残念ながら、少し雨が降っています。既に靴がびしょびしょ。。。
写真では少し暗く感じますね。朝早いフライトでやってきたので、この時点でまだAM10:00です。
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● 出雲大社に到着
まずは、この『祓社(はらいのやしろ)』で心身の罪汚を祓い清めます。出雲大社独特の『二礼四拍手一礼』での参拝です。
祓社で心身の汚れを祓った後、さらに境内を進むと『ムスビの御神像』があります。古事記によると、出雲の国造りをしていた大国主(オオクニヌシ)が相棒である少彦名(スクナヒコナ)を失って悲しみに暮れていると、波間から光る神様が現れました。それがこの金色の球体です。
この光る球体は「我は汝の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)である」と名乗りました。つまり、大国主の魂です。これも古事記に出てくるお話ですが、大国主が自分の魂と出会うという、不思議な場面ですね。魂は「荒魂(あらみたま)」と「和魂(にぎみたま)」に分かれます。荒魂は荒ぶる魂で、和魂は温和で調和的な魂です。そして和魂は「幸魂」と「奇魂」に分かれるんだそうです。幸魂は人に幸を与える魂で、奇魂は神秘の力を持つ魂です。
何故それが『ムスビの御神像』なのかと言うと、大国主はこの魂との出会いを持って『結びの神様』、つまり、縁結びの神様になったという事らしいです。
実際には、大国主は沢山の女性との間に沢山の子をもうけたので『縁結びの神様』と言われるようになったらしいのですが。
大昔の話なので、色々と言い伝えられている側面もあり、資料によって様々な解釈があるようですが、この魂(像では『金色の球体』)が『大物主』と呼ばれているようです。
つまり、身体本体は『大国主』で、その和魂は『大物主』というわけです。それぞれが神格化されて祀られています。
さらに境内を進み、拝殿の横を通って本殿前の八足門に進みます。この↓写真で、後ろの方にちらっと千木が写っているのが見えますが、これが本殿です。ここに大国主が鎮座しているという事です。
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● 出雲大社 ついに来た! ←2021年の記事
八足門の前には、この↓ような3つの円が合わさった図形がいくつか配置されています。これは隠れミッキーではありません。
ここは、大昔の神殿を支える『柱』が発掘された場所です。3本の丸太を鉄輪で束ねてワンセットとして1つの柱を形成し、そのセットがいくつかあって、巨大な(高さの高い)神殿を支えていたらしいと言う事が発掘調査でわかりました。
こんな↓感じです。
※ 出雲大社のホームページより
大昔の神殿はこんな↓感じだったようです。重機の無い時代、こんな建造物を建てるのは大変だったと思いますが、歴史的にはどうしてもこのような、人々が驚くような『最先端技術を集結した建物』が必要だったのではないかと推察しています。
※ 島根県立古代出雲歴史博物館のホームページより
というのも、古事記では『国譲り』と称して国津神(地上の神様)である大国主が天津神(天界の神様)に国を譲るというお話が出てくるのですが、これは出雲政権が大和政権(現在の天皇に繋がる政権)に国を譲った(獲られた)というような感じの事実を古事記のお話に盛り込んだのではないかと思うのです。※出雲政権が存在したかどうかも定かではありませんが。
そんな中、大和政権が出雲の人々を納得させ、支配下に置くには、出雲の人々が信じて疑わない『正当な』出雲の土着の神様を蔑ろにするわけにはいかず、「出雲の神様も尊重してますよ」という姿勢を示す必要があったのではないでしょうか。古事記の中では大国主が「国を譲るかわりに、私が安らげる立派な神殿を建ててくれ」と言ったというお話で、折り合いを付けているように思えます。この出雲大社は、出雲の人々の信仰の拠り所であると同時に、大和政権の正当性を主張するためのシンボル的な役割も担っていたのだと考えます。
そう考えると大和政権(天皇家)と結びつきの強い伊勢の『神宮』と、それとは一線を画した出雲の『大社』との様々な様式の違い(不統一)もとても納得のいく話です。
本殿でお参りした後は、本殿脇から裏側をぐるっとまわります。
(つづく)