『老けないカラダ・若返る身体』を、古武道の知恵で伝えるブログ -17ページ目

『老けないカラダ・若返る身体』を、古武道の知恵で伝えるブログ

戦前の日本人の身体感覚を復興させたい
古武道エネルギー療法家が教える

① アトピー、慢性病を自分で治そうとしている人
② 古武道の考え方を活かしたい人
③ 気を活用して、もっと身体を若々しくしたい人
を、中心にお伝えしております。

自分が大学生からずっと追いかけてきた
武道、自然療法、宗教

あれから20年近く経ち、自分でも
何を求めているんだろう??と
想いながら探求してきました。

40歳を前にして、ようやく答えが出ようと
しています。


「自分らしくある」


ここに尽きるようです。


自分らしくあるときは、一番強く
自分らしくあるときが、自然治癒力も高くなり、
自分らしくあるときが、こころが満たされます


恐怖からうまれた思考、
時代や社会に制限された常識、

それらに歪められた自分。


影の自分、歪んだ部分、欠けた部分を
取り戻そう、修正しようとしても
結果がでない。

そう、水に映った水月を捕まえようとしているようなもの。



自分は、なにも欠けていない。
自分は、なにも歪んでいない。

そう、そこに気づくだけでよかったんだ。


武道をやっても、
自然療法をやっても
対話をしていっても、
最後はそこに行き着くようだ。


自分が、自分らしくある。

昔のひとは、
「自分の胸にきいてみな」
という言葉で教えてくれていた。


脳科学が進歩するほど、脳が判断している
という思い込みがする。

でも、私の感覚では
胸に聞いてみるというこの感覚の
方がいいようにおもう。

胸 、そう、それを言い換えると

真我、魂といい変えてもいいだろう。

「自分の胸にきいてみな」
言い換えると

「自分の真我、魂にきいてみな」
になるだろう。


そう、その為に、
私は武道の稽古をして、
BSセラピーを生業にする。


学生時代から、求めていたものは
どうやらこれだったようだ。

思考、脳は何を求めているか知らなかったが、

真我、魂は知っていたから求めていたのだ。


自分らしくある。

自分らしくあると、いきやすくなるんだ。
(^3^)/


先日、現役保育士さんで、重ね煮プロ級の腕前をもつ党深子先生の重ね煮セミナーを
一緒にやらせていただきました。

私は料理よりも陰陽の理論が大好きで、料理もtどちらかというと理科の実験というか、法則の乗っ取るというか、そんな料理になるのですが、

党深子先生の重ね煮を食べたときに、
愛情のある料理ってこんなものかとおもいました。

美味しくて健康になる料理を食べて欲しいという想いが料理から溢れているようでした。

私が子どもにつくる重ね煮は、健康になるから食べなさい、ほら、おいしいでしょ?!みたいな料理だなと比較してみて、改めて感じました。

ジャムおじさんがいつも、パンをこねるときに
「おしくなあれ♥」と言いながらやっています。

重ね煮に限らず、料理はその人の
想いが反映されるんだなぁとおもいました。

本当に素晴らしい党深子先生の重ね煮料理

小さい子どもをもつおかあさん、
絶対にこの党深子先生の重ね煮を
食べてたら、真似したくなりますよ
(^3^)/

料理は愛情

なんか、どこかで聞いたことあるけど
本当だなぁと思います!!
人々の悩みの多くは人間関係だという人は多いかもしれない。

あの人さへいなければ・・・・

あの人がいうことを聞いてくれない
・・

あの人が苦手なの・・


お金の問題もあるかもしれない。
お金さへあれば・・・しかし、


ここでちょっと、イメージしてみよう

人工知能が発達して、
全てはロボットが何でもしてくれる。
そう、ドラえもんの秘密道具のように
なんでも叶えてくれる。

食事も、お金も、旅行も
健康もなんでも叶えてくれる。

ただ、人が自分一人しかない。

世界中旅行しても、美しい景色は
あっても、自分一人しかない。

ごちそうがあっても、財宝があっても
地球には自分一人しかいない。

そんな世界と、いままで通りの
世界どちらがいいだろうか?


私は、いままでの世界を選ぶだろう。

人がいなければ、どんなにお金や美味しい食事、きれいな環境、景色があっても
退屈なのではないだろうか??

人か、それ以外か?
そう問われたら、絶対に人だろう。



なんか、そうふと思った。





そう思うと、いろんな人がいることは、
素晴らしいことだ。




人生は、誰とどんなことを過ごすかが
重要なんだなぁとつくづく思う。

いくら、一人が好きという人でも、
世界中の人がいなくて、ずっと自分一人というのは耐えられないだろう。

ロボット アンドロイド、AIがいくら相手をしてくれたとしてもだ・・・。

そう思うと、いろんな人とので出会い、を味あおうではないか?

苦い、甘い、辛い、塩辛い、酸っぱいがあるように、人間関係もいろんな味があるからいいんだろう。


さて、その人間関係の味を味わうのはどこの部位だろうか?

料理の味覚は、舌で味わう。



人間関係の味覚は、ハートで味わうのではないかと思う。

そうだ、ハートで人間関係を味わおうではないか!!



感謝しよう、この地球に私以外の人間が存在してくれていることに!!


さあ、人間関係に疲れたときは、想像してみよう、

誰もいなくて、すべてが揃っている世界がいいのか?

多少の不便があっても、人間がいてくれる世界がいいのか?
マトリックスという映画を皆さん覚えていらっしゃいますか?

私はその時は、これはSFアクションものの映画かなぁぐらいで、流行りの映画だからね。見たよぐらいでした。


最近、ふとしたきっかけで見直して、びっくりした。

人工知能が電力を得るために、人間を生命電池として生産しているのである。

めんどりが卵を生む機械のごとき扱いをうけているように、人間もただ生体電流を供給する電源として、飼育されているのである。

そう、つまり人間はすべてシステムに組み込まれているのである。管理というなのシステムに。

当時は、面白い設定だなぁとおもったこのお話。



成長して、今見るとぞっとした。

まさに、私達はシステムに管理されているではないか!!!

養鶏場の鳥達に、
「あなた達は管理されているんですよ、システムの一部なんですよ」
と伝えても、

「そうですか?私達は、食べ物にも困らないし、抗生物質もちゃんと飲んで、病気の予防もしているし。立ったり、座ったりできる自由もあるし、私達は何も不安はないんですよ。みんあ、そうしているでしょ。

あなたはおもしろいひとですね、不思議なことを考える方たちなんですね」

と返されるかもしれない。



病人が増えていくシステム、
富が一部に集中していくシステム
勝負で勝ち負けにこだわっていくシステム


養鶏場の鳥として、育ってきた鳥達が
自然の中に戻って、本来の鳥として
生きていくことを望むだろうか??

とりさん達に、あなたはシステムの存在に気づいていますか?

システムから自由になりませんか?

システムの否定ではありません。

システムからの自由です。


システムは、利用するもの。
道具であるはずだ。

いつのまにかシステムを維持するために、自分がシステムに囚われていることに気づけ。



マトリックスでは、システムの維持管理を行っているエージェントといわれる的と、

そこからの自由をねがう人達の戦いなんだぁとやっと気づきました。





むかし、メル、ギブソン主演の「ブレイブ・ハート」という作品も、実は貴族のシステムからの解放の為の戦いの物語だったんだと今わかりました、





さあ、養鶏場の鳥さん達に質問しよう
「本当のあなたは誰ですか?」
「卵を産み続ける今の姿が本当の鳥ですか?」
と・・・。

善悪、運がいい、悪い。
これらが思考の産物であると仮定するならば、

そして、この思考をクリアにすることができたならば。

人生は、
ただ行動と結果しかないだろう。

行動と結果を観察するならば、気付きがでてくる。

気付きの中から、私の魂は何を学び成長している。

もしかしたら、赤ちゃんや幼児はこのような状況なのかもしれない。

平気でスリッパの裏を舐める。
舐めたいから、舐めているだけなのだ。
そこには、思考はない。

あー、舐めてみたいという直感だけである。


もし、人生がそうであるならば、愛のある直感に従って行動することに何のためらいがあるだろうか?

私が私らしく生きることに、何の後悔があるだろうか?


思考は道具である。
社会的な存在としての生活の為に必要な道具である。

思考が私ではない。
思考に惑わされてはいけない。


あー、エネルギーがあふれてくる。

そう、いままでたくさんのブレーキをかけていたのだ。

子どものころに戻ったみたいだ。
これが本来の人間の姿なのではないだろうか!!

もう一度言う、いや、言わしてください。

人生が行動と結果、そして、観察と気付きならば、愛のある直感に従って行動することに何のためらいがあるだろうか?

さぁ、あなたも、行動していこう!!
ハートで生きると生きやすくなりませんか?

別の言葉で生きると、自分の直感でいきる
自分に素直に生きるというような表現になるでしょうか?


それが、なぜいきやすくなるのかなぁとずっと気になっていました。

昨夜は、居合の稽古でした。

二人で型稽古をしていて、
型もできた二人で稽古をすると
最後は間と呼吸の稽古になります。

ぱっときたら、ぱっと返すという
瞬間の世界です。

そのときに、思考が入ると
なぜかワンテンポ遅れるのです。
思考した瞬間の間が、遅くなるのです。

そうすると、間抜けてしまって
技がうまくかかりません。

当たったら、怖いなぁ
相手に勝ちたい、
次どうしよう?

いろんな思考が浮かびます。
そんな思考があると、技は上手くかかりません。
ただ、型どおりに動くと技がかかります。

不思議です。
不思議だけど、そうなるから仕方ありません




これを日常生活で当てはめてみましょう。

素直に、自分に正直に生きている人は、
その思考の間がありません。

思考で生きている人は、その間がいつもはいってしまいます。


たとえば、だれかが
「このⅠ万円いるひと!」と、善意で言ってくれたとします。

直感の人は、
間髪いれずに
「はい!、ください(^-^)/」と素直に受け取れるのです。

でも、思考が入る人は、
(え、でももしかしたら、何か裏があるかも・・・)という思考の瞬間遅くなります。

迷う、(どうしようなかぁ・・・)

「あ、はい。私もいります!」


どうしても思考が入る人が、一瞬遅くなります。



どちらにⅠ万円札を渡すとおもいますか?


もちろん、あげる気があるひとは、
最初にてをあげた人に渡す可能性が高いとおもいます。



そっかぁ、直感に従って生きると
この余計な間がとれるから、
スムーズにいくのかぁ!!

宇宙は、無限のエネルギーを与えたがっている。
間が悪い、間抜け状態だったから
私が受け取りそこねていたのかぁ。


最近は、素直に生きるように心がけていると
なぜか、生きやすい。


その理由がこの思考の瞬間が間、タイミングを
わずかだけずらしているということなんですね。


音楽でも、なぜかタイミング、間が悪い音楽は、楽譜道理にひいていてもしっくりきませんよね。

それとおなじことではないかとおもうのですね。


すべての出来事が魂の成長のためにしかおこらないとしたら、すべてを素直にうけいれていけばいいのではないだろうか?

それを善悪を判断せずに、ただ素直に、たんだんと。

そして、そこから何かを気づいて、成長していけばいいのではないだろうか?

そこに気づけた、自分が嬉しいんだ
(^-^)/
先日、ひさしぶりに夫婦で言い合いになりました。

そこで新な気付きがありました。

自分のハートの部分がキューっと締め付けられるような感覚がするのです。
しかも、終わったあともこの緊張が
とれないのです。

ハートが閉じて、萎縮しているんだなぁとおもいました。

そして、会話の内容を観察していると、
「俺が・・・・」「私が・・・」と
自分を指す主語を頻繁につかっている
自分に気づきました。

普段は、あまり主語を使わずに、会話していることが多かったり、
子どもがいるときは、お父さんはねという三人称をつかっているのに。




そして、最後におもしろかったたのが、
言い合いのあと、子どもを保育園に送りに行った時に、息子が保育園の友達に
「ねえねえ、夫婦喧嘩って知っている?
うちのおとうさんとおかあさん、朝から夫婦喧嘩してんで(^O^)」

と、嬉しそうに話しているのをみて、
私の心も思わず苦笑い、
心の緊張がとれました。

子はかすがいというが、本当に子どもの存在というのはありがたいことだなぁとあらためておもいました。



まとめ、
喧嘩するときは、
・ハートが緊張して、閉じる
・一人称を連発している
・子どもの無邪気な発言で、癒される

楽しい気付き、学びでした。

今日は月に2回の体操教室、

地域の元気なみなさんが、集まってくれています。
長い人だと、3年ぐらい。

私が学んだ知恵を全て、注ぎ込んでいろんな体操をしています。

今回は、心の体操として、
フォーカスを変える目的で

good & NEW というものをやりました。

ここ最近に、よかったと思うことや、
新しい気付きなどをみんなでシェアするものです。

みんなの前で順番に、自分の想いを語っていきます。


最初は、みんな楽しく話していたのですが、

最後の二人は、いまが一番つらいんです
それでも、この体操教室に来ていることで、元気をもらっています。
それがgoodなことですと話してくれました。

家族のこと、みなさん、いろいろと抱えておられるのですね。

普通にお話している時には、何を思っておられるのかわかりません。普通にしておられますが、

自分の魂の声に従って、行動するしかないですよ。
でも、仲間がいるから、がんばっていけるんですよ、みたいなお話をしたとおもいます。

最後は、一人が泣き出して、数人の方が
涙されました。

私もビックリしましたが、
内心私もウルっとしてしまいました。


人間の力は、すごいんだよ。

みんなで、それを共感して、
とっても素敵な雰囲気になりました。



うちは、共働きで、私が家で仕事をしているので、必然的に私が料理をつくることが多い、

私は、料理が嫌いではない。むしろ好きだ。
けで、けっして上手なわけではない。おしゃれな料理は嫁さんの方が上手だ。


先日から、「ただやる」モードにはまっている。ただ、一つの動作に集中するのである。
ただ、米を研ぐ、

ただ、ニンジンを切る、ただ大根を切る

眼も前の動作に集中して、観察モードになると、なぜ浮くお米があるんだろう。なぜ、とぐときの感触はこうなんだろう??

ニンジンの生命力がどれくらいなのか?
大根の生命力がどれくらいかが、感じられる。

なぜ、千切りがこうも大きさが違うのだろう?
私はどんな癖でこんな切り方をしているのだろう?

面白い。


なぜ、こんな面白いことを見ていなかったのだろう?



昔、道元さんが中国にいったときに、シイタケを干している偉いお坊さんになぜ、そんなこをしているのですか?そんなことは若いお手伝いにでもさせればいいのに?? というようなことをいったときに、

そのお坊さんは、なにをいうか、これこそが大事な修行であるというようなことをいわれたというエピソードを読んだことがある。


今の私は、そのお坊さんの気持ちが少しわかったのではないかと思う。
ただ、シイタケを干す。

そこになにを感じ入るか、そのときになにを思ってしまう自分がいるのか?

それを見つめていくことこそが修行、行を修めるということなのかと。
ただ、やりなさい。やるということ。

やれば、嫌でもなにかを感じていくのである。それを繰り返していけば、おのずと何か見えてくるのだろう。



いままで、私は音楽をききながら、料理をする。動画を見ながら、食器をあらうというようなことをしていた。

もったいない、もったいない。
ぜんぜん、見てなかった、観察していなかった。そこに何が動いているのかを!!
頭の中でいろいろと言葉が浮かんでは消えていく。

それはだれが言っているんですか?

私でしょ。

私ってだれですか?

私は私でしょ。




私が言っているんだとずっと思っていました。

でも、よくよく自分を観察していると、
自分以外の声があることがわかってきました。


頭で考えている時の私と

魂「自分の胸にきいてみなさい」いわれて
胸に手をあてて、自分を見つめているときの
自分。

大きく分けて、この二つがあるようだ。

頭のほうは、
自分だとおもっていたけど、
実は小さい頃に親にいわれたことだったり、
学校でいわれたことだったり、
もしくはテレビや、本など社会的な言葉でつくられた常識であったりすることが多い。





それは誰が言っているんですか?


自分にそう問いかけて、自分の観察をしていると、頭からその声がきているのか、
魂からその声がきているのかがわかってくる。


魂といわれるところから来た言葉に、従って動くときは、自分の心と身体が一致しているような感覚がする。エネルギーが溢れてくるような気がする。

やりたいことに理由もない、やりたいからやるだけ。

頭からくる言葉に従って動くときは、理由がいる。もちろん、それは必要なことであると頭で理解出来るときは、いいのだが、自分の頭が理性で納得できないことをしているときは、
すごくエネルギーが浪費してしまう。

ましてや、それが他人からの言葉で動かされているときには、ブレーキをかけながら、無理矢理うごかしているような疲れを感じる。




それは誰が言っているのですか?

頭ですか? 魂ですか?