あなたのココロ、治します。 -58ページ目

賢の半生記①/8

祖父母・両親のこと、そして僕の誕生
 
祖父母
 父方の両親は釧路の近くにある白糠という田舎で生活していた。祖父の名はTという。東京の中島飛行機(後のスバル自動車)で働いていたこともあったという。なにが原因かは分からないが白糠で農業をはじめた。祖父は当時の中学校を卒業した人で教師にでもなれる人だったという。しかしこの祖父が変わり者で、今でいうひきこもりのようだったという。祖母の名はNといい、平成元年に亡くなった。農作業で祖母が苦労して生活を何とか営んでいた。
父は祖父母の次男として誕生した。貧乏なのに六人も子供を作った。父のすぐ下にSさんという弟がいたらしいが、農作業の時にしかられたのを契機に列車への飛び込み自殺を図り、十八歳で亡くなった。きっと鬱病だったのだろうと思う。父もヒステリックで、僕が精神障害者になったのは父方の遺伝だと思っている。僕は祖父が痴呆になって我が家に住むことになってからしか祖父との接点はなかった。看護する母は大変だったろうが僕は祖父の一挙手一投足が楽しかった。ぼけている祖父に僕との関係を説明するがなかなか理解できないようだった。
「じいちゃんの息子でYっているでしょ?」
「Y? Yはうちの子だよ」
「僕はYの子供なんだよ」
すると祖父は苦笑いして
「なんだかよくわからないなあ」
といった具合だった。平成十年に亡くなっている。
 

父方の祖母は八十二歳の時ガンで亡くなった。祖父が怠け者だったためにずいぶん苦労したそうだ。祖母との記憶は僕が小学校低学年の時までさかのぼる。新宿の公務員アパートに住んでいた頃で、白内障の手術を受けるために上京していた。僕は学研のコラムに書いてあった卵料理を祖母のために作ろうとしたが、失敗してしまった。
「失敗しちゃった」
「なんでもいいから食べさせておくれ」
「でもおいしくないよ」
「うん、おいしい、おいしい」
そういって祖母は僕の失敗料理を食べてくれた。祖母にとっては孫が自分のために料理を作ってくれるということがうれしかったのだろう。さるちゃんはやさしい、やさしいといつもいっていたそうだ。この件は父もいたく気に入っていた。


 母方の祖父母は旭川から少し北上した名寄という町に住んでいた。祖父との接点はほとんどなかったか覚えていない。遺影を見たことがあるくらいで実際にはあったことがなかったかもしれない。祖父の葬式が僕の初めての葬式デビューで、きっと涙を出さなければいけないのだろうと一生懸命泣こうとしたが涙は出なかった。祖父は郵便局に勤めていた。名はAといい、昭和五十六年に亡くなった。喘息で亡くなったそうだ。僕がまだ小学校二年生の時である。父方よりは金銭的に余裕があったらしいが金持ちでもなかったらしい。祖父母は七人の娘を作った。母は三女だった。父と同じ昭和十三年生まれだった。祖母はいつもリビングのソファに座っていた記憶が残っている。名前をMといい、平成五年に亡くなっている。どんな話でも、ああ、そうかい、そうかいといって聞いてくれる人だった。お年玉もずいぶんいただいた記憶がある。
祖母が亡くなるとき、僕は大学の一年生の夏休みで北海道をバイクでツーリングしていて、そのとき祖母が入院していたところに顔を出した。祖母は鼻やら口やらからチューブをつめ込められ、延命措置がとられていた。それはもう生きている祖母ではなかった。僕はショックで泣き出してしまった。疲れているんだろうといって僕は祖母の家で休ませてもらった。葬式にも出た。平成五年のことだった。生きるっていったいなんだろうと思って鈴木健二の生き方の本を買った。
   
   父と母
 父の名はYという。どうしようもない貧乏な家庭に生まれた。次男だった。今までの働き方ではとても食べていけないといって高校の時からジャガイモの皮むきなどのアルバイトをしていた。大学に進学できる余裕はなく、高校を卒業してすぐ丁稚奉公をはじめた。そのあと警察官の仕事に就いた。市民を取り締まる警察官という職業が嫌で父は独学で国家公務員の試験勉強をし、見事に合格した。それから弟たちの金銭面の補助をしてやり、大学に通わせた。二十三歳の時に母と見合いで結婚した。北海道庁に勤めていたが、ある時東京で研修会があり、周りの連中は初めての東京で遊びまくっていたが、父だけは熱心に勉強をし、首席になった。そのことが認められて東京の厚生省社会保険庁に抜擢された。しかし年下のキャリアにどんどん追い抜かれていきずいぶん嫌な思いをしたらしい。そのせいか父は僕と兄を絶対に大学に通わせようとしていた。
父はひどく厳格な人だった。厳格というよりキチガイといった方がよかった。玄関で靴をきちんとそろえていないと
「H、さる、ちょっと来い!」
と大声で怒鳴った。父のそういった性格から僕らが受けた代償は大きい。兄は元気な性格だったが僕はそううつ病にかかり精神障害者になった。

 父は平成九年に腎臓ガンで亡くなっている。虎ノ門病院で腎臓の一つを摘出する手術をした。僕ら家族はその腎臓を見せてもらったが、拳二個分くらいで、黄色く変色した臓器だった。ガン細胞におかされて通常の二倍くらいの大きさに膨れ上がっていた。その手術で父はすっかり治ったと思っていたのだろう。会社へも復帰し、母と旅行へ行ったりしていた。しかし実際にはガン細胞が全身に転移していた。父は生命保険の支払金額が年齢とともに値上がりするため保険を解約してしまった。すっかり治ったつもりでいたらしい。僕らは父の余命が幾ばくもないことを聞かされていたが、
「生命保険が下りるから解約しないで」
などといえるわけがなかった。後で父が自分の余命を知り、
「二千万円損しちゃったな。その分宝くじで当たるかも知れないから買ってみろ」
といった。僕らはその通り宝くじを買い続けたがいっこうに当たる様子はなかった。

 父が家で寝たきりの状態になり、意識障害が出てきた。なんにもない壁を指さして
「おい、見ろ、映画だぞ」
といったかと思うとすぐまた意識がどこかへ飛んでしまっていた。家の近くの病院ではもう扱えないということで国立ガンセンターのホスピスに入院した。ホテルのような快適な個室で、父は寝たきりでいた。仮眠室で寝ていたら母が来いという。いよいよ父が息を引き取る瞬間を僕ら三人は静かに見つめていた。痛み止めのモルヒネ以外は一切延命措置をとらなかった。そんな環境の中で父は死んでいった。少しだけ僕は涙がにじんだ。
 

母の名はSという。北海道名寄市立高校を卒業して赤十字の看護学校を卒業した。僕が小学校二年の時に産休から復職した。父とは下宿のおばさんの紹介で見合い結婚をしている。結婚後も働き続け、三十二歳の時に兄を、三十五歳の時に僕を産んでいる。ヒステリックな父とは正反対のおっとりした性格の母である。平成十五年現在で六十五歳になる。五十代で看護婦の仕事からリタイアし、父の亡きあと毎日水泳をしながら優雅に老後を送っている。それまでが悲惨すぎた。何でもかんでも父に罵倒され、よく精神が持ったと思う。とっくに離婚していてもいいほど父が母を罵倒した。

   僕の誕生
 昭和四十八年、十一月十四日、午後二時頃に僕は生まれた。オイルショックのあった年である。そのころ家族は千葉県の稲毛市に住んでいたのだが、僕を産むためにわざわざ実家の名寄に帰った。だから僕は名寄市立病院で生まれたことになる。三千数百グラムの健康児だった。もちろんそんなことは覚えていないが写真が残っていたので見たことがある。自分でいうのもなんだが、とてもかわいかった。
三歳年上の兄がいる。名前をHという。名前通り心の広い人である。では僕は名前通りかといえばそんなことはなかった。でも僕はこの名前を気に入っている。「さる」と読まれることはまずなく、けん、さとし、さとるなどと呼ばれた。珍しい読みのようでそれがまた気に入っている。稲毛の公務員住宅で数年育ったはずだが記憶は全くない。僕が覚えているのは新宿の公務員住宅に移り住んで幼稚園に通いだしてからである。


僕は名寄の街が大好きだった。女ばかりの姉妹が優しかった。街は碁盤目のように区画整理されていた。住所は西一北三などという表記だった。縁日でいろんな色をしたひよこが欲しくて買ってもらった。ひよこの命ははかなく、次の日にすでに死んでいたりした。名寄ではちびという名の黒毛の雑種犬を飼っていた。今とは違って人間の残飯を食べさせられていた。ちびは大人に対してはおとなしかったが、僕を見ると舐めてかかりわんわんと吠えられた。だから僕はちびが怖かった。僕が名寄を好きだったのは二階建てだったこともある。僕は公務員住宅育ちなので階段で二階に上がることができるのはすごく珍しかった。プラッシーというジュースも名寄にはあった。米屋で売っていたもので新宿でも買うことができた。母の姉のYおばさんとAおばさんも僕らに対して優しかった。二人は実家のすぐ近くに自分たちの家を建てた。もう二人とも年金生活をしているが二人とも結婚せずに一緒に生活している。
僕が小学校六年生の頃、四女のYおばさんからポケットカメラをもらった。僕はそれをいたく気に入って小学校の卒業文集の将来の夢に「カメラマン」と書いた。カメラとともに将来の夢もどこかへ消えてしまった。
北海道は基本的には標準語と大差ないが、アクセントがちょっと違ったり、珍しい言葉があったりした。ものを捨てることを「投げる」といったり、疲れたことを「こわい」といったりした。かわいいことを「めんこい」といった。
父方の実家はひどく貧乏だったし、大工作業をやらされるのであまり好きではなかった。どうしようもないぼろ家だった。


連載短編小説『それでも人生に』 終章

私は父親の仏壇にはたまにしか線香を立てていない。父親の遺伝子と教育方針のせいで私が自殺未遂を繰り返すようになったと思っているからだ。父親が死んで二年が経って漸く死者に鞭を打つことをやめようとし始めている。しかし今はまだ父親に感謝する気持ちにはなれない。父親も先祖からの遺伝子によって散々苦しんだだろう。

父親が二十代の時に当時高校生だった彼の弟は鉄道自殺を遂げている。家にはそういう血統がある。そんな血統を抱えながら貧乏な家を支えるためにがむしゃらに働いてきたのだ。その人生は苦しみの方が余程多かっただろう。そこで死にたいと思わずに「こん畜生!」と思えたことが父親の強さであり私とは違う点だった。

 父親が死んで二年が経って父親の存在を少しずつ受け入れられる様になってきた。先ずは煙草から入った。煙草は数年に一度火遊び程度に吸うだけであって、銘柄なんて決まっていなかった。

 私が小学生の時の話だ。父親はいつも吸っているセブンという煙草を買って来るようにと私に言いつけた。しかし小学生の私は煙草の銘柄に関心がなかった。セブンに良く似たマイルドという煙草を買って来た。父親は

「これは違う」と言ったがそれ以来、五十九歳の時に腎臓癌で死ぬまで十五年間マイルドを吸い続けた。

 私は今、マイルドを吸っている。今まで父親の匂いがすると言って一度も吸おうとしなかったマイルドを。それは憎しみの匂いでもあったが懐かしい匂いでもあった。私は今、父親を受け入れようとしつつある。それは自分の人格形成要因を受け入れようとしていることであり、自分自身の命を受け入れようとしつつあるということである。私は父親の仏壇にマイルドを供えられるまでになった。

しかし、完全に普通の人々のように前向きに生きられるようになった訳ではない。自分の命の肯定と否定の間で危なげに何とか毎日を生きている。これからどうやって生きていったらいいのか皆目見当がつかない。生きる意味なんて百万回は考えたが分かる筈もなかった。今はただ死んだ父親に代わって家族の支えになっている兄に「死のうなんて考えるな」と強く言われているから生きているだけだ。

私はこれから何十年も廃人のように、植物人間のように生きるのだろうか。何をも生産しない、誰をも幸せにしない、自分すら幸せにできない、ひたすら老衰死か病死が訪れることを六十年間という気が遠くなる様な歳月、毎日待ち続けるだけの廃人として無気力に、無目的に。

 私はいつものやり方で仏壇の前に座って線香を立てた。儀式の最後に線香が灰になっていく様子をいつもより長めに見つめていた。「人は一夜にして白骨となれり」という経の文句が頭の中を流れた。

                                 (終)

今日の日記「不調の金曜日」

コンチキショー、元気だ! こんばんも。 ←流行らせたい

今日のニュース。
イチロー選手のコメント 国民栄誉賞辞退
 イチロー選手が代理人を通じて首相官邸に伝えたコメントは次の通り。
 国民栄誉賞は日本国民として最高の賞と考えており、大変光栄だ。ただ、自分としては、まだまだこれからやらなければならないことがあり、プレーを続けている間はもらう立場ではないと思う。途中で国家から表彰を受けるとなると、モチベーションが下がり、ピークが終わったのではないかと受け取られると、ファンの方々にも申し訳ない。野球生活を終わり、本当にやり切ったという時に、もし頂けるのであれば大変ありがたい。(スポーツナビ)

最高のコメントですね。素晴らしい。そう、今はまだ通過点でしかないのです。なんか涙でてきた。久しぶりにいい言葉を聞きました。

今日の自分。
なんだか調子悪かった感じです。朝は5時くらいに起きたのかな? あんまり覚えていないんですよ。勉強しようとしても眠くてどうしようもない。家にこもっていたら腐ると思って外出しました。

TSUTAYA。別になにか借りたいというわけではないのですが、なんとなく。
店にいてもつまらないので車の中で寝る。アホくさくなって家に帰って寝る。寝てばかりですね。雨の中右京散歩。雨の日はうんちをしないことがよくあります。今日もしませんでした。

夕飯前も寝て、夕飯は豚のショウガ焼きで、皿洗いして今にふれんち。眠いのですが眠れないので日記書き始めました。

hpのキーボード、やっぱり使いやすいです。ミスタイプが減ったと思います。コンパクト、スマートな感じ。

今後の予定はやはり勉強です。今は13/22です。22個も単語帳作りました。1個が80枚だとすると1760個もの漢字を覚えることになります。これでも2級に届かないんだから困ってしまいます。まあ、やることやるだけです。

明日の予定も明後日の予定もしあ・・・(以下削除)。
気づけば今日は金曜日! お勤めお疲れさまでした。♪疲れた羽を癒すの~そうよ 飛び魚のアーチをくぐってぇ 宝島が見えるころ あな(以下削除)。

そんなところでしょうか。ナイスホリデーをエンジョイしてください。

今日のお言葉
台風が今年最大らしい。
(気象庁調べ)

エッセイ14「環境適応能力」

環境適応能力
「辞める」といって一段落したあとの労働は実に軽快でした。「こいつらと仲良くなろうと思わなくていいんだ」とか「仕事を覚えようとしなくていいんだ」と思えて、精神的には無理なく、体はやるべきことだけやってきました。
思うに、僕は環境適応能力がかなり低い。だから「職場の人と仲良くならなきゃ」と過剰適応してしまうし、「仕事を早く覚えないとバカだと思われる」と自分にプレッシャーをかけてしまう。要は集団での労働には向きませんな。何かいい労働方法はないだろうか。やっぱり働かないのがベストかな。皆さんもそう思っているのでしょうか。
よく「好きなことで飯が食えて幸せ」とか、「休日やることねえよ。休日いらねえ」なんていう言葉を聞きますが、これは本音なんでしょうか。それとも自分を駆り立てている? 「休日いらねえ」は実際にバイト先の社員がいっていたことですし、フリーターのバイトくんも、就職活動もせず、週六日バイトを入れています! あそこの人たちは働くのが大好きみたいで。というかお金をすごくほしがっている。若いのに家のローン組んでたり、車にお金かけてみたり。まあ田舎だから車を買うのは理解できるんですが、三五年ローンを組める人っていうのはちょっと僕は神経が理解できません。この激動で不況の時代に三五年後も自分の収入があり続けると考えられるとは。僕が気分で生きてるからかもしれませんけど。三五年も拘束されるなんて。しかもたかが家に。そのとき一家崩壊してるかも知れないのに。減価償却するでしょうに。と、散々言ってしまいましたが、正常な精神に恵まれた人が幸福な人生を送ろうと思うとこれは当たり前のことなんでしょうね。

エッセイ13「切り売り」

切り売り
月末でバイトを辞めることにしました。たった三週間でした。その日も午前中から頭の中を「性に合わないんで辞めさせて下さい」という文章がぐるぐる回っていた。仕事中に店長とすれ違う機会があったので、あっさりと言えたわけです。よかった。つうか、まだ五日しか働いてない。あと六日も働かなければならない。辞めると宣言してからの労働って気まずかったりするのだろうか。割り切ってやることやるだけにしよう。
家族にその旨を話すと、「お前のその気分変動はおかしい」といわれた。普通の人がちょっとうらやましい。こうなったら普通じゃない人の特権をフルに活用したいものだ。
前の日は心配したけど、その日もちゃんと労働することができた。そう、労働したって殺されるわけじゃない。でも不本意な労働って、自分を殺して切り売りしているようなもんだ。その日も魂を殺して、時給九○○円で自分を売ってきました。なんで僕はこんなに労働を嫌悪するんだろう。自己愛が強すぎるのだろうか。その日も一日中いつ辞めようか、どんな理由で辞めようかと考え続けていました。
そのうち慣れるものなのか。特許事務所の時も、仕事全体を把握しきれない苛立ちがあった。回数を重ねていくうちに仕事を覚えて満足感を得るようになるのだろうか。
バイト先の人々を見て、「人種が違う。こいつらといっしょになりたくない」と思う。能力はブルーカラー並なのに、意識はホワイトカラーのままでいる。どうしても自分を安売りできない。小心者なので、辞めるにもかなりの決意と理由がいる。もう少し様子見かなあ。事態が変わるのを見守るって感じです。

エッセイ12「内向性」

内向性
少し小説を書いて、寝て、また少し小説を書いて、寝る。これの繰り返し。最近調子がよかっただけにその日ほど人生の意味が訳分からなくなる日も珍しかった。家にこもっているのがいけないのか。でも出かけたい場所なんてない。内向的な人間はこうやって一生悩んで過ごすのだろうか。内外向関係なく、人はみな悩んでいるのか。僕にはそうには見えないが。こんな生活を送っていくうちにレッサーパンダの男みたいになって罪を犯すようになるのだろうか。でも刑務所の生活はうらやましい。食べるものは保証されているし、何年後に出所する、という目標もものすごく明確だ。毎日の作業もあるし。皆さんが犯罪者の友人になっちゃったらごめんなさいね。

連載短編小説『それでも人生に』 10

三ヶ月間に及ぶ研修が終わり、講師が飲み会を開いた。その夜に死ぬことを決めていた私はまたやけくそになって飲んだ。夜遅くなるので紀子のマンションに泊まることになっていた。彼女のマンションの最寄駅に着くと私は「さあ、何処で死んでやろうか」と町をフラフラと歩いた。外は小雨が降っていて悲壮感が一層増した。私は締めていたネクタイを解いて手に持った。それで首を吊るために公園へ向かった。

公園は予想以上に明るく人がちらほらいたので、イメージしていた木の太い枝にネクタイを縛って首を吊るということができなかった。そこでトイレの個室に入ってみた。ドアの内側には荷物を掛ける為のフックがあった。それにネクタイを掛けることにした。ネクタイを環状に結んで首に掛け、もう一端を高い位置にあるフックに掛けるべくドアの上端をつかんで体を上方に持っていった。ドアの上端を掴む両腕が激しく震えた。「ほう、これから死のうとする人間でも死が怖いのか」と思った。ネクタイをフックに掛け終え、両腕を少しずつ伸ばしていった。痛く、苦しかったが両腕を伸ばし続け、全体重をフックに掛けた。フックはそこで折れた。

上がった息を整えながらトイレを出た。疲れたし、何だかしらけてしまった。自殺ごっこをしている様に思えてきたので自殺企図は止めることにした。紀子のマンションに行きたくなったので携帯に掛けてみると

「今、カラオケ屋でお姉ちゃんと大悟さんの三人で歌ってるの。良かったら来ない?」誘われるままにフラフラと歩いて向かった。そして「今さっき首を吊ってきました」などとばれない様にただの酔っ払いのふりをして楽しそうに大声で歌った。本来きちんと音程と声質を合わせて歌うのだが、この夜は自分でも珍しいくらいやけくそになって下品に歌った。

 紀子の部屋に着いてベッドに仰向けになった。紀子に隠し事はしないし、話を聞いて欲しかったので少し前にして来たことを話した。紀子がそれを聞いてどう反応したかは覚えていないが、心配性の彼女は取り乱していたかも知れない。隣の部屋にいる姉カップルに聞こえていたかも知れないがそんなことはどうでも良くなっていた。紀子と姉は二DKのマンションに住んでいて隣の部屋とはドア一枚で仕切られているだけだった。紀子と姉はとても仲が良かったが私はいい年をして親の仕送りで遊び回っている姉の生き方には共感できなかった。だから交流も少なく、ましてや大悟については二人とも人付き合いが下手だったので話すことはほとんどなかった。

彼女の部屋に泊まった翌日はちょうど二週間に一度の外来通院の日だった。私は精神科に大学一年生の時に一年半と、四年生からその時までの一年三ヶ月間通っていた。医者の田中に前日したことを話した。田中の診療を受けるのは初めてだったが患者の話をきちんと聞いてくれる感じのいい医者だった。

「お医者さんに患者の命を保証してもらうほどの責任はないとは思うんですが」

「うん、確かに私もそう思いますよ。だから無理矢理生きろなんて言えないし。ただ、このままではいけない。私は入院するか薬を替えることを勧めます」

「以前他の病院で入院して特に良くなった感じもしなかったので薬を替える方向でお願いします」また、私がまだ自殺する意思を持っていることと家に百錠ほどの睡眠薬を持っていることを話したので、田中は私の母親に

「息子さんが自殺する意志がある様なので睡眠薬を没収して下さい」と電話をした。没収されなかったら睡眠薬を飲んでいたかどうかは分からない。前回は向精神薬二百錠で死ねなかった訳だし、現在の睡眠薬は何錠飲んでも死ねないと聞いている。それに「自殺する意思を持っている」と話したが自殺企図する気力はもうなかった。「お先真暗で死にたいくらい辛いです、私を救って下さい」そんな気分だった。

家に帰ると母親が心配そうな顔で出迎えた。

「死のうなんて考えるな」と兄は厳しい口調で窘めた。父親が二年前に死んでからは兄の発言は絶対的だった。普段は優しく明るく人の為になる行動ができ、常に前向きな考え方ができるといった、私とは百八十度正反対な性格を持っている人だ。母親に似ている為に頭の悪さも受け継いでいた。私は父親の暗さと神経質、母親の頭の悪さという両親の悪いところばかりを受け継いでしまった。兄も私も頭は悪かったが兄は物事をいい方向に考えられたのでなけなしの能力をきちんと引き出せていた。

月曜日は体調不良を理由に会社を休んだ。火曜日に母親と話し合い、やはり入院することになった。

今日の日記「人生は上々だ」

こんばんも!
語尾を変えてみた! それくらい元気だ!

今日のニュース。
楽天から就任要請、掛布氏 「きちんと対応したい」
 プロ野球へ新規加盟申請している楽天が監督候補に挙げている元阪神の掛布雅之氏(49)は7日、大阪市内で報道陣の取材に応じ「監督の要請があったのは事実。ただ球団(の加盟)が決まった段階ではないので、答えるようなことは何もない」と話した。(共同通信)

僕は原さんや落合さんが監督をやるくらいなのに、なんで江川・掛布さんはやらないのだろうと疑問でした。落合くらい毒舌なヤツがリーグ優勝に導けるのなら江川さんだっていけるんじゃないかと思いますけどね。まあ、今は堀内さんがいるから安心感はありますけども。

楽天に掛布さんが就任したら面白いですね。いい選手がこぞってやってきますよ。これは強いチームになりますね。楽天の参入はあまりいいと思っていませんでしたが、楽しみになってきました。

今日の自分。
昨日0時に寝て3時に起きました。なんで? よくわかりませんが深い眠りだったし、寝たあとすっきりしていたので活動をはじめることにしました。今は勉強とブログですね。ブログははじめは何なのかよく分かりませんが、使っていくうちに分かってきます。ビルダーなどのソフトをお持ちでない方に特におすすめしたいです。

勉強は60%終了しました。こうやって電卓叩いて数字出すのが好きなんです。やっぱ理系なのかな。ごそごそしているうちにあっという間に朝になってしまいますね。ちょこちょこ仮眠をとりました。

今日は楽しみがひとつ。歴史能力検定の問題集をヤフーで注文していたのがセブンに届きました。なんだかぺらぺらめくっているだけでも楽しいです。なんで漢検や歴検といった純文系なものを今ごろ好きになったのでしょう。数検の問題集はうんざりしてやる気がなくなったというのに。未経験だから刺激があるのでしょうね。

歴検、12月12日なんですけども、申し込んじゃおうかなあ。漢検が終わってから1週間後に歴検の締切があります。その時の気分にもよりますよね。うーん、歴史学びたい! こりゃ資格マニアだな。今さらいうまでもなく。
漢検の勉強は進んではいるのですが、いかんせん単純作業なので退屈します。フレンズの返却日が近いこともあって、フレンズを観ながら勉強することにしました。ただの丸暗記なのでDVDを観ながらでもやれることが分かりました。

やっと見終わってTSUTAYAに返却しにいきました。続きを借りようかどうか迷ったのですが、DVDが家にあると「観なくちゃいけない」っていう強迫観念が出てくるのでやめることにしました。勉強はテレビを観ながらやろうということになりました。

最近、夕飯時以外はテレビを観なくなりましたねえ。母親なんてプールに行く以外はほとんどテレビを観ています。そんなに面白いもんかねえ、と思います。早く呆けてしまうのではないかと懸念しています。パッシブな行為で頭を全然使いませんもの。

母に漢検を勧めるのですが、「勉強は嫌だ」といいます。漢検なんてライフワークにちょうどいいと思うんですけどねえ。1級目指して勉強したらほんと一生かかりますよ。

夕飯はそば屋でラーメンを食べました。そば屋ならそばを食えって感じですけども、最近しょうゆラーメンがおいしく感じるんですよ。以前はこってり濃厚スープのラーメンしか食べませんでしたが、最近はさっぱりしたしょうゆがおいしく感じられるんですねえ。成長した証拠でしょうか。ラーメンは最終的にはしょうゆに還るし、アイスクリームはバニラに還るものだと思っています。

最近、右京が僕に好意的です。しっぽ振って出迎えてくれるし、僕が二階へ行こうとすると一緒にいきたがります。二階へつれていくと僕の部屋のにおいを嗅ぎまわったり、虎之介に興味を持ったりします。2頭は会わせません。右京が攻撃するからです。散歩の時でもねこをみると威嚇します。仲良くやってほしいのに。

夕食後すぐ入浴して一眠りしました。それでもって今に至りあん。勉強するつもりがあまり時間がなくなってしまいました。0時には眠剤を飲んで寝るようにしています。おかげさまで精神状態は好調です。
今後の予定は勉強です。明日もあさっても明々後日もやの明後日も。

そんなところでしょうか。あと一日で今週も終わりです。元気出していきましょ。それでは。

今日のお言葉
歴検が楽しみ。
(まったり)

エッセイ11「自己表現」

自己表現
その日でバイトは三日目でした。以前の特許事務所なんか三カ月いても慣れなかったのに、電気屋の倉庫はさすがざっくばらんで初日で慣れました。でも電気屋のくせにいろいろルールがあって仕事は指示されたことをやっているだけ。その日はハイでもなくブルーでもなくニュートラルな精神状態で一日を終えました。
しかし強く思ったのは「人生、こんなところで終わっちゃいかん」ということです。
まあ、被雇用者全般そうですが、他人が作ったルールを覚えて労働して、消費する。そんなサイクルじゃあ人生悲しすぎる。他人のルールではなく、自分のルール=自己表現で飯を食っていけたら最高だなと。要するに僕は物書きで食っていきたいと。「時給」や「月給」ではなく、「印税」で食っていきたいと。今、小説の書き方の本を注文している。だってわかりませんから。それはつまり才能がないということかもしれませんが、世の中、質より量で食っている人がたくさんいる。才能がなくても方法論、技術を身につければ新人賞を取れる作品を書きあげることができるのではないか、と思うのです。僕には夢がない。あるとしたら小説家になることだけです。

エッセイ10「バイトくん」

バイトくん
その日もバイトに行ってきました。前の日褒めちぎったのとはうって変わって、その日は「こんな不毛な労働をいつまで続けるんだろう」と感じてしまいました。一生やってたって時給は変わらないし、変わったとしてもたかが知れてる。所詮身分はバイトくん。こんなに自分を安売りしていいのかと思いました。といっても今のところ高値が付きそうな
特殊技能はない訳ですが。八月か九月にバイトを辞めることに決めました。始めて二日にして。まあ、夏だけの短期バイトということでいいでしょう。そのときの自分の体調なんかによって労働感が変わるわけです。もう使う側とか、使われる側とかを超越して印税生活がいいですね。やっぱり。公募ガイドで小説書こう。それか完全に親にパラサイト。疲れているのだろうか。ネガティブですね。寝たらなおりますかね。