人の體にはいくつもの循環機能が具はつてゐる。抑も吾人の生命活動が維持されつゝあるのは、血液、リンパ液、閒質液等が循環してゐるからなのである。
その運動は宇宙全體とシンクロせるものであつて、かかる「循環システム」はあらゆる領域に於いて散見される。そも〳〵太陽系にせよ氣の遠くなるやうな過去に消滅した星々を素材として誕生したものだ。果ては吾が地球も約七十五億年後に赤色巨星化せる太陽に呑み込まれる命運にある。擧句「惑星狀星雲」となり、新たな星の原料として宇宙に散逸される運びとなるのである。
詰まりは宇宙に於いても人體と同じやうな「新陳代謝」が行なはれてゐるのであるが、その機構全體を巨大なる「生命の循環」として捉へた場合、吾人は餘り悲觀しなくても宜いのではあるまいか。どうしてかと言ふと、吾が星は「無に歸す」ことなく、何らかの形でとこしへに生き續けるからである。
水は地表と對流圈とを留め處無く循環し、數知れぬ生命を育んでゐる。但しこの液體は、流れが滯るとすぐに腐つてしまふのだ。
卽ち水もあらゆる生物の體液も、對流や循環に由つてこそ正常なる狀態を保持してゐる。或いは「動くこと」が豫期されてゐるのである。—まさに「神機妙算のシステム」といふべき乎。
然らば人閒がかやうな「神の定めし機構」を破壞した場合はどうなるのかといふことを考へてしまふ。
蓋し自身を含むところの「システム下に存せる一切」が、それ相應の厄難を被ることを免れないであらう。
要するに、人類は如何に髙度なる文明を構築しようとも「畏るべき意思」より逃れること能はぬ存在なのである。
神力と人力
やゝもせば現代を生ける吾人は「自らが自然より切り離されてゐる」かの如く錯覺してしまふ。けれども人閒は、どれほどアスフアルトに覆ひ盡くされた環境にあらうとも、結局のところ「アスフアルトの下に隱れた土」を本據とする以外に無いのではあるまいか。もつと言ふならば、吾人はかかる「根本」とともに步み續けなければならず、未來永劫自然を畏怖する「謙虛さ」を持ち續けなければならない筈なのである。
然るに人類は誤れる人閒中心主義の信仰が根付いてよりこのかた「人」と「自然」とを分極化させて憚らない。故に水や土、己が肉體に宇宙を觀ること能はず、そこに人慮の及ばぬ幽事(かくれたること)が嚴存せるを悟り難くなつてゐるのである。
確かなること。それはこの「幽事」が、吾人の生ける限りに於いて「觀測し得ぬ定めにある」といふ事實だ。一方先述したが如き「人體内の代謝」や「宇宙に於ける循環構造」といふものは、大抵の場合科學で說明が付く。
例へば生物が有する代謝機構の起源。これは原始の海に於いて幾つかの條件が重なつたことに因つて「生命の素」の如き有機體が生じ、それが次第に「代謝」を獲得した、といふことに由來してゐる。然し茲に於いて着眼すべきは「左樣な過程を踏むと何故かかる化學反應が起きるのか」といふことである。加へてその「法則性」は奈邊より齎されてゐるのか、といふ問題に關してだ。
つら〳〵惟るに、それは全く以て玄妙この上なき「神力」だと感じざるを得ない。詰まるところその現象を生じせしめた「法則」それ自體は「生命の素」が數億年後に頗る複雜なるゲノムを構成することをも内包せるものなのである。筆者は「全ての事物は豫定されてゐる」といふことを、不確かなれど感格しつゝある。
尤も原始生命誕生の過程と人類の築ける今日の文明に「直接の關係性」など無い。然しながら筆者は、この宇宙に於ける諸事萬端は決して「別個のもの」ではなくして、實は連關せる「一個のシステム」上に存せるものなのではないか、などと空想してゐるのである。
無とは卽ち永遠である
無論ながら、如上の「科學的方法に基づかぬかかる論法」を「科學」の範疇に入れることは出來ぬ。亦たかやうな事柄は凡そ檢證する能はぬものであるとも言へるだらう。但し筆者はその言說に就いて、所謂「聖書」の記述を無理くりに科學に當て嵌めようとせる「創造科學」の如きものではない、と自負せるものである。
何となれば筆者は「宇宙法則とは一體全體何であるのか」といふ課題に對して眞劍に取り組んで來たからだ。かくして頭痛を催しつゝも思考の戰ひに挑み續け、ふと閃きが腦裏をよぎつたのである。
筆者にして「物理法則は時空の中にのみ存すこと」や「一切は時閒や空閒の無い特異點に於いて意味を失ふ」といふ理屈を解しつゝある。從つて我が思惟はあながち迷妄であるとは言へないと考へるものである。

何しろ理論物理學の第一人者なるアレキサンダー・ビレンキン博士にして「泡の如き宇宙は無の大海から飛び出してきた」などと述べてゐるのである。これは、筆者のオカルト染みた想像に勝るとも劣らぬ珍妙なる見解だ。亦た或る企畫にてビレンキン博士と對談した物理學者は「無」に關して次の如く論じてゐる。
卽ち「物理世界と究極の對稱性を持つものが無である」と。復た曰く「無とは卽ち永遠である」と。蓋し現在の髙度なる科學には多分に「第六感」が要求されてゐるのではないだらうか。
如何あれ筆者はビレンキン博士の說ける壯大なる「泡宇宙論」の虜となりつゝあるのだが、次の如き疑問が强く胸を去來する。それは「泡の如き宇宙が無から現れた」といふことに何か有意性があるのか、といふ「素朴な問ひ」である。
恐らく、この設問に對して確たる答へを出せる科學者は居るまい。科學者としては、そのやうなことを考究することに何ら價値を見出せないであらう。
然るに若しも彼れらが「その通りである」などと答へるのであれば、筆者は「宇宙物理學なる學問が存續してゐることの意義」を問ふより外に無いのである。
佐藤信淵翁
扨て、茲で一旦別のことを論じようと思ふ。先づは「土着思想」を論ぜる古書。その多くは論理的思考と「幽事に屬せる直觀」の如きを綯ひ交ぜにしながら同一の俎上に載せてゐる。然し筆者が近年來興味深く讀みつゝあるその種の古書は、押し竝べて「自然律と一體をなした理論」を展開してゐるのである。
大國隆正先生曰く「壬水すべて地上にくだり(中畧)海に入り、つひに地底に入り、淸まりてまた天にのぼる。のぼりてはくだり、くだりてはのぼる。萬古やむときなし。天地の機關はかくのごときものになん」と。詰まり「天地自然の理」を極めて重視されてゐる。吾國の古書には類似せる記述がまことに多いのである。それに就いては佐藤信淵翁も同じである。
佐藤翁「經濟要錄」に曰く「氣候ノ寒暖ヲ審ニシ。土性ノ剛柔ヲ察シ。氣候ニ適ヒ。土性ニ宜キ所ノ諸品ヲ作リ。天地化育ノ勢力ヲ盡シテ。土地ニ遺利ナカラシメ。士農工商共ニ其職ヲ勤テ。懈怠スル事無ク。奢侈スル事無ケレバ財用充足シ。國家冨盛スル事必セリ」と。
同著に於いては、最初に「土」や「氣候」の如きに主眼が置かれてゐる。然して佐藤翁は斯かるものを「大本」とお呼びになられたのであるが、よく〳〵考ふれば、生活の基礎なる「衣食住」は疑ひなく「土と氣候」とに强く依據してゐるのである。

要之、佐藤翁はその事實を念頭に置きつゝ「土性(土地の生產力)を積極的に活用するべきである」といふことを說示してをられる。「經濟要錄」はまさしく「根本」を論考の出發點とせる奧深き經濟論なのである。それでは、本然の 皇國に於ける「經濟の根本義」とは如何なるものなのであらうか。
同書に曰く「我家ノ經濟學ハ天地ノ神意ヲ奉行シ蒼生ヲ濟救スベキノ大道ナリ」と。この一節を讀んで愚察するに「奉行」なるは元來「神意を代行し奉る」といふほどの意義だと言へるのである。
果然、佐藤翁は「質素を守ることは天地の心に適へるものである」と論ぜられたのであるが、その正論は筆者が冒頭にて述べた内容と聊か通ずるものである。然して人民の氣質に就ては「兎角奢侈ニ長ジ易ク」などと冷徹に分析してをられるのである。
亦たそれだけにとゞまらず「人民は如何なる經緯で奢侈に陷るのか」といふことまでをも詳らかにされてゐる。それでは、次にそのあらましの解說を試みむと思ふ。
佐藤翁曰く「太平の世は卽ち世人をして必ず繁華驕奢に進行せしむる」と。而も奢侈の思潮が蔓延したら最後、正常なる狀態に引き戾すことが極めて困難であり、次の段階には「必ず衣食の缺乏が到來する」と斷じてをられるのである。
但し佐藤翁は、かくの如き「法則」を奈何ともし難きものとしながらも、決して「絕望」を說いてはをられない。國家の冨裕とは卽ち「名實ともの繁榮」であつて、そのためには「太初の質朴」を熟察せよと提言されてゐるのである。
成程不便なる太古の暮らし振りは「質實」であるより外に無く、人閒は豐かになればなるほど「生存と無關係のこと」に心を奪はれるものだ。更らには「重大なる基本」を心に留め置かなくなる。佐藤翁は、かかる始末に負へぬ「根本の忘卻」こそが驕倣の慣習を世に蔓延せしめ、遂には「神の怒りに觸れる」と說示されるのである。
然して「神意を推すること」が「經濟ノ大要」であり、神に事(つかへ)る本心も無くして妄りに冨まむとするは「經濟道ノ妖魔ナリ」と斷じてをられる。
蓋し吾人は冨める時代に在つてこそ鴻荒のつゞまやかさを憶ふべきなのではあるまいか。
【芳論新報 令和三年一月號より】
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