あなたのココロ、治します。 -55ページ目

賢の半生記⑧/8

賢の半生記⑧/8


  社会人・現在の楽しみ

                
   社会人

 僕はS内外國特許法律事務所に就職することになった。スーツを二着兄に買ってもらった。ワイシャツとネクタイは兄のものを借りた。靴は父が履いていたものを使った。ネクタイが首を絞めるようでうっとうしかった。靴も革靴で疲れやすかった。
 入社前に事前に課題が与えられていた。ひとつは特許についての大まかな話が書かれた本を読んで感想を書けというもの。これは新入社員全員に与えられたようだった。僕にはもう一つの課題があった。機械工学畑の僕が取り組もうとされている仕事は液晶ディスプレイに関するものだった。本来電気電子工学科が行うべき仕事だった。それを人間が足りないからやれということだった。液晶に関する知識を事前に与えられて課題をこなさなければならなかった。ちょうど卒業研究発表と引っ越しの準備に追われているときで、忙しかった。後にこの課題は石井部長から送られてきたものだとわかった。僕は石井部長の直属の部下になった。
 
 入社式の日が来た。僕はとても緊張していた。案内された部屋には女性ばかり十名ほど、男性は僕を含めて四名しかいなかった。女性陣は事前にアルバイトという形で仕事をすでに始めていた。だから仲のいいグループができあがっていた。工学系の男性陣三名は初顔合わせだった。もうひとりの男性は事務職でやはりアルバイトをしていた。
 全員がそろった段階で一階の職場にならばされた。事務所は特許庁のすぐ横のビルをほとんど借り切っていた。社長からひとりずつ名前と学歴と配置部署を読み上げられた。ひとり一言ずつ挨拶をした。僕は緊張のあまり声が出ず、低い声でもぞもぞとしゃべった。挨拶が終わると自分の机が用意された。部長と向かい合って座らねばならず、パーテーションもなかった。机には東芝のノートパソコンがおかれているだけだった。Sでは仕事の約七割を東芝からもらっていた。机に座らされて何もやることがなかったので辺りを見回してみた。広いフロアの半分に事務職、もう半分に技術職が座っていた。技術職は七部まであり、僕は五部に配属され、同じフロアには四部と六部が入っていた。

 僕は対人恐怖症のようなものがあり、部長と毎日顔をつきあわせることがひどくストレスだった。それに毎日七時前に起き、ひげを剃って髪をとかし、日本一運賃が高いといわれているH線に乗って虎ノ門まで行くことがひどく苦痛だった。革靴も、スーツもネクタイもすべてが嫌だった。
 新入社員と中途採用者は箱根へ行って合宿をすることになっていた。僕はそれも嫌だった。合宿の席で新入社員は芸をすることになっていた。少ない時間の中で技術者五人は芸を披露した。先輩にはつまらないといわれた。
 
 技術職というのは何をするのかというと、まずクライアントから発明や実用新案を受け取る。それをできるだけ広く権利範囲をとるような技術明細書をワープロで打つのが仕事だった。僕は出版社で働きたかったくらいだから技術明細書作成という職種はさぞかし自分にあっているだろうと思っていた。しかしそうはいかなかった。明細書作成は職人的技術が必要であり、一人前になるには十年かかるといわれていた。事務職の女性たちは意匠や登録商標、外事などをやっていた。
 研修期間が三か月あった。一般事務の女性と一緒に受ける一般研修が終わってから技術者は技術研修も受けなければならなかった。そこで実際に明細書の作成を教わった。言葉の選び方からして、一体何が正しくて何が間違いなのか、講師によってまちまちだった。僕は最初から張り切ると後で疲れると思ってできるだけリラックスするように心がけた。居眠りもした。僕は一番出来の悪い社員だった。
 週五日の通勤電車での行き来はとても体力的につらく、ストレスがたまるばっかりだった。何とかストレス発散をしようとタブレットやガムを常に口にしたり、MDで音楽を聴いたりした。それでも体力的ストレス、対人恐怖によるストレスは解消されなかった。三か月の研修期間で僕のストレスは爆発寸前だった。
 
 そんな状態である日、玲子の夢を見た。玲子は中学と高校でつきあっていた彼女で、僕が奥手だったためにキスくらいしかしていなかった。自然消滅してずっと忘れていたある日、玲子の夢を見たのだった。それで無性に玲子にあいたいと思い、飲みに誘った。玲子は見違えるほど魅力的な女性に変わっていた。僕は玲子にHをしたいといった。しかし断られた。玲子は
「今年の九月に結婚するんだ」
といって婚約者の名刺を僕に見せた。僕は絶望した。なぜ玲子の夢なんかを見たのかわからなかったが、会社でのストレスが最高潮に達していたときだったので、自分の人生はもう終わったと思った。
 三か月の技術者研修が終わった。僕はその日に自殺するつもりでいたのでぐびぐびと酒を飲み、先輩の女子社員にセクハラまがいの言葉を投げかけた。飲み会が終わり、南北線で紀子の家に泊まることになっていた。赤羽で降りてさあ、どうやって死んでやろうかと思った。憎いネクタイをはずしてこれで首を吊ってやろうと考えた。赤羽公園で木にくくりつけて死のうと思っていたが、予想外に明るく、人もいた。僕は仕方がないのでトイレの個室に入り、荷物かけにネクタイをくくりつけた。ああ、本当に死のうとしていると思った。怖くて手がふるえた。しかし全体重をかける前に金属のフックがおれてしまい、それと同時に僕の気持ちも醒めてしまった。
 
 紀子に電話をかけた。駅前のカラオケ屋で姉やその彼氏と歌っているという。僕もそれに合流してがなり立てて歌を歌った。
 紀子の部屋に入ってすぐベッドに横になった。そして紀子にさっきしてきたことを話した。紀子がどんな反応をしたかは覚えていない。
 月曜日は会社を休んだ。火曜日も休んだ。僕は自殺未遂の話を兄と母に話した。
「のりちゃんとつきあっているのにどうして玲子の事なんて出てくるの?」
そう母はいった。僕は
「だから所詮キチガイの戯言なんだよ」
といった。二人とも黙ってしまった。
 火曜日にいつも通っている大学病院の精神科へ行った。自殺したいという意志があることを医者に話した。その日のうちに入院することになった。僕に与えられたベッドは七階の窓側で、とても天気が良く気持ちがよかった。公に会社を休めてうれしかった。部長からは研修期間を延長しようかなどといわれていたので、会社には復帰できるものと思っていた。しかし人事から実家に電話が入り、他のお仕事を探されてはどうかといわれた、と母が告げた。実質上の首である。当たり前だとも思った。僕が雇用主だったらこんな人間は雇わないだろう。母と紀子が毎日見舞いに来てくれた。特に紀子は電車の定期券まで買って遠いところをわざわざ来てくれた。
 
 病院生活は快適そのものだった。食事もまあまあだったし、そこに集った人々も楽しかった。談話室で机を並べてみんなで食事を食べた。うつのUさんとOさん、耳鼻科のIさんとFさん、外科のIさん。毎日五、六人で食事をともにした。
 家からパソコンを持ってきてもらって僕はSの同期や友人たちにそううつ病で自殺未遂をした、会社を首になった、などとあからさまにメールを送った。たばこを吸うことも覚えた。喫煙室での談話は相手との距離を近くした。楽しくて仕方がなかった。
 しかし、ある日僕がパソコンを使っているのを精神科科長が見て、そろそろ退院してはどうかといってきた。まだ入院して二週間ほどだった。もっと入院していたいと申し出たが結局受け入れられず、一時退院を含めて三週間で退院することとなった。
 
 退院したらやりたいことがいっぱいあった。その中でも家庭教師や塾講師をしたいと思っていた。抜き打ちで塾に入ってバイトをさせてもらえないかと話した。理系の勉強を教えられるということで採用された。塾講師は個別指導でスーツを着ていかなければならなかった。そしてたくさん教えたくても講師の人数が多く、授業をなかなか任せてくれなかった。塾に見切りをつけたときにインターネットで家庭教師のトライが教師を募集していたので早速申し込んだ。
 担当することになったのは隣の市に住んでいる小学五年生だった。教材は日能研のものがすでに与えられていて、それを一緒に解いていくという形をとった。本来は自習するものだろうが、その子は出来の悪い子だった。双子のうちの兄で、Aくんといった。家庭教師は週三回、一回に九十分を担当した。お金は月に三万円程度にしかならなかったが、楽でそこそこ楽しかったので十ヶ月も続いた。科目は国語、算数、理科、社会。どれもテキストを読んで問題解答に当たる形式をとったがなかなか理解も記憶力もよくなかった。お父さんが司法書士をやっているので遺伝子的には母方の影響なのかと思った。
 
 家庭教師を辞めることになったのは六年生になって塾に通わせたいという理由だった。それが正解だと思った。
 紀子とつきあって六年になっていた。紀子は
「ねえ、お嫁さんにしてくれる?」
とよく聞いた。僕も実感がなかったから
「お嫁さんにするよ」
と答えていた。しかし、僕の病気は治るのに五年から十年かかるといわれていた。病気の状態では仕事をして紀子を食べさせてやれないし、そんなに待たせていられなかった。紀子は親から二十七歳までに結婚しろといわれていた。タイムリミットが近づいていた。
 僕は玲子の件で一度紀子を裏切った。だから紀子も一度裏切ったという。北海道のメル友がわざわざ東京まで飛行機で会いに来たという。紀子が他の男と接触したということで僕は絶望的な気持ちになった。無職で病気で彼女に裏切られた男。その話を聞いたとき、死のうと思った。実家の二階のベランダに結びつけてあるロープを使って首吊り自殺をしようとしたのである。しかし苦しいばかりで死ねそうになかったのでやめてしまった。やけ酒を飲んだ。母に首を吊った事を話した。
 
 次の病院の日に医者にまた未遂をしたことを話した。新米の女医にひどく怒られた。精神科へ行ってなんで気分が悪くなって帰ってこなければならないのだろうと思って大学病院へ行くのはやめた。近くにあるA病院という精神科がメインの病院へ通い始めた。W医師はベテランで信頼できた。いい病院に巡り会えたと思った。
 紀子は二十六歳になっていた。僕は紀子に心身共に寄りかかって生きてきた。しかし別れの時が近づいていた。紀子と姉が借りているマンションの契約更新日が近づいていた。姉は何もせず東京で遊んでいるだけだったし、紀子もT大学の大学院で宗教学を学んでいたが、三年間で修士論文を書くことができず大学を辞めていた。マンションを引き払って紀子は実家に帰り、姉は川口に旦那と住むことになった。今でも覚えている。一月十四日に契約が切れる。その日を境に別れることになった。それでも月に一度は紀子は矯正歯科に東京に来ていたし、そのたびに僕らは会っていた。
 そんなある日、紀子を自室に招き、二人でのんびりしているところ、紀子の携帯にメールが来た。紀子は僕をそっちのけにしてメールを読み、返事を書いていた。ひどく失礼だと思った。しかし紀子は今はあなたよりこっちの人の方が好きだから、といってメールをやめなかった。僕は紀子を最寄り駅まで車で送った。
 電話をしてもメールを出してもいっさい返事がなかった。こうして僕らは七年の歳月を共に歩んできたが、後味の悪い別れになってしまった。今頃紀子は恋人を見つけられただろうか。
 
   現在の楽しみ

 今はいろいろなことをやってみている。家庭教師を辞めた後はケーズデンキで倉庫内作業のバイトをしたり、三Kのバイトを単発でやったりした。しかしもうアルバイトをする年齢でもなくなってきているし、障害者年金で何とか趣味もやれているので働くことはやめた。まずはテレビゲームに熱中した。それから通信教育もいろいろやってきた。小説講座、エッセイ講座、文章錬成講座、半生記講座、パズル作家講座、シナリオ講座、簿記検定講座、などなど。通信教育には何かわくわくさせられるものがある。それから資格試験。マウス試験、パソコン検定、簿記、初級システムアドミニストレーター、など。やる気がでないこともしょっちゅうある。そんなときはひたすら眠る。僕は寝るのが大好きなようで、いくらでも寝ていられる。夜眠れないときはこんな文章も書いたりする。
 それから大きいものとしてホームページの運営がある。最初に作り上げるときは設定などがわからずに苦労した。今もう一回やって見ろといわれてもたぶんできないだろう。サイトはメインの日記とメイン掲示板と本や音楽についての掲示板と、詩を書く掲示板を用意している。そのほかコラムと称して日頃思うことなどを書いてみたり、デジタルカメラで撮影した画像やへたくそなパステル画を公開したり、やりたいと思うことはどんどんやっている。自己表現の場所なのである。毎日十人前後の方々が僕のしょぼいサイトを見に来てくれている。毎日日記を書くことがライフワークになっている。それを見に来てくれる人がいることがうれしい。今日も十数名の方々のために日記を書くであろう。

エッセイ31 映画が面白いです(ちょっと前の話)

「映画をライフワークにするプロジェクト」は三日目になりますがまずまず順調です。「映画メモ帳」なるものをつくって簡単なあらすじや評価を書いています。そうすれば蓄積感がでるかなあと。あと一度見たヤツを間違えてまた見てしまうのを防ぐ(笑)。「グッドウィルハンティング」で以前それをやって、ほんとに記憶力やばいなあと思いました。まあ二度手に取りたくなる作品とも言えるかも?
今日は「社会復帰の会」にでようと思っていたのですが、寝坊していけず。四年くらい使ったのかな? 古い携帯をドコモショップで解約しました。ありがとう、たくさんの思い出。携帯は家に持ち帰ってぶっこわしました。昔からやりたかったんです。二つ折りの携帯を反対側に折って壊すことを。
それから蔦谷へいって「スリーパーズ」「評決のとき」「ニューシネマパラダイス」を借りてきました。この三作、全く知らなかったのですが、友人に薦められて借りてみました。よかったらあなたのお薦め映画を教えてください。ほんとに僕は今まで映画というものを見てこなかった人間なので、何がいい作品なのかわからないのです。今日はビデオではなく、木曜洋画劇場を見ました。木村奈保子さん綺麗だー。今日は「ザ・ファントム」という刑事アクション映画でした。基本的にアクションはあまり好きではありません。じゃあ何が好きかっていうと感動ものですね。「人生そんなに悪いもんでもないな」と思わせてくれるような。今のところの僕の一押しはジム・キャリー主演の「ライアーライアー」です。こんな作品は屁だという方はぜひいい作品を教えてください。ということで「ザ・ファントム」に僕がつけた評価はBでした。AAA~Cまでで評価するつもりでいます。ちなみにケビン・コスナーの「キッド」と「おもひでぽろぽろ」はAマイナスと評価しました。どちらもシングルAにはちょっと物足りない感じでした。
調べたんですけど、二一時からやる地上波映画って木~日しかないんですね。日テレは「金曜ロードショー」、フジは「ゴールデン洋画劇場」、テレ朝は「日曜洋画劇場」、テレ東は「木曜洋画劇場」。TBSはやらないこととか、今まで映画に興味なかったからほんとに知らなかったです

エッセイ30「友人」

僕には友人らしき人はほとんどいません。そもそも友人ってなんなのですか? どこからが友人でどこからは違うのかわかりません。うちの父親も友人がいない人間でした。つきあいで飲んで帰ってくることはまずなく、毎日定時に帰ってきた。日曜もまず家にいた。ゴルフに行ったこともなく、友人から電話がかかってきたこともない。家では妻と子どもをいつも罵倒していた。孤独な悲しい人間だった。
小学校の頃、「友達と遊びに行く」といったら「友達、友達ってなんだ!」と怒鳴られたことがあった。あんまり友達と親しくしてはいけないのだということを学んだ。父に「絶対サラ金なんかに手を出すな」と教えられたことがあったが(中学生くらいのときに!)、「友人は一生の財産だ。大切にしろ」と教えられたことは一度もなかった。貧乏な家に育った人だったから生きることに必死でお金が大切だったことはわかりますけど。
僕に友人らしき人がいない理由がもうひとつ。小中学校の頃は気づいたら友人に囲まれていた。人を引きつける面白さなり、かわいさなりがあったのだろう。だから友達を作る努力をしたことがなかった。高校では自分と同じような出来の悪い連中がいつの間にか集まっていた。友人を作らなくては、と初めて思ったのが大学だった。留年と休学をしていてもうあとがなかった。二つのサークルと体育会に入った。同級生は僕より三歳年下だし、何となくよそよそしいものになってしまった。会社の同期は友人なのかライバルなのかわからない。こうして今まで生きてきて僕に電話をくれる人はいない。僕からかけて会いたいという人もいない(対人恐怖で緊張するからっていうこともある)。毎年来る年賀状は五~一○枚くらい。
生まれ変わるなら? 社交的な人がいいに決まってる。そういえば六年も付き合った彼女の家に行ったことがない。とても広いお家らしいが写真ですら見たことがない。兄弟にはあったことがあるが、ご両親のお顔も拝見したことがない。別の用事でお母様と電話でお話ししたことはある。ずいぶん経ってからお母様が僕の名前を覚えてくださっていると聞いて嬉しかった。せっかく名前まで覚えてくれたのに。記念にご両親の写真でも見せて欲しいと頼んでみるかなあ。もう永遠に会えない義理のお父さんとお母さん。

来年は資格にチャレンジだ!

こんばんも!  ←ワイルドストロベリーさんにアピール
今日も飯がうまくって、勉強が楽しくってしあわせでした。

今日のニュース。
保険金のため飲んだ 健治受刑者が1審証言覆す
 4人が死亡し63人がヒ素中毒となった1998年の和歌山市の毒物カレー事件で、殺人罪などに問われ1審和歌山地裁で死刑とされた林真須美被告(43)の控訴審公判が14日、大阪高裁(白井万久裁判長)で開かれ、夫の健治受刑者(59)=詐欺罪で実刑=の証人尋問が行われた。(共同通信)

そんな死ぬほど大変なことやってお金儲けてどうすんねん。広い家を買ったり高級車買ったりするほうが自分の命より大切なんですね。僕は命の尊さを語れる立場ではありませんが(笑)。貧しくっても健康がいいですわ。うちは貧しくて不健康ですけど(笑)。

今日の自分。
昨日もまた変な時間に電気つけっぱなしで寝てしまいました。2時頃眠剤を飲みましたが眠くならず。そんなわけで勉強しました。9時頃まで。よく勉強しますねえ。ここへ来て勉強がさらに楽しくなってきました。ゴールが見えてきていること、やるべきことが明確であること。素晴らしいです。

午前中は船橋というところの大きな書店へ行きました。2時から寝ていなかったので運転中眠くて眠くて危なっかしかったので途中でファミレスの駐車場に車を止めて、シートを倒して仮眠をとりました。すぐ寝付けちゃいましたね。40分くらいで目が覚めました。

市営の駐車場に入りました。市営のくせに金取ります。当たり前か。なんか駐車料金って払うのがバカらしくて。でも今日は婦警さんがチョークでチェックしていました。危ない危ない。こんなんで1万5千円も取られるのは嫌です。

さて書店に着きました。おなじみの旭屋書店です。以前は占いコーナーが併設されていたのですが、なくなってしまいました。そこでペンネームをつけてもらったのを覚えています。あのペンネーム、どうなんですかねえ。あんまり御利益がない気がするんですけど。また新しいネームをつけてもらおうかなあ。賢っていう字を入れてもらって。

僕は占いが好きなんですよねえ。「賢」っていうのも今年の元旦に新宿ミロードのマリフォーチュンという会社の占い師につけてもらいました。株式会社だか有限会社だか忘れましたが、とにかく占い師さんは会社員なのです。鑑定料をピンハネされているんですね。でもいいな、僕、女だったら占い師になりたかったな。オトコでも目指すか!

独学で本とか読んでも全然わかんないんですよね。手相なんかもどれが運命線なのかわからないくらい。新宿で若い占い師さんに見てもらったら「長生きしますよ」っていわれました。僕にとってはリップサービスになってないっす! 

横道にそれました。本屋に着きました。英検のコーナーを見る。国連英検ならある。工業英検の本は見当たらないので店員に聞く。置いてない! 車で30分かけて駐車料金払ってまで来たのにない! がっかり。神田や新宿へ行くほどのことでもないし、ネットで買うかなあと思っています。

でも勉強本って自分に向き不向きがあるでしょ? どうしても生理的に受け付けない本。ネットだとそれがわからない。だからできるだけ本屋で手にとって買いたい。工業英検の本って高いんですよー。1700円くらいします。漢検の本なんてどれも680円ですよ。なぜか安い。

ネットで失敗したくないしなあ。神様が工検なんて受けなくてもいい、といっているのでしょうか。僕は以前にも資格試験にハマったことがありました。これを第1次資格ブームとしましょう。その時は結局MOUSのワードとパソコン検定3級をとりました。簿記も目指したんですけどね、はじめは面白かったんですけどだんだんわからなくなってきて、アレルギー出ちゃいましたね。

『資格全ガイド』なんていう電話帳みたいな本も持っています。そのとき工検の問題集も買った記憶があるんですけどね、部屋中探してもないんですよ。たぶん古本屋に売りましたね(笑)。もう一回買うかなあ。一応来年上半期人生設計が決まっております。またもや資格です! 1月と6月に漢検。これは2級落ちたときのリベンジにも使えますし、準1級をちょっとやってみたいとも思っています。

5月は工検です。7月は歴検です。日本史3級を予定しています。1時期に3つの勉強なんて無理かなあ。それに加えて今翻訳の通信講座もとっていますし、パステル画もはじめました。やりすぎですね。でも目標があるって素晴らしいです。死にたいとか思いませんもの。

漢検は単調ですけど楽しいです。準1級をライフワークにしようかなあ。小説はどうするんだっていう。年内の応募作品はもう書きあがっています。来年上半期は小説は書きません。資格が楽しい! と、漢検本番が終わってからも思えるか(笑)。

そんなわけで手ぶらで家に帰ってきました。15時くらいまで寝ました。それからまた漢検です。来週1週間をどう過ごすのか。たぶんガチガチに緊張すると思います。たかが漢検で。まあ、今のスタイルで復習しながら新しい問題も取り入れていくと思います。普通は直前期は新しいことはやらないというのが鉄則ですよね。でもいいんです。復習だけでは情報量が足りないのです。

右京散歩。夕飯はいろいろありました。料理名はよくわかりません。皿洗いして今に至りっく。
今後の予定は、ブログに記事を書く。そしてさっきやった第4回模擬試験の答え合わせ。&勉強。
明日も同じです。そろそろ睡眠サイクルを昼型にしておかないとまずいですね。でも0時とかに寝るのってもったいなくて。2時寝9時おきくらいにしようかなあ。

そんなところでしょうか。
それでは明日でお仕事終わりです! エンジョイしましょう。

今日のお言葉
来年上半期計画は資格試験。
(まったり)

賢の半生記⑦/8

賢の半生記⑦/8


  大学時代

                
 一年休学して復学するときが来た。一浪人、一留年、一休学しているので現役で大学に入ってきた人より三年遅れていることになった。サークルのひとつは文学散歩の会という文学サークルで、もうひとつはジェントルホイールというバイクのサークルだった。体育会は自動車部に入った。
 文学にはもともと関心を持っていたから文学サークルに入ろうとはじめから思っていた。新入生の勧誘活動で一番最初に説明を受けたのが文学散歩の会だった。テーブルを陣取り、Yさんという二年生がいすに座って勧誘を行っていた。Sさんという美形の女性もテーブルにいてとても好感が持てた。こんなきれいな人がいるのならぜひ入ろうと思った。
理工学部の学生は一年次を厚木キャンパスで過ごし、二年以降は世田谷キャンパスで過ごすことになっていた。
 厚木キャンパスは小田急線本厚木駅からバスで三十分もいったところにあるようなど田舎キャンパスだったが、その割にあまり広くなく、文系の学生は二年次までいるので人口密度はかなり高かった。そのため昼食を摂る席も「サークル席」といってサークルに入っていない人は追い出される始末だった。その点、文学散歩の会は大学公認サークルで部室が割り当てられていたのでそこで昼食を摂ることができた。
 
 その部室で紀子に出会った。彼女は現役で入学していたので学年は二年生だが、僕の方が二歳年上だった。なんとなくいいな、と思った。あとで聞けば向こうもそう思っていたという。僕らが親密な仲になったのは新入生歓迎合宿だった。飲み会の席で罰ゲームをすることになった。ゲームに負けると夏合宿の幹事をやらされることになっていた。幹事は二人でひとりは紀子に決まっていた。そうとは知らずに僕がゲームに負けた。まわりから見ればわざと負けたと思われるかも知れなかった。飲み会もみんな酔いが回ってきてぐちゃぐちゃになっていたとき、僕は紀子の元へ行った。二人で寝そべりながらいろんな事を語り合った。
 
 通常の生活に戻ったとき、僕は熱を出した。二DKのアパートで兄と二人暮らしをしていたが、そのころ兄はシステムエンジニアをやっていて毎日帰るのが午前様だった。そんな状態で兄には頼ることができず、僕は紀子に電話をかけた。
「あのー、熱を出しているんですけど看病に来てくれるか、僕が行くか、どちらかにしてもらえませんか?」
「熱のことはわかりましたけど、私たちっていったい何なのですか?」
「改めていいます。おつきあいして下さいませんか」
「わかりました。よろしくお願いします」
 こうして晴れて二人はつきあうことになった。はじめは二人とも丁寧語を使っていた。僕にとっては彼女は先輩だし、彼女から見れば僕は年上の男だった。僕はつきあうことになった三日後には彼女のマンションにお邪魔していた。便利のいい町田に住んでいた。
 
 紀子は四歳年上の姉と同居していた。姉に初めて会うのも緊張した。姉は
「私がいうのもなんですけど、この子、いい子だと思いますよ」
と太鼓判を押してくれた。実際、紀子は面倒見がよく、やさしく、寛大だった。
 僕は成城学園前に住んでいたので厚木キャンパスへ行くのは紀子の家に泊めてもらう方が楽だった。実際、よく泊めてもらったが、後から聞いた話だと僕が紀子の家に泊めてもらってばかりいたので姉は神経性の胃炎にかかっていたという。謝る機会を逃してしまったが、紀子の部屋に泊めてもらうことはとても重要な二人の時間だった。毎日のように紀子の家から二人で手をつないで大学へ通った。
 
 文学散歩の会では、僕は詩やエッセイを書いて部誌に投稿した。そのころ父方の祖父が呆けてしまってうちで預かっていたので、その面白い行動を『うちのおじいちゃん』というエッセイに書いた。これは大ヒットしてみんなからほめられた。僕が投稿したのは結局三回だけだった。一つは詩だった。『それでも彼女は回ってる』という題で、僕が死んでも彼女は地球が回るように男にまわされているといったものだった。三年生の先輩に
「これが本当だったら悲しいよ」
といわれた。もう一つは『お菓子屋さんの戦略』という詩で、バレンタインデーのことを書いた。
結局その後は投稿もせず、まるで紀子をもらいに来たような状態になってしまった。
 
 文学の方はそれでも許されたが、体育会自動車部はそうはいかなかった。その前にもう一つのサークルであるジェントルホイールというバイクサークルの話をしたい。そこは自動車部をやめた人たちが作ったサークルでツーリングを月に二回ほどしていた。はじめの二回はいったものの、あまりおもしろさを感じられなかったし、自動車部の方が本格的だったので次第にそちらの方へ流れていき、バイクサークルへは顔を出さなくなっていった。
 
 自動車部は体育会だけあって、上下関係も厳しかったし、水曜日と土曜日の活動には必ず参加しなければならなかった。自動車部では広い駐車場のような場所へ行き、パイロンを立ててコースを作ってタイムを競うジムカーナという種目があった。また同様に土や小石の上を走るダートもあり、この二つが花形のスピード競技だった。後は車庫入れ技術のタイムを争うようなフィギィア、指示された文書の通り道を走るラリーがあった。僕は免許歴三年だったので他の一年生より速く走ることができた。一年生は十一名、二年生は一名、三年生が六名、四年生が五名だった。二年生が少ないのは、学生自動車連盟というものに誰かが入らねばならず、それが嫌でやめていったという。後に僕らの代で連盟員を出すということになり、五名がやめた。僕は二年生になって役職を与えられてから嫌になってやめた。育てた一年生が一年後にごっそりやめていったこともやめた原因だった。
 夏合宿では全部員でタイムトライアルをやり、雨上がりのダートが悪路であったこともあり、コンディションのよかった僕が上級生を押しのけて優勝してしまった。その後、一年生だけでやるチャレンジカップというイベントをジムカーナで争い、僕は免許を取り立ての三歳年下の学生に負けた。このことがとても悔しくて部活をやめる原因にもなった。
 
 二年生からは理系は祖師ヶ谷大蔵の世田谷キャンパスに通うことになっていた。僕のアパートから近く、毎日自転車で通った。
 紀子は三年生になって青山キャンパスへ通うようになり、姉と別れて狛江のアパートへ引っ越した。一人きりで寂しいというので毎日のように狛江に泊まった。
 大学の勉強は、一般教養課程を一年で済ませ、二年生からは専門課程に入った。一般教養課程では、何がなんでもすべて最高レベルのAAを目指して勉強した。すべてとはいわないがかなり多くの科目でAAをとることができた。語学がすべてAAというのが自慢だった。専門課程では過去問題が流出していたので授業は訳が分からなくてもいい成績を残すことができた。首席を目指したが、学年で五番の成績に終わった。三年遅れでスタートしてこれだけの成績を残せたことに僕は今でも誇りを持っている。
 
 しかしわからない科目の試験前や、設計製図の課題の提出前などでは鬱状態になり、死にたくなった。病気が完全に治らないまま復学したからである。
 二年、三年と順調に単位を取り、四年生で研究室に配属されることになった。僕は大石研究室に入った。コンピュータが苦手です、と教授にいうと、ひとつひとつ教えるからユニックスを使う計算と実験をする研究課題をやらないか、といわれ、それを承知した。しかしパソコンさえろくに使えなかった僕にユニックスの使い方なんて全くわからなかった。本当に手取り足取り教授に教えていただいて今でも感謝の念を持って、年賀状やメールのやりとりをさせていただいている。
 
 しかし、春先で鬱になっていた僕に卒業研究と就職活動をやるということはとても困難なことに思えた。僕は次の日から学校へ行かなくなり、実家にかえって大学を辞めたい、それか精神病院へ行きたいと母と兄にいった。父は僕が大学三年生の時に腎臓がんで五十九歳で亡くなっていた。そうして僕は病院と卒研と就職活動に追われた。
 
 就職活動は自分の理系の才能の無さにうんざりしていたので、文系的就職活動を展開した。出版社、学習塾がメインだった。十月になってホームセンターの会社からひとつ内定をもらっていたが、今ひとつ気が乗らなかったので大学の就職課に相談へ行った。成績優秀だった僕にホームセンターなんてもったいないと、事務員の方は特許事務所をすすめてくれた。難しそうだったがホームセンターよりはましだろうと思ってそちらの試験を受け、あっさり内定した。残るは卒業研究だけだったが、何とか実験も済み、卒論らしきものができあがっていったが、教授は
「きみのプライドが許せば私に一任してくれないか」
といわれ、お願いすることになった。教授の完璧なプレゼンテーション資料も整い、何とか卒研発表も無事に済んだ。
 今思えばとても忙しく、充実した四年間だった。この四年間を僕は忘れることはできないだろう。


エッセイ29「死にたい」(過去に書いたものですのでご安心を)


ちょっと死にたくなってきました。昨日までは気分良かったんだけどなあ。テレビもゲームも面白く感じられない。読書も今読んでいる本はあまり魅力的じゃない。睡眠が僕にとって最大の快楽なんですが、朝晩構わず眠剤を使っているせいかあまり効かなくなってきました。僕にとって眠れないということはとてもつらいです。布団の中で嫌なことばかり考えてしまう。
明日、病院内で「社会復帰を目指す会」という自助グループがあるので参加してみようかな。対人恐怖症の僕にとってはすごく恐いことなんですけど。
やっぱり至福の時は永遠には続きませんね。三.五日周期。今回は結構長く続いた方でした。五カ月後に彼女と別れたら僕はどうなるんだろう。家族以外の社会との接点が一切なくなる。やっぱり気が狂っちゃうのかしら。今よりももっと重度に。そのときは死んでもいいよね。誰にも迷惑かけないし、家族の負担も減るし。首吊り未遂は二回やったけど、苦しいだけで死ねそうな感じがしなかったのでやめちゃった。クスリの大量服飲でも意識がなくなっただけで死んでなかった。あとで医者に「向精神薬では死ねないよ」といわれた。ほんとかな。眠剤だけたくさん飲めば昏睡状態になって死ねるんじゃないかな。包丁で心臓刺すとか、飛び降りとか水死とか、痛かったり苦しかったりするのはしたくない。
うち、ガン家系なんですよ。父も五九で腎臓ガンで死んだし、父の母も八○くらいでガンで死んだ。でもとても後三○年も待てませんよ。しかも僕は煙草は吸わないし酒も飲まないし、ストレスもほとんど無い。フィジカル的にはめちゃくちゃ健康なんですよね。だから長生きしそう。嫌だなあ。交通事故に巻き込まれて死なせてくれないかなあとか、突然不治の病にかかって三○代で死ねないかなあってよく思います。それだったら僕の意志じゃないでしょ? 神様が与えてくださった運命ですから誰を非難することもできない。

エッセイ28「バッティング美学」


いつも通りきっちり五時に目が覚める。昨日の嫌な感情が残っているのでまた朝から眠剤導入。でも一四時には目が覚めた。最近家族がみんな家にいて、人口密度が高いのがいやなのでまんが図書館に行った。今読んでいる進化論の本の巻末にブックリストが載っていたのでそれを一冊ずつネットで調べていった。最終的に欲しいと思ったのは四冊。有名な「利己的な遺伝子」なんて五○○ページもある。読めるのか? まあ今のところ読む本には困っていないので一時棚上げですね。
帰りに久しぶりにバッティングセンターに寄った。半年とか、一年ぶりくらいかな。さすがに小学校で五年間やっただけあって体が良くフォームを覚えている。七○キロくらいの遅い玉をジャストミートしてホームランゾーンに当てるのが僕の目標。結構一四○キロとかの速球を打っている人がいるけどそれで空振りしてたら面白くもなんともないじゃんって思う。ストイックに自分に挑戦している人って結構いる。フォームがめちゃめちゃ崩れている人も。それで意外にあたるから不思議だ。僕はサンダルと半ズボンで現れて、ホームランのサイレンを高々と鳴らして帰っていくのがクールだと思う。

賢の半生記⑥/8

賢の半生記⑥/8


  浪人・留年・休学時代

   浪人時代
 僕は早稲田大学理工学部と東京理科大学と武蔵工業大学を受験した。しかし高校で遊んでいたつけが回ってすべての大学に落ちた。戸山高校は高校時代に部活などで全力投球し、学年の九割が浪人し、いい大学に入るという校風があった。実際、四百三十人中十人が東大に合格し、残りの多くは早稲田と慶応に合格していた。僕も和田式という勉強方法で早稲田を第一志望にしていたが、かすりもしなかったようだった。
 予備校の入学テストで上から二番目の東京理科大クラスに入った。それを聞いて父親は「早稲田には遠く及ばないじゃないか」と僕を責め立てた。実際、兄が一足早く早稲田の商学部に入っていた。でも立教も明治も落ちていたし、兄の早稲田はフロックだと僕は思っていた。僕も数学がまあまあできたから英・数・国語で文系の学部を受験していたら受かったのではないかと未だに思っている。
 
 予備校は水道橋にある研数学館というところに入った。近くに駿台や代々木ゼミナール、河合塾などもあったが、僕は一校一校を回って早稲田クラスと名乗っているクラスで一体何人実際に早稲田に入っているのかを聞いた。その中で一番生徒数に対する入学者が多かったのが研数学館だった。予備校としてはマイナーであったが、駿台のように一年間狭苦しい机で勉強するのは嫌だったし、代々木ゼミナールは母集団が多すぎてろくに勉強できなそうだった。今考えるとなぜ河合にしなかったのかと思うが、きっと合格割合が低かったのであろう。そんなわけで僕は六十万円ほど親に出してもらって研数学館に入学した。
 
 そのころ家族は千葉に引っ越していた。父が国家公務員を退職して天下りをしたことで、公務員住宅にはいられなくなったのである。僕が三歳の時から高校二年生の時まで新宿の柏木住宅に住み、高校三年生の時は世田谷の祖師谷大蔵に住んでいた。僕が浪人するときになって家族は千葉の家に移り住むことになったが、僕は何かと都会の方が受験に有利だろうと中野の下宿を用意してもらった。水道橋の予備校まで総武線で一本でいけた。
 下宿は以前親戚がお世話になっていたところで、朝晩の食事がついた四畳半だった。おばあさんと娘さんできり盛りしており、うちの父親がおばあさんを自分の母親のように慕っていた。
 僕は一人暮らしができることがうれしくて仕方なかった。恐い父親から離れられることもうれしかったし、英語・数学・物理だけを勉強すればいいということがうれしかった。戸山高校では文理に関係なく数学や理科、古文漢文や社会を学ばなければならなかったから私立理系に絞られたのはうれしくて仕方がなかった。本当は化学も学べば選択肢も広がっただろうが、僕は化学が嫌いだったし、苦手科目だった。早稲田は化学を必要とせず、理科一の分野を出題することになっていたので物理だけを勉強した。
 
 研数学館はレベルが低く、僕は英語の小テストでいつも名前を張り出されていた。実際英語は得意科目で、数学は好きなのだけどあまり出来がよくなく、物理は嫌いで苦手科目だった。
 数学の勉強が楽しくて毎日八時間から十時間も勉強した。いすに長く座りすぎてお尻に出来物ができるくらいだった。予備校の自習室でテキストの復習をし、自分の問題集もやるほど数学が楽しかった。英語は電車の中で単語を覚えるだけで十分高得点を維持できた。物理は不勉強でなかなか成績が上がらなかった。力学以外はあまり好きではなかった。予備校では特に友人をつくらなかった。意図的ではなく、自然に勉強だけをするようになっていたので孤独を苦痛と感じなかった。高校の友人と自習室で一緒に勉強するくらいだった。
 
 しかし楽しい勉強もそう長くは続かなかった。一学期の猛勉強がたたって夏休みに入ってからはあまり勉強をしたくなくなっていた。夏期講習もいっさい取らずに自分の勉強だけをするつもりだったが、自習室へいく機会もあまり多くならずに、だんだんさぼりがちになっていった。鬱状態だった。下宿の部屋で布団に入っている時間が多くなり、昼夜逆転の生活が定着してきた。一学期の成績がよかったので二学期からは一番上のクラスへいくことができた。普通なら早稲田クラスへ進学するのであったが、国立の東大理系クラスへいくこともできると聞いてそちらに進学した。二学期からはテキストもとても難しくなり、よけいに予備校へは行かなくなっていった。一学期の成績が最高によく、あとはほとんど勉強せずにいたので学力はどんどん下がっていった。
 
 そんな調子で受験本番を迎えた。早稲田、慶応、明治、筑波大、青山学院、芝浦工大、武蔵工大、東海、の八校を受験した。早稲田は数学があまり解けず、微分方程式が必ず出題されるので用意はしていたがそれでも解けなかった。慶応は理科が二科目必要だったので受ける前から落ちにいくようなものだった。
センター試験を受けていた。英語は百四十点と出来が悪く、数学は百六十点だった。国語は現代文が漢字の間違えがひとつあっただけで九十八点だった。漢文もまぐれ当たりで五十点満点だった。古文の出来が悪く、総合で百六十点だった。それをもとにボーダーラインを探したら筑波大が浮かんできた。二次試験で理科が二科目必要なのにわざわざ茨城まで受験しにいった。青山は試験日程の谷間があったのでそこを埋めるために受験した。芝浦工大はまさか落ちるとは思わなかった。結局受かったのは青山と武蔵工大と東海大だけだった。早稲田、慶応、筑波大は落ちても仕方なかったが、明治と芝浦工大に落ちたのはショックだった。どちらも模擬試験でA判定がでていたからである。不本意ながら青学へ進学するしかなかった。一年浪人してこれ以上浪人生活を続けても成績が上がるとは思えなかったのである。

   留年時代
 青山学院への入学はなかなか受け入れがたいことだった。プライドが妙に高かった僕はなんで自分が青学なんかに入らなければならないんだと思っていた。それでも無理して学校へ通った。しかし中野から厚木キャンパスへ行くには二時間もかかり、通うのが不便でだんだんいかなくなっていった。僕は学校の近くにアパートを借りてくれるものだと思っていたのに、父親は「浪人の時だけお世話になって受かったらはいさよならなんてことがあるか!」といわれた。結局父は中野のおばあさんが好きだったのである。サークルへも入らなかった。サークルに入らないと昼食をとる席すらなかった。こいつらとは僕は違うんだという反発意識もあり、友達もつくらなかった。そんな状態で前期の途中頃までには大学には通わなくなっていた。親に対して悪いからいかなきゃならない、けどいけないといった板挟みの状態で苦しんでいた。死にたいとまで思い詰め、果物ナイフを買ってきて手首を切ってみようとしたが、痛かったし、死にきれずに指が動かない状態になったら嫌だと思い、諦めた。人生で二度目の自殺未遂だった。
 
 夏休みはいきたくもないのに父親にバイクで北海道を一周しろといわれた。高校の時はバイクのレーサーになりたいと思っていたのに、バイクに乗ってもちっとも楽しくなかった。それでもなぜか高校の友人と日本列島をバイクで縦断していた。
 後期が始まる少し前に両親に大学へは通っていないこと、精神がおかしいので精神科へ行きたいことを話した。それからは病院に隔週で行き、薬をもらって飲んでいた。僕は「精神の耗弱状態」と診断された。両親には公に学校へ通わないことを許され、次の年の四月まで治療に専念した。
 翌年の四月、治ったのか治っていないのかわからずにとにかく大学に行かなければならなかった。三流大学に浪人して入って留年、なんて最悪なんだと思いながら下宿で生活していると、父から電話がかかってきて帰ってきて説明しろ! といわれた。車の駐車違反とバイクのスピードオーバーで警察から免許停止の文書が実家に行ったのである。

 第五志望のいきたくもない大学で留年して、おまけに恐い父が激怒していた。僕は神に見放されたと思った。死のう、と思った。下宿で死ぬのは他の人に迷惑になるから外で死のう、程々に人がいて発見されやすいところ、代々木公園で死のうと決めた。『完全自殺マニュアル』にどんな薬でも二百錠飲めば死ねると書いてあったので、通院中にもらって飲みきれなかった向精神薬とウイスキーを買って人気のないところに腰を下ろした。ウイスキーがひどくまずかったが薬を胃の中に流し込んだ。何回かに分けて結局全部飲み干した。横になってみた。意識がなくなるのかと思ったらなくならなかった。まだ春先でだんだん気温が下がってきた。暖かいところで死にたい、下宿の布団にくるまりたい、と思って起きあがった。足の感覚がなく、ふわふわ浮いているような状態だった。それでもきちんと切符を買って下宿まで帰って横になることができた。ああ、とか、うう、とかいった声が聞こえたのだろう。僕が気を失っている間に通っていた大学病院に運ばれていた。もうろうとした意識の中で「学校に行かなくちゃ」といって起きあがった。いいからいいから、と僕はベッドにゴムか何かでくくりつけられた。何日かして閉鎖病棟へ解放された。三週間入院して、その年は休学することになった。人生で三回目の自殺未遂だった。


今日の日記「工業英検!」

うーん、こんにゃろめー、こんばんみ!  ←一応来訪してくださった方への感謝の言葉です

今日のニュース。
コクド・堤会長、グループ役職辞任へ…西武オーナーも
 西武鉄道グループのコクドの堤義明会長は13日夜、コクドの会長職などグループの役職を辞任し、経営から身を引くことを明らかにした。西武ライオンズのオーナー職も日本シリーズ終了後に退任する意向だ。
 コクドが大株主となっている西武鉄道株について、コクド名義の株式以外に実質的に保有している個人名義の株があったことが13日わかり、西武鉄道が株主に関する有価証券報告書の大幅な訂正を関東財務局に提出することになったため、責任を取る。(読売新聞)

難しくてよくわかりませんけど、あの堤オーナーが辞任! これはビッグニュースですよね。明日の新聞の1面、これだな。ライオンズ優勝したのに! 
日本シリーズ、かけませんか? お金とか抜きでね。僕は西武が4-1で優勝すると思います。根拠はリーグ戦でダイエーとの熾烈な争いを征したこと、中日は何となくずるずる優勝していっただけのように感じたことなどです。オーナーの辞任でモチベが下がるようなチームではないでしょう。

今日の自分。
昨日0時に眠剤を飲んだのですが、そんな早い時間に寝るのがもったいないんです。だから0時半から実力テストをやってみました。そうしたら167点。ギリギリですが合格ラインに達しました。問題が簡単でしたね。出題形式も他の問題集と違うし。日本漢字検定協会オフィシャル問題集なのに。

で、とりあえず3時くらいに寝たのかな。それで5時頃目覚めました。睡眠時間が少ないと調子がいいです。普段寝過ぎなんですよね。

午前中、第2回目の実力テストをやる。すると174点! もちろん自己ベスト。調子に乗って第3回をやりました。すると151点。現実を思い知る。でもなかなかいい感じですよ。2級は記念受験だと端から思っていたので、コンペティティブになってきた自分がうれしいです。

英語でこういう資格試験があったらなあって思います。

今調べたらありました! 工業英検! ちょっとバカにしていたのですが、楽しむ分にはいいでしょう。もともと機械工学畑の人間です。まずは3級を目指しましょう。それができたら2級にチャレンジ。工業英検のいいところは1級以外リスニングがないこと。僕は日本語も英語も聞き取りがダメなんです。耳が悪いんですね。

だからTOEICも好きになれないし、英検も今だったら絶対2級落ちます。準1級なんて夢のまた夢。リスニングがないのは本当にいいですよ。2級目指そ。そう思って今本屋に行って来ました。置いてません! マイナーだもんなあ。試験日程を調べたら5月と11月。11月を受けたかったあ。でも今からじゃ無理。12月に歴検もあるし。

ひゅー、暇人のくせにいそがしー。5月までに工業英検の3級と2級の勉強を済ませ、7月には歴検日本史3級を狙う。いやあ、早くも2005年が楽しみになってきました。問題は12月12日の歴検が終わってからのモチベをいかに保つかですよね。

歴検3級は高校卒業程度、とあるのでかなり難しいはず。山川の教科書を丸暗記するくらいでないといけないでしょう。4月くらいまでは工検と歴検を並行して学習していく感じでしょうね。いやあ、楽しくなって参りました。


まあそんな感じで実力テストを3回やりました。&シエスタ。夕飯は出来合いのうな重。母が無気力なようです。こんなのばっかりでごめんね、という。いえいえ、3食食べさせていただけるだけでありがたいです、と僕。母は引け目を感じているようですが、僕としては大感謝ですよ。母が食わしてくれなかったら今ごろ自殺かホームレスですよ。

夕飯を終えて今にすぱにっしゅ。途中で本屋へ行きましたけどね。歴検や数検といったマイナーな資格試験本を置いている大きな書店でさえありませんでした。工検大丈夫か?
今後の予定は漢検、復習の復習。完璧にできるまで何度でもやりますよお。明日も復習ですね。新しい問題にはしばらく手をつけません。そうこういっているうちに本番が来ますね。

そんなところでしょうか。それではステキな夜を。

今日のお言葉
資格イヤーにする!
(まったり)

エッセイ27「ゆるやかな自殺」


七時に目が覚める。朝飯食ってまた眠剤を導入~。どこかで「ゆるやかな自殺」という言葉を読んだけど、今ほんとそんな状態かな。猛烈に死にたい訳じゃないから、起きている時間を極力少なくしてひたすら死が訪れる日を待つ。
夕方友人のために中古書店に行った。読む本が欲しいから送ってくれって。腰痛を治す本と、マンガ文庫二冊と、角川ミステリー文庫を一三冊買った。僕は中古本は買わない。やっぱり新品の自分だけの本が気持ちいい。紙の質感を愉しんだり、紙やインクの匂いを嗅いで気持ちよくなったりする。
中古書店の店員が気持ち悪い。マニュアル人間で、変にテンション高くて、宗教がかっている。店員やバイトが社長に会えたりすると感激のあまり泣き出すらしい。レジで会計を済ませたあとの「読み終わりました本がありましたらお持ちください」っていうマニュアル言葉って客に失礼だと思いません? あそこは定価の一割で買い取って五割で売って儲けているから「また儲けさせてくださいね」っていっているようなもんでしょ。
最近正社員とか責任者がいなくてバイトだけでやってる店って多くないですか? 平気で私語しているし。客に失礼だとか思わないのかな。プロ意識足りなすぎ。不景気でコスト削減で仕方ないんだろうけど。僕はそういう時代の変化についていけません。