おととい土曜日に掲載した、私の21年前の大学受験記がアメーバトピックスに掲載され、多くの方に見ていただきました!
たった1日ではありますが、10000アクセスを超えて、人生初のバズり(?)を経験できました。
この場を借りて御礼を申し上げます。ありがとうございました!
おととい土曜日に掲載した、私の21年前の大学受験記がアメーバトピックスに掲載され、多くの方に見ていただきました!
たった1日ではありますが、10000アクセスを超えて、人生初のバズり(?)を経験できました。
この場を借りて御礼を申し上げます。ありがとうございました!
いきなりではあるが、私の大学受験体験記を小説風に書いてみようと思い立った。
受験とは、過酷なものだ。
過酷であるがゆえに、ドラマチックであるし、
そんな大きな壁を、成功であれ、失敗であれ、乗り越えた経験というのは、
その後の人生のあらゆる困難な場面で、
ポキッと折れてしまわないための心の柱となってくれる。
かくいう私も、「大学受験の経験があって今の自分がある」と言えるし、
小4の息子と、小2の娘にとっても、中学受験や、その後の受験を、
そのように思えるようなものにしてほしいと、願っている。
きっと、どんな人でも、受験にはドラマチックな展開というものが、多かれ少なかれあるものと思う。
私は、離島佐渡ヶ島出身で、予備校が無く、
まだインターネットも十分に整備されていなかった時代という環境の中で、大学受験を戦った。
決して大成功とは言えない受験ではあったが、
あまり一般的ではない環境での受験であったし、
当時の話をまとめてみると、読者の皆様にとって、意外と面白いんじゃないかと思ったことが、本体験記を書く1つの理由である。
また、我が子らの学習指導を日常的に行っていて思うのだが、
自分自身の大学受験における経験が、良くも悪くも、子どもたちへの教え方に影響を与えている。
受験を通して得られたもので、良かった点、逆に痛烈な反省点などを今後本ブログで考察していくにあたり、
一度、自分の屋台骨となっている大学受験の経験について振り返り、既に20年以上経って色あせてしまった記憶を掘り起こしたいと思ったことが、2つ目の理由である。
以上のような2つの意味合いを込めて、
しばし過去の記憶を辿り始めてみるのである。
5月の佐渡の夕日
~~目次~~
Now>>まえがき
Next>>1.高校生sadouniv
「sadouniv」は、新潟県佐渡島の進学校「佐渡高校」に通う、18歳の男子高校生だ。
地元、佐渡島には大学がなく、専門学校数も僅少。
就職するにしても、職業の種類は限られており、高校卒業を機に島を離れる者が多数いる。
sadounivの将来の夢は数学教師。
教員免許取得のために大学進学を志望していた。
第一志望は「東京大学理科Ⅰ類」。
離島のため、オープンキャンパスなどへの参加はハードルが高いことや、
インターネット黎明期だったということもあり、手に入れられる進学情報はかなり限られており、
「知っている大学」といえば、
地元の国立 新潟大学
東大
箱根駅伝の出場大学
早慶上智
くらいなものだった。
「色んな大学があるようだけど、情報がなくて、よくわからない。
とにかく東大を目指しておけば、たとえダメでもそこそこの大学に引っかかるだろう。」
動機は軽々しいものだったが、日常的に
「俺は東大に行く」
と周囲に言い続けていたせいか、
だんだんと本当にやれそうな気がしてくるのは不思議な現象であった。
勉強へ向かう気持ちはかなり強く、毎日相当な勉強量をこなしてはいた。
Next>>2.センター試験
~~目次~~
Now>>1.高校生sadouniv
Next>>2.センター試験
センター試験(現、大学入学共通テスト)が、佐渡高校で行われた。
島内でセンター試験を受験できるようになったのは、1999年からだった。
1998年までの、佐渡からの受験生は、センター試験の段階で一旦本土に出向いていたのだ。
佐渡汽船の朝の便では間に合わないし、冬の日本海はとにかくシケるため、
波浪警報により数日間欠航ということもザラにある。
「新聞の朝刊がその日のうちに届かない。」
「週刊少年ジャンプが1週間遅れで到着する。」
なんてことも起こる。
人生の一大イベントである受験についても例外ではなく、
「欠航で本土に渡れず、受験できませんでした」
なんてことは許されないため、前々日に本土入りするなどの入念な対策が必要であり、
当時の受験生は相当に苦労していたと思う。
それに比べれば、sadounivの世代はかなり恵まれているのだ。
例年センター試験の日は雪になることが多いのだが、この日も雪が降っていた。
(というか、新潟なので雪の日が多いのは割と当たり前。)
佐渡高校は坂道を上ったところにあるため、凍った道がよく滑る。
ただ試験当日は、口が裂けても
「わぁぁ~すべる~」
なんて、縁起でもないことを言えない雰囲気である。
いつもくだらない話を交わしていた友人たちは全員緊張の面持ちで、冗談なんか話さない。
勝手知ったる先生方も、この日は全員試験監督のため、公平を期すために、生徒たちに向けた笑顔は一切なし。
大した会話が飛び交わない中、受験生たちは「絶対にすべらない」ように、
ローファーで雪道をしっかり踏みしめながら、受験生たちはゾロゾロと校舎へ向かうのである。
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sadounivはセンター試験で失敗した。
当然であるが、東大は国立大学なので、1次試験としてセンター試験、2次試験として東大校舎での受験が求められ、
まずセンター試験で高得点を取ることは必須である。
科目別の出来は、以下のとおり。
・数学はIA・ⅡBとも9割を超えた。
・理科(物理)は100点。(当時は理科・社会は1科目ずつでOKだった。)
・悩みの種だった社会(倫理)も、直前に開発した勉強法が大当たりし、95点。
・しかし、苦手の英語で7割を切った。
・挙句の果てに、国語は74点。
そう、国語が大きく大きく足を引っ張ったのだ。
ちなみに、国語は100点満点ではない。
現代文100点に、古文漢文も含めて200点満点である。
つまり、74点というのは、4割未満の得点率である。
しかも、そのなけなしの得点は、古文漢文で稼いでいたものだった。
(古典はなぜか好きだった。日直の時に、1日に学んだ教科や出来事をまとめて書く学級日誌を、ふざけて古文調に書いたりしていた。「更科日誌(さらしなにっし)」とかタイトルつけちゃったりして。)
現代文は100点中8点くらい…。
読解問題がほぼ全滅だった。
センター試験の直後、自宅で新聞に掲載された解答速報を見て自己採点をしながら、
立て続けに「×」が並ぶ様子に愕然となり、
自然と涙がこぼれてきて、
「こりゃダメだ・・・」
と、つぶやいたのだった。
~~目次~~
Now>>2.センター試験
Next>>3.願書
センター試験の失敗を引きずる間もなく、自己採点結果をもとに、出願する大学を選ばなければならない。
もちろん国立大学のランクを下げる選択肢もあったが、初志貫徹したい思いが勝った。
ダメ元でそのまま東大に出願することにした。
ちなみに、併願大学は、慶応、上智。
sadoounivの家は自営業だった。
自然あふれる離島であるが、農業でも漁業でもなく、現像を主業務とする写真店だ。
デジタルカメラの登場によって、写真現像のニーズが落ち込み始めていた時期でもあり、
商売はうまくいっておらず、お金はなかった。
高校生ながら、家計を気にして出願大学を絞っていた。
併願大学の決め方は、これもかなり浅はかなもので、
「早慶上智(そうけいじょうち)」
という言葉を知っていたので、その通りに出願しただけであった。
ただし、この時点で、早稲田は出願対象から除かれていた。
それはなぜか?
少し上の代で、とある有名女優が、推薦入試で早稲田大学に入学していたからであった。
「芸能人が推薦で入学だと?なんか早稲田はチャラチャラしてるな・・・。こんな大学に貴重な3万円の受験料を払ってなるものか!」
ただそれだけの、個人的な偏った印象で、併願大学から外していたのである。
今思えば、あまりにも、短絡的ではないか・・・(そしてその女優さんにも大学にも失礼・・・)。
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ほどなくして、東大・慶応・上智から願書が届く。
sadounivの家は写真店なので、撮影から現像まで自宅で行うことができた。
母親に証明写真を撮ってもらい、現像機から出力してくれたカラー写真を、願書に貼りつけていく。
連日の猛勉強でひどく疲れていたせいか、やせこけた犯罪者のような顔であった。
願書の記入要領をよく読むと、上智だけは「白黒写真」指定だった。
なんで今どき白黒…と思った。
当時我が家にあった現像機では白黒写真が現像できなかった(ということだったと思う)。
そのとき、毎晩のように酔っ払って寝転んでいる酒好きの父親が、おもむろに立ち上がり、
現像機がある部屋の奥の暗室に入っていった。
しばらくして、暗室から出てきた父親から渡されたのは、白黒の証明写真だった。
昔ながらの、暗室で行う現像術で、白黒の証明写真を作ってくれたのだった。
父親の仕事の速さと、プロの業に、息子ながら感銘を受けた瞬間だった。
このように、勉強以外の庶務は両親が進んで担ってくれた。
しっかりと両親に支えられているという無意識の安心感に包まれており、ひたすらに勉強に集中できる環境であった。
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それから数日して、母親から併願大学をもう少し増やしたらどうかと言われる。
ここまで来ると、自分が一生懸命勉強したことを証明できる大学に行きたいという気持ちがかなり強くなっていた。
一方で、東大はかなりチャレンジングだと思っていたし、
母親も、受験料の心配はしなくていいと言ってくれたので、
ここに来て、
「チャラチャラした早稲田」
にも出願することにしたのであった。
急いで願書を取り寄せ、締め切りギリギリに提出した。
~~目次~~
Now>>3.願書
Next>>4.いざ、東京
2001年2月初頭、ついに決戦の地、東京へ向かう日がやって来た。
試験日は2/13の上智を皮切りに、2/14慶応、2/16早稲田、2/25・26東大という日程。
東京の地に慣れる意味もあり、2月の初めに関東入りすることとしたのであった。
幸い、横須賀に母方の親戚がいるため、そこに1カ月ほど身を寄せる計画であった。
とはいえ、東京は幼いころの家族旅行で数回、修学旅行で1回行った程度で、
1人で行ったことなどなく、電車の乗り方もわからない。
母親に家業を休んでもらい、往路および数日、同行してもらうことにした。
田舎の自営業一家には、東京までの新幹線代(片道1万円)は高い。
しかし、当時は「ムーンライトえちご」という夜行電車が走っており、
時間はかかるものの、新潟から新宿まで5千円で、一本で行けた。
特に急いでいるわけではないため、母とsadounivは夜行電車で東京へ向かうことにしたのであった。
電車は23時新潟発、5時新宿着、だったと記憶している。
電車に間に合うように、佐渡の両津港で、夜19時30分発の最終のカーフェリーに乗り込んだ。
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冬の佐渡は基本的に天気が悪い。
お天道様を拝める日が、ほとんどない。
そして寒い。
だから、夏に比べると観光客も少なく、船は空いている。
sadounivは、ほとんど乗客のいない2等船室(一番安い雑魚寝用の大部屋)で、寝転がりながら化学の参考書を読んでいた。
sadounivは、かなり船酔いするタイプなのに参考書を読んでいたということは、
真冬の日本海にはかなり珍しく好天で、
海はベタなぎ(波が全く無い状態)だったということに他ならない。
夜の便だったので、当然ながら外は漆黒の闇。
いつもであれば、船の甲板に出て、海風に当たりながら遠ざかる島を眺めるのだが、
暗くて景色は見えないし、寒いので、船室にずっと寝転んでいた。
静まり返る2等船室で、照井式解法カード(化学の人気参考書)の無機化学編をひたすら眺めていた。
sadounivは、物理は鍛えに鍛えていたが、化学の完成度は正直イマイチだった。
高校化学は、大きく分けて「理論化学」「無機化学」「有機化学」の3分野があり、
「理論化学」は計算が多く暗記量少な目なので、ある程度はできて、
「有機化学」は暗記量が多いが、(シャレではないが)暗記すべき事項が有機的につながっており、覚えやすかった。
「無機化学」は何というか、暗記事項が無機質なのだ(こちらもシャレではない)。
なんとなく、ひたすら覚える、という印象だったので、面白くない。
このため、受験直前期まで敬遠していた。
ただし、難関の理系学部を受ける以上、理科2科目は必須であり、
「無機化学」分野があまりにもノーガードであることに、今さらながら不安を覚えていたため、
照井式で一気に詰め込む作戦に出ていたのであった。
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両津港から2時間半かけて、本土の新潟港佐渡汽船ターミナルに到着。
そのまま新潟駅に向かい、夜行電車に乗り込んだ。
夜行電車「ムーンライトえちご」は、古めかしい電車だった。
エアコンが効きすぎて、車内はかなり暑かった。
走り始めてしばらくすると、「消灯」するのだが、
といっても半分の明るさになる程度で、あまり暗くならない。
明るさと、暑さで、なかなか寝付けないまま、ゆっくりと決戦の地は近づくのであった。
~~目次~~
Now>>4.いざ、東京
Next>>5.東京
早朝5時、離島の受験生親子を乗せたムーンライトえちごは、新宿に到着した。
そのまま山手線という電車に乗り換えて品川へ向かい、
「ケイキュウ」の「カイトク」に乗って横須賀に向かうと、母が説明する。
山手線のホームに着くと、黄緑色のラインが入った電車がちょうどドアを閉め、走り出したところだった。
「これが、かの有名な山手線か…。」
と思いながら、目の前を走り去る車両を、1つ、2つ、と眺めていたが…
「で、電車って、長!鋼鉄なのに、ヘビみたいにクネクネしとる!」
「そして乗客、多い!」
さらに、乗り過ごしてしまったので、次の電車までしばらく待つのかと思ったら、
「2分後に同じ電車がクネクネしながらやってきたー!」
しかもさっきと同じくらい人が乗ってる。なんでや。
佐渡には鉄道がない。
公共交通は路線バスとタクシーのみである。
バスは、一番メインの本線における「30分に1本」が最も高頻度。
冬に乗り過ごすと、吹雪の中で長いこと待つことになるので、地獄である。
島の面積は大きく、東京23区の1.5倍あるが、その中に人口は5万人。
900万人が住む東京23区に、千代田区民(5万人台)しか住んでいない世界を想像していただくと、
人口密度の感覚がわかりやすいかもしれない。
そんなスカスカな環境から、
いきなりの高人口密度からの、
ヘビ電車からの、
2分後に同じ電車また来た…
だったので、ちょっと刺激が強すぎたのだった。
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品川に着き、「ケイキュウ」なるものに乗り換える。
品川まではムーンライトえちごの切符のまま来れたが、ここで切符を新たに買う必要があるらしいので、母に切符の買い方を教えてもらった。
(この年の12月にsuicaが導入されたので、この時はまだ切符を使っていた。)
「ケイキュウ」とは「京浜急行」のこと。
「カイトク」とは「快速特急」のことだと、この時に知った。
「ほうほう・・・鉄道会社や行き先が異なる、色んな種類の電車があるんだなぁ」
このときのsadounivは、18歳ながら、まるで乳幼児が電車に興味を持ちはじめるかのごとく状態だった。
品川から横須賀中央まではしばらく時間がかかるので、
その間、電車内で首都圏路線マップを広げて、食い入るように眺めていた。
上京する受験生用に用意された路線マップを佐渡両津港で出発前に入手していたのだった。
主要路線がコンパクトにまとまっており、見やすいため、大学入学後も重宝した(ただの紙ぺらなのですぐ破れたが、セロテープで補強して使い続けていた)。
実年齢は18歳だが、「電車」という概念についてだけ言えば、産まれたての赤ちゃんの脳みそのようなものである。
頭の中の真っ白な画用紙に、首都圏路線マップが一気に書き込まれていった感覚である。
おかげで、受験期間における電車移動で、困ることは無かった。
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ほどなくして、親戚のおじさんおばさんが住む、横須賀中央駅に到着した。
おじさんおばさんと言っても、この親戚は母方の祖母の妹夫婦であり、sadounivからすればおじいさんおばあさんといった距離感だ。
昔から佐渡にもよく来ていたし、交流があった。
なんと、母も受験生時代にこの横須賀の家にお世話になったり、sadounivの1つ上の姉も、当時は専門学校生だったが、この家に下宿していたりなど、昔から縁の深い親戚なのであった。
試験1発目の上智大学(2/13)までの2週間弱の間、横須賀での生活がスタートした。
母は家業もあるので、早々に佐渡に帰っていった。
親戚のおばさんがご飯を用意してくれるので、基本的には勉強だけをすれば良い環境。
慣れない土地ではあったが、佐渡に居たときと同じく、朝から晩まで勉強をした。
~~目次~~
Now>>5.東京
Next>>6.直前期の勉強と「和田秀樹本」
佐渡島は離島ということで、手に入る本も参考書もかなり限られており(今はAmazonとかで何でも手に入るが)、
何か有用な参考書を探したければ、新潟本土に出向くしかなかった。
島内最大の書店は蔦屋書店があるが、当時は参考書のラインナップがとても貧弱だった。
(現在は代官山蔦屋もびっくり?の蔵書数になっているが…。)
大手予備校主催の志望校別模試を受けたり、部活動の県大会に出場するなど、
新潟本土に出向く用事があると、その人に参考書の買い物を頼んだり、頼まれたりしていた。
sadounivも受験期に1度だけ代ゼミの東大模試を受験しに新潟本土へ出向いたことがあるが、友人らのために「大学への数学」やら「速読英単語」やら複数冊を新潟駅近くの紀伊国屋で買って、両手に抱えて帰ったものだ。
ところで、当時のsadounivは、「勉強法の本」が大好きだった。
新潟駅近くの紀伊国屋で参考書を袋いっぱいに買いあさるのと同時に、
ごま書房の東大合格体験記や、
いわゆる和田秀樹本(新・受験技法…だったかな)などの、「勉強法の本」もたくさん買い込んでいった。
普段の受験勉強に飽きたら、「勉強法の本」を読んで、気分を高め、また勉強に戻る…
みたいなことを繰り返していた。
「勉強法の本」には、人をやる気にさせる力みたいなものが宿っていた。
特に「和田秀樹本」は、ここぞとばかりに読み込んだ。
離島には予備校が無く、効率的に受験テクニックを学べるような機会がない。
頼れるのは本だけであった。
(今はインターネットがあるし、スタディサプリなど場所に囚われずに学べる仕組みもあるし、本当にいい時代になったと思う。予備校に通わずに独学で受験勉強をする人が増えている、というのもうなずける。)
和田秀樹本はもう手元にないのだが、要旨としては、
・受入枠が大きくて倍率が低い理科一類を狙え。
・合格最低点さえ取れればいい。
・「得意科目」と「しのぎ科目」を明確にしろ。(全科目まんべんなくやるよりは、メリハリつけろってこと。)
・数学や理科は、とにかく解法暗記しろ。
・理科は解法パターンが少ないから、やればやるほど伸びる。
みたいな感じだったかと。
軽妙な語り口もあって、高校生のsadounivは和田秀樹氏に心酔していた。
東大理科の配点は、
国語80点満点、数学・英語・理科でそれぞれ120点満点で合計440点満点。
確か、当時の理科一類の二次試験の合格最低点は200/440点くらい。
国語は(センター試験はズタボロだったが)昔から公文式の縮約メソッドで鍛えてきたおかげで、記述式で得点する自信(過信)があった。
→40/80点は取れるだろう。
数学は、模試でも自宅学習でも1問も完答出来たことないけど…センター試験では満点取る力はあるし、公文式で鍛えたゴリゴリの計算力を武器に…
→部分点かき集めて40/120点は取れるだろう。
理科は、和田秀樹氏の言うとおりにしたら、直前期に物理がグイグイできるようになってきたし、化学はよくわかんないけど、有機化学はちょっと得意だから…
→80/120点は取れるだろう。
英語は苦手だけど…
→40/120点は取れるだろう。
40+40+80+40=200!
おぉ!合格最低点に到達できるではないか!
と、これぞまさに「捕らぬ狸の何とやら」をしていたのだった。
(ちなみに高3の夏ころに唯一受けた代ゼミの東大模試では、確か4科目で100点届いていなかった。当然ながら、E判定。どれだけ皮算用だったか、おわかりいただけるであろうか…)
上記の通りの皮算用を踏まえて、受験直前期は、とにかく理科(とりわけ物理)の勉強が中心となっていた。
物理は、今や絶版となっている名著「難問題の系統とその解き方(ニュートン社)」をただひたすらに解法暗記していった。
国語、英語は、単語の暗記が中心。
数学は、もはややっても伸びない状態が半年以上続いていたので、参考書すら佐渡に置いて来ていた…と記憶している。
とにかく、和田秀樹氏を信じて、ひたすら暗記暗記…の日々であった。
~~目次~~
Now>>6.直前期の勉強と「和田秀樹本」
Next>>7.数学ガン捨て作戦
sadounivは和田秀樹氏のアドバイスを踏まえて、数学の受験勉強を一切しないことにした。
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sadounivは数学教師になるために大学に行きたかった。
高校1年、および2年生のときの数学の成績はすこぶる良く、定期テストでは100点を連発していた。
友人らから「先生」と呼ばれ、数学については、実際の先生よりも多くの質問を受け付けていた。
彼らの質問に対して、わかりやすく説明してあげることが楽しかった。
高2の終わりの時点では、センター試験の問題でも大体コンスタントに9割以上を得点できていたし、自分の武器は数学だという自負があった。
しかし、高3になり、受験勉強を始めたあたりで、その自信が過信だということが明らかになった。
センター試験を超えるレベルの問題がさっぱり解けないのである。
今となっては、その原因は何となくわかっている。
「解法パターン暗記」に頼り切っていたのだ。
定期テストやセンター試験レベルであれば、出てくる問題のパターンには限りがあり、公式とパターンさえ覚えてしまえば、対処できてしまう。
もともと記憶力はいい方だったし、幼少期から続けていた公文式で鍛えた「ゴリゴリの計算力」も相まって、向かうところ敵なしだった。
しかしながら、難関校の2次試験レベルになると、発展的な問題やら、公式の深い理解を求める問題やらが出題され、手も足も出ない状態となる。
上っ面だけ理解して、解法テクニックをふりかざすような輩は一掃されてしまうのである。
当時のsadounivはそんな原因に気づくこともなく、自分のやり方を変えようとはしなかった。
和田秀樹氏の「数学はとにかく解法暗記しろ。」というアドバイスも背景にあったと思う。
しかし、いくら問題を解いても解いても、難関校の問題は解けるようにならなかった。
※和田秀樹氏の言う「受験数学は暗記」は間違っていないと思う。受験数学は解法パターン暗記で乗り切れる要素が強い。
しかし、(灘高校出身の和田氏然り)背景知識の土台がしっかりしている人がやる「解法暗記」とそうではない人が付け焼刃で行う「解法暗記」は、おそらく違う。sadounivの知識の土台は弱く、グラグラとしており、その上にいくら解法パターンを丸暗記したところで、応用が利かない、ということだったんだと、今になって思う。
いつか開花する瞬間を待ちながら勉強を続けていたが、
コスパが悪いと判断し、高3の夏休みに、数学を勉強することをやめたのだ。
国立大学を狙う以上、他の4教科もやらなければならないし、これもまた和田秀樹氏のアドバイスのとおり、物理に注力することにしたのであった。
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数学の先生になりたい人間が、大学入試の数学程度で音をあげるようでは、全然ダメではないか。
そんなことはわかっていたが、もはや「大学に合格すること」が眼前の目標である以上、なりふりかまってはいられなかった。
~~目次~~
Now>>7.数学ガン捨て作戦
Next>>8.風邪をひく
横須賀生活3日目くらいだっただろうか。
高熱が出た。
風邪をひいてしまった。
毎日長時間机に向かう日々であることに加え、慣れない土地で過ごしていたことで、ついに体が悲鳴を上げた。
親戚のおばさんに病院に連れて行ってもらい、もうろうとしながら医師の診察を受ける。
医師は火照った高校生の体を確認し、思わぬ行動に出る。
ピンセットを耳に突っ込み…
出てきたのは耳穴の形をした、巨大な耳垢。
看護士が私に一瞬だけ、その「物」を見せると、そそくさとティッシュにつつんで、捨ててしまった。
朦朧としながらも、あまりの大きさに衝撃を受けたのを覚えている。
「耳、きこえづらかったでしょ?」
と、医師が苦笑いしながら語り掛けてくる。
うむ、確かに、聞こえやすくなった。
英語のヒアリング試験の前に、取ってもらって良かった。
肝心の風邪の方は、適当な薬をもらって、とりあえず休むように言われただけであった。
~~目次~~
Now>>8.風邪をひく
Next>>9.横須賀を出る日