「紺碧の艦隊」に見る虚構と現実 | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

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『紺碧の艦隊』(こんぺきのかんたい)は、荒巻義雄原作の戦記シミュレーション小説である。

1990年に執筆開始、1996年に完結した。

居村眞二によって漫画化されたほか、1993年ー2003年にかけてOVA化されているが、テレビアニメとして放映はされていない。

※1980年代から1990年代にかけては、商業的・倫理的などの理由で「テレビアニメ」か「アニメ映画」のフォーマットを取れないアニメを頒布するには「OVA」という選択肢しか無かった。

 

『旭日の艦隊』(きょくじつのかんたい)とは表裏一体の関係にあり、また同時期の話として『紺碧の艦隊 特別編 蒼莱開発物語』および『旭日の艦隊 後世欧州戦史』がある。

 

続編は『新・紺碧の艦隊』および『新・旭日の艦隊』。

小説版は徳間書店より新書全21巻が刊行されている他、2004年12月より順次文庫版が発売された。

アニメ版は全32話。

 

太平洋戦争で戦死した山本五十六が、年号を昭和ではなく"照和"とする後世世界に前世の記憶と共に「高野五十六」として転生し、同じ過ちを繰り返さないため、同じ転生者である大高弥三郎と共にクーデターを成功させるが、歴史の流れを止めることは出来ず、日本は運命の開戦を迎えてしまうが、かつての悲劇を止めるべく奔走するというストーリー。

 

「より良く負ける為」と言いつつ、前世からの記憶によって編み出される奇想天外な戦略とその時代には本来なかったでろう時代を先取りして開発されるトンデモ兵器によって、真珠湾攻撃以降、アメリカに勝ちまくり、東京空襲も退け、原爆の投下も開発施設の破壊作戦によって回避する。

アメリカを退け結果、ヒトラーのドイツが台頭し、最終的には米、日、独の3勢力が世界の覇権を分けることとなる。

 

OVA化された1990年代にこの作品がTVアニメとして公開されなかった理由は観れば分かると思うが、余りにも日本側に都合良くそして痛快に歴史が改ざんされていくストーリーは、アメリカやドイツ側から観れば不愉快極まりない作品となっている。

 

戦記シミュレーションとして観ても、設定が日本の軍事技術力を余りにも底上げしすぎていて、虚構度合いが激しかった(リアリティーに欠けていた)せいか、当時の評価は必ずしも高くはない。

 

しかし、この(アマプラで現在公開されている)作品を、今観るとまた違った感想を持つことができるだろう。

 

私が面白いと思ったのは、確かに現実離れした虚構のストーリーとは言え、「もし、大戦前のあの時にこうしていれば、もっと良い世の中になっていたかもしれない」というシミュレーションにおいて、未来を知る人間がありったけの最善策を持ち込んだらどうなっていたか?という部分であり、今の日本がおかしくなってしまった原因となる起点は、1989年のバブル崩壊までを振り返るだけでは足りず、太平洋戦争によって敗戦国となった歴史の背景まで溯らなければならないということにも気付かされる。

 

現実には、日本という国は日露戦争の勝戦に沸き大陸に手を出し、軍国主義路線を歩んだ結果、国力的にみて勝ち目のないアメリカ戦争をする羽目になり、多くの国民が命を落とし国土は灰となり、経済も壊滅するというゼロリセットから、戦後は奇跡的な復興を遂げ経済大国に成り上がったが、約50年でバブル崩壊を機に成長が止まり、その後今に至るまで経済的延命措置によってかろうじて生き延びているかつての経済大国に成り下がってしまった。

 

残念ながら我々は転生したり、タイムワープで過去に戻って歴史をやり直すことはできない。

 

しかし、歴史を振り返って、何がいけなかったのか?どうしてそうなったのか?ということについて真剣に思いをはせる必要があるように思える。

 

合わせて観てみると面白いのは、「アルキメデスの大戦」かもしれない。

 

 

これは戦艦大和の開発背景を中心に描かれた作品だが、この中でも何故あのような象徴的巨大戦艦が日本に必要だったのか?そしてなぜそれは「大和」と呼ばれたのか?軍部の意向と技術者の拘りやロマンが交錯する部分は「紺碧の艦隊」と被る部分もある。

「アルキメデスの大戦」においても、舘ひろしさん演じる山本五十六は、「これからは航空戦の時代であり、大和のような巨大戦艦は時代遅れである。必要なのは空母だ」と言い切っている。

「紺碧の艦隊」においては、転生した山本五十六はさらに先を読んで秘密裏に航空機艦載型巨大潜水艦部隊「紺碧の艦隊」を配備するが、やはり航空戦の時代がきていることを予見しており、B29のような長距離飛行爆撃機が現れることを知っていたので、それを封じるために短時間で高高度まで上昇可能な機体後部にプロペラのついた「震電」を前倒しで開発する。

 

ただ、現実の戦艦大和が大した活躍もできずに沈められる運命に対して、「紺碧の艦隊」および「旭日の艦隊」に出てくる超巨大戦艦「ヤマトタケル」は、トンデモ技術によって無敵の不沈戦艦として劇中で活躍しまくる。

 

また、同時期にモーニングに連載されていたかわぐちかいじの漫画「沈黙の艦隊」(1988〜1996年)においても、潜水艦戦が取り上げられているところが「紺碧の艦隊」と似ている。

 

 

日本の政治家や官僚たちが、非常時に出くわしてたくましく成長し、団結する姿や、対米従属を打破し、科学技術の底力を顕示するところも紺碧の艦隊と同じだ。

 

もと米国の原子力潜水艦「シーバット」を海上自衛隊の海江田が乗っ取り、独立国「やまと」を宣言するあたりも、核兵器を保有する可能性があるたった1隻の原子力潜水艦が、その武力によって国家となり得る可能性を示唆していて、かつて日本が戦艦大和に抱いた幻想や虚構を彷彿とさせる。

 

同じように虚構で歴史を振り返る作品としては、「シン・ゴジラ」や「ゴジラ-1.0」があり、「紺碧の艦隊」でも感じられる「もし、政治家や官僚がもっと決断力やリーダーシップを発揮してくれたら」という幻想を抱かせる。

 

「シン・ゴジラ」では、ゴジラはこの21世紀のうらぶれた日本にやってくる。

 

 

決断力に欠ける政治家や、省庁間の縦割りにこだわる官僚たちは当初、この非常事態にうまく対処できず、いたずらに被害を拡大させてしまう。

ところが、日本存亡の危機がせまるに及んで、政治家や官僚たちは「覚醒」する。眼の色や表情は明らかに変化し、従来のしがらみを捨てて結束し、ゴジラと対するようになるのだ。「現場」の公務員や民間人たちも、身命をなげうってこの動きに呼応する。

かくて挙国一致した日本は、東京に核ミサイルを打ち込んでゴジラを抹殺しようとする米国の動きを牽制しつつ、日本の科学技術力を総動員して、ついにゴジラの動きを自力で止めることに成功する。

 

第96回アカデミー賞において、邦画・アジア映画史上初の視覚効果賞を受賞した「ゴジラ-1.0」においては、終戦後のボロボロの日本にゴジラが現れる。

「-1.0」には戦後、無(ゼロ)になった日本へ追い打ちをかけるように現れたゴジラがこの国を負(マイナス)に叩き落とす」という意味があるそうだ。

 

 

ここにも、「紺碧の艦隊」と似たような「もしも」の世界観が見られた。

敗戦により焼け野原になった東京は復興途上にあったが、そこにゴジラが現れて折角立ち直ろうとしてた日本をまた絶望に陥れる。

これは、もう一度戦争が起こったことに等しい。

しかし、終戦後の日本は米軍の占領下にあり、対抗できる独自の軍隊もまともな軍備もない。

占領軍はソ連との微妙な政治的関係から軍事行動を起こさないことを決定する。

 

まさに全てにおいて見捨てられて絶望的な状況の中で、元海軍や軍事技術者を中心に民間市民が立ち上がり、これを撃退するという、戦争経験を生かして負から市民が力を合わせて苦境を乗り越えようとするドラマだ。

 

特に終戦前に本土決戦兵器として開発されてていた「震電」が登場するあたり、紺碧の艦隊的な演出が感じられる。

 

バブル崩壊以降失われた30年余りを振り返ってみて、一国のリーダーや政治家、役人、企業の技術者たちが、もしどうであったら今のこのような混沌とした日本がより良い日本になっていたか?を考えたときに、結局は戦前まで溯って、日本が取るべきだった道についてもう一度考え直さなければならないのかもしれない。

 

しかし、これら一連の作品に共通している虚構に洗脳され、安易に未来は頑張ればなんとかなるとか、有能な指導者が現れて国民を救ってくれるだろうというような漠然とした希望を持つことは危険だとも指摘される。

 

歴史は今に至るまで繋がっていて、原因と結果が延々と紡がれており、パラレルワールドが存在すれば別だが、それを巻き戻してどうこうすることはできない。

 

もしもの世界を単に空想することと、歴史を紐解いて原因と結果を模索するのでは、大きく異なる。

生成AIによって無限に虚構が生み出されうるデジタル社会で、虚構と現実の差を確実に認識できる力が必要だ。

 

「紺碧の艦隊」という作品は、そういうことをあり得ないレベルでいろいろ考えさせてくれる面白い作品だと言える。