あなたのココロ、治します。 -57ページ目

エッセイ20「ここ数日について」

ここ数日について
人間のバイオリズムって三.五日周期だって知ってます? 「あるある」だか「スパスパ」でやっていました。だから人間は誰でも三日坊主なんですって。最近好調だったのですが三日ほど不調になりました。それで気分が悪くてふて寝していました。
理由がとてもくだらない。やることがないし快適なので昼過ぎに起きて、夕飯一食しか食べないという日が何日が続きました。兄の会計士試験が終わったのでどこか良いところへ食べに行こうということになりました。しかし連休前でどこも満席だという。結局近くのファミレスへ行くことになった。ろくに食べてなかったので車中からすごくイライラしていました。そしてファミレス。となりのテーブルと一mくらいしか離れていないのが気に障る。やっぱり梅の花みたいな個室を期待していたせいか。兄の試験の緊張感を受けていたのが弛緩したのもある。
隣は娘とその両親と娘の彼氏。彼氏は二○代前半。仕事を持っている。すごくくだらない話をしている。お父さんは小学校の時かけっこが速かったとか。父親が若い二人に迎合している。世代交代の危機なんだぞ。いいのか父親。つうかファミレスで世代交代すんな。そして再生産されていくどうでもいい家庭。どうでもいい人間。なんてことない場面なんだと思いますが、すごくいらついて飲めないのにビールコップ三杯。気分最悪。
アルコールが入ると覚醒して一睡もできなくなるので、強い眠剤を飲んで翌日夜七時半まで死眠。こうして三日ほど精神状態が悪かった。あほみたいでしょう。つうかあほです。

賢の半生記③/8

賢の半生記③/8



  小学校時代
               
   学業の成績
 1979年に僕は新宿区立Y第七小学校へ入学した。一年二組だったと思う。担任はM先生という男の先生だったが、おかまのようなしゃべり方をした。低学年で覚えていることは少ない。ただ国語の教科書を読むのが好きだった。作文を書くのは遅かったが好きだった。休み時間を潰してまで作文を書いた。

 Y七では成績は五段階評価ではなく、「よくできた」「だいたいできた」「もう少しがんばろう」の三段階評価だった。僕はいつも「よくできた」ばかりだった。それが当たり前なのだろうと思っていたが、Sくんの成績表を見て驚いた。ほとんどが「もう少しがんばろう」で「よくできた」はひとつもなかった。そのときに初めて僕は勉強ができるのかもしれないと思った。それと同時に先生のえこひいきがあるのではないかと思った。Sくんは貧乏な家庭で、いつも同じ汚い服を着ていたし、先生からも嫌われているようだった。
 僕が少し手こずったのは算数の三桁のわり算だった。クラスの半分くらいの生徒が居残り勉強をした。僕はやっとわり算の仕方を理解した。算数はなんて面白いんだろうと思った。それ以外にわからないことはなかった。

スポーツ
 二年生の時に僕は野球部に入った。運動神経はよかったが特に野球が好きでもなかった。六年生の終わりまでに二回ほど野球をやめたいと親にいったことがあった。「最後まで続けたらいいことがあるよ」といわれ、六年生まで続けた。筋力が付いてスポーツはほとんどよくできた。そのおかげでクラスの人気者になった。野球部は毎月ほとんど毎日練習があった。今の東京都庁が建っているところはそのころは四号地と呼ばれる少年野球場だった。
 ここで卒業アルバムの文集を引用したいと思う。

 六年間の小学校の一番の思い出
  Y七バッファローズ
僕は小学校の二年生の十月にY七バッファローズに入った。はじめは野球もあまり知らなかったし、好きではなかったけど周りの人がみんな入部していたし、兄も推薦したからだった。
 今のKくんの弟のノッくんやHくんたち二年生が練習しているのを見るとあのときのことを思い出す。「あんなにへたくそだったかなあ」
 僕はあのとき二軍でセカンドだった。六年生になったらちょうどよくなるという理由でだぶだぶのユニフォームを着てやった初めての試合はTわかばクラブとだった。今ではY七の相手ではないけれどそのときはこっちが下手だったから負けてしまった。コーチに叱られて、床屋のコーチに全員丸坊主にされた。その日から今まで、季節を問わず何百回も練習を積み、何十回も試合をして野球を知り、毎年夏休みには軽井沢へきつい合宿へいった。
 
 朝は六時に起きて登り降り砂利道のコースを五周走った。一周約千二百メートルあるので六キロ走ったことになる。いつも三位までには、のぶしゃん、パタン、僕が入った。
 日中はノック、アメリカンノック、マラソン、バッティングキャッチボールなど基礎から、ダブルプレーなどの練習をやった。アメリカンノックとはコーチが右へ左へとボールを投げて飛びついてとる、合宿でもっともきつい練習だった。
 軽井沢は朝夕は涼しくマラソンにぴったりだけど、昼は太陽がガンガン降り続く中でほんの少しの休憩を挟んでずっと練習をした。
 こんな練習を重ねていって審判やいつも野球を見ている人たちから「今年のY七は期待できそうだ」という目で見られ秋の大会に向かったが、Y七と同じ優勝候補のY四ビクトリーに押さえられてしまって優勝のお祝いはできなかったけど、体力と思い出という素晴らしいものができた。

 小学校ではほとんど野球漬けだった。カバンにグローブとバットをつっこんで北新宿の家から四号地まで毎日自転車で通った。僕はいろいろなポジションをやった。二軍ではキャッチャーも経験したし、一軍に上がってからはピッチャーとサード、ファースト以外はすべて経験した。僕がうまくなったわけではなく、上手な子が親の転勤で辞めていってしまったのである。最終的にはショートで六番バッターに落ち着いた。ホームランも何本か打った。生涯成績は三割だったという。僕はくそまじめでマラソンでもかけ声でもすべて真剣にやった。練習も一生懸命やったが、守備は危なっかしく、ファーストに送球するのに暴投ばかりしていた。僕はショートというポジションが気に入っていた。一軍でプレーできるのも幸せだった。

 野球だけやっていたわけではなかった。サッカーも人気があった。Y七では四年生からクラブに入ることになっていた。プラモデルが好きだった僕はまず模型クラブに入った。しかし外で活き活きとサッカーをやっている人たちをちょっとうらやましく思ったり、友人の誘いもあって五年生からサッカー部に入った。兄が運動神経がよく、ゴールキーパーをつとめていたこともあり、僕はいきなりキーパーに抜擢された。その後適性がないと先生が判断したのか、左のフォワードになった。左足では蹴れない僕が抜擢されたのは理解不能だったのだが、それだけ先生が僕の身体能力を買ってくれていたのだと思う。卒業までサッカー部を続けた。

   ラジコン
 五年生頃だったろうか。僕は田宮模型のオフロードラジコンをとても強く欲しがった。誕生日のお祝いに買ってと母に持ちかけた。母はなかなか首を縦に振らなかったが、僕がいかにそのラジコンが楽しいのかを説明したのが効いたのか、やっと買ってもらえることになった。今でも覚えている。一万四千八百円のマイティフロッグというラジコンだった。ラジコンは本体だけでは動かない。バッテリーとコントローラが必要だった。合計三万円くらいかかった。高いおもちゃだったが僕はそのラジコンで本当によく遊んだ。自分で組み立てるタイプのものだったので作るのが楽しく、走らせたあとの整備も楽しかった。わずかなお小遣いを貯めては新しい部品を買った。あだ名がパタンというKくんもラジコン仲間だった。ラジコンを五人くらいはやっていただろうか。幼なじみのHくんはラジコンを買って「よかった。これでラジコン仲間に入れる」といっていた。コミュニケーションツールであったラジコンは幼なじみを苦しめていたのである。

   もてもて
 僕は高学年になってから急にもてだした。みんなが僕に優しくしてくれた。なぜ僕なのだろうと思った。きっと両親がクラスメイトにお金を渡して仲良くしてやってくれといったに違いないと本気で思っていた。文集にこんなことが書かれていた。「マービーはかっこよくて女子にもてた。そのわけはやさしいからだろう。でも少し怒りっぽい」だそうだ。それが文集委員が見た僕だったわけだ。
 
 マービーというあだ名が定着していた。さるという名前だから以前はマーボーと呼ばれていた。クラスの人気ナンバーワンの女の子でTという子がいた。僕は何も魅力を感じなかったが、クラスの大半の男子はTを好きだった。彼女は「たむちゃん」と呼ばれていた。それが僕には「たもちゃん」と聞こえ、やーい、たもちゃんたもちゃんとからかっていた。そうすると彼女は僕がしたのと同様にあだ名の語尾を変えてきた。「なんだよマービー」。するとその呼び方は一気に広まって学年のほとんどの生徒がマービーと僕を呼んだ。

 僕に取り巻きができた。休み時間になると僕を好きな女の子が五人ほど僕の机に集まり、からかったりからかわれたりしてコミュニケーションをとった。悪い気分ではない。幸せすぎると思った。男にも女にも僕はもてた。バレンタインデーには取り巻きの女の子がチョコレートをくれた。相手の気持ちを大切にしたいと思い、その日のうちに全部のチョコレートを食べた。

 そのうちのひとり、Mちゃんが僕に熱烈なラブレターをくれた。僕はそれまで何とも思っていなかったが、手紙を読んでMちゃんを好きになった。だからといって特別なことは何もしなかった。つき合うわけでもなく、一緒に遊びに行くわけでもなかった。Mちゃんはそのことについてなんのクレームも付けなかった。僕はうぶだったし、つき合うといっても何をしたらいいのか全くわからなかった。その後Mちゃんとは僕の方から別れを切り出さなければならなくなった。新しい彼女ができたのである。


今日の日記「れきけん!」

こんばんも! ←ワイルドストロベリーさんに好評だったのでしつこくやる
今日も元気だばっきゃろー!

今日のニュース。
F1日本GP 佐藤琢磨は4位 - 決勝レース
 F1世界選手権-第17戦日本GP-決勝レースが全53周で行われ、ミハエル・シューマッハ(フェラーリ)が優勝を果たした。2位にラルフ・シューマッハ(BMWウィリアムズ)、3位はジェンソン・バトン(B・A・R Honda)という順になった。母国グランプリを戦った佐藤琢磨(B・A・R Honda)が続いて4位完走。ファステストラップはルーベンス・バリチェロ(フェラーリ)が記録した1:32.730だった。出走全20台中、16台が完走。(F1-Live.com)

観る前に結果が分かってしまった。B・A・RHonda は強いですね。昔のホンダほどの強さはないものの、十分コンペティティブですね。佐藤琢磨はあまり応援はしていないのですが、やはり日本人が入賞するとうれしいですね。3位表彰台もありましたし。

でも僕は片山右京さんがホンダに乗ることができていたらもっといい成績をおさめられていたのではないかと思ってしまいます。それくらい片山右京という人間が好きです。「僕は賞味期限切れのドライバーかもしれないけど」なんていうコメントが衝撃的でした。高木虎之介にももっといいマシンに乗せてあげたかったですね。

今日の自分。
お昼頃起きて本屋へ行きました。山川出版社の「日本史B一問一答」という問題集を買いました。それで興奮しています。アホです。兄が大学受験で使っていたからでしょうか。僕もいいなあ、ほしいなあと思っていました。

でも理系に進んだし、センター試験は倫理をとったので日本史とは縁がありませんでした。ところが最近になってにわかに歴検ブーム(自分の中で)。
30のオトコが高校学習参考書を買っている! 明らかに変態です。もっとすごいのは小学生用の歴史の書き込みノートも最近買いました。

歴史を勉強したいのです。でも社会音痴だったので基礎知識はほぼゼロ。だから小学生用のノートなのです。今15時です。こんな時間に日記の下書きをしています。だって脳内モルヒネドパドパで落ち着かないんですもの!

その一問一答集は使うのか? といわれればたぶん使いません。ちょっと解いてみましたけど。でもどうしても手元に置いておきたいのです。普通の人は何度でも繰り返して読みたい文学作品、手元に置いておきたい文学作品はあるでしょうね。

僕の場合、これが小説ではなく、受験参考書であるところが変態です。もう一冊同じような本があります。旺文社の「基礎英文法問題精講」です。カバーデザインが気に入っています。見ているだけでしあわせになります。お安いものです。

あー、心臓バクバクいってる。これだからキチガイは困ります。勉強にも集中できないし。

とここまで下書きしました。今は21時です。シエスタもしたし、夕飯も食べたので気持ちは落ち着きました。一問一答集と基礎英文法はお飾りにします。今は歴検の過去問と漢検です。やはり漢検は毎日勉強しないと不安になります。かといって歴検も12月12日なのであまり時間がありません。

バタバタバタバタしております。悩みが平和でいいよなあ、という声が聞こえてきそうです。はい、確かに平和であります。こんなことで悩める環境を与えてくれている母・兄・神に感謝です。

本当はここに父が入るのでしょうけどねえ。他界してから7年が過ぎましたがまだあの人に心から感謝する気持ちにはなれません。自分が親の立場にならないと分からないかもしれませんね。でもそれは不・可・能!

夕飯は焼きそば。皿洗いして今にべじたりあん。
今後の予定は時間の許す限り歴検の過去問。できれば今日明日中に1回目を終わらせたい。ちびちびやっていたらいつ終わるか分からないし。本の情報量も少ないし。でも夜は0時に眠剤飲んできちんと寝る。これが好調の秘訣でした。10年も患っていて今ごろ気づいたの?! 徹夜で勉強するのが好きなんですよねえ。

そんなところでしょうか。
明日の予定も勉強。体育の日ですね。ゆっくり休んでエンジョイしてください。それではシーユーレイター。

今日のお言葉
今歴検が面白い!
(まったり)

エッセイ19「19歳のクスリ」

一九歳のクスリ
確か一九くらいの時、高校の友人が違法なクスリらしきものを僕の家に持ってきました。枯れ葉みたいなもので、パイプにつめて火をつけて吸う。気持ち悪くなって寝た。あれは何だったのかよく分からないけど、その友人は原付の二人乗りで警察に捕まり、ポケットの中に入れていたそのクスリも見つかって大変だったらしい。まさか知り合いから警察のお世話になる人が出るとは、と思った。
今思い出すとアウトドアが好きな高校の友人がサバイバルナイフを持っていただけで銃刀法違反で捕まったこともあった。家裁まで行ったらしいし。一応進学校だったんですけど。
そのクスリを吸ったときに意識が断片的になったというか、コマ送りになったんですよ。あれ、さっき何考えていたっけっていう感じで。意識が非連続的になった。別にその時たった一回吸っただけなので今に影響を及ぼしているわけではないのですが、さっきまですごく自分にとって魅力的だったことがすぐどうでも良いことにおもえてしまう。元々飽きっぽい性格なんですけど、ここ数年ひどいと思う。人生で大事だと思う価値観、軸がコロコロ変わる。これは生きづらいです。
まあこれは病気のせいであってそのクスリは関係ないですね。その件以前に既に人生狂い出していたし。僕の人生がおかしくなり始めたのは高校に入学してからですね。まあよくあることですが、中学までは勉強もスポーツも出来て(たぶん)学校中の注目を集めていた。それが自分をアイデンティファイしていたのに高校に入ったら自分よりはるかに三拍子そろったやつがゴロゴロいたっていう。それで人生が訳分からなくなった。散々悩んだり本を読んだりして結局その問題は大学に入ってから考えることにして、偏差値をあげることを当面の人生目標にした。
大学に入ったらまた目標がなくなった。留年、休学してしまったので大学を卒業することを最大の目標にした。卒業して普通に就職してみるとそれはどうでも良い仕事だった。そこでまた人生目標を失うという。きわめてありがち人生。

エッセイ18「別れ」

別れ
彼女と半年後に別れることになりました。僕が病気で、自分一人さえ食えるかどうかだから結婚して養って行くなんてとてもできないのです。僕は障害者年金で生活していこうと思っています。定職について仕事をするというのはまず無理です。基本的に僕のそううつ病というのは遺伝的要素の強い一生ものの病気です。最低でも五年から一○年は治療をしなければならないと医者からいわれています。さすがに彼女をあと一○年待たせるわけにはいきません。彼女はあと一,二年以内に結婚しろと親にいわれています。
どうしたら結婚できるかいろいろ考えましたよ。彼女とも散々話し合いました。僕の実家で母と同居しつつ僕が働くとか、彼女の実家で働かせてもらうとか、共働きをするとか。結婚シミュレーション書なんてものまでつくりました。でも結局僕は「養わなければならない」という重圧に耐えられないだろうということは容易に想像できました。それなら一生孤独で死んでいった方がいいだろうと。彼女も社会性のあまりない人なので、働いて自分の生計は自分で立てるということはできないのです。だから他の人と結婚してもらおうというわけです。お互い今でも好き同士でいますが、こればかりはどうしようもありません。
彼女の東京のマンション契約があと半年で切れます。そうすると彼女は実家に帰ることになります。距離も離れ、会う場所もなくなり、当然疎遠になります。これは別れのいいきっかけではないかということなのです。これからの六カ月、もっと短いかも知れませんが、ゆっくりお互いの気持ちの整理をしていこうということになりました。僕はまず彼女との思い出がたくさんありすぎる携帯をピッチに買い換えました。形から意識を変えていこうというわけです。僕は彼女に精神的にかなり依存していたので「自立」「供依存からの脱出」と意識的にお互いを律しはじめました。お互いに次の相手を積極的に探していこうと言い合っています。僕は無理でも彼女にとっては切実な問題です。僕はメル友を作ったり、養う必要性のない相手を探して交際できればと思っています。一生独身でもいいと思っているし。世の中ではよくある話でしょうが当事者としては深刻です。

賢の半生記 ②/8

賢の半生記②/8

故郷と幼児期、そして両親の生活
            
  

 故郷
 出身は? と聞かれると少し困ってしまう。産まれたのは北海道の名寄市立病院だが、それは出産に当たって母が実家に帰ったからであり、当時家族は千葉県稲毛市に住んでいた。そこには僕は三歳までしかいなくて、それからは東京の新宿に移り住み、僕が高校卒業と同時に僕は中野の下宿へ、家族は現在住んでいる千葉県白井市に引っ越した。だから出生は名寄になり、出身は新宿であるといったらいいのだろうか。稲毛のことはほとんど覚えていない。団地の五階に住んでいたという。兄は稲毛の保育園に通ったらしいので多少記憶があるらしい。大きくなってからその団地に行ってみたことがあるが、よく遊んだらしい小さな砂場をかろうじて覚えているような気がするだけである。新宿に移ってからの記憶は割とある。
 
 稲毛に住んでいたときの面白いエピソードがある。僕は全く記憶がなく、母からあとで聞いたものだ。僕が一歳か二歳の頃、母が朝ランニングにいくときのことだ。兄と父はそれぞれ会社と保育園に行っていて僕と母親の二人だけだった。母は家の鍵を持たずにランニングに出かけようとした。僕もそれを追ってドアの部分をがちゃがちゃといじった。そうすると内側から鍵がかかってしまった。母はちょっと出かけるつもりでいたので鍵を持っていなかった。母は口頭で鍵の開け方をドア越しに一生懸命説明したが、僕はまるでそれを理解できなかったらしい。住宅の五階だったので母ははしご車を呼んだ。はしご車でベランダから中に入り、事なきを得たという。僕はこの話題をいたく気に入っている。
 
 稲毛でもう一つエピソードがある。走り回り事件である。家族で公園に遊びに行ったそうだ。そこには陸上競技用のトラックがあった。なぜだかわからないが僕は走ることが好きだったようで、親にもうやめなさいといわれるまで延々と走り続けたという。中学生になって新宿区の陸上競技大会でろくに練習もせずに四位入賞できたのもこの天性の「走る」才能のおかげだったかもしれない。

幼児期
 僕は三歳の時に新宿の公務員アパートに移り住んできた。僕はしゃべりだすのが遅かったそうだ。それで知恵遅れかもしれないと両親を心配させた。小さい頃から泣き虫で、それは今も変わらない。幼稚園はY第一幼稚園へ通った。ちょうどY第七幼稚園との境にあってどちらに行ってもよい状況だった。小学校はY第七小学校へ行った。幼稚園ではSくんの手下だった。控えめだった僕とは対照的にSくんは独裁的だったので自然に手下のようになってしまった。泣きながらSくんの家まで走っていったことを覚えている。Sくんの家では「おやつ」としてうどんが出された。おやつは甘いものだと思っていたし、おやつの時間にうどんを食べてしまっては夕飯が食べられなくなってしまうと思った。文化の違いを感じた。
 
 幼稚園時代から僕は神経質だった。ティッシュのような柔らかい紙で造花を作る時間があった。折り紙のようなしっかりした紙なら折るのが好きだったが、柔らかい紙ではきっちりと両端をあわせることが難しかった。そのころから完全主義者だった僕は「こんなことできない」と泣き出した。それを見て近くにいたTくんが「俺がやってやるよ」といって造花を作ってくれた。Tくんは元気のいい、比較的乱暴者だったから造花も多少乱れていても平気な様子だった。とにかく造花はできた。それを先生に提出した。Tくんには開眼させられた。百パーセントの出来でないからといって全く作らないよりは多少荒くても七十パーセントの出来で提出した方がよいということを学んだ。
 
 絵を描くのはこのころからすでに苦手だった。才能がなかったのだろう。卒園アルバムの表紙に何か絵を描かなければならないことになって、僕はずいぶん苦労した。何を書いてもいいということで僕は幼稚園みんなでいった水族館の絵を描いた。嫌で嫌でたまらなかったが無理矢理形にして提出した。そのかわりお遊戯は大好きだった。「地球ドンドン」という歌が大好きで今でも曲を覚えている。お弁当の歌も好きだった。「これっくらいの おべんとばっこに おにぎりおにぎりちょいとつめて」という歌だ。今では踊ることはできないがカラオケなどで歌うのは好きである。
 好きな人もいた。三歳上の兄がしつこく誰だか聞くので僕は全然好きじゃないGちゃんの名前を挙げた。兄はそれが本当だと信じ込んでずいぶん後までからかわれた。
 
 砂遊びが好きだった。住宅には砂場があったので同級生のKくんと毎日のようにどろんこになって遊んだ。大きなお城を造ってみたり、逆に深い穴を掘ってトンネルを造ったりした。カップに砂と水を入れてコーヒーを作った気になった。Kくんは後に法政二高から法政大へと進学した。偶然にも僕と同じ理系で、僕は機械工学科、Kくんは電気電子工学科だった。缶けりや色鬼、四人乗りのブランコでもよく遊んだ。ある日ブランコを思いっきりこいでいたら口を激しく鉄パイプにぶつけて前歯が欠けてしまったこともあった。同じブランコで今度は左腕を骨折したこともあった。女の子とも遊んだ。一学年下のAちゃんや隣の借家に住んでいたTちゃんと遊んだ。一緒に水飴をなめたことを思い出す。Tちゃんは僕のことを好きで、さるちゃんさるちゃんと言っていたそうだ。兄とは程々に喧嘩もし、程々に遊んだ。兄と喧嘩しても勝ち目はないので手の小指を思いっきり引き裂いてピンポイント攻撃をした。将棋やオセロでは絶対に勝てないので遊ばなかった。そのころから負けん気が強かった。

 誕生日に超合金ロボットを買ってもらったことがある。友達が家に来ていてそのロボットで遊びたがった。神経質な僕は遊ばせる前に全員に石鹸で手を洗わせた。
ひとり遊びも好きだった。プラモデルも好きだったが、特に粘土細工は大好きでロボットを作っては壊し、作っては壊しした。このころからすでにひきこもりがちだったようである。外で遊ぶのも好きだったが家の中で遊ぶのも大好きだった。
 また、母の首の裏にある小さないぼをいじるのが好きだった。だっこしてもらうとちょうど目の位置にいぼがある。母はそれを嫌っていたが僕のいじり癖はなかなか治らなかった。
 
両親の生活
 父は病的とも言えるヒステリーだった。おかげで母も僕ら兄弟もガンガン罵られた。父はよく「離婚届の判を押すぞ」と母に怒鳴っていたが、母はそうはしなかった。なんといわれても反論し、さらに罵倒されていた。きっと僕ら子供のためと思ったのだろう。とても辛い思いをしたと思う。よくぞ家族を見捨てずに父が死ぬまで結婚していたと思う。僕ら兄弟が母子家庭にならなかったことは感謝せねばなるまい。
 父は厚生省社会保険庁に勤めていた。お役所だったからさぞかし退屈だったのであろう。仕事の時間に日曜大工の設計図を書いたり、旅行のプランを立てたりしていた。母は看護婦をしていたが僕が小学校二年生まで産休していた。復帰後はS新宿中央病院で中央材料室という患者には接しない部署で仕事をしていた。母は性格がおっとりしている。それは僕も引き継いでいるのだが、そのことで同僚にバカにされていたらしい。僕は都立のトップ校であるT高校へ進学し、そこから自転車ですぐの病院まで来て社員食堂で昼食を食べることがしばしばあった。そのことが同僚に嫉妬心をわかせ、母が鼻高々な様子だったことが記憶に新しい。
 
 父は毎日六時には家に帰ってきていた。職場での居心地が悪かったのだろう。精神面もかなり荒れていた。友人から電話がかかってくることもなく、飲み会に出席することもなかった。定時に帰ってきてひとりでキリンビールを飲むのが習慣だった。僕ら兄弟は父が帰ってくるまでに米研ぎと靴の整理をしておかねばならなかった。靴が乱れていると「さる! 何だこの脱ぎ方は!」と重大事のようにひどく怒られた。父のしつけは厳しかった。鉛筆の持ち方から箸の持ち方、机に座るときの姿勢、テーブルマナー、焼き魚をきれいに食べる方法、日曜大工、サラ金には手を出すな、などあらゆることに厳しかった。実際そのしつけは今の僕に残っている。その点は感謝せねばなるまい。ただし鉛筆の持ち方だけはどうしても直らなかった。
 
 僕は幼稚園か小学校の低学年の時に自殺企図をしている。それはあまりにも父が恐ろしかったからである。もう叱られたくないという気持ちだった。自殺企図といっても本格的なものではなく、布団をかぶって息を止めて窒息死しようとしたのである。もちろん未遂に終わったが気持ちの上では僕は死を選んだ。父の教育のせいで僕は人に怒られることを過敏に恐れるようになった。おかげで人の顔色を伺いながら人と接することしかできない人間になってしまった。

今日の日記「オカマ!」

こんばんみ! ちっくしょー、調子いいぜ。

今日のニュース。
首都圏の鉄道網まひ状態 新幹線、特急が相次ぎ運休
 台風22号の上陸で9日午後、関東から東海地方は激しい豪雨に見舞われ、JR、私鉄は相次いで運休、首都圏の鉄道網はまひ状態に陥った。東海道、東北新幹線や各地の特急も運休が相次いだ。(共同通信)

うちのあたりは車社会なので大丈夫なのですが、兄夫婦が小田急線沿いに住んでいて、全車運休と聞いているので大丈夫かなあと思っています。今日が土曜日でラッキーだったかもしれません。でもどこにも出かけられませんね。

今日の自分。
なにしたっぺ。そうそう、昨日変な時間に仮眠をとってしまって、起きたのが午前3時でした。それから眠剤を飲んで、眠くなるまで作業しようと思っていたら朝になってしまいました。そして寝る。午前中は勉強しようにも眠くてしかたありませんでした。

これじゃいかん! と思って中規模地方都市の船橋というところへいきました。ここに旭屋書店という大きな書店があるのです。なんだか今歴検に萌え萌えで、いい問題集はないか、ネットで調べてあったんです。

いつもならすぐクリックしちゃうところなのですが、勉強材料というものは自分が気に入ることができるかどうか、やはり自分の目で確かめてから買いたいですよね。

ここでひとつ問題が。駅前は非常に混むので路上駐車できません。駐車場に入れると500円くらいとられます。それが悔しい。料金所のおばちゃんも「駐車場を貸してやってる!」っていう感じの対応で気分が悪い。そこは入るのにも列ばなければならないので今日は新しいところを開拓しました。

本屋ではまず歴検のコーナーへ。ちょっぴりしか置いてません。やはりマイナーな資格なんですねえ。しかもお目当てのものがない。過去問は置いてあるのですが、そうじゃなく普通の問題集がほしかった。

次、入試コーナーへいく。驚くほど教材がありますね。そっかー、世の中日本史や世界史を学ぶ人が多いんだなあって思いました。僕は歴史の教材なんて買ったことがありませんでしたから未知の世界を知れました。

そこでは1問1答形式の問題集を探していました。たくさん種類はあるのですが、みんな字が細かい(笑)。そっかー、この1冊の中に入試に必要な情報を詰め込むとなるとこうなっちゃう訳ね、と納得。結局めぼしいものはありませんでした。

駐車場の時間が気になる。本屋でのんびりできないというのは不幸です。駐車料は320円でした。まあまあだ。

帰り、後ろからブルーバードが来ているのをルームミラーで確認する。sssってフロントグリルに書いてある20年くらい前のブルーバードです。懐かしいなあと思いながら信号を待つ。するとドスン! という衝撃が走る。瞬時には理解できなかったのですが、そのブルーバードにオカマを掘られたようでした。

車から降りてぶつかっていることを確認してから、運転手に「左に車を寄せましょう」とゼスチャーする。幸いリアバンパーがちょっとへこんだかな、でも見た目には分からないくらいものもでした。とりあえずお互いの連絡先を交換しましょうかということになる。

運転手は頭の良さそうな大学生風。すごく丁寧で「本当に申し訳ありませんでした!」と何回いったことか。警察を呼ぶかと聞くので「それはまあいいでしょう」と断りました。なんでもシートのリクライニング角度を変えようとしたらアクセルを踏んでしまったそうです。衝撃も軽かったし、僕の体もなんともなかったので連絡先を交換しただけで済ませました。

僕は今の車でけっこう事故やっているんですよね。ちょっと信号無視して交差点を抜けようとしたら横から衝突されたり。リアウインカーのプラスチックがいつの間にか割れていたり。母の車を車庫入れしようとしたらギアを入れ間違えて電柱に激突したり。

あのー、僕、一応体育会自動車部だったんですけどねえ・・・。壊れる度にダイハツへ行って修理して、3万だの30万だの払わされています。自動車保険の手続きをしたり、警察を呼んで事情を説明したり。そんなのもううんざり。今回オカマを掘ったSさんもとても丁寧だったし、直すほど変形もしていないしということで水に流しました。

オカマ掘られたのは生まれて初めてです。もちろん車の話ですよ。肉体的にはどうかというと・・・おいおい、僕はストレートだって(笑)。オカマ掘ったこともないですね。自動車事故って小さくても嫌なものです。忘れましょう。賢のお兄さん、これを読んでいますか? 母にはこのことを内緒にしているのでくれぐれもよろしくお願いします。

お尻の穴はちょっと痛かったけど無事に家に帰る(笑)。じき右京散歩。一番台風が近づいているときに散歩に行ってしまったみたいでした。かっぱもなにもびしょびしょ。帰ってから全部洗濯物に出しました。

夕飯はスーパーのお弁当。ほんと母さん、やる気ないです(笑)。にいちゃん、このことも秘密ね。日々飯にありつけるだけでしあわせです。食後ちょっとリビングで寝て今にチャイナ。今後の予定は勉強。明日も明後日も。勉強ライフに体育の日は関係ありません。最近体育してない。

そんなところでしょうか。せっかくのお休みが雨で残念でしたね。かといってこんな日に会社に行くのもうんざりでしょう。お家でのんびりがいいのではないでしょうか。それでは、ハブアナイスホリデー。

今日のお言葉
カマは掘っても掘られるな!
(まったり)

エッセイ17「アルバイト終了」

アルバイト終了
やっとその日でバイトが終わりました。翌日が最後じゃなかったのかって? 翌日はぶっちぎることにしました。もちろん電話くらいは入れますけど。
その日はかなりハイテンション、やる気モードを作り上げて臨んだのです。しかし、どうも社員が僕の行動を気に入らないようです。仕事が遅いだのといわれたり、こづかれたりしました。「ああ、この人は生理的に僕を嫌いなのだな」と思いました。きっと育ちの悪さから来るコンプレックスでしょう。
午前中で僕の精神は限界点に達していました。「その日で辞めよう」と完全決意。お金の奴隷になって働くことの屈辱がよくわかりました。母に「お金を稼ぐということはつらいことだ」といわれましたが、今回のバイトでしかお金を稼げないとしたら、浮浪者になって野垂れ死んだ方がましだと心底思いました。しかし幸いにも世の中には星の数ほどお金を稼ぐ方法はある。
今後はしばらくお休みします。たくさん寝たり、ゲームをやり込んだり。「だめ」であることの素晴らしさを満喫したいです。そして暇でどうしようもなくなったり、お小遣いが必要になったら、今度は人に使われている感じがしないバイトをしたいですね。人に極力接しない仕事。ポストにチラシを投函するバイトとか。家庭教師復活の可能性も。「先生」と呼ばれてお気楽。
なんか先のことが楽しくなってきました。やっぱり人生こうでなくっちゃいけない。天職に出会うまで何度でもバイトを辞めればいいと思います。そのうち収まるところに収まるでしょう。ちょっとポジティブですね。少し興奮しているのかも。

エッセイ16「プライド」

プライド
今気分がとてもいいです。数時間前までややブルーでした。それを変えてくれたのは友人です。つーか彼女だ! やっぱりこの人がいないとダメみたいです。この人とコミュニケーションがとれなくなったら、こじれにこじれて殲滅する可能性を感じる。
ブルーだった原因はバイトでした。その日はじめてしかられたんです。叱るというよりアドバイス程度ですけど。「もっと仕事のピッチあげてくれないかな。その日中に終わらないから」たったこれだけです。事実僕はかなり緩慢に仕事をしていました。辞めることは決まっているし、できるだけ楽してやろうと思って。かなり職場にむかついていたんですよ。ブルーカラーの仕事の低俗さ、年下のバイトくんにため語を使われて仕事の指示を出される。この歳で時給九○○円で同世代の人間に使われることの屈辱。もうバイトで使われるべき年齢ではないんだと痛感した。もう一度忠告を受けたら「じゃあもっとピッチのあがる人間を捜して下さい」っていってその場で帰ろうとさえ思っていました。大人の行動じゃないのはわかりますけど、僕は感情本意で生きているし、プライド高いですから。そこまで迎合して小遣い稼ぎする必要性はない。
でもその忠告は怒りではなく、へこみにつながりました。うじうじと自分の中で反芻して、夕食後にはふて寝。相手は軽い促しをしただけなのに、それを自分の中でどんどんネガティブにふくらませていってしまう。やっぱり体を動かす仕事がいいのかもと思ってはじめたバイトだけど、人に使われたり、人を交わったりするのはダメだと思いました。
バイトはあと二回。円満退職したいので来週はやる気を一○%だけ持ち上げて気持ちよく終わらせたいと思っています。

エッセイ15「アイデンティファイ」

アイデンティファイ
車検に出す車があって、母と二台で整備工場へいった。小学校の頃、「よろしくメカドック」っていうマンガを好きになって、整備士になろうと思ったこともあったけど、ならなくてよかったと思った。所詮ブルーカラーの低賃金所得者。一生油にまみれる人生なんてぞっとする。
最近他人を否定することで自分をアイデンティファイしていることが多いのを感じる。そうするしか自分の存在を説明できないのだろう。今の自分に他人を否定せずに自分を受け入れられることができるだろうか。わかりませんけど、楽で簡単なんですよね。誰しもやっていることだとは思いますが。嫌な自己受容法ですよね。
午後は昼寝とアニメ鑑賞。もうすぐアニメも終わりです。次はゲームに走るか、レンタルビデオ屋に走るか、ヤフオク落札に走るか。いずれにしても自分の中にストーリーを持っているっていうのはいいことですね。それがないと「人生の意味とは?」なんてこじれてくる。
僕は小説はほとんど読みません。他人のつくったデタラメ話に価値はないと思っているから。マンガもしかり。でも人はストーリーを求めて本やマンガや映画を見ますよね。なんでなのでしょう。人生に他人のストーリーを取り込んでいかなければ自滅あるのみ、と本能的にわかっているのでしょうか。それとも単なる脳への快楽刺激なのか。ほんと、小説やマンガっていったい何なんだろうってよく思います。理解できません。