だったことがわかりました。また、直ぐ近くの当時12歳だった方は、当日は夏休みが始まって少し経った日で、近くに居て凄い音がして、低空で飛行機が飛び去り、空気が熱かったと証言されました。「もうちょっとで死ぬとこだったわ」とも
空気が熱かったのは、銃撃で低高度まで降下した戦闘機が急上昇したおり、地上付近に吐きつけた排気ガスだったのでしょう。
複数の証言から7月下旬と推定しました。
また当時17歳だった女性は山の稜線をかすめる程の高度で進入した戦闘機が民家を銃撃するのを目撃した。被害にあったのは現在、電気店を経営されておられるお宅であったと、また近くの民家が銃撃により出火して全焼したけど次から次からと来襲する敵機により誰も消火活動は出来なかったと当時の緊迫した状況を証言されました。この消失した民家については多くの方が語っておられました。
銃撃の様子を語る当時17歳の女性
平成11年3月に発行された、「各務原市民の戦時記録」によれば昭和20年7月30日の午前中にグラマンとP51戦闘機が市内を銃撃したと記載されています。
これらの、証言と記録から、銃撃は昭和20年7月30日の午前中と推定しました。
壁に残る、弾痕の入射角度と方位から、米軍戦闘機が北の方角、芋ヶ瀬池上空付近から進入し銃撃したことが判明しました。入射角度は8.1度でおよそ700m手前で高度100mとなります。電子コンパスで測定した方位は355度でほぼ真北の方角です。延長線は伊木山の稜線のすぐ西側にあたります。
かねてから、銃撃した戦闘機の特定ができないかと、調査していましたが、今年になり、国立国会図書館のデジタルコレクションの中に開示されている占領軍関係の資料の中から、米軽空母「ベローウッド」の日本本土最終攻撃報告書1945年7月1日~8月15日分を発見し、各務原攻撃の記載があり、同空母の7月30日の飛行活動報告書も見つかりました。(報告書)
これらの報告書はアメリカ国立公文書舘から1986年3月26日に開示されたものです。
同空母は昭和20年7月1日から終戦時まで第3艦隊に所属し38.1任務部隊として
日本本土への最終攻撃の命を受け、北海道から、徐々に南下しながら各地の飛行場を攻撃していました。7月30日の早朝、伊勢湾のすぐ南の海域に到達し、午前7時30分に戦爆雷連合13機を発艦させました。各務原飛行場から南南東235キロの地点です。
太平洋上の空母ベローウッド位置(1945年7月30日)
この飛行活動報告書からグラマンF6F戦闘機7機、TBN3アベンジャー攻撃機6機が市内を攻撃したことが判明しました。
これらにより、銃撃が昭和20年7月30日(月)の午前中であったことが確定しました。
さらに、硫黄島に展開していた、米陸軍第20空軍第7戦闘機集団の戦闘記録によれば7月20日以降各務原飛行場への攻撃記録はなく、この記録も断定の決め手となりました。
空母ベローウッド戦闘日誌 日付 1945年7月30日
1ページ(攻撃機の種類や搭載兵装、信管の設定時間か記載) 最初の欄、F6f-5とはグラマン「ヘルキャット」戦闘機、しかもタイプー5は防弾強化タイプです、7機出撃して250キロ爆弾1発を懸垂、弾頭信管0.2秒遅動設定、弾底信管0.1秒遅動設定となっています。これは、当たってから建物内部に侵入し爆発する設定です、内部で爆発することにより破壊を大きくします。さらに翼下には6発のロケット弾も搭載していました。下の欄、TBN3アベンジャー攻撃機は爆弾倉に12発の50キロ爆弾を搭載していました。
2ページ(損害や使用した弾丸の数が記載)
3ページ(エリアごとの攻撃成果や気象条件が記載)
添付されている「見取り図」 現、鵜沼各務原町9丁目、アピタ各務原店、各務美濃高校の東付近です。エリアごとの攻撃対象飛行機や日本軍の対空火器の種類や位置をを記載)
右下には、単発機と双発機の詳しい配置が書かれています、また 練習機やダミーとの記述もあります。畑の中に作られていた掩体壕や誘導路が詳しく書かれています。
楕円のマル印にあった飛行機を銃撃した、流れ弾が当たったと思われます。
4ページ
写真ー1 (民家の玄関土間 東側に向かって撮影) 弾丸の入射角度は8.1度で、700m手前で高度 100mとなる写真、左側の 補修された壁の反対側の内張りを剥がした映した写真です。
更に手前の部屋では、柱を貫通しています、弾丸の持つ高い運動エネルギーがわかります
空母ベローウッド戦闘日誌 日付 1945年7月30日
報告書内容は下記
銃撃の想像図(各務原町のビル屋上より東方向を撮影)
丸子山から北方向を撮影
空母ベローウッド活動報告書まとめ文 (1945年7月1日から8月15日までうち7月30日分のみ)
艦橋には208個のスコアーらしきマークが書かれています。
NO 22 1945年7月30日
発艦は7時32分(現地時間)
上記解読文
翻訳は友人に対応していただき、軍事用語については、私が担当した。
70年前に書かれた米国語であり、しかも軍事用語が使用されているため
不自然な部分や解釈の違いはご容赦ください。
文中の日本軍戦闘機名は米軍報告書をそのまま翻訳したので不自然な点もあります。
文中の写真は国会図書館から開示されている物を使用した。
70年の歳月は最終確認を困難とさせている。
この件は現在も休日を利用して調査を進めており、今後の調査により記事の加除も考えられます、ご理解ください。
飛燕の部品(キ61三式戦闘機 NO2(2014.11.05)
自分なりに少し調べてみました。
シリアル№が331と刻印されているので、2950機ほど生産されて内の331号機となります。番号は101からかもしれない。

当時のオリジナル塗装が確認できます。
川崎航空機工業 岐阜工場で生産された当時の状態をよく保たれています。
ペイントの刷毛で塗った跡も確認できます。
資料としては 一級品でしょう。


この機体がNO331ですから、同盟国であった ドイツからヒトラーの好意により
800門ほど輸入された MG151 モーゼル20mm機関砲を搭載していた機体でしょうか?
(MG151機関砲は潜水艦により800門 弾丸40万発が輸入されました。)と本に書かれていましたが、潜水艦にこんなに沢山、搭載できるとは思えない。
(同盟国軍である日本陸軍航空隊にも約40万発の弾薬と合わせ、「マウザー砲」の呼称で800挺が潜水艦で輸入され、三式戦闘機「飛燕」一型丙に搭載された。マウザー砲は1943年12月初旬に当時の最前線であるニューギニアはウエワクに展開する飛行第68戦隊や第78戦隊、上級部隊たる第14飛行団の各「飛燕」装備部隊に、補充機を兼ねたマウザー砲装備済みの新鋭機十機と、予備砲を含む現地機への取り付け改造用の砲が九七重爆3機にて工務員同伴で空路にて送られ、階級を問わずその部隊のエース・パイロットたる操縦者達に優先的に割り当てられた他、飛行第244戦隊や第56戦隊といった日本本土防空部隊にも配備された。 日本におけるマウザー砲の評価としては、「B-25爆撃機の左翼がバタンとへし折れた(内翼部に命中時)」「貫通砲弾の出口に直径1m程の大きな風穴が空いていた(撃墜し海岸に不時着した敵機を見て)」といった、従来の日本陸軍機装備の航空機関砲を凌駕する強力な破壊力、初速も高く狙ったところに一直線に飛ぶ弾道性能や命中率の良さ、装填不良や二重装填も計器のボタンを押すだけで回復し、油圧式でなく電気式による信頼性の高さから、歴戦の操縦者は勿論全操縦者達から異口同音に絶賛され、数に勝り防備も固いアメリカ軍戦闘機や爆撃機相手に遺憾なく力を発揮した。
なお、日本海軍も1943年末にMG151/20を2挺輸入したものの、この時期にはMG151/20と(あくまでもカタログデータ上ではあるが)遜色ない性能を有する九九式20mm二号機銃四型の量産が軌道に乗りつつあり、九九式20mm二号機銃四型の改良型やより強力な5式30mm機銃の開発も進んでいたためか、陸軍ほど興味を示さず、実用機に搭載した記録も残っていない。
先述の日本陸軍に正式に供与されたマウザー砲の整備は飛行戦隊に付属する武装担当の整備班に手に負える物でなく、元より現地の整備隊で迂闊に分解する事すら厳禁とされていた他、MG 151/15を鹵獲したアメリカがこのコピー生産を試みて製作されたのがロック・アイランドT59E1 60口径(15.2mm)機銃だが、約350挺が製造されたものの精巧な機構を完全にコピー出来ず製造不良に悩まされ、結局は破棄することになった。)
終戦間際までMG151が各務原にあったとは思えないから ホ3とホ5搭載機体でしょう。
この戦闘機の元となったのは ドイツのME109(メッサーシュミット)です。
2機輸入されて研究され、 コピーである 飛燕戦闘機が作られてと記述があります。
残念ながら当時の日本の技術では、ドイツの最先端技術で作られていたエンジンは
完全にコピーできず 最後までエンジントラブルに泣かされます。
ME109は 燃料供給はキャブレターではなく噴射ポンプが使われており
エンジンはV12気筒で、現在のV型を逆さまにした形になっていました。
先日、発見した 飛燕戦闘機のタイヤ こちらも、頂きました 野外にあったわりには保存状態は良い
頂きましたので、展示できればと思っています。
発見者の私としては、両方ともしかるべき場所で末長く保管して頂きたい。
四式戦闘機「疾風」 旧陸軍戦闘機の情報2014.12.28
鹿児島県の知覧特攻平和会館に展示されていた、旧陸軍戦闘機「飛燕」が
持ち主である、日本航空協会に戻されて修復されるという記事が11月26日付けの
「南日本新聞」に掲載されていました、この機体はかって「航空自衛隊各務原飛行場」で
保管されていたものです。生まれ故郷である川崎重工岐阜工場で修復されるのでしょうか?
その後、各務原市内で展示公開されるのでしょうか?
南日本新聞11月26日号記事より

また、雑誌「丸」には旧陸軍戦闘機「疾風」の部品発見情報が掲載されていました

記事は

上の写真と同時期と思われる 管理人が1975年に撮影した写真(栃木県の富士重工工場にて) 里帰り飛行の直後、特別に見学させていただきました。

操縦席の管理人

操縦席内部は黒のつや消し塗装がされていました。
排気管の出口がつぶされています、これは排気ガスの放出を利用したジェット効果を
ねらって速度を上げようとしたものです。出口の丸いのはオリジナルではないように
思います。(この機体は現在、鹿児島県知覧特攻平和会館で展示されています)
平成26年9月に各務原市内で発見した、四式戦闘機「疾風」のタイヤです
荷車のタイヤに変更されていましたが、ほとんど使用されなく、倉庫代わりの屋根裏部屋に保管されていました、保存状態は最高です。

全体に保存状態がよく、空気を入れると、使えそうな感じです。
オリジナルの疾風のタイヤは始めてみました、かって 富士重工の飛行場で見た疾風の主車輪は、グッドイヤーに換装されていました、飛行のために交換が必要だったのでしょう。
→ 発見時の記事 →
久しぶりの長良川 7.06
郡上にお米を取りに行ったので、ついでに釣りをしました。
自販機でミミズを買って、先日の場所に行きました。
明るくなって、よく見ると、対岸にはルアーマン、上流にはエサの方が一人
下流にもエサの方がやっておられました。
昨日は、日曜日だったので、この場所もよく攻められている感じです。
大物らしきアタリが有ったがフックしませんでした。
エサのミミズが超小さい、マー 300円だから、こんなものか? と
良く見ると、はるか上流に友人らしき車が停まっています。
連絡をすると、ただいま終了ですと、友人から、ミミズを頂き、場所を移動。
アマゴ狙いに変更して、水深のある平瀬を3時間攻めました。

瀬の流れ出し


チビアマゴのエサ取りとの対決に勝って、良型のアマゴをゲットしました。
第1ラウンドの大型アマゴ


大型の魚は釣れなかったが「長良川」を久しぶりに楽しみました。
竿 1番3番骨折修理エアマスター85-90 85で使用
糸 天 1号 下4mフロロ0.8号 オモリ4B2個 針カツイチS
エサ ミミズ2匹
今夜は煮付けで 頂きます (^∇^)


山茶碗
畑の中から出土した、一品「やまちゃわん」
本日は、ペテン師君と上流部で大掃除の予定だったが、昨夕から腰の調子が悪い、一日中、冷房の中で座って仕事をしていたので、腰が冷えすぎたのでしょうか?
前から、やってみたかった、畑の中から出た「やまちゃわん」でお酒を飲んでみました。
市内の東部で行われている、砂利取りです。
下の砂利を取る為に、一時的に畑の土が積み上げられています、この中に多くの陶器のカ
ケラや石器があります。
この場所は周りより少し高くなっており、平安時代から江戸時代にかけて
お寺や住宅があったと考えられていますが現在は畑となっています。
一時的に置かれた土の山です。

ここで見つけた「山茶碗」で日本酒を飲んでみました。
多分、使われたのは1000年ぶりぐらいでしょう、本来の目的は オカズを載せる皿だった
ようです。
どんな方が使っていたのでしょう、空想は広がります。


と考えられているお皿のことです。
表面には自然釉が出ています。
したがって、この茶碗は焼かれる時に上の方にあったと考えられます。
裏面にも多くの情報が入っています。
裏側の模様、残った 無数のスジから、右回りの回転ロクロで作られて、最後に回転台から
切り取る時に使われた糸の跡が残っています。
画面、上から少しずつ下に向かって切り取られ、最後にシュッと ?やった跡です。

至福の一時、これ以上の贅沢はないでしょう。
この茶碗は今度の会の飲み会に持って行き、希望者の方に使っていただきたいと
思っています。
最終的には市の史料館に寄贈する予定です、文化財ですかね
今期の釣りは あと一回は行きたいと思っています。