賢の半生記 ②/8
賢の半生記②/8
故郷と幼児期、そして両親の生活
故郷
出身は? と聞かれると少し困ってしまう。産まれたのは北海道の名寄市立病院だが、それは出産に当たって母が実家に帰ったからであり、当時家族は千葉県稲毛市に住んでいた。そこには僕は三歳までしかいなくて、それからは東京の新宿に移り住み、僕が高校卒業と同時に僕は中野の下宿へ、家族は現在住んでいる千葉県白井市に引っ越した。だから出生は名寄になり、出身は新宿であるといったらいいのだろうか。稲毛のことはほとんど覚えていない。団地の五階に住んでいたという。兄は稲毛の保育園に通ったらしいので多少記憶があるらしい。大きくなってからその団地に行ってみたことがあるが、よく遊んだらしい小さな砂場をかろうじて覚えているような気がするだけである。新宿に移ってからの記憶は割とある。
稲毛に住んでいたときの面白いエピソードがある。僕は全く記憶がなく、母からあとで聞いたものだ。僕が一歳か二歳の頃、母が朝ランニングにいくときのことだ。兄と父はそれぞれ会社と保育園に行っていて僕と母親の二人だけだった。母は家の鍵を持たずにランニングに出かけようとした。僕もそれを追ってドアの部分をがちゃがちゃといじった。そうすると内側から鍵がかかってしまった。母はちょっと出かけるつもりでいたので鍵を持っていなかった。母は口頭で鍵の開け方をドア越しに一生懸命説明したが、僕はまるでそれを理解できなかったらしい。住宅の五階だったので母ははしご車を呼んだ。はしご車でベランダから中に入り、事なきを得たという。僕はこの話題をいたく気に入っている。
稲毛でもう一つエピソードがある。走り回り事件である。家族で公園に遊びに行ったそうだ。そこには陸上競技用のトラックがあった。なぜだかわからないが僕は走ることが好きだったようで、親にもうやめなさいといわれるまで延々と走り続けたという。中学生になって新宿区の陸上競技大会でろくに練習もせずに四位入賞できたのもこの天性の「走る」才能のおかげだったかもしれない。
幼児期
僕は三歳の時に新宿の公務員アパートに移り住んできた。僕はしゃべりだすのが遅かったそうだ。それで知恵遅れかもしれないと両親を心配させた。小さい頃から泣き虫で、それは今も変わらない。幼稚園はY第一幼稚園へ通った。ちょうどY第七幼稚園との境にあってどちらに行ってもよい状況だった。小学校はY第七小学校へ行った。幼稚園ではSくんの手下だった。控えめだった僕とは対照的にSくんは独裁的だったので自然に手下のようになってしまった。泣きながらSくんの家まで走っていったことを覚えている。Sくんの家では「おやつ」としてうどんが出された。おやつは甘いものだと思っていたし、おやつの時間にうどんを食べてしまっては夕飯が食べられなくなってしまうと思った。文化の違いを感じた。
幼稚園時代から僕は神経質だった。ティッシュのような柔らかい紙で造花を作る時間があった。折り紙のようなしっかりした紙なら折るのが好きだったが、柔らかい紙ではきっちりと両端をあわせることが難しかった。そのころから完全主義者だった僕は「こんなことできない」と泣き出した。それを見て近くにいたTくんが「俺がやってやるよ」といって造花を作ってくれた。Tくんは元気のいい、比較的乱暴者だったから造花も多少乱れていても平気な様子だった。とにかく造花はできた。それを先生に提出した。Tくんには開眼させられた。百パーセントの出来でないからといって全く作らないよりは多少荒くても七十パーセントの出来で提出した方がよいということを学んだ。
絵を描くのはこのころからすでに苦手だった。才能がなかったのだろう。卒園アルバムの表紙に何か絵を描かなければならないことになって、僕はずいぶん苦労した。何を書いてもいいということで僕は幼稚園みんなでいった水族館の絵を描いた。嫌で嫌でたまらなかったが無理矢理形にして提出した。そのかわりお遊戯は大好きだった。「地球ドンドン」という歌が大好きで今でも曲を覚えている。お弁当の歌も好きだった。「これっくらいの おべんとばっこに おにぎりおにぎりちょいとつめて」という歌だ。今では踊ることはできないがカラオケなどで歌うのは好きである。
好きな人もいた。三歳上の兄がしつこく誰だか聞くので僕は全然好きじゃないGちゃんの名前を挙げた。兄はそれが本当だと信じ込んでずいぶん後までからかわれた。
砂遊びが好きだった。住宅には砂場があったので同級生のKくんと毎日のようにどろんこになって遊んだ。大きなお城を造ってみたり、逆に深い穴を掘ってトンネルを造ったりした。カップに砂と水を入れてコーヒーを作った気になった。Kくんは後に法政二高から法政大へと進学した。偶然にも僕と同じ理系で、僕は機械工学科、Kくんは電気電子工学科だった。缶けりや色鬼、四人乗りのブランコでもよく遊んだ。ある日ブランコを思いっきりこいでいたら口を激しく鉄パイプにぶつけて前歯が欠けてしまったこともあった。同じブランコで今度は左腕を骨折したこともあった。女の子とも遊んだ。一学年下のAちゃんや隣の借家に住んでいたTちゃんと遊んだ。一緒に水飴をなめたことを思い出す。Tちゃんは僕のことを好きで、さるちゃんさるちゃんと言っていたそうだ。兄とは程々に喧嘩もし、程々に遊んだ。兄と喧嘩しても勝ち目はないので手の小指を思いっきり引き裂いてピンポイント攻撃をした。将棋やオセロでは絶対に勝てないので遊ばなかった。そのころから負けん気が強かった。
誕生日に超合金ロボットを買ってもらったことがある。友達が家に来ていてそのロボットで遊びたがった。神経質な僕は遊ばせる前に全員に石鹸で手を洗わせた。
ひとり遊びも好きだった。プラモデルも好きだったが、特に粘土細工は大好きでロボットを作っては壊し、作っては壊しした。このころからすでにひきこもりがちだったようである。外で遊ぶのも好きだったが家の中で遊ぶのも大好きだった。
また、母の首の裏にある小さないぼをいじるのが好きだった。だっこしてもらうとちょうど目の位置にいぼがある。母はそれを嫌っていたが僕のいじり癖はなかなか治らなかった。
両親の生活
父は病的とも言えるヒステリーだった。おかげで母も僕ら兄弟もガンガン罵られた。父はよく「離婚届の判を押すぞ」と母に怒鳴っていたが、母はそうはしなかった。なんといわれても反論し、さらに罵倒されていた。きっと僕ら子供のためと思ったのだろう。とても辛い思いをしたと思う。よくぞ家族を見捨てずに父が死ぬまで結婚していたと思う。僕ら兄弟が母子家庭にならなかったことは感謝せねばなるまい。
父は厚生省社会保険庁に勤めていた。お役所だったからさぞかし退屈だったのであろう。仕事の時間に日曜大工の設計図を書いたり、旅行のプランを立てたりしていた。母は看護婦をしていたが僕が小学校二年生まで産休していた。復帰後はS新宿中央病院で中央材料室という患者には接しない部署で仕事をしていた。母は性格がおっとりしている。それは僕も引き継いでいるのだが、そのことで同僚にバカにされていたらしい。僕は都立のトップ校であるT高校へ進学し、そこから自転車ですぐの病院まで来て社員食堂で昼食を食べることがしばしばあった。そのことが同僚に嫉妬心をわかせ、母が鼻高々な様子だったことが記憶に新しい。
父は毎日六時には家に帰ってきていた。職場での居心地が悪かったのだろう。精神面もかなり荒れていた。友人から電話がかかってくることもなく、飲み会に出席することもなかった。定時に帰ってきてひとりでキリンビールを飲むのが習慣だった。僕ら兄弟は父が帰ってくるまでに米研ぎと靴の整理をしておかねばならなかった。靴が乱れていると「さる! 何だこの脱ぎ方は!」と重大事のようにひどく怒られた。父のしつけは厳しかった。鉛筆の持ち方から箸の持ち方、机に座るときの姿勢、テーブルマナー、焼き魚をきれいに食べる方法、日曜大工、サラ金には手を出すな、などあらゆることに厳しかった。実際そのしつけは今の僕に残っている。その点は感謝せねばなるまい。ただし鉛筆の持ち方だけはどうしても直らなかった。
僕は幼稚園か小学校の低学年の時に自殺企図をしている。それはあまりにも父が恐ろしかったからである。もう叱られたくないという気持ちだった。自殺企図といっても本格的なものではなく、布団をかぶって息を止めて窒息死しようとしたのである。もちろん未遂に終わったが気持ちの上では僕は死を選んだ。父の教育のせいで僕は人に怒られることを過敏に恐れるようになった。おかげで人の顔色を伺いながら人と接することしかできない人間になってしまった。
故郷と幼児期、そして両親の生活
故郷
出身は? と聞かれると少し困ってしまう。産まれたのは北海道の名寄市立病院だが、それは出産に当たって母が実家に帰ったからであり、当時家族は千葉県稲毛市に住んでいた。そこには僕は三歳までしかいなくて、それからは東京の新宿に移り住み、僕が高校卒業と同時に僕は中野の下宿へ、家族は現在住んでいる千葉県白井市に引っ越した。だから出生は名寄になり、出身は新宿であるといったらいいのだろうか。稲毛のことはほとんど覚えていない。団地の五階に住んでいたという。兄は稲毛の保育園に通ったらしいので多少記憶があるらしい。大きくなってからその団地に行ってみたことがあるが、よく遊んだらしい小さな砂場をかろうじて覚えているような気がするだけである。新宿に移ってからの記憶は割とある。
稲毛に住んでいたときの面白いエピソードがある。僕は全く記憶がなく、母からあとで聞いたものだ。僕が一歳か二歳の頃、母が朝ランニングにいくときのことだ。兄と父はそれぞれ会社と保育園に行っていて僕と母親の二人だけだった。母は家の鍵を持たずにランニングに出かけようとした。僕もそれを追ってドアの部分をがちゃがちゃといじった。そうすると内側から鍵がかかってしまった。母はちょっと出かけるつもりでいたので鍵を持っていなかった。母は口頭で鍵の開け方をドア越しに一生懸命説明したが、僕はまるでそれを理解できなかったらしい。住宅の五階だったので母ははしご車を呼んだ。はしご車でベランダから中に入り、事なきを得たという。僕はこの話題をいたく気に入っている。
稲毛でもう一つエピソードがある。走り回り事件である。家族で公園に遊びに行ったそうだ。そこには陸上競技用のトラックがあった。なぜだかわからないが僕は走ることが好きだったようで、親にもうやめなさいといわれるまで延々と走り続けたという。中学生になって新宿区の陸上競技大会でろくに練習もせずに四位入賞できたのもこの天性の「走る」才能のおかげだったかもしれない。
幼児期
僕は三歳の時に新宿の公務員アパートに移り住んできた。僕はしゃべりだすのが遅かったそうだ。それで知恵遅れかもしれないと両親を心配させた。小さい頃から泣き虫で、それは今も変わらない。幼稚園はY第一幼稚園へ通った。ちょうどY第七幼稚園との境にあってどちらに行ってもよい状況だった。小学校はY第七小学校へ行った。幼稚園ではSくんの手下だった。控えめだった僕とは対照的にSくんは独裁的だったので自然に手下のようになってしまった。泣きながらSくんの家まで走っていったことを覚えている。Sくんの家では「おやつ」としてうどんが出された。おやつは甘いものだと思っていたし、おやつの時間にうどんを食べてしまっては夕飯が食べられなくなってしまうと思った。文化の違いを感じた。
幼稚園時代から僕は神経質だった。ティッシュのような柔らかい紙で造花を作る時間があった。折り紙のようなしっかりした紙なら折るのが好きだったが、柔らかい紙ではきっちりと両端をあわせることが難しかった。そのころから完全主義者だった僕は「こんなことできない」と泣き出した。それを見て近くにいたTくんが「俺がやってやるよ」といって造花を作ってくれた。Tくんは元気のいい、比較的乱暴者だったから造花も多少乱れていても平気な様子だった。とにかく造花はできた。それを先生に提出した。Tくんには開眼させられた。百パーセントの出来でないからといって全く作らないよりは多少荒くても七十パーセントの出来で提出した方がよいということを学んだ。
絵を描くのはこのころからすでに苦手だった。才能がなかったのだろう。卒園アルバムの表紙に何か絵を描かなければならないことになって、僕はずいぶん苦労した。何を書いてもいいということで僕は幼稚園みんなでいった水族館の絵を描いた。嫌で嫌でたまらなかったが無理矢理形にして提出した。そのかわりお遊戯は大好きだった。「地球ドンドン」という歌が大好きで今でも曲を覚えている。お弁当の歌も好きだった。「これっくらいの おべんとばっこに おにぎりおにぎりちょいとつめて」という歌だ。今では踊ることはできないがカラオケなどで歌うのは好きである。
好きな人もいた。三歳上の兄がしつこく誰だか聞くので僕は全然好きじゃないGちゃんの名前を挙げた。兄はそれが本当だと信じ込んでずいぶん後までからかわれた。
砂遊びが好きだった。住宅には砂場があったので同級生のKくんと毎日のようにどろんこになって遊んだ。大きなお城を造ってみたり、逆に深い穴を掘ってトンネルを造ったりした。カップに砂と水を入れてコーヒーを作った気になった。Kくんは後に法政二高から法政大へと進学した。偶然にも僕と同じ理系で、僕は機械工学科、Kくんは電気電子工学科だった。缶けりや色鬼、四人乗りのブランコでもよく遊んだ。ある日ブランコを思いっきりこいでいたら口を激しく鉄パイプにぶつけて前歯が欠けてしまったこともあった。同じブランコで今度は左腕を骨折したこともあった。女の子とも遊んだ。一学年下のAちゃんや隣の借家に住んでいたTちゃんと遊んだ。一緒に水飴をなめたことを思い出す。Tちゃんは僕のことを好きで、さるちゃんさるちゃんと言っていたそうだ。兄とは程々に喧嘩もし、程々に遊んだ。兄と喧嘩しても勝ち目はないので手の小指を思いっきり引き裂いてピンポイント攻撃をした。将棋やオセロでは絶対に勝てないので遊ばなかった。そのころから負けん気が強かった。
誕生日に超合金ロボットを買ってもらったことがある。友達が家に来ていてそのロボットで遊びたがった。神経質な僕は遊ばせる前に全員に石鹸で手を洗わせた。
ひとり遊びも好きだった。プラモデルも好きだったが、特に粘土細工は大好きでロボットを作っては壊し、作っては壊しした。このころからすでにひきこもりがちだったようである。外で遊ぶのも好きだったが家の中で遊ぶのも大好きだった。
また、母の首の裏にある小さないぼをいじるのが好きだった。だっこしてもらうとちょうど目の位置にいぼがある。母はそれを嫌っていたが僕のいじり癖はなかなか治らなかった。
両親の生活
父は病的とも言えるヒステリーだった。おかげで母も僕ら兄弟もガンガン罵られた。父はよく「離婚届の判を押すぞ」と母に怒鳴っていたが、母はそうはしなかった。なんといわれても反論し、さらに罵倒されていた。きっと僕ら子供のためと思ったのだろう。とても辛い思いをしたと思う。よくぞ家族を見捨てずに父が死ぬまで結婚していたと思う。僕ら兄弟が母子家庭にならなかったことは感謝せねばなるまい。
父は厚生省社会保険庁に勤めていた。お役所だったからさぞかし退屈だったのであろう。仕事の時間に日曜大工の設計図を書いたり、旅行のプランを立てたりしていた。母は看護婦をしていたが僕が小学校二年生まで産休していた。復帰後はS新宿中央病院で中央材料室という患者には接しない部署で仕事をしていた。母は性格がおっとりしている。それは僕も引き継いでいるのだが、そのことで同僚にバカにされていたらしい。僕は都立のトップ校であるT高校へ進学し、そこから自転車ですぐの病院まで来て社員食堂で昼食を食べることがしばしばあった。そのことが同僚に嫉妬心をわかせ、母が鼻高々な様子だったことが記憶に新しい。
父は毎日六時には家に帰ってきていた。職場での居心地が悪かったのだろう。精神面もかなり荒れていた。友人から電話がかかってくることもなく、飲み会に出席することもなかった。定時に帰ってきてひとりでキリンビールを飲むのが習慣だった。僕ら兄弟は父が帰ってくるまでに米研ぎと靴の整理をしておかねばならなかった。靴が乱れていると「さる! 何だこの脱ぎ方は!」と重大事のようにひどく怒られた。父のしつけは厳しかった。鉛筆の持ち方から箸の持ち方、机に座るときの姿勢、テーブルマナー、焼き魚をきれいに食べる方法、日曜大工、サラ金には手を出すな、などあらゆることに厳しかった。実際そのしつけは今の僕に残っている。その点は感謝せねばなるまい。ただし鉛筆の持ち方だけはどうしても直らなかった。
僕は幼稚園か小学校の低学年の時に自殺企図をしている。それはあまりにも父が恐ろしかったからである。もう叱られたくないという気持ちだった。自殺企図といっても本格的なものではなく、布団をかぶって息を止めて窒息死しようとしたのである。もちろん未遂に終わったが気持ちの上では僕は死を選んだ。父の教育のせいで僕は人に怒られることを過敏に恐れるようになった。おかげで人の顔色を伺いながら人と接することしかできない人間になってしまった。