ダニ・ロドリック著『グローバリゼーション・パラドクス』(白水社)です。
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著者のダニ・ロドリックは現在、プリンストン高等研究所の教授(原著出版時はハーバード大学の教授でした)。国際経済学の専門家で、最近では政治経済学の分野で多くの優れた論文を書いています。
この本、何が重要かと言うと、グローバル化を進めるだけが唯一の道ではない、ということを「世界経済の政治的トリレンマ」という独自の図式を使って見事に説明しているからです。
この図式に従うと、世界経済には今後、三つの道があります。
1. 自由貿易を進める代わりにに民主主義を犠牲にする。
2. 自由貿易を完全なものにする代わりに国家主権を諦める。
3. 民主主義と国家主権を守る代わりに自由貿易を制限する。
この三つはそれぞれどういうことなのでしょうか。大方のエコノミストは、(自覚しているか否かにかかわらず)1の選択肢しかない、と考えています。でも、この本はそれが唯一の選択肢ではない、ということを冷静に説明しています。そして最終的には、3の選択肢が有望だ、と結論づけています。
刊行に先立ち公開!
『グローバリゼーション・パラドクス ─ 世界経済の未来を決める三つの道』
柴山桂太氏あとがき
本書は、Dani
Rodrik, The Globalization Paradox: Democracy and the Future of the World
Economy, 2011
の全訳である。原著の出版から二年が経過したが、著者の考察は全く古びていない。それどころか、世界経済のあるべき未来を考える上で、今後ますます重要な意味を持つものとなるだろう。本書がすでに十二カ国語に翻訳されているという事実が、注目度の高さを物語っている。
題名の「グローバリゼーション・パラドクス」(グローバル化の逆説)は、一見しただけでは意味が取りづらい。読者の理解を助けるべく、以下に私なりの解題を記しておきたい。
本書の核となるアイデアは、市場は統治なしには機能しない、というものだ。昨今の新自由主義的な風潮の中で、市場と政府は対立関係にあると考えられることも多いが、本書はそれが明確に間違いであると指摘している。市場がよりよく機能するには、金融、労働、社会保護などの分野で一連の制度が発達していなければならず、政府による再分配やマクロ経済管理が適切に行われていなければならない。一九八〇年代以後、政治学の分野では国家論の研究が盛んに行われるようになったが、そこで強調されているのも、国家の統治能力の向上なしに持続的な経済発展はあり得ないという歴史的事実だ。
市場と統治という視点に立つと、グローバル経済が抱える根本的な問題が見えてくる。グローバル市場では、その働きを円滑にするための制度がまだ発達していない。全体を管理するグローバルな政府も存在していない。一国レベルでは一致している市場と統治が、グローバルなレベルでは乖離しているのだ。貿易や金融は国境を越えて拡大していくが、統治の範囲は国家単位にとどまっている。ここにグローバル経済の抱える最大の「逆説」がある、というのが著者の問題提起である。
では、市場と統治の乖離を埋めるためには、どんな方法があり得るのだろうか。本書が面白いのは、この問題の解決が過去どのように行われたのか、歴史をさかのぼって検討していくところにある。
最近の経済史研究が明らかにしている通り、グローバリゼーションは何も最近になって始まった現象ではない。貿易や金融取引の国境を越えた拡大は、歴史上、何度も繰り返されている。十七世紀の重商主義時代には、ヨーロッパの商人がアメリカ、アフリカ、アジアに進出して盛んに貿易を行っていた。十九世紀には金本位制によって、各国の金融市場が一つに結びついていた。これらの時代に、市場と統治の乖離というグローバリゼーションの根本問題が、帝国主義によって半ば暴力的に解決されたという著者の指摘は鋭い。市場の拡大に合わせて統治の範囲を拡大するには、軍事力を背景に相手国の主権を奪ってしまうのが、十九世紀まではごく普通のやり方だった。
だが二十世紀に入ると、各国で主権や国民意識が目覚める。国民生活を安定化させる政府の役割は、民主主義の高まりによってますます重要になる。市場と統治は、今度は統治の範囲に市場を縮小させるという形で一致に向かうようになった。市場が各国の政治や社会に「埋め込まれた」結果、金融システムや労働市場、社会保護のあり方は国によって多様な発展を見せるようになった。国内市場の安定のためには、グローバルな貿易や金融の拡大を抑制することも辞さない。これが戦後のブレトンウッズ体制の特徴であり、この「埋め込まれた自由主義」体制の下で資本主義はかつてない安定的な発展を享受することになった。
では現代はどうか。ブレトンウッズ体制の崩壊と冷戦終結で、貿易や国際金融が再び活発に拡大する時代を迎えている。つまりわれわれは、市場と統治の乖離、というグローバリゼーションの逆説にあらためて直面することになったのである。もはや金本位制と帝国主義の時代には戻れないし、ブレトンウッズ体制にそのまま戻ることも現実的ではない。では、他にどんなやり方があり得るのだろうか。ここで登場するのが、第九章に示された「世界経済の政治的トリレンマ」である。
グローバリゼーションのさらなる拡大(ハイパーグローバリゼーション)、国家主権、民主主義の三つのうち二つしか取ることができない、とする本書の「トリレンマ」に従うなら、今後の世界には三つの道がある。①グローバリゼーションと国家主権を取って民主主義を犠牲にするか、②グローバリゼーションと民主主義を取って国家主権を捨て去るか、③あるいは国家主権と民主主義を取ってグローバリゼーションに制約を加えるか、である。
新自由主義に共鳴し国内改革とグローバル化の推進を唱える経済学者は①を、欧州統合の実験に代表される二十一世紀のグローバル・ガバナンスに期待を寄せる政治学者は②を選ぶのは想像に難くない。そうすることが正しいとする研究も、それぞれの分野にごまんとある。だが、政治学、経済学、そして歴史をクロスオーバーさせる著者が期待を寄せるのは、③の道だ。自由貿易のもたらす便益を認めつつも、グローバリゼーションを「薄く」とどめることで、世界経済に安定を取り戻そうというのである。
国境線の持つ意味がますます小さくなり、政治も経済も文化も国家という単位を脱ぎ捨ててグローバルに融合していくはずだと考える人にとって、国民経済を強化するという選択は歴史の逆行のように思えるだろう。だが、本書が示すように、歴史はそう単線的に進んでいない。過去三百年の歴史を振り返って分かるのは、国民国家の成熟や民主主義の進展もまた歴史の止められない歩みであり、それらを犠牲にしてグローバル化を進めるのは理想的でも現実的でもない、ということだ。
もちろん、③の選択が実現されるには、いくつもの困難がある。たとえば著者は、民主主義の進展に新興国の持続的発展の鍵を見ているが、国家が直面する難題に民主主義がつねに正しい答えを導くわけではないのは、先進国の経験を見ても明らかだ。国家主権と民主主義に基づくナショナル・ガバナンスの強化は、国家間の対立を深めて今よりも世界経済を不安定にしてしまうかもしれない。ブレトンウッズ体制はアメリカという覇権国の存在によって可能になった(著者は必ずしもそうした見方に与していないようだ)面があるが、Gゼロ時代を迎えた二十一世紀に、覇権国なしで新たな国際協調の枠組みが本当に作れるのか、という疑問もある。
だが、難しいのは①や②も同じことだ。本書で示されたアルゼンチンの事例や、欧州統合の事例は、新自由主義的な発展戦略や、グローバル・ガバナンスの実現がいかに障害に満ちているかを明らかにしている。民主主義がどんなに危なっかしいものであったとしても、民衆や利益団体の強い反対を抑えてまでグローバル化を進めれば、政治体制が不安定化するのは当然である。国家主権が紛争の原因となるのが事実だとしても、いったん生まれた国家意識は簡単に消え去らない。それどころか、世界経済が不安定化すると国家意識はますます先鋭化して出てくるというのが歴史の教訓でもある。
どんな選択を行うにせよ、国家がわれわれの政治的、経済的、社会的生活の単位として存続し続ける限り──そして近い将来に国家が消える可能性はゼロだ──グローバル化の逆説はいつまでも残り続ける。われわれは、この現実から出発するしかない。そして国による経済モデルの違いを認めつつ世界経済のよりよい未来を構想しようとする本書は、著者の結論に賛成しない読者──①や②の立場を選択すべきだと考える読者──にとっても、新たな気づきや示唆を与えてくれることだろう。著者の次の主張に反対する者は、ほとんどいないはずである。
本書の著者ダニ・ロドリックは、第一線で活躍する経済学者であり、国際経済学や開発経済学、また最近では政治経済学の分野でたくさんの業績を上げている。原著の出版時にはハーバード大学ケネディ行政大学院の教授であったが、二〇一三年七月からはプリンストン高等研究所社会科学部門の教授を務めている。本書が、日本語に翻訳される初めての著作となる。
本書以前に刊行された書物としては、序章にも登場する『グローバリゼーションは行き過ぎか?』(Has Globalization Gone Too Far?, 1997 )、また最近では『一つの経済学、複数の処方箋──グローバリゼーション、制度、経済成長』(One Economics, Many Recipes : Globalization, Institution, and Economic Growth, 2007)などがある。後者では、政治的トリレンマや、産業政策の有効性など、本書でも展開されている論点が、もっと専門的に考察されている。理論的な細部を知りたい読者は、こちらを参照して頂きたい。
また、時事的な評論も定期的に発表しており、そのほとんどを著者の公式ホームページ(http://www.sss.ias.edu/faculty/rodrik)で読むことができる。トルコ出身ということもあり、トルコの政治・経済問題についての評論も多い。なお、本書の謝辞に名前が挙げられている義父チェティン・ドアンが「虚偽にでっちあげられた告発」で収監されているという記述について、私が知り得た範囲で補足しておきたい。ドアンは、ロドリックの妻の父にあたる元陸軍大将。「スレッジ・ハンマー」クーデター計画(二〇〇三年に国軍内で計画されたとされる政権転覆計画)に関与したとして拘束され、無実の訴え空しく、現在も収監されたままだ。この事件の背景には、親イスラム政党と世俗主義的な軍部の長年にわたる対立があるとされる。「本書が出版される時までに、正義が実現するだろうことを願っている」という著者の願いは、残念ながら叶っていない。
* * *
最後に翻訳の経緯について記しておきたい。私は、以前からグローバリゼーションを巡る日本の論壇が、「賛成派」と「反対派」にくっきりと色分けされてしまうことに不満を感じていた。昨今はTPPを巡る論争が盛んだが、ここでも「開国か鎖国か」といったずさんな二分論が少なからず登場する。だが、グローバリゼーションの現実には、賛成か反対かという単純な図式で捉えきれない複雑さがあるのではないか。世界経済の未来についても、このままグローバル化が順調に進んでいくというシナリオ以外に、もっと多様なシナリオがあり得るはずだ。そんなことを考えていたとき、たまたま本屋で出会ったのが『グローバリゼーション・パラドクス』の原著であった。
二〇一三年十一月
訳者を代表して 柴山桂太
題名の「グローバリゼーション・パラドクス」(グローバル化の逆説)は、一見しただけでは意味が取りづらい。読者の理解を助けるべく、以下に私なりの解題を記しておきたい。
本書の核となるアイデアは、市場は統治なしには機能しない、というものだ。昨今の新自由主義的な風潮の中で、市場と政府は対立関係にあると考えられることも多いが、本書はそれが明確に間違いであると指摘している。市場がよりよく機能するには、金融、労働、社会保護などの分野で一連の制度が発達していなければならず、政府による再分配やマクロ経済管理が適切に行われていなければならない。一九八〇年代以後、政治学の分野では国家論の研究が盛んに行われるようになったが、そこで強調されているのも、国家の統治能力の向上なしに持続的な経済発展はあり得ないという歴史的事実だ。
市場と統治という視点に立つと、グローバル経済が抱える根本的な問題が見えてくる。グローバル市場では、その働きを円滑にするための制度がまだ発達していない。全体を管理するグローバルな政府も存在していない。一国レベルでは一致している市場と統治が、グローバルなレベルでは乖離しているのだ。貿易や金融は国境を越えて拡大していくが、統治の範囲は国家単位にとどまっている。ここにグローバル経済の抱える最大の「逆説」がある、というのが著者の問題提起である。
では、市場と統治の乖離を埋めるためには、どんな方法があり得るのだろうか。本書が面白いのは、この問題の解決が過去どのように行われたのか、歴史をさかのぼって検討していくところにある。
最近の経済史研究が明らかにしている通り、グローバリゼーションは何も最近になって始まった現象ではない。貿易や金融取引の国境を越えた拡大は、歴史上、何度も繰り返されている。十七世紀の重商主義時代には、ヨーロッパの商人がアメリカ、アフリカ、アジアに進出して盛んに貿易を行っていた。十九世紀には金本位制によって、各国の金融市場が一つに結びついていた。これらの時代に、市場と統治の乖離というグローバリゼーションの根本問題が、帝国主義によって半ば暴力的に解決されたという著者の指摘は鋭い。市場の拡大に合わせて統治の範囲を拡大するには、軍事力を背景に相手国の主権を奪ってしまうのが、十九世紀まではごく普通のやり方だった。
だが二十世紀に入ると、各国で主権や国民意識が目覚める。国民生活を安定化させる政府の役割は、民主主義の高まりによってますます重要になる。市場と統治は、今度は統治の範囲に市場を縮小させるという形で一致に向かうようになった。市場が各国の政治や社会に「埋め込まれた」結果、金融システムや労働市場、社会保護のあり方は国によって多様な発展を見せるようになった。国内市場の安定のためには、グローバルな貿易や金融の拡大を抑制することも辞さない。これが戦後のブレトンウッズ体制の特徴であり、この「埋め込まれた自由主義」体制の下で資本主義はかつてない安定的な発展を享受することになった。
では現代はどうか。ブレトンウッズ体制の崩壊と冷戦終結で、貿易や国際金融が再び活発に拡大する時代を迎えている。つまりわれわれは、市場と統治の乖離、というグローバリゼーションの逆説にあらためて直面することになったのである。もはや金本位制と帝国主義の時代には戻れないし、ブレトンウッズ体制にそのまま戻ることも現実的ではない。では、他にどんなやり方があり得るのだろうか。ここで登場するのが、第九章に示された「世界経済の政治的トリレンマ」である。
グローバリゼーションのさらなる拡大(ハイパーグローバリゼーション)、国家主権、民主主義の三つのうち二つしか取ることができない、とする本書の「トリレンマ」に従うなら、今後の世界には三つの道がある。①グローバリゼーションと国家主権を取って民主主義を犠牲にするか、②グローバリゼーションと民主主義を取って国家主権を捨て去るか、③あるいは国家主権と民主主義を取ってグローバリゼーションに制約を加えるか、である。
新自由主義に共鳴し国内改革とグローバル化の推進を唱える経済学者は①を、欧州統合の実験に代表される二十一世紀のグローバル・ガバナンスに期待を寄せる政治学者は②を選ぶのは想像に難くない。そうすることが正しいとする研究も、それぞれの分野にごまんとある。だが、政治学、経済学、そして歴史をクロスオーバーさせる著者が期待を寄せるのは、③の道だ。自由貿易のもたらす便益を認めつつも、グローバリゼーションを「薄く」とどめることで、世界経済に安定を取り戻そうというのである。
国境線の持つ意味がますます小さくなり、政治も経済も文化も国家という単位を脱ぎ捨ててグローバルに融合していくはずだと考える人にとって、国民経済を強化するという選択は歴史の逆行のように思えるだろう。だが、本書が示すように、歴史はそう単線的に進んでいない。過去三百年の歴史を振り返って分かるのは、国民国家の成熟や民主主義の進展もまた歴史の止められない歩みであり、それらを犠牲にしてグローバル化を進めるのは理想的でも現実的でもない、ということだ。
もちろん、③の選択が実現されるには、いくつもの困難がある。たとえば著者は、民主主義の進展に新興国の持続的発展の鍵を見ているが、国家が直面する難題に民主主義がつねに正しい答えを導くわけではないのは、先進国の経験を見ても明らかだ。国家主権と民主主義に基づくナショナル・ガバナンスの強化は、国家間の対立を深めて今よりも世界経済を不安定にしてしまうかもしれない。ブレトンウッズ体制はアメリカという覇権国の存在によって可能になった(著者は必ずしもそうした見方に与していないようだ)面があるが、Gゼロ時代を迎えた二十一世紀に、覇権国なしで新たな国際協調の枠組みが本当に作れるのか、という疑問もある。
だが、難しいのは①や②も同じことだ。本書で示されたアルゼンチンの事例や、欧州統合の事例は、新自由主義的な発展戦略や、グローバル・ガバナンスの実現がいかに障害に満ちているかを明らかにしている。民主主義がどんなに危なっかしいものであったとしても、民衆や利益団体の強い反対を抑えてまでグローバル化を進めれば、政治体制が不安定化するのは当然である。国家主権が紛争の原因となるのが事実だとしても、いったん生まれた国家意識は簡単に消え去らない。それどころか、世界経済が不安定化すると国家意識はますます先鋭化して出てくるというのが歴史の教訓でもある。
どんな選択を行うにせよ、国家がわれわれの政治的、経済的、社会的生活の単位として存続し続ける限り──そして近い将来に国家が消える可能性はゼロだ──グローバル化の逆説はいつまでも残り続ける。われわれは、この現実から出発するしかない。そして国による経済モデルの違いを認めつつ世界経済のよりよい未来を構想しようとする本書は、著者の結論に賛成しない読者──①や②の立場を選択すべきだと考える読者──にとっても、新たな気づきや示唆を与えてくれることだろう。著者の次の主張に反対する者は、ほとんどいないはずである。
現在、世界には様々な制度や仕組みがあるが、それでも潜在的な制度の可能性の大きさから見れば、実現されているのはほんの一部でしかない。……将来最も成功する社会とは、実験の余地が残され、時間をかけて制度を進化させていく余裕のある社会であろう。グローバル経済に制度的多様性の必要や価値を認めるなら、こうした実験や進化を抑制するのではなく、育成しなければならない(本書二七五-六頁)
本書の著者ダニ・ロドリックは、第一線で活躍する経済学者であり、国際経済学や開発経済学、また最近では政治経済学の分野でたくさんの業績を上げている。原著の出版時にはハーバード大学ケネディ行政大学院の教授であったが、二〇一三年七月からはプリンストン高等研究所社会科学部門の教授を務めている。本書が、日本語に翻訳される初めての著作となる。
本書以前に刊行された書物としては、序章にも登場する『グローバリゼーションは行き過ぎか?』(Has Globalization Gone Too Far?, 1997 )、また最近では『一つの経済学、複数の処方箋──グローバリゼーション、制度、経済成長』(One Economics, Many Recipes : Globalization, Institution, and Economic Growth, 2007)などがある。後者では、政治的トリレンマや、産業政策の有効性など、本書でも展開されている論点が、もっと専門的に考察されている。理論的な細部を知りたい読者は、こちらを参照して頂きたい。
また、時事的な評論も定期的に発表しており、そのほとんどを著者の公式ホームページ(http://www.sss.ias.edu/faculty/rodrik)で読むことができる。トルコ出身ということもあり、トルコの政治・経済問題についての評論も多い。なお、本書の謝辞に名前が挙げられている義父チェティン・ドアンが「虚偽にでっちあげられた告発」で収監されているという記述について、私が知り得た範囲で補足しておきたい。ドアンは、ロドリックの妻の父にあたる元陸軍大将。「スレッジ・ハンマー」クーデター計画(二〇〇三年に国軍内で計画されたとされる政権転覆計画)に関与したとして拘束され、無実の訴え空しく、現在も収監されたままだ。この事件の背景には、親イスラム政党と世俗主義的な軍部の長年にわたる対立があるとされる。「本書が出版される時までに、正義が実現するだろうことを願っている」という著者の願いは、残念ながら叶っていない。
* * *
最後に翻訳の経緯について記しておきたい。私は、以前からグローバリゼーションを巡る日本の論壇が、「賛成派」と「反対派」にくっきりと色分けされてしまうことに不満を感じていた。昨今はTPPを巡る論争が盛んだが、ここでも「開国か鎖国か」といったずさんな二分論が少なからず登場する。だが、グローバリゼーションの現実には、賛成か反対かという単純な図式で捉えきれない複雑さがあるのではないか。世界経済の未来についても、このままグローバル化が順調に進んでいくというシナリオ以外に、もっと多様なシナリオがあり得るはずだ。そんなことを考えていたとき、たまたま本屋で出会ったのが『グローバリゼーション・パラドクス』の原著であった。
二〇一三年十一月
訳者を代表して 柴山桂太
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グローバリゼーション・パラドクス 世界経済の未来を決める三つの道 ダニ・ロドリック 著/柴山桂太、大川良文 訳 ハイパーグローバリゼーション、民主主義、そして国民的自己決定の三つを、同時に満たすことはできない! この世界経済のトリレンマをいかに乗り越えるか? 世界的権威が診断する資本主義の過去・現在・未来 |