神さぶる杜の中を一人てく〳〵歩いてゆく。近くには鳩川の支流があり、微かに聞こえるせゝらぎが耳に心地よい。此処はさねさし相模の国、有鹿神社奥宮である。暗澹たる思ひがどうしても解消されぬときに訪れる。
来るのは大抵夏の初めである。然るにのんびりと森林浴を楽しまうなどとは思つてゐない。早い話、筆者は平生の紛紜を忘れむと此の杜へと逃げ込んだのだ。
御神体は滾々と湧き出づる水である。水辺の隅には飾り気の無い小祠がある。先に来た人が奉拝してゐる。それを見遣る筆者は清流に向かつて柏手を打ち、胸の裡でかく呟いた。「この祈りは少なくとも五千年間連続してゐる」と。然るほどに空は朱に染まりゆき、澄める水面は愈以て太古の幽寂を引き立たせた。
屈平曰く「世を挙げて皆濁れるに我れ独り清(す)めり。衆人皆酔へるに我れ独り醒めたり」と。官途を剥奪され江南に追放された屈平は悵悵としつゝ湘江の淵を彷徨した。持てる苦悩の差こそあれ、筆者も亦た陰鬱なる気分にて僻地の湿原を歩き回つた。
漁父、悩める屈平に対へて曰く「聖人は物に凝滞せずして能く世と推移す」と。孤高なる屈平に対して、漁父は一切をあるがまゝに受け容れてゐた。彼れは穢れ多き人の世を諦観してゐたのである。此の「漁父辞」は儒家思想と道家思想とを比較せる詩なのである。
然るに現世を「固より穢れたもの」として捉へるは道家のみに非ず。仏教にては此の世を「穢土」と呼んでゐる。
「夕がほもへちまも知らぬ世の中はたゞよのなかにまかせたらなむ」とは良寛の詠める歌である。蓋し夫れ屈平の如き理想主義とは正反対の立場なのであらう。抑も「諦める」の語原は「明らむ」である。即ち「事物の道理を推究すること」だ。
成程、かくすれば現世の穢れた実態が露見して来る。筆者も読者諸賢も日常の中で知らず識らずの内に種々の罪穢れを募らせてゐる。如何あつても人間はそれを免れ得ない。
筆者は仏教でいふところの「縁起」や「無常」を筆者なりに理解してゐる。但しかかることは断じて「仏の教へ」ではない。よしや仏教者が独占しつゝあるにせよ、左様な動かざる真理は宇宙万有の現象なのである。要は此の世に釈迦が誕生してゐてもゐなくとも「無常」は均しく万物に臨むのである。
ゆゑに神道家の川面凡児先生は「悟りても悟らぬでも無常、その悟る悟らぬも無常なり」と仰られた。まさしく万有の半面は四囲の境遇に制せられる。釈迦も孔子もマホメツトも御多分に漏れなかつた。如何なる者も「無常といふ状況」の支配より逃避すること能はざるものと諦観せざるを得ない。即ちそれ「当然」といふ、現世に定め置かれた真実に外ならぬ。
扨て、凡そ吾人は深慮せずして「そんなことは当然だ」などと口走る。然し「当然と思へるもの」と「真に当然なるもの」には大なる開きがある。
或いは数千年数万年の長きに亘りて吾人の生活を潤せる水源も、数千万年数億年の単位で考へるならば「当然のもの」ではないのかも知れない。それは「吾人に取つては当然」であつても、常住不変の存在であるとは言ひ難いのである。
何せ、現今の科学技術は水源の一つや二つを容易に消滅させることが出来る。然れども吾人の努力如何に因つては汚れた海や川を蘇らせることも可能なのだ。
詰まるところ人間と水は相ひ俟てる間柄であつて、互ひに境遇を与へ合つてゐると見るべきなのである。人間はさういふ「形あるもの」を各々が持てる「複雑な境遇に依拠せる主観」を以て、思ひおもひに認識する。外界と内界は不断に交感してゐる。何かに就いての認識が僅かでも変ずるならば、その人の捉へる宇宙は既に変化してゐるのである。
のみならず事物認識の条件が変ずるならば、変ずる以前の事物認識は妥当性を喪失する。ところが「無常」といふ真理は全く強引であつて、此方が如何に捉へようともお構ひなしに襲ひ掛かる。「無常」は、その字面とは裏腹に「常なるもの」なのである。此のゆゑに現世は苦しみと悲しみに充ち満ちてゐる。但しそれは「存在」を裏付ける最たる要素であると言はねばならない。
川面先生曰く「いかる」と「いける」は同根である、と。亦たその状況をつくりだすものこそは「熱魂」であると述べられた。それは「怒り」の正体でありつゝ、人生の原動力でもある。人は時々刻々無常を身に感じながら己が目的を果たさむと魂を燃焼させる。我々は、無常に焚き付けられなければ、意思を持たぬ、ただのヒトガタだ。無常に刺戟されてゐるからこそ魂を寓してゐる。
但し先生は「熱魂」を制御すべきなることを繰り返し説いてをられる。それを事業に向けて発散するか、寧ろ「大空に向けて発散すべし」と仰られた。
天つ御空は全てを受け容れて呉れる。そこに向かつて何かを叫んだところで何の障りもない。人間はその下で泣き笑ひ、争ひ、睦み合ひ、哲学し、悠久の歴史を刻んで来た。地球は空に覆はれてゐる。仮令地球を脱出して宇宙に達しても、辺り一面は虚空が取り囲んでゐる。「万物の霊長」を以て任ずる人間は、此の「空」に対して価値を定め得るほど立派な存在ではないのである。
土地の価格は周辺状況等に因つて変動する。然るに掴みどころ無きものは、自らの価値を定めさせ得る比較条件を何も持つてゐない。かやうな「常なるもの」の価値は神のみが定め得る。従つて吾人は、現御神天皇のお持ちあそばさられる大御位に対し奉り「人の価値判断」を上書きしてはならないのである。
此のことは全ての日本人に課せられた重大なる責任なのだ。将に吾人はその次元に立ち帰らなければならない。而してそれが全うされた後、日本民族は自滅へと向かふ現文明を「皇道文明」に転換させるべく、全人類を指教せざるべからず。全ての日本人は皇国が「もとつおやくに」なることを疑ふ勿れ。人類最古の文明はメソポタミア文明に非ず、吾が皇道文明なり。末枝国なる外国の文明は全て皇国より発祥したのである。
それに関する私論は姑く措くも、ひとまづ吾国が極めて水に恵まれた環境にあるといふことを潜思されたい。水は文明の母である。けれども、人の欲望は之れを穢すこと甚だしく、現今のあらゆる飲料水はマイクロプラスチツク等の有害物質を含有してゐる。皮肉にも水に由つて育まれた文明が水を汚すに至り、それを飲む文明人の身体を蝕んでゐる。
尤もマイクロプラスチツクの有害性に就ては学者の間で可成り意見が割れてゐるらしい。或る工学者に至つては聯合国(国聯)等が殊更らプラスチツクごみの削減を喧伝せる背景に「環境利権」が絡んでゐると主張しつゝある。筆者は専門家ではないので、その学者の言と危険性を説ける学説のどちらが正しいのか判断し難い。然しながら現在の水道水に様々な化学物質が含まれてゐるといふ事実は、最早疑ひを挟む余地が無い。
筆者は環境利権に与かる人たちと同じやうに「海洋保全」の重要性を説く。但し筆者をしてそれを訴へるに至らしめた「崇高なる想ひ」を、利権屋どもの持てる「薄汚き欲望」と同列視して貰つては困る。筆者は自らを含む人間の行く末を案ずればこそ之れを主張せむと決意したのである。
結局人類はより良く生きんが為め目標を定めつゝ、そこに向かつて進みゆく以外に無いのだらう。然し「より良く生きたい」と願ふことも亦た「或る種の欲望」なのである。例へば筆者は色々なことを「実現へと導きたい」と欲せるものだが、何時もそれを阻害するものが眼前に横たはつてゐる。かるがゆゑにしば〳〵憤りを覚える。或いはそれ、急いでゐるときに赤信号の前に立つ心境と相似してゐる。
そこで俄かに川面先生の記述を思ひ出した。即ち「憤るとは生き通るである」「忙しいと急ぐは同じである」と。漢字の「忙」は「心を亡くす」といふ意義を孕む。然れどもその実、多忙なるときこそ「目的を達しなければならない」といふ思ひに駆られるものだ。否「急いでゐる」「忙しい」といふ状況自体「目的意識」を持たざれば成り立たない。阻害されれば、阻害されるほどに欲求は強まる。やがて身体が熱を帯びて来る。
かくてその「意欲」が更らに強まれば荒魂に差配される。此れにブレーキを掛けるものこそは和魂であり、諦観なのである。両者はともに人生に取つて必要なものなのだけれども、適度に抑へつゝ操縦しなければ危険であると承知する。
後水尾帝に於かせられましては次の如き詔を渙発あそばされた。即ち「何事も過ぎたるは、をよばざる道理ある事にて候へども、いかりは深く成りやすく、慈悲はすぎ候やうには成りがたく候故、其分別肝要にて候。(謹略)信心なる者は邪路ならざるとしろしめさるべく候」と。荒魂のみならず、和魂も過ぎたれば心身を損なひ、終ひには禍津日に変じてしまふ。実にそれらを統御せるものは直霊に外ならない。
人間は須く信心すべし。但し日本人の信心の要諦は、大御心に浴しつゝ、大御心を心とするやう自らを磨くことにあると断言する。「こゝろに何時も太陽を」とはさういふことなのだ。吾人はそれに由つて自己を昇華させ得るし、人生の醍醐味を味はうことが出来る。
考ふるに吾人は世俗に塗れることを厭うてはならないが、時折静かに「根本」を見詰め、欲望ならぬ「祈りのこゝろ」を涵養しなければならない。而してそのこゝろを実生活に反映させるべきなのであらう。
その日、宵闇と瀬音に包まれた筆者は、かやうな想ひを募らせながら、家路を急いだのであつた。(了)
(芳論新報 令和五年七月号より)