各務原空襲  | 長良川 大好き 釣り blog        

           各務原空襲 

 
          民家に残る弾痕(昭和20年7月30日)
   艦積機による攻撃、グラマンF6F-5とアベンジャーTBN3

市内の民家三軒に残された、戦争の爪跡「壁に残る弾痕」

かって調査された民家の弾痕以外に二軒のお宅に弾痕が残っていることが、この2年間の調査でわかりました。あらたに見つかった弾痕のうちの一軒についてご主人(当時13歳)と近くにお住まいの方から聞き取り調査を複数回実施しました。当時小学校高学年の複数の方の証言が得られて、信憑性が高いと思われるこの証言について更に調査を行いました。

壁に残る弾痕は一発で、2部屋と柱を貫通して窓の敷居で止まっていたそうです
残念ながら弾丸は紛失して見つかりませんでした。

このお宅のご主人は当時、学生で前日から母親と在所に出かけていたが、帰ってきたらこうなっていたと証言されました。このことから、学校は夏休みか休日だったことがわかりました。また、直ぐ近くの当時12歳だった方は、当日は夏休みが始まって少し経った日で、近くに居て凄い音がして、低空で飛行機が飛び去り、空気が熱かったと証言されました。「もうちょっとで死ぬとこだったわ」とも
空気が熱かったのは、銃撃で低高度まで降下した戦闘機が急上昇したおり、地上付近に吐きつけた排気ガスだったのでしょう。
複数の証言から7月下旬と推定しました。
また当時17歳だった女性は山の稜線をかすめる程の高度で進入した戦闘機が民家を銃撃するのを目撃した。被害にあったのは現在、電気店を経営されておられるお宅であったと、また近くの民家が銃撃により出火して全焼したけど次から次からと来襲する敵機により誰も消火活動は出来なかったと当時の緊迫した状況を証言されました。この消失した民家については多くの方が語っておられました。
銃撃の様子を語る当時17歳の女性


平成11年3月に発行された、「各務原市民の戦時記録」によれば昭和20年7月30日の午前中にグラマンとP51戦闘機が市内を銃撃したと記載されています。

これらの、証言と記録から、銃撃は昭和20年7月30日の午前中と推定しました。

壁に残る、弾痕の入射角度と方位から、米軍戦闘機が北の方角、芋ヶ瀬池上空付近から進入し銃撃したことが判明しました。入射角度は8.1度でおよそ700m手前で高度100mとなります。電子コンパスで測定した方位は355度でほぼ真北の方角です。延長線は伊木山の稜線のすぐ西側にあたります。

かねてから、銃撃した戦闘機の特定ができないかと、調査していましたが、今年になり、国立国会図書館のデジタルコレクションの中に開示されている占領軍関係の資料の中から、米軽空母「ベローウッド」の日本本土最終攻撃報告書1945年7月1日~8月15日分を発見し、各務原攻撃の記載があり、同空母の7月30日の飛行活動報告書も見つかりました。(報告書)

これらの報告書はアメリカ国立公文書舘から1986年3月26日に開示されたものです。

同空母は昭和20年7月1日から終戦時まで第3艦隊に所属し38.1任務部隊として

日本本土への最終攻撃の命を受け、北海道から、徐々に南下しながら各地の飛行場を攻撃していました。7月30日の早朝、伊勢湾のすぐ南の海域に到達し、午前7時30分に戦爆雷連合13機を発艦させました。各務原飛行場から南南東235キロの地点です。
 太平洋上の空母ベローウッド位置(1945年7月30日)


この飛行活動報告書からグラマンF6F戦闘機7機、TBN3アベンジャー攻撃機6機が市内を攻撃したことが判明しました。

これらにより、銃撃が昭和20年7月30日(月)の午前中であったことが確定しました。

さらに、硫黄島に展開していた、米陸軍第20空軍第7戦闘機集団の戦闘記録によれば7月20日以降各務原飛行場への攻撃記録はなく、この記録も断定の決め手となりました。

空母ベローウッド戦闘日誌 日付 1945年7月30日
 1ページ(攻撃機の種類や搭載兵装、信管の設定時間か記載)  最初の欄、F6f-5とはグラマン「ヘルキャット」戦闘機、しかもタイプー5は防弾強化タイプです、7機出撃して250キロ爆弾1発を懸垂、弾頭信管0.2秒遅動設定、弾底信管0.1秒遅動設定となっています。これは、当たってから建物内部に侵入し爆発する設定です、内部で爆発することにより破壊を大きくします。さらに翼下には6発のロケット弾も搭載していました。下の欄、TBN3アベンジャー攻撃機は爆弾倉に12発の50キロ爆弾を搭載していました。
 
      2ページ(損害や使用した弾丸の数が記載)
 
 
    3ページ(エリアごとの攻撃成果や気象条件が記載)
 
   添付されている「見取り図」 現、鵜沼各務原町9丁目、アピタ各務原店、各務美濃高校の東付近です。エリアごとの攻撃対象飛行機や日本軍の対空火器の種類や位置をを記載)
右下には、単発機と双発機の詳しい配置が書かれています、また 練習機やダミーとの記述もあります。畑の中に作られていた掩体壕や誘導路が詳しく書かれています。
楕円のマル印にあった飛行機を銃撃した、流れ弾が当たったと思われます。
     4ページ
 
 
 
 写真ー1  (民家の玄関土間 東側に向かって撮影) 弾丸の入射角度は8.1度で、700m手前で高度 100mとなる
写真、左側の 補修された壁の反対側の内張りを剥がした映した写真です。
 更に手前の部屋では、柱を貫通しています、弾丸の持つ高い運動エネルギーがわかります
   
空母ベローウッド戦闘日誌 日付 1945年7月30日

報告書内容は下記
 
 銃撃の想像図(各務原町のビル屋上より東方向を撮影)
 丸子山から北方向を撮影 


空母ベローウッド活動報告書まとめ文 (1945年7月1日から8月15日までうち7月30日分のみ)


 艦橋には208個のスコアーらしきマークが書かれています。

 NO 22 1945年7月30日
      発艦は7時32分(現地時間)
  
  
  
  上記解読文
 
  
 翻訳は友人に対応していただき、軍事用語については、私が担当した。
70年前に書かれた米国語であり、しかも軍事用語が使用されているため
不自然な部分や解釈の違いはご容赦ください。
文中の日本軍戦闘機名は米軍報告書をそのまま翻訳したので不自然な点もあります。
文中の写真は国会図書館から開示されている物を使用した。

70年の歳月は最終確認を困難とさせている。

この件は現在も休日を利用して調査を進めており、今後の調査により記事の加除も考えられます、ご理解ください。