賢の半生記①/8 | あなたのココロ、治します。

賢の半生記①/8

祖父母・両親のこと、そして僕の誕生
 
祖父母
 父方の両親は釧路の近くにある白糠という田舎で生活していた。祖父の名はTという。東京の中島飛行機(後のスバル自動車)で働いていたこともあったという。なにが原因かは分からないが白糠で農業をはじめた。祖父は当時の中学校を卒業した人で教師にでもなれる人だったという。しかしこの祖父が変わり者で、今でいうひきこもりのようだったという。祖母の名はNといい、平成元年に亡くなった。農作業で祖母が苦労して生活を何とか営んでいた。
父は祖父母の次男として誕生した。貧乏なのに六人も子供を作った。父のすぐ下にSさんという弟がいたらしいが、農作業の時にしかられたのを契機に列車への飛び込み自殺を図り、十八歳で亡くなった。きっと鬱病だったのだろうと思う。父もヒステリックで、僕が精神障害者になったのは父方の遺伝だと思っている。僕は祖父が痴呆になって我が家に住むことになってからしか祖父との接点はなかった。看護する母は大変だったろうが僕は祖父の一挙手一投足が楽しかった。ぼけている祖父に僕との関係を説明するがなかなか理解できないようだった。
「じいちゃんの息子でYっているでしょ?」
「Y? Yはうちの子だよ」
「僕はYの子供なんだよ」
すると祖父は苦笑いして
「なんだかよくわからないなあ」
といった具合だった。平成十年に亡くなっている。
 

父方の祖母は八十二歳の時ガンで亡くなった。祖父が怠け者だったためにずいぶん苦労したそうだ。祖母との記憶は僕が小学校低学年の時までさかのぼる。新宿の公務員アパートに住んでいた頃で、白内障の手術を受けるために上京していた。僕は学研のコラムに書いてあった卵料理を祖母のために作ろうとしたが、失敗してしまった。
「失敗しちゃった」
「なんでもいいから食べさせておくれ」
「でもおいしくないよ」
「うん、おいしい、おいしい」
そういって祖母は僕の失敗料理を食べてくれた。祖母にとっては孫が自分のために料理を作ってくれるということがうれしかったのだろう。さるちゃんはやさしい、やさしいといつもいっていたそうだ。この件は父もいたく気に入っていた。


 母方の祖父母は旭川から少し北上した名寄という町に住んでいた。祖父との接点はほとんどなかったか覚えていない。遺影を見たことがあるくらいで実際にはあったことがなかったかもしれない。祖父の葬式が僕の初めての葬式デビューで、きっと涙を出さなければいけないのだろうと一生懸命泣こうとしたが涙は出なかった。祖父は郵便局に勤めていた。名はAといい、昭和五十六年に亡くなった。喘息で亡くなったそうだ。僕がまだ小学校二年生の時である。父方よりは金銭的に余裕があったらしいが金持ちでもなかったらしい。祖父母は七人の娘を作った。母は三女だった。父と同じ昭和十三年生まれだった。祖母はいつもリビングのソファに座っていた記憶が残っている。名前をMといい、平成五年に亡くなっている。どんな話でも、ああ、そうかい、そうかいといって聞いてくれる人だった。お年玉もずいぶんいただいた記憶がある。
祖母が亡くなるとき、僕は大学の一年生の夏休みで北海道をバイクでツーリングしていて、そのとき祖母が入院していたところに顔を出した。祖母は鼻やら口やらからチューブをつめ込められ、延命措置がとられていた。それはもう生きている祖母ではなかった。僕はショックで泣き出してしまった。疲れているんだろうといって僕は祖母の家で休ませてもらった。葬式にも出た。平成五年のことだった。生きるっていったいなんだろうと思って鈴木健二の生き方の本を買った。
   
   父と母
 父の名はYという。どうしようもない貧乏な家庭に生まれた。次男だった。今までの働き方ではとても食べていけないといって高校の時からジャガイモの皮むきなどのアルバイトをしていた。大学に進学できる余裕はなく、高校を卒業してすぐ丁稚奉公をはじめた。そのあと警察官の仕事に就いた。市民を取り締まる警察官という職業が嫌で父は独学で国家公務員の試験勉強をし、見事に合格した。それから弟たちの金銭面の補助をしてやり、大学に通わせた。二十三歳の時に母と見合いで結婚した。北海道庁に勤めていたが、ある時東京で研修会があり、周りの連中は初めての東京で遊びまくっていたが、父だけは熱心に勉強をし、首席になった。そのことが認められて東京の厚生省社会保険庁に抜擢された。しかし年下のキャリアにどんどん追い抜かれていきずいぶん嫌な思いをしたらしい。そのせいか父は僕と兄を絶対に大学に通わせようとしていた。
父はひどく厳格な人だった。厳格というよりキチガイといった方がよかった。玄関で靴をきちんとそろえていないと
「H、さる、ちょっと来い!」
と大声で怒鳴った。父のそういった性格から僕らが受けた代償は大きい。兄は元気な性格だったが僕はそううつ病にかかり精神障害者になった。

 父は平成九年に腎臓ガンで亡くなっている。虎ノ門病院で腎臓の一つを摘出する手術をした。僕ら家族はその腎臓を見せてもらったが、拳二個分くらいで、黄色く変色した臓器だった。ガン細胞におかされて通常の二倍くらいの大きさに膨れ上がっていた。その手術で父はすっかり治ったと思っていたのだろう。会社へも復帰し、母と旅行へ行ったりしていた。しかし実際にはガン細胞が全身に転移していた。父は生命保険の支払金額が年齢とともに値上がりするため保険を解約してしまった。すっかり治ったつもりでいたらしい。僕らは父の余命が幾ばくもないことを聞かされていたが、
「生命保険が下りるから解約しないで」
などといえるわけがなかった。後で父が自分の余命を知り、
「二千万円損しちゃったな。その分宝くじで当たるかも知れないから買ってみろ」
といった。僕らはその通り宝くじを買い続けたがいっこうに当たる様子はなかった。

 父が家で寝たきりの状態になり、意識障害が出てきた。なんにもない壁を指さして
「おい、見ろ、映画だぞ」
といったかと思うとすぐまた意識がどこかへ飛んでしまっていた。家の近くの病院ではもう扱えないということで国立ガンセンターのホスピスに入院した。ホテルのような快適な個室で、父は寝たきりでいた。仮眠室で寝ていたら母が来いという。いよいよ父が息を引き取る瞬間を僕ら三人は静かに見つめていた。痛み止めのモルヒネ以外は一切延命措置をとらなかった。そんな環境の中で父は死んでいった。少しだけ僕は涙がにじんだ。
 

母の名はSという。北海道名寄市立高校を卒業して赤十字の看護学校を卒業した。僕が小学校二年の時に産休から復職した。父とは下宿のおばさんの紹介で見合い結婚をしている。結婚後も働き続け、三十二歳の時に兄を、三十五歳の時に僕を産んでいる。ヒステリックな父とは正反対のおっとりした性格の母である。平成十五年現在で六十五歳になる。五十代で看護婦の仕事からリタイアし、父の亡きあと毎日水泳をしながら優雅に老後を送っている。それまでが悲惨すぎた。何でもかんでも父に罵倒され、よく精神が持ったと思う。とっくに離婚していてもいいほど父が母を罵倒した。

   僕の誕生
 昭和四十八年、十一月十四日、午後二時頃に僕は生まれた。オイルショックのあった年である。そのころ家族は千葉県の稲毛市に住んでいたのだが、僕を産むためにわざわざ実家の名寄に帰った。だから僕は名寄市立病院で生まれたことになる。三千数百グラムの健康児だった。もちろんそんなことは覚えていないが写真が残っていたので見たことがある。自分でいうのもなんだが、とてもかわいかった。
三歳年上の兄がいる。名前をHという。名前通り心の広い人である。では僕は名前通りかといえばそんなことはなかった。でも僕はこの名前を気に入っている。「さる」と読まれることはまずなく、けん、さとし、さとるなどと呼ばれた。珍しい読みのようでそれがまた気に入っている。稲毛の公務員住宅で数年育ったはずだが記憶は全くない。僕が覚えているのは新宿の公務員住宅に移り住んで幼稚園に通いだしてからである。


僕は名寄の街が大好きだった。女ばかりの姉妹が優しかった。街は碁盤目のように区画整理されていた。住所は西一北三などという表記だった。縁日でいろんな色をしたひよこが欲しくて買ってもらった。ひよこの命ははかなく、次の日にすでに死んでいたりした。名寄ではちびという名の黒毛の雑種犬を飼っていた。今とは違って人間の残飯を食べさせられていた。ちびは大人に対してはおとなしかったが、僕を見ると舐めてかかりわんわんと吠えられた。だから僕はちびが怖かった。僕が名寄を好きだったのは二階建てだったこともある。僕は公務員住宅育ちなので階段で二階に上がることができるのはすごく珍しかった。プラッシーというジュースも名寄にはあった。米屋で売っていたもので新宿でも買うことができた。母の姉のYおばさんとAおばさんも僕らに対して優しかった。二人は実家のすぐ近くに自分たちの家を建てた。もう二人とも年金生活をしているが二人とも結婚せずに一緒に生活している。
僕が小学校六年生の頃、四女のYおばさんからポケットカメラをもらった。僕はそれをいたく気に入って小学校の卒業文集の将来の夢に「カメラマン」と書いた。カメラとともに将来の夢もどこかへ消えてしまった。
北海道は基本的には標準語と大差ないが、アクセントがちょっと違ったり、珍しい言葉があったりした。ものを捨てることを「投げる」といったり、疲れたことを「こわい」といったりした。かわいいことを「めんこい」といった。
父方の実家はひどく貧乏だったし、大工作業をやらされるのであまり好きではなかった。どうしようもないぼろ家だった。