賢の半生記③/8 | あなたのココロ、治します。

賢の半生記③/8

賢の半生記③/8



  小学校時代
               
   学業の成績
 1979年に僕は新宿区立Y第七小学校へ入学した。一年二組だったと思う。担任はM先生という男の先生だったが、おかまのようなしゃべり方をした。低学年で覚えていることは少ない。ただ国語の教科書を読むのが好きだった。作文を書くのは遅かったが好きだった。休み時間を潰してまで作文を書いた。

 Y七では成績は五段階評価ではなく、「よくできた」「だいたいできた」「もう少しがんばろう」の三段階評価だった。僕はいつも「よくできた」ばかりだった。それが当たり前なのだろうと思っていたが、Sくんの成績表を見て驚いた。ほとんどが「もう少しがんばろう」で「よくできた」はひとつもなかった。そのときに初めて僕は勉強ができるのかもしれないと思った。それと同時に先生のえこひいきがあるのではないかと思った。Sくんは貧乏な家庭で、いつも同じ汚い服を着ていたし、先生からも嫌われているようだった。
 僕が少し手こずったのは算数の三桁のわり算だった。クラスの半分くらいの生徒が居残り勉強をした。僕はやっとわり算の仕方を理解した。算数はなんて面白いんだろうと思った。それ以外にわからないことはなかった。

スポーツ
 二年生の時に僕は野球部に入った。運動神経はよかったが特に野球が好きでもなかった。六年生の終わりまでに二回ほど野球をやめたいと親にいったことがあった。「最後まで続けたらいいことがあるよ」といわれ、六年生まで続けた。筋力が付いてスポーツはほとんどよくできた。そのおかげでクラスの人気者になった。野球部は毎月ほとんど毎日練習があった。今の東京都庁が建っているところはそのころは四号地と呼ばれる少年野球場だった。
 ここで卒業アルバムの文集を引用したいと思う。

 六年間の小学校の一番の思い出
  Y七バッファローズ
僕は小学校の二年生の十月にY七バッファローズに入った。はじめは野球もあまり知らなかったし、好きではなかったけど周りの人がみんな入部していたし、兄も推薦したからだった。
 今のKくんの弟のノッくんやHくんたち二年生が練習しているのを見るとあのときのことを思い出す。「あんなにへたくそだったかなあ」
 僕はあのとき二軍でセカンドだった。六年生になったらちょうどよくなるという理由でだぶだぶのユニフォームを着てやった初めての試合はTわかばクラブとだった。今ではY七の相手ではないけれどそのときはこっちが下手だったから負けてしまった。コーチに叱られて、床屋のコーチに全員丸坊主にされた。その日から今まで、季節を問わず何百回も練習を積み、何十回も試合をして野球を知り、毎年夏休みには軽井沢へきつい合宿へいった。
 
 朝は六時に起きて登り降り砂利道のコースを五周走った。一周約千二百メートルあるので六キロ走ったことになる。いつも三位までには、のぶしゃん、パタン、僕が入った。
 日中はノック、アメリカンノック、マラソン、バッティングキャッチボールなど基礎から、ダブルプレーなどの練習をやった。アメリカンノックとはコーチが右へ左へとボールを投げて飛びついてとる、合宿でもっともきつい練習だった。
 軽井沢は朝夕は涼しくマラソンにぴったりだけど、昼は太陽がガンガン降り続く中でほんの少しの休憩を挟んでずっと練習をした。
 こんな練習を重ねていって審判やいつも野球を見ている人たちから「今年のY七は期待できそうだ」という目で見られ秋の大会に向かったが、Y七と同じ優勝候補のY四ビクトリーに押さえられてしまって優勝のお祝いはできなかったけど、体力と思い出という素晴らしいものができた。

 小学校ではほとんど野球漬けだった。カバンにグローブとバットをつっこんで北新宿の家から四号地まで毎日自転車で通った。僕はいろいろなポジションをやった。二軍ではキャッチャーも経験したし、一軍に上がってからはピッチャーとサード、ファースト以外はすべて経験した。僕がうまくなったわけではなく、上手な子が親の転勤で辞めていってしまったのである。最終的にはショートで六番バッターに落ち着いた。ホームランも何本か打った。生涯成績は三割だったという。僕はくそまじめでマラソンでもかけ声でもすべて真剣にやった。練習も一生懸命やったが、守備は危なっかしく、ファーストに送球するのに暴投ばかりしていた。僕はショートというポジションが気に入っていた。一軍でプレーできるのも幸せだった。

 野球だけやっていたわけではなかった。サッカーも人気があった。Y七では四年生からクラブに入ることになっていた。プラモデルが好きだった僕はまず模型クラブに入った。しかし外で活き活きとサッカーをやっている人たちをちょっとうらやましく思ったり、友人の誘いもあって五年生からサッカー部に入った。兄が運動神経がよく、ゴールキーパーをつとめていたこともあり、僕はいきなりキーパーに抜擢された。その後適性がないと先生が判断したのか、左のフォワードになった。左足では蹴れない僕が抜擢されたのは理解不能だったのだが、それだけ先生が僕の身体能力を買ってくれていたのだと思う。卒業までサッカー部を続けた。

   ラジコン
 五年生頃だったろうか。僕は田宮模型のオフロードラジコンをとても強く欲しがった。誕生日のお祝いに買ってと母に持ちかけた。母はなかなか首を縦に振らなかったが、僕がいかにそのラジコンが楽しいのかを説明したのが効いたのか、やっと買ってもらえることになった。今でも覚えている。一万四千八百円のマイティフロッグというラジコンだった。ラジコンは本体だけでは動かない。バッテリーとコントローラが必要だった。合計三万円くらいかかった。高いおもちゃだったが僕はそのラジコンで本当によく遊んだ。自分で組み立てるタイプのものだったので作るのが楽しく、走らせたあとの整備も楽しかった。わずかなお小遣いを貯めては新しい部品を買った。あだ名がパタンというKくんもラジコン仲間だった。ラジコンを五人くらいはやっていただろうか。幼なじみのHくんはラジコンを買って「よかった。これでラジコン仲間に入れる」といっていた。コミュニケーションツールであったラジコンは幼なじみを苦しめていたのである。

   もてもて
 僕は高学年になってから急にもてだした。みんなが僕に優しくしてくれた。なぜ僕なのだろうと思った。きっと両親がクラスメイトにお金を渡して仲良くしてやってくれといったに違いないと本気で思っていた。文集にこんなことが書かれていた。「マービーはかっこよくて女子にもてた。そのわけはやさしいからだろう。でも少し怒りっぽい」だそうだ。それが文集委員が見た僕だったわけだ。
 
 マービーというあだ名が定着していた。さるという名前だから以前はマーボーと呼ばれていた。クラスの人気ナンバーワンの女の子でTという子がいた。僕は何も魅力を感じなかったが、クラスの大半の男子はTを好きだった。彼女は「たむちゃん」と呼ばれていた。それが僕には「たもちゃん」と聞こえ、やーい、たもちゃんたもちゃんとからかっていた。そうすると彼女は僕がしたのと同様にあだ名の語尾を変えてきた。「なんだよマービー」。するとその呼び方は一気に広まって学年のほとんどの生徒がマービーと僕を呼んだ。

 僕に取り巻きができた。休み時間になると僕を好きな女の子が五人ほど僕の机に集まり、からかったりからかわれたりしてコミュニケーションをとった。悪い気分ではない。幸せすぎると思った。男にも女にも僕はもてた。バレンタインデーには取り巻きの女の子がチョコレートをくれた。相手の気持ちを大切にしたいと思い、その日のうちに全部のチョコレートを食べた。

 そのうちのひとり、Mちゃんが僕に熱烈なラブレターをくれた。僕はそれまで何とも思っていなかったが、手紙を読んでMちゃんを好きになった。だからといって特別なことは何もしなかった。つき合うわけでもなく、一緒に遊びに行くわけでもなかった。Mちゃんはそのことについてなんのクレームも付けなかった。僕はうぶだったし、つき合うといっても何をしたらいいのか全くわからなかった。その後Mちゃんとは僕の方から別れを切り出さなければならなくなった。新しい彼女ができたのである。