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Mr.Gの気まぐれ投資コラム

50代グダグダちょい悪おやじMr.Gの趣味と海外投資に関するコラムです。
香港を拠点に活動する個人投資家であり、自称「投資戦略予報士」Mr.Gがお伝えする海外投資の生情報。
ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん!

 

今日7月11日はラーメンの日らしい。

 

しかし、なんで7.11がラーメンの日なの?

 

「一般社団法人日本ラーメン協会が制定。ラーメン産業の振興・発展とともに、日本独自のラーメン文化を支えるのが目的。日付は7と11の7をレンゲに、11を箸に見立てたことと、ラーメンを最初に食べた人物とされる水戸黄門(水戸光圀公)の誕生日(新暦・1628年7月11日)から」ということらしいがかなり強引名感じがする(^^;)

 

日本ラーメン協会の存在もしらんかったが、水戸黄門が最初にラーメンを食べたという話しも初めて聞いた。

 

しかし、日本のラーメン文化は素晴らしい。

 

政府が保護すべき世界に誇る文化だと思う。

 

私も大好き、世界のみんなが大好きな日本のラーメンだが、海外では円安の影響も有り円に換算すると香港でも一蘭のラーメンは100HKDするので2000円だし、アメリカだとチップ込みで20USDくらいなので3000円する事になる。

 

最近では日本でもラーメンは1000円する店が増えてきたが、それでも外国人観光客からすれば半分以下の値段ということになる。

 

これだけ手間暇かかった日本のラーメンが、たった1000円で食えるなんて、なんて素晴らしいことかと日本に帰ってくると感じる。

 

それだけで日本に住みたくなるくらいだ。

 

以前から、マクドナルド物価指数ならぬラーメン物価指数というものに興味をもっていたが、それで考えると日本のラーメンは少なくとも2000円くらいが妥当な価格なのかもしれない。

 

ということは、まだ日本の物価はこれから倍くらいに値上がってもおかしくないとも考えられる。

 

円安だから物価高が起こっているから円安が悪い!日銀は金利を上げろ!みたいなアホらしい世論もあるが、インフレは日本だけで起こっている事ではなく、香港でもアメリカでも日本よりももっとインフレになっており、ラーメンの価格で見ればまだ日本はインフレの上昇余地がたっぷりある。

 

つまり、円安だけが日本の物価を押し上げている要因ではなく、世界の標準と共に日本の物価も上がっていく流れ(現実にはここ2年で急速に国内外のインフレギャップが埋まったが)のなかで円安がそれを更に後押ししているような状況だ。

 

先週から日本円の新紙幣が流通し始めたが、全ての紙幣のデザインが一新されることによって市場で発生するコストは価格に転嫁されるし、新旧札が入り交じることによって発生する不便は紙幣そのものの価値を現象させるので、新紙幣の流通はインフレを更に後押しするだろう。

 

果たして日本人は1杯のラーメンにいくらまで払えるのだろうか?

 

ラーメン一杯が2000円になるとすれば、それ以外の食い物も基本的に倍の価格になると考えられるが、それでも多分2000円くらいならまだラーメンを食べるのではないだろうか?

 

為替に関しては、1ドル=200円くらいまで円安が進めば、海外のラーメンの値段は自動的に4000円以上になってくるのが、その時の日本のラーメンの値段が1000円ということは考えられない。

外貨を持った外国人からすると安すぎる。

 

インバウンドの外国人向けに宿泊や飲食などを二重価格にしようという動きがあるが、1ドル=100円ベースで計算したUSドル価格を設定して今の為替で円建てにしたものをもらえばちょうど良い感じがする。

 

たとえば、1000円のラーメンは=10ドルとして、今の為替(1ドル=160円)で10ドルを円に買えると1600円みたいな感じ。それでもまだ安いが。

 

日本人には円建てで1000円

外国人にはドル建てで10ドル=1600円

 

問題はどうやって請求するときに分けるか?だが英語のメニューにはドル建てで価格を表示し、中国語のメニューには人民元建てで価格を表示すれば良い。

 

ラーメン一杯が5000円が当たり前という時代になったら、今まで庶民の食べ物だったラーメンは金持ちしか食べられないものになってしまうのだろうか?

 

きっと本物の和牛などもそんな風になって行くのだろう。

 

貧困層は乾麺と化学調味料たっぷりの粉末スープのインスタント麺しか食べられなくなり、肉も合成肉や培養肉のようなものしか普段は食べれなくなるのかもしれないと思ったら、今のうちに食っておかなければと思ってしまう。

 

よく食べるラーメンは?

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世界的なコロナパンデミックの始まりから、香港で国家安全維持法が制定されて3年が経つ。

 

コロナの収束と渡航の自由化からまだ1年しか経っていないが、今の香港はどうなっていると日本人は思っているのだろうか?

 

未だに香港で仕事をしていると日本の友人に話すと、「大丈夫ですか?」と心配される。

 

私は「何が大丈夫か心配なのですか?」と問い返すが、多くは「中国化が進んでなんか怖いのではないのですか?」というような漠然とした印象に基づく回答が帰ってくる。

 

確かに、あれから6月4日の「天安門集会」のように毎年行われてきた政治的なデモは一切行われなくなった。

 

そういうものに参加していると、一瞬で逮捕されてしまうからだ。

 

そう考えると怖いと言えば怖いのかもしれない。

 

しかし、そんな怖いと思われる言論の自由が規制された香港に住んでいる私の目から見れば、日本という国もまあまあ怖い。

 

安倍元首相が暗殺?されてから2年が経つが、

「殺人や銃刀法違反などの罪で起訴された山上徹也被告(43)の裁判員裁判がいつ奈良地裁で開かれるのか、めどは立っていない。山上被告が犯行に至った境遇や凶器となった手製銃の法律上の位置づけなどを巡り、水面下で検察側と弁護側の駆け引きが続いているとみられ、初公判が来年以降にずれ込む可能性も高くなってきた。」ということらしくなんだか2年も経って真実も明らかにされないまま裁判もグダグダになっているようだ。

 

日本という国も、平和そうで平和でない、そして政府や公安が都合の悪い人間を消し去ってうやむやにできてしまう恐ろしさを秘めている。

 

特に、メディア統制のような仕組みは技術的に中国政府が行っている事の上を行っている気がしなくもない。

 

資本主義国家においても、国が治安を維持していく為には時に非人道的な行為が行われるのに変わりはない。

それがわかりにくいのが日本の問題だ。

 

特に最近は日本でも、ネット上での言論規制は、差別やいじめの排除を建前上の目的とした漠然として道徳上の基準や、誹謗中傷の法的違法性といった観点から相当強化されてきており、好きなことを自由に発言することは非常に危険だ。

 

基本的にどちらに正義があるかとか正しいのかなどはどうでも良く、その表現の結果相手がどう感じるか?だけが問題となっている。

 

銀行預金の安全性についても、香港の銀行にあるお金が、日中関係が悪化すると中国政府によって差し押さえらるとか?凍結させられるというようなことを言う人もいるが、それは馬鹿げている。

 

深圳や上海など中国本土の銀行口座に預けてあるお金ですら、おそらくそのようなことにはならないだろう。

 

過去10年の間には、中国でも反日デモがあったりして日系企業は随分と離脱してしまったし、当時中国本土の銀行口座を持っていた人も殆ど口座閉鎖して人民元を引き上げてしまっているようだが、1RMB=10円くらいの時に預けていた人民元の現地預金を今まで持っていた人がいれば今は1RMB=22円なので日本円では倍になっていてウハウハだろう。

香港の銀行にある香港ドルでも同じ事だ。

 

世界的インフレの中で、当然の如く進行する円安によって日本の銀行にあるお金は日に日に腐っていく。

腐る度合いは場合によっては1日に1%くらい腐っていくが、銀行の預金金利はまだ年に1%もないので、置いておけばどんどん腐っていく。

 

それが、どれくらいの期間でどれくらい腐っていって使えなくなるのかという賞味期限(消費期限)は分からないが、日に日に少しずつ腐っていっていることは事実だ。

 

そんな状況下で、新しいデザインのお札を発行し、タンス預金の炙り出しやキャッシュレス化(通貨のデジタル化)を推進しようなんていう意味不明なイベントをやるなんて気が触れているとしか思えないが、こういう発言もメディア的には規制の対象だろう。

 

自分の住んでいる国と、他の国を比べるときに、自分の国が良いように思いたいというのはどこの国でも同じだが、日本という国のメディアは、他の国の政治や経済や国民性のことを悪く言うことで間接的に国民が日本は良い国だと認識できるように情報を操作させられているように感じられる。

 

ただ、治安に関しては、一見安全そうな日本は、海外で驚くほど技術が進化しているハッカーによるネット犯罪(サイバーテロ/サイバー詐欺)に対してはかなり脆弱であり、ステルスSNS言論統制などやっている暇があったらそちらをもっと強化するべきだろう。

 

多くの日本人が心配する、香港の金融機関におけるセキュリティーは、中国やロシア系のサイバーテロやマネーロンダリングの進化した技術に対応してより強固なものとなっており、それ故そのレベルについて行けない顧客からは逆に敬遠されるほどだ。

 

HSBC香港に限らず、ハンセン銀行も、英国系スタンダードチャータード(スタチャン)を始め、citi香港も中国系の中国銀行(BOC)もICBCも新規の非居住者口座の開設に関しては以前のようなウェルカムさはもうない。

 

良質な顧客だけを選りすぐり、その顧客を各銀行が有利な条件を出し合って取り合っている。

 

その際、持っているお金の量だけでなく、そのお金の質も問われることになる。

 

かつての香港では、現金の取り扱いが多かった為か、現金による出入金はゆるゆるだった事もあるが、今はマネーロンダリング対策が強化されたため、10年前と比べれば随分と堅苦しくなっている。

 

まあ、簡単に言えばコンプラが厳しくなっただけのことだ。

 

中国ですらキャッシュレス決済は全体の80%に達しており、その殆どは銀行と連動したWeChat Payによりものだ。

 

香港でも、通常の取引はほぼ非現金化されており、今後の課題はBTCやUSDTのようなデジタル通貨の取り扱いだろう。

 

最近ではBTC連動のETFが香港でも取引可能になったり、ITAではBTCのETFをポートフォリオに組み込めるようになったりなど、オフショア金融センターでも徐々にデジタル通貨取引に対応しつつあるものの、安全性やマネーロンダリング防止の観点から自由化にはまだ時間がかかりそうだ。

 

この先の金融センターとしての香港の未来は、日本で報道されているような過去の経済遺跡どころか、国際的なデジタル金融センターとして新たなステージに向かうに違いない。

 

中国政府としても、そうならなければ香港の利用価値が乏しくなる。

 

 

7月3日から新紙幣の流通が開始されたが、国内にはいまだ大量の旧札タンス預金が眠ったままだ。

 

多くの人が、この新紙幣への切り替えに関してさほど危機感を抱いていなかった為だと思われる。

 

諭吉札だけではなく、聖徳太子も案外眠っている。

 

市中ではまだ渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎の新紙幣はあまり流通しておらず、自動販売機や両替機も旧紙幣のみ対応のものが多いのが現実のようだ。

 

つまり、状況からすると今の時点ではまだ旧紙幣の現金のほうが市中では使いやすいような状況だ。

 

何度も言っているように、政府が多大な手間とお金をかけ、国民にとっては不便こそあれ何のメリットもない新紙幣への切り替えプロジェクトの本丸は、「タンス預金の炙り出し」に他ならない。

 

そして「タンス預金の炙り出し」の目的は、国民が脱税しようと目論みため込んでいた現金資産を把握し、何らかの形でそれに課税するためだ。

 

最終的には、お金というものはどこかで使用するときに表に出てくるし、使えなくなるかもしれないという不安から旧札の現金は徐々に市中に露呈していくことになる。

 

それを、明日から使えなくなるというような状況にまで追い込めば、あっという間に旧紙幣は新紙幣もしくはデジタル通貨に切り替わっていくことだろうが、それを早急に進めると国民の不安を煽りその事が最悪キャピタルフライト(海外への資産流出)を加速させ、ただでさえ弱まっている日本円の価値をさらに下げていくことになりかねない。

 

おそらくは、そういった理由でこのような当分の間は新旧札混在を容認するソフトランディング手法が取られたのだと思われる。

 

だが、いずれにせよいつかは使えなく(使いにくく)なっていくであろう旧札は、使いにくさの進行共に価値を失ってしまうので、早めに使うか、銀行に入れてしまうか、海外の銀行に旧札のまま入金できるうちに入金するかのいずれかの対処が必要だろう。

 

そのまま壺にでもいれて庭に埋めておくという方法もあるが、個人的にはお勧めしない。

 

当分の間、新旧札が混在する状況を考えると、現金で何かを買うときに旧札をなるべく使うことを心がけた方が良いだろう。

 

もし、どこかの時点で旧札から新札に両替する場合に銀行で手数料を払わされることになれば、その時点から旧札の価値は手数料分低くなると考えなければならないし、店舗で両替にかかる費用を上増しされる可能性もあるし、最悪拒否される可能性もある。

 

ありがたいことに、この政府のソフトランディング戦略のおかげで、今のところは新旧札の市中での扱いは同じで両替の手数料もかからない。

 

むしろ、現状では新紙幣のほうが使いづらいような状況かもしれない。

 

たとえば、どこかの店舗で現金支払いをするのに、今の時点では新旧紙幣が混じることになる。

 

店舗はそれを銀行に入金して売り上げ計上することになるが、入金する現金が新旧紙幣混在の場合、旧紙幣がどの客の売り上げなのかは分からなくなる。

 

だとすると、この時点でどさくさに紛れてさらに1つ前の聖徳太子札を混ぜて使えば良いのではないだろうか?

 

新旧札が入り交じることが容認されている間に、聖徳太子札も混ぜてしまえばよい。

 

自分で大量に旧札を銀行に入金するのは「タンス預金がありました」と税務署に申告しているようなものなので、止めた方がいい。

 

ましてや、聖徳太子札など銀行に本人が入金しに行った場合は、あやしい取引として間違いなく報告される。

 

海外の金融機関では聖徳太子札は既に入金不可だが、おそらくしばらくの間は福沢諭吉札は入金もしくは両替が可能ではないかと思われる。

 

今週の時点では、HSBC香港ではまだ旧札は入金できているようだが、渋沢栄一札を入金したひとの話しはまだ聞いていない。

 

海外にある日本円の現金が、どういう風に新紙幣に入れ替わっていくのかは今のところ分かっておらず、想像するしかないが、どこかの時点で突然一方的に旧紙幣の入金は断られると考えた方がいいだろう。

 

それがいつになるのかが分からないのが問題で、しばらく渡航できる可能性がないというひとは、インターバンクなど国内の両替所で米ドルか香港ドルの現金に両替しておくことをお勧めする。

外貨両替インターバンク|ドル・ユーロ・ポンド等のお得な両替レート (interbank.co.jp)

 

インターバンクでも、いつまで旧紙幣が外貨に両替できるかは分からないが、今のところはまだ両替可能なようだ。

 

いずれにせよ、100兆円もあるといわれるタンス預金があぶり出されて課税対象となる計画は着々と進んでおり、マイナンバーもデジタル化の推進も世界の流れからは遙かに遅れた日本人の現金信奉主義から解脱させ政府が国民の資産とその流れを全て把握するための計画の一部に過ぎない。

 

おそらく日本政府が計画しているタンス預金の炙り出しには数年の月日が必要だと思われるが、それを政府としては慌てる必要がないのは、急速に進行する円安と無関係とは言えない。

 

日本円の価値の暴落とともに、タンス預金を含む高齢者が銀行にブタ積みしている預貯金の価値が下がっていくだけであり、同時に国の借金も目減りしていくわけなので、政府としては預貯金が特に海外に流出さえしなければ預貯金は動かずに死蔵され続けるのがベストだ。

 

仮に円安やインフレが進み続けて恐れをなした預金者が、外貨預金にお金を回し始めたとしても、ペイオフのない外貨預金は最悪銀行が破綻しても預金者は保護されない。

 

新紙幣が流通し始めた今の時点でわかったことは、国民にとって何のメリットも無い新紙幣発行に伴う新旧札の入れ替えは、もしメリットがあれば迅速に行えるが、訴求できるメリットが何もないのでなし崩し的に時間をかけて行われようとしているということだ。

 

この執行猶予的に与えられた時間を如何に有効に活用して福沢諭吉札を決別していくのかが、タンス預金保有者にとって火急の課題だが、「間違っても海外に持ち出すのだけはヤメテヨネ」というのが政府の本音だろう。

 

 

今日は2024年(令和6年)7月3日(友引)は、20年ぶりに一新された新日本円札が流通し始めた記念すべき日であるが、日本国民の多くはさほど気に留めていないというか、正直なところどうでも良いといった感じなのだろう。

 

自動販売機や券売機を保有する業者にとっては迷惑そのもので、データの移行作業に伴う費用は自社もちになるので、それを価格に転嫁するしかない状況だ。

 

こういう些細なことも、インフレを加速させる。

 

私にとって、今日この日は感慨深く、記憶に留めておかなければならない日のような気がしている。

 

今まで20年仲良くして頂いた諭吉札の終わりとともに、自分の中に少なからず残っている日本円神話との決別を誓うべき記念日だと感じている。

 

確かに、現金は良い。

 

特に日本円の現金は外貨と比べても値打ちがあるように思われた。

 

多分、それは現金社会の日本でバブル期を跨いで長く現金絶対主義を経験してきた影響だろう。

 

そして、日本円はかつては強い通貨だったが、今は先進国通貨最弱となってしまっている。

 

もし、お金というものに賞味期限があって、期限付きで価値が減少したり、消滅するものであったなら、そのような通貨を誰が後生大事に抱いておこうと思うだろうか?

 

以前に、「えんとつ町のプペル」の記事でお話ししたゲゼルマネーについては西野さん本人のブログでも説明されている。

映画『えんとつ町のプペル』に隠された『通貨』の謎! | 西野亮廣ブログ Powered by Ameba (ameblo.jp)

 

腐っていくお金は腐る前に誰もが使うので景気が良くなる。

 

折しも、為替は1ドル=161円を超えて37年ぶりの円安を更新している。

 

この今日から流通が始まった新しい紙幣が、そのDAY1から腐り始めているというのは皮肉だ。

 

「旧紙幣が使えなくなるという詐欺」に注意!という報道が目に付くが、実際にどれくらいその手の詐欺が起こっているのかはわからない。

 

逆に、「新紙幣が使えなくて不便だ詐欺」というのは聞かないので、新紙幣が使えない場合があって不便だという話をしても問題はないのか?

 

財務省の本音を言えば、「旧紙幣が使えなくなると思われたら困るが、使いにくくなることによってお札が入れ替わってもらわないともっと困る」というところだろう。

 

入れ替え開始前日の昨日には、旧紙幣でもミスプリや連番のレア紙幣は、価値が何倍にもなる!というような意味不明の記事も見受けられ、旧紙幣が使えなくなると国民が不安になってパニックが起こるのを抑制しようとしているのだろうが、意味不明で気持ちわるい。

 

もしそうであれば、期限を決めて銀行ATMも自動販売機も新旧紙幣どちらも対応すると事前に公表しておけば良いだけだ。

 

市場は多少混乱するだろうが、市中で新旧紙幣が混在しても当分の間どちらでも使えれば別に問題はない筈だ。

 

ただ、もし自分の手元に新1,000円札が一枚しかなく、深夜に無人の駐車場の料金を払おうとしてもその精算機が旧1,000円札のみの対応だった場合を考えれば、その新1,000円札は使えない無価値なものとなってしまう。

新500円硬貨が使えない自動精算機が今でも多いが、財布の中にあった1枚の500円が新500円通貨で使えないという状況と同じだ。

500円の場合、たかが500円だからまあいいやと思うかもしれないが、その状況下でその瞬間使えない500円硬貨は、無価値な通貨ということになってしまう。

これが1万円、5,000円、1,000円の全ての紙幣で起こるとすれば、その全ての紙幣を新旧札両方で持っていなければならなくなる。

単純に、新紙幣の使えない自動販売機や精算機が2分の1の確率で存在するとした場合、財布の中に通常の倍の金額の紙幣を新旧札半分半分で持っていなければならないことになる。

そして、実際に使えるのはその半分の金額なので、実質的には6万円持っていても使えるのは3万円ということになり、実質使用価値が半分になっていると考える事もできる。

 

自動販売機や両替機を含め、末端市場では新旧札が、どちらかではなく、どちらも両方当面は使えるというのが有り難いが、それだと紙幣の入れ替えに時間がかかりすぎて財務省的には困るのだろう。

それでも、少なくとも銀行のATMで引き出される紙幣が全て新札であれば、徐々に紙幣は入れ替わっていく。

 

このように、直前まで財務省からは具体的にどのような形で新紙幣の流通が開始され、どういう計画やスケジュールでお札の入れ替え作業が行われるのか?という発表もなく、開けてみれば新旧紙幣がしばらく混在する状況だということが、当日の今日の朝になってはっきりした。

 

てっきり、銀行ATMでは今日3日の午前零時を回った瞬間、もしくは今日の朝銀行の窓口が業務を開始した瞬間から、引き出す現金は全て新紙幣になるのだと思っていたが、残念ながらATMではまだ新紙幣が出てくる状況ではなかった。


そもそも、20年に1度は紙幣のデザインを変えなければならないというわけでなく、3Dホログラムという世界初の技術をお札に導入するまでもなく、世界の通貨で日本円はもっとも偽札の少ないセキュリティーレベルの高い紙幣だった。

 

このことを考えると、なんで今紙幣のデザインを一新しなければならなかったのかは、国民にとって迷惑でしかない。

 

結果として、タンス預金の炙り出し以外にも副産物として、キャッシュレス化が進むだろうとは思われる。

 

しかし、スマホもアプリも使えない超高齢者にとってはキャッシュレス決済(デジタル決済)はハードルが高く使えないので可哀想だ。

 

世界ではキャッシュレス化が急速に進んでおり、キャッシュレス決済(非現金取引)の比率は、中国や韓国でも80%に達しているにもかかわらず、日本ではまだ40%に満たない。

 

それだけ日本人というのは保守的で、目に見える現金大好き人種だということがよく分かる。

 

自分のお金はスマホの中のデータではなく、財布に入った現金がなければ安心できないのに、銀行にお金を預けた瞬間にそのお金が単なる通帳の数字に化けてしまうにも関わらず、銀行に預金するのが大好きという謎の民族でもある。

 

巷ではポイ活が盛んなようだが、デジタルマネーはいつの間にか消滅するポイントのような側面があって怖い。

 

かくいう私も、今年12万ポイント=12万円分のヨドバシポイントをうっかり消滅させてしまった。

 

この先デジタル化していく運命の通貨というものには賞味期限があるという認識を持つ必要もありそうだ。

 

新しく発行された渋沢栄一札には福沢諭吉札ほどの愛着がないし、これからも持てそうな気がしない。

 

この機会に、更に脱日本円、脱現金を推進していこうと思う。

 

もともと私は香港にいるので、日本円は殆ど持っていないが、日本に居る皆さんは、間違っても日本の銀行でドル預金をしたり、日本の外資系を含む生保でドル建ての生命保険(養老年金保険)を買ったり、新NISAでオルカンやS&P500に投資したりはしないでもらいたい。

それらは外貨建てだと言っても、ペイオフの対象でもないし、所詮は沈みゆく日本経済の船に乗っかった仕組みに過ぎない。

 

物理的に海外の金融機関に外貨で預金するか投資するしか外貨による資産保全の方法はない。

 

総額では1,000兆円を超える現預金が日本にはあるらしいが、その殆どが70歳以上の高齢者の預金であり、それらは使われずに腐っていくだけの運命だ。

 

この際、ただ腐らせてしまうのであれば、いっそパアっと使ってしまう方が気持ちよいとは思うが、現実にそれが起こったらその時が、日本円の賞味期限が切れる時ということになる。

 

さらば諭吉、さらば日本円。

 

今週7月3日からいよいよ新デザインの日本円紙幣の流通が始まる。

既に日本の各金融機関にはたんまりと新紙幣が納入されている事と思われるが、具体的には7月3日からATM機でお金を引き出すと新紙幣が出てくるはずだ。

 

ATMでも入金に関しては、当分の間は旧紙幣でも入金が可能だと思われるが、出金に関しては新紙幣でしか出てこないという状況が7月3日以降起こるのだと想像する。

 

大量の旧紙幣での窓口での入金や、新紙幣への両替に関して手数料がかかるという話しは今のところ聞かないが、もし手数料がかかるのであれば、店舗での旧紙幣での支払いが拒絶されるようになるかもしれない。

 

財務省は、しきりに旧紙幣は、新紙幣発行後も使えるということを宣伝しているが、それは店舗レベルで旧紙幣での支払いを拒否したときに罰せられるというものではない。

 

あくまでも、銀行では入金や両替が可能だと言っているに過ぎない。

 

政府が20年ぶりに、紙幣のデザインを一新する意図は、そういう言い方をすると国民の反発を買うため報道はされないが、国内に100兆円もあると言われるタンス預金の把握と金融機関への吸い上げであるというのは明白だ。

 

タンス預金として死蔵されている諭吉札(旧紙幣)をあぶり出す為には、旧札を使いにくくするのが手っ取り早いが、両替手数料とかをいきなり導入すると、その意図がバレバレだし、国民がパニックを起こす。

 

おそらく、放っておいても自然に旧紙幣は市場で嫌がられるようになり、1年くらいかけて徐々に新紙幣へと変わっていくのだろう。

 

それにしても、今週起こることなのに紙幣の入れ替えに関する報道が殆どないのも不気味だ。

 

タイミングよく1ドルは160円を超える円安が進行しており、1ドル200円超えもあるとかも噂され始めている。

 

以前の半分くらいの価値になってしまった日本円という先進国最弱通貨で給料をもらっている日本国民は、それでも耐え忍んでいるが、多分1ドル200円超えの円安でも日本では暴動も何も起こらないのだろう。

 

さて、この新紙幣の発行には、タンス預金の炙り出しという目的以外にも、タンス預金の海外流出を阻止するという重要な役割もあるのだが、海外の金融機関にある旧紙幣の入れ替えはどのように行われるのかに関しても全く情報がない。

 

HSBC香港など、海外の銀行において、7月3日以降に旧紙幣で入金が可能なのかどうか?

また、現金を引き出したときには新紙幣がでてくるのか?もしくは旧紙幣がでてくるのか?もしくは混在して出てくるのか?など今の時点でも不明だ。

 

海外の銀行で新紙幣と旧紙幣が混在した場合には相当面倒くさそうだが、雰囲気的にはしばらく混在し、いずれある時点から旧紙幣の入金が不可になるのではないかと想像する。

 

それも、今月中には明らかになるだろう。

 

海外の銀行は、財務省が店舗での旧紙幣受け入れ拒否を規制できないのと同様に、独自のルールに基づいて外貨の受け入れを拒否できる筈なので、ある日突然日本円の現金による入金が一切できなくなるというい事態もあり得なくはない。

 

いずれにしても、タンス預金の旧紙幣を海外に持ち出すタイムリミットはもう来てしまったと考えるべきだろう。

 

 

 

ロックで、しかもガールバンドの楽曲で泣けるというのは初めての経験かもしれない。

 

最近のロックバンド、ガールズバンド、アイドルバンドは、基本的に売れるものを提供しており、「怒りや喜びや悲しさ」といった人間の感情を全部ぶち込んだ本物のロックではないというアンチテーゼをストレートに熱くぶつけてきており、ロックとは何か?音楽とは何か?について考えさせられる。

 

とにかくアニメ「ガールズバンドクライ」=「ガルクラ」は、アツい。

楽曲的にもストーリーでも圧倒的に面白い「ぼっちざろっく」が良くも悪くも「けいおん!」的であるのに対し、「ガルクラ」はほぼスポ根だ。

ガールズバンドアニメ界の「ハイキュー!!」と言ってもよい。

 

我々の周りで流行っているバンドやその楽曲は、いわゆる大手が売れ線を狙っていて売れるべくして売れているものばかりだ。

そして我々視聴者もファンも、それが分かっていて余り深く考えずにそれが良いと感じ、聴いている。

 

そもそもロックというものがそれでいいわけがない。

 

人間が人間として持つ捻れた感情や不満や悲しさ、哀しみ、ぶつけようのない怒り、喜びといったものをぶちまけていなければロックではないし、強烈な共感や感動を与えることもできないが、必ずしもそれが大衆に受け入れられるとは限らない。

 

大衆に受け入れられないものは集客もできないし、メジャーにもなれないし、事務所にとってもカネにはならず、投資もされず、アーティストは食っていけずに自己満足で諦めるしかない。

 

それでも諦めない面倒くさい奴らを主人公にした作品が「ガールズバンドクライ」だ。

 

 

劇中のバンド「トゲナシトゲアリ」がぶつけてくるものは、アニメの激アツなストーリーとも重なって、純粋に心に響き感動する。

 

これは、スキとカネの戦いを描いた作品であるとも言える。

 

自分のスキ(好き)を追究しても、殆どの場合は食えない。つまりカネ(金)にはならない。

 

しかし、音楽を追究していくアーティストが自分のスキな表現や世界観を強く持ってそれに固執できなければ、少なくともそれはロックではない。

 

トゲナシトゲアリというバンドがリアルで実在するのを知ったのは、アニメを観てからだが、ちょっと驚いた。

 

アニメ「ガールズバンドクライ」の公開は今期4月からだが、実はリアルのトゲナシトゲアリは1年前にメジャーデビューしている。

アニメ「ガールズバンドクライ」は、東方アニメーションと、Aimerが所属する音楽事務所agehasprings、ユニバーサルミュージックの3社がタッグを組んで制作する作品となっており、2021年6月から約1年半にわたって行われたオーディション「Girl's Rock Audition」で数千人の応募の中から選ばれたバンドメンバーが、声優も担当している二次元と三次元が融合した作品だ。

 

つまり、この作品は3年前から仕掛けが動き出しており、今期のアニメ公開と共にリアル「トゲナシトゲアリ」のブレイクが始まったと言える。

 

裏側の仕掛けを知ってしまうと、アニメの世界観と現実とのギャップに多少ゲンナリするものの、大手のコラボレーションによる見事なコンセプトワークだ。

 

現実には相当な予算がぶち込まれているであろうこの企画自体を実現させる為には、相当な決断が必要だったに違いない。

ただ、ここまでやられるとぐうの音も出ない。流石というか1本取られた感は否めない。

 

このプロジェクトは、バンドだけでもアニメだけでもなし得ない究極のコラボを実現している。

 

楽曲やアニメ作品のクオリティーを考えると、この作品やバンド「トゲトゲ」の資本主義的な成功は手堅いように感じられるが、たとえいかなる結果になろうとも、アニメ作品のなかで表現されている純粋にスキを熱く追い求めることの大切さというのは忘れられるべきではない。

 

「カネや成功で心を売り飛ばすなんてロックじゃねえぜ!」と熱く語るこのアニメ作品とトゲトゲが大ブレークし、事務所や制作会社がぼろ儲けするという構造になるとなんとなく詐欺に遭ったような気分にはなるだろうが、それはそれでこの難易度の高いプロジェクトに参画した勇敢な企業やクリエイターたちの労に報いる事にはなるだろう。

 

そして、このパターンが日本が世界に誇るアニメコンテンツと音楽を同時に世界に発信し広める鉄板の手法として今後の日本経済に貢献するかもしれない。

 

スキとカネの境界線は、結局のところどこにあるのか見えないが、自分は自分が本当にスキなものだけに時間と情熱を傾けて、できることならカネは自分のスキなものだけに使いたい。

 

いくら自分のスキを追い求めても、他人のスキを提供できなければ他人にカネを払ってはもらえないので、資本主義的には「自分のスキ」<「 他人のスキ」でなければカネは稼げないという現実を乗り越えることは難しい。

 

「自分のスキ」=「他人のスキ」にしてしまえるカリスマ性というか、魔術のようなものがあれば「自分のスキ」を追究することでお金も稼げるだろう。

 

1年前に資本主義社会を崩壊させる要素について生成AIに聞いてみた結果、インフレ(ハイパーインフレ)という用語が出てこなかったのは意外だが、その裏にはAI的な価値観が存在していると考えられる。

 

AIが考える通貨の価値は、人間が考える価値と同じではない。

 

たとえば生身の人間にとって、食べ物が枯渇して価格が高騰するのは死活問題だが、AIにとってはそうではない。

 

労働の価値も、AIにとって有益な労働と、人間にとって有益な労働とは異なる。

 

AIには心もカラダもないので、心やカラダを満たしてくれるような労働や成果物を必要としない。

 

またAIは心もカラダも病むことはないので、医者や薬の存在もAIには不要であり、そこに価値を見いだすのは人間だけだと言える。

 

必要としないものに価値を認めて対価を支払うという行為はAI的に合理的ではない。

 

逆に、人間のみに必要なモノやサービスにAIが価値を見いだすとすれば、AIが人間を自分たちの奴隷として都合良く利用するための優位性を確保する為にというのは有り得る。

 

このChatGPTの回答を読み返してみて、改めて思った事は、AIは生成AIの存在や普及が現在の人間のための人間による資本主義を崩壊させる原因になり得ると認識している点と、それゆえ人間が自らその愚かな行為によって資源や食料を枯渇させ、その結果として戦争やハイパーインフレのようなことが起こり、人間の持つ価値観のなかで、人間に必要なものの価値が高騰することによって資本主義が崩壊する事に関しては、あまり深刻に考えてはいないというところだ。

 

人間社会における資本主義は、人間の価値観に基づく物価の上昇によって終焉を迎え、その後はAIの価値観に基づいたデジタル通貨の支配する世の中になるのかもしれない。

 

人間や、人間の作り出した国家は、その国の通貨という国が保証した価値を持つツールによって人間を支配してきた歴史がある。

 

通貨によって人間が支配できるのは、その通貨に人間にとって必要なものやサービスと交換可能な価値が存在する場合に限られ、価値が消滅すればお金による支配力は消滅する。

 

AIの支配する世界において、通貨というものがどういう意味持つのか?彼らの価値観に立って想像する必要がありそうだ。

 

2022年12月に書いた以下の記事も、人間にとって労働対価や物価上昇=インフレとはどういうものかを考える上で参考になるだろう。

賃金・物価スパイラルの謎 | Mr.Gの気まぐれ投資コラム (ameblo.jp)

 

我々人間が、たとえ継続的な経済的な成長を放棄してでも、人間にとって必要なものやサービスを何らかの通貨によって現状の人間のための資本主義を維持していこうと考えるのであれば、人間の価値観とAIの価値観を分けて理解し、人間にとって必要な価値の保全と、それを手に入れられる労働対価としての通貨の価値を人間の世界において分離維持しなければならない。

 

おそらく、仕事のAI化による合理化によって削減可能な費用を遙かに超えるコストと対価を人間にしか必要でないものやサービスを提供する技術の育成や保全に払わなければならないだろう。

 

人間は、人間にとって必要なものに価値を見いだし、それに値段を付けて取引しているので、必要性=価値だと言えるが、AIの価値観では必要性=価値である必要がない。

 

もし、AIがAIにとって必要なものだけに価値を見いだすとすれば、AIを生み出した親である人間の価値は、映画「マトリックス」の世界のように、最後は「生体電池」くらいの価値しかなくなってしまう。

 

デジタル通貨のみが流通する未来がきても、その通貨に現在と同様な価値媒体としての役割があるのであれば、通貨というものがある種の支配力を持つ点においては今と変わらないが、AIが支配力というものに価値を見いだすのかどうかはわからない。

 

少なくとも、権力などというものが、心のないAIの虚栄心をみたすことはない。

 

 

 

 

『紺碧の艦隊』(こんぺきのかんたい)は、荒巻義雄原作の戦記シミュレーション小説である。

1990年に執筆開始、1996年に完結した。

居村眞二によって漫画化されたほか、1993年ー2003年にかけてOVA化されているが、テレビアニメとして放映はされていない。

※1980年代から1990年代にかけては、商業的・倫理的などの理由で「テレビアニメ」か「アニメ映画」のフォーマットを取れないアニメを頒布するには「OVA」という選択肢しか無かった。

 

『旭日の艦隊』(きょくじつのかんたい)とは表裏一体の関係にあり、また同時期の話として『紺碧の艦隊 特別編 蒼莱開発物語』および『旭日の艦隊 後世欧州戦史』がある。

 

続編は『新・紺碧の艦隊』および『新・旭日の艦隊』。

小説版は徳間書店より新書全21巻が刊行されている他、2004年12月より順次文庫版が発売された。

アニメ版は全32話。

 

太平洋戦争で戦死した山本五十六が、年号を昭和ではなく"照和"とする後世世界に前世の記憶と共に「高野五十六」として転生し、同じ過ちを繰り返さないため、同じ転生者である大高弥三郎と共にクーデターを成功させるが、歴史の流れを止めることは出来ず、日本は運命の開戦を迎えてしまうが、かつての悲劇を止めるべく奔走するというストーリー。

 

「より良く負ける為」と言いつつ、前世からの記憶によって編み出される奇想天外な戦略とその時代には本来なかったでろう時代を先取りして開発されるトンデモ兵器によって、真珠湾攻撃以降、アメリカに勝ちまくり、東京空襲も退け、原爆の投下も開発施設の破壊作戦によって回避する。

アメリカを退け結果、ヒトラーのドイツが台頭し、最終的には米、日、独の3勢力が世界の覇権を分けることとなる。

 

OVA化された1990年代にこの作品がTVアニメとして公開されなかった理由は観れば分かると思うが、余りにも日本側に都合良くそして痛快に歴史が改ざんされていくストーリーは、アメリカやドイツ側から観れば不愉快極まりない作品となっている。

 

戦記シミュレーションとして観ても、設定が日本の軍事技術力を余りにも底上げしすぎていて、虚構度合いが激しかった(リアリティーに欠けていた)せいか、当時の評価は必ずしも高くはない。

 

しかし、この(アマプラで現在公開されている)作品を、今観るとまた違った感想を持つことができるだろう。

 

私が面白いと思ったのは、確かに現実離れした虚構のストーリーとは言え、「もし、大戦前のあの時にこうしていれば、もっと良い世の中になっていたかもしれない」というシミュレーションにおいて、未来を知る人間がありったけの最善策を持ち込んだらどうなっていたか?という部分であり、今の日本がおかしくなってしまった原因となる起点は、1989年のバブル崩壊までを振り返るだけでは足りず、太平洋戦争によって敗戦国となった歴史の背景まで溯らなければならないということにも気付かされる。

 

現実には、日本という国は日露戦争の勝戦に沸き大陸に手を出し、軍国主義路線を歩んだ結果、国力的にみて勝ち目のないアメリカ戦争をする羽目になり、多くの国民が命を落とし国土は灰となり、経済も壊滅するというゼロリセットから、戦後は奇跡的な復興を遂げ経済大国に成り上がったが、約50年でバブル崩壊を機に成長が止まり、その後今に至るまで経済的延命措置によってかろうじて生き延びているかつての経済大国に成り下がってしまった。

 

残念ながら我々は転生したり、タイムワープで過去に戻って歴史をやり直すことはできない。

 

しかし、歴史を振り返って、何がいけなかったのか?どうしてそうなったのか?ということについて真剣に思いをはせる必要があるように思える。

 

合わせて観てみると面白いのは、「アルキメデスの大戦」かもしれない。

 

 

これは戦艦大和の開発背景を中心に描かれた作品だが、この中でも何故あのような象徴的巨大戦艦が日本に必要だったのか?そしてなぜそれは「大和」と呼ばれたのか?軍部の意向と技術者の拘りやロマンが交錯する部分は「紺碧の艦隊」と被る部分もある。

「アルキメデスの大戦」においても、舘ひろしさん演じる山本五十六は、「これからは航空戦の時代であり、大和のような巨大戦艦は時代遅れである。必要なのは空母だ」と言い切っている。

「紺碧の艦隊」においては、転生した山本五十六はさらに先を読んで秘密裏に航空機艦載型巨大潜水艦部隊「紺碧の艦隊」を配備するが、やはり航空戦の時代がきていることを予見しており、B29のような長距離飛行爆撃機が現れることを知っていたので、それを封じるために短時間で高高度まで上昇可能な機体後部にプロペラのついた「震電」を前倒しで開発する。

 

ただ、現実の戦艦大和が大した活躍もできずに沈められる運命に対して、「紺碧の艦隊」および「旭日の艦隊」に出てくる超巨大戦艦「ヤマトタケル」は、トンデモ技術によって無敵の不沈戦艦として劇中で活躍しまくる。

 

また、同時期にモーニングに連載されていたかわぐちかいじの漫画「沈黙の艦隊」(1988〜1996年)においても、潜水艦戦が取り上げられているところが「紺碧の艦隊」と似ている。

 

 

日本の政治家や官僚たちが、非常時に出くわしてたくましく成長し、団結する姿や、対米従属を打破し、科学技術の底力を顕示するところも紺碧の艦隊と同じだ。

 

もと米国の原子力潜水艦「シーバット」を海上自衛隊の海江田が乗っ取り、独立国「やまと」を宣言するあたりも、核兵器を保有する可能性があるたった1隻の原子力潜水艦が、その武力によって国家となり得る可能性を示唆していて、かつて日本が戦艦大和に抱いた幻想や虚構を彷彿とさせる。

 

同じように虚構で歴史を振り返る作品としては、「シン・ゴジラ」や「ゴジラ-1.0」があり、「紺碧の艦隊」でも感じられる「もし、政治家や官僚がもっと決断力やリーダーシップを発揮してくれたら」という幻想を抱かせる。

 

「シン・ゴジラ」では、ゴジラはこの21世紀のうらぶれた日本にやってくる。

 

 

決断力に欠ける政治家や、省庁間の縦割りにこだわる官僚たちは当初、この非常事態にうまく対処できず、いたずらに被害を拡大させてしまう。

ところが、日本存亡の危機がせまるに及んで、政治家や官僚たちは「覚醒」する。眼の色や表情は明らかに変化し、従来のしがらみを捨てて結束し、ゴジラと対するようになるのだ。「現場」の公務員や民間人たちも、身命をなげうってこの動きに呼応する。

かくて挙国一致した日本は、東京に核ミサイルを打ち込んでゴジラを抹殺しようとする米国の動きを牽制しつつ、日本の科学技術力を総動員して、ついにゴジラの動きを自力で止めることに成功する。

 

第96回アカデミー賞において、邦画・アジア映画史上初の視覚効果賞を受賞した「ゴジラ-1.0」においては、終戦後のボロボロの日本にゴジラが現れる。

「-1.0」には戦後、無(ゼロ)になった日本へ追い打ちをかけるように現れたゴジラがこの国を負(マイナス)に叩き落とす」という意味があるそうだ。

 

 

ここにも、「紺碧の艦隊」と似たような「もしも」の世界観が見られた。

敗戦により焼け野原になった東京は復興途上にあったが、そこにゴジラが現れて折角立ち直ろうとしてた日本をまた絶望に陥れる。

これは、もう一度戦争が起こったことに等しい。

しかし、終戦後の日本は米軍の占領下にあり、対抗できる独自の軍隊もまともな軍備もない。

占領軍はソ連との微妙な政治的関係から軍事行動を起こさないことを決定する。

 

まさに全てにおいて見捨てられて絶望的な状況の中で、元海軍や軍事技術者を中心に民間市民が立ち上がり、これを撃退するという、戦争経験を生かして負から市民が力を合わせて苦境を乗り越えようとするドラマだ。

 

特に終戦前に本土決戦兵器として開発されてていた「震電」が登場するあたり、紺碧の艦隊的な演出が感じられる。

 

バブル崩壊以降失われた30年余りを振り返ってみて、一国のリーダーや政治家、役人、企業の技術者たちが、もしどうであったら今のこのような混沌とした日本がより良い日本になっていたか?を考えたときに、結局は戦前まで溯って、日本が取るべきだった道についてもう一度考え直さなければならないのかもしれない。

 

しかし、これら一連の作品に共通している虚構に洗脳され、安易に未来は頑張ればなんとかなるとか、有能な指導者が現れて国民を救ってくれるだろうというような漠然とした希望を持つことは危険だとも指摘される。

 

歴史は今に至るまで繋がっていて、原因と結果が延々と紡がれており、パラレルワールドが存在すれば別だが、それを巻き戻してどうこうすることはできない。

 

もしもの世界を単に空想することと、歴史を紐解いて原因と結果を模索するのでは、大きく異なる。

生成AIによって無限に虚構が生み出されうるデジタル社会で、虚構と現実の差を確実に認識できる力が必要だ。

 

「紺碧の艦隊」という作品は、そういうことをあり得ないレベルでいろいろ考えさせてくれる面白い作品だと言える。

 

HSBC香港の口座を持っているひとで、スマホ用のApp(アプリ)を既に使っているひとは、スマホを買い換えた時には以下の儀式に従ってアプリの移行を速やかに行う必要があるが、あまり深く考えずにスマホを買い換えて、あたらしいスマホではログインができない状態になっている人がいる。

 

HSBC香港に限らず、殆どの海外銀行はモバイルバンキングが普及しており、認証され有効化されたアプリ無しでは何もできないと思った方がいい。

 

今の時代は、銀行に入っているお金を管理する為には、スマホアプリの活用が必須となっており、安易に考えない方がいい。

 

高齢の方で、こういうデジタル化について行けない人も多く見かけるが、それから逃げているといずれはお金が使えなくなってしまう恐れがある。

 

「こんな複雑な機能や手続きは私には無理だから、HSBC香港口座ももう要らない」というような方も居られるが、いまこのレベルでギブアップしている方は、近い将来間違いなくお金を動かすことができなくなるだろう。動かせないお金など、いくら持っていてもしょうがない。

 

スマホを買い換えたら、まず新しいスマホに銀行のアプリをダウンロードする必要があるが、機種変に伴うデータ移行の処理でアプリ自体は既に移行されている場合が多いだろう。

 

携帯ショップでデータ移行が完了したら、旧デバイス(古いスマホ)はデータ消去後下取りに出してしまう人も多いだろうが、できれば、旧デバイスが生きてるうちに以下のことはやっておいた方がよい。

 

①旧デバイスでログインし、登録されている携帯番号とメールアドレスが新デバイスで受け取れるものかどうかを確認し、もし携帯番号やメアドが変わるのであれば先に変更しておく

②旧デバイスでログインして旧デバイスを削除する。

 

携帯番号が新しいデバイスで変わる場合は少ないが、旧デバイスからアプリを削除した後に携帯番号やメールアドレスが有効でないことが発覚すると、新しいデバイスでログインしようとしたときに本人確認の2重認証でSMSやメールが受け取れずアプリを有効化できないというトラブルに見舞われる。

 

もし旧デバイスのデータが既に消去済みであったり下取り売却などによって既に手元に無い場合は、パソコンのブラウザからパスワードでログインし、旧デバイスの削除作業は可能だが、有効なセキュリティーコードを入手可能な元のスマホ(旧デバイス)が無い場合は、携帯番号やメアドの変更はオンラインでできない為、郵送で書類を発送して変更手続きをしなければ新しいスマホ(新デバイス)上のアプリを有効化することができない。

 

HSBC香港の場合は、ネット上にも移行の手順が公開されていると思うが、他の海外銀行口座に関しても多かれ少なかれ同様に旧デバイスの削除をしなければ新デバイスの認証はできない。

 

つまり、1口座に対しては1スマホ(1デバイス)しか有効化できない仕組みになっている。

 

ちなみに携帯の電話番号やメールアドレスが1つしかなくても、デバイスが複数あれば複数口座の登録は可能である。

 

プリペイではないSIM契約によってどこかの国で有効な(スマホの)電話番号と紐付きになっている端末(スマホ)は、金融の世界では既に口座所有者本人の分身のような位置づけであり、それゆえ高度なセキュリティーによって本人確認やブラウザー認証が要求されたりすると理解しなければならない。

 

新しい携帯にデータ移行してそのまま使えるような甘いセキュリティーではないので、そこを理解した上で、もし移行の方法がよくわからないのであれば、旧デバイスのデータを消去する前に専門家に相談した方がいいだろう。

 

政府が国民のお金を完全に自由にすれば、弱い国から強い国に通貨は流出し、経済が崩壊してしまうリスクがある。

そこで考えられるのは資本規制の導入による国民のお金から自由を奪う政策だ。

 

しかし、お金が自分の意思で勝手に動くことはない。

お金の自由を奪っているのはそれを所有している人間の意思にちがいない。

意思がコントロールできれば行動は起きないので、規制の必要もない。

 

今のところ日本国民のお金にはまだ自由があるにも関わらず、主に高齢者が銀行に預金しているお金をほとんど動かす意思をもたないので、資本規制も不要である。

 

資本規制とは、資本の流入や流出を制限する政策で、短期間で大量の資本が国外に流出するのを防ぐものだ。

  • 資本流出規制:企業や個人が国外に資金を移動する際の制限を設ける。例えば、国外送金に対する上限を設定したり、特定の許可が必要にするなど。
  • 為替取引の制限:外貨の購入や海外送金に対する制限を設けることも効果的。これは外国為替市場への介入を伴うことがある。
上記のような規制が発動したときには、今までのように政府は国民の意思をコントロール出来なくなったとうことの証明であり、その時にはもうお金の自由は強制的に奪われることとなるだけだ。
 
実際には、銀行から大量の現金を引き出すことや、海外送金することは、上記のような資本規制のない現在であっても、実際にやろうとするとそう簡単ではない。
 
いわゆる、犯罪や詐欺防止という名目で銀行が網を張っている「見えない資本規制」によって、知らず知らずのうちにお金の自由は奪われている。
 
その難しさと不自由さに気付くのは、それを動かそうとしたときだけだ。
そしてその理不尽な難しさに愕然とすることだろう。
 
いよいよあと1ヶ月で、新紙幣が流通し始める。
 
1ヶ月後には旧紙幣となるタンス預金の海外流出を止める為にも、メディアを巧みに操った「旧紙幣は使えますよキャンペーン」が展開されている。
 
財務省は、旧紙幣の価値を保証しているが、市場で店舗などがそれを受け取るかどうかは、旧紙幣の受け取り拒否をすれば罰せられるというわけではないので、受け取って貰えないケースは当然出てくるだろう。
 
私が現金払いを受け付ける店舗であれば、7/3移行は旧紙幣での支払いはお断りするだろう。
 
「銀行で両替して持ってきてくれ」とお願いする。
 
お金に自由意志がないというのは、政府にとって本当に有り難いことだ。
 
人間の意思と関係なく勝手にお金が動くことはなく、人間の意思はコントロールすることも、その意思に基づく駆動を規制することも可能だから。
 
「あなたのお金には自由があるのだろうか?」という疑問は、「あなたには、あなたのお金を自由に動かそうという意思があるのか?」と問い直さなければならないのかもしれない。