オール3!超平均点人間の生き様
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「抽象論」「一般論」ばかりの専門医
糖尿病治療の基本は「三本柱」、すなわち食事療法・運動療法・薬物療法にあります。
このうち薬物療法については、HbA1cなどの血液検査の数値をもとに、薬の種類や組み合わせ、用量の上限などが比較的具体的に専門医が判断されます。
おそらく標準治療のガイドラインに沿って行われているのでしょうが、これはこれで有難い対応です。
(中には勉強不足、情報不足で古い薬をずっと処方する医師もいるので注意が必要です。)
ところが、食事療法や運動療法となると、その具体性は一気に失われます。
食事療法は管理栄養士任せ、運動療法に至っては「食後に軽く散歩してください」といった簡単なアドバイスで済まされることが少なくありません。
たとえば、「散歩のタイミングはいつが良いですか?」と尋ねても、返ってくるのは曖昧な返答ばかりです。
「食後すぐに散歩しています」と言えば「そうですか」
「食後15分後に出かけています」と言えば「いいですね」
「60分以内に歩き始めています」と言えば「それでいいです」
どのタイミングでも肯定され、結局どれが良いのか分からないのです。
「何もしないよりは、いつでもした方が良い」という思いかもしれませんが、であればもっと積極的に話して欲しいです。
自分で調べてみると、「食後すぐが良い」「15分後が良い」「30分後が効果的」など、医師や論文によって主張は様々です。
しかし、それは単に「時間の問題」ではないはずです。食事の内容や食べる順序、食後の血糖の上昇パターンによって、最適な運動のタイミングは変わるはずです。
一般論ならインターネットで調べれば十分です。わざわざ病院まで足を運ぶのは、今の自分の状態に即した「具体的な指導」を受けるためです。
これは散歩のタイミングに限った話ではありません。
運動の時間、強度、頻度など、運動療法全般についても、専門医から得られるのは抽象的な説明ばかりです。
「糖尿病薬物療法専門医」と名乗るのであればそれでも納得できますが、「糖尿病専門医」として診療している以上、運動療法についてももう少し踏み込んだ対応をしてほしいと思うのです。
せめて、血液検査の数値だけでなく、患者の日常生活や食事、運動習慣などの情報にも耳を傾け、その人に合った治療アドバイスを心がけてもらいたい。それが、本来の「専門医」としての姿ではないでしょうか。
ブログ「糖尿病治療の落とし穴」もどうぞ!
2.「患者に頑張れ」という専門医
私たちが病院を訪れるのは、体に不調や痛みを感じ、それを取り除いてほしいと願うときです。多くの診療では、患者は椅子に座るかベッドで横になり、医師が処置や投薬などの医療行為を行って症状の改善に努めてくれます。
つまり、治療の場では医師が「頑張って」くれる存在であり、私たちはその尽力に感謝するものです。
では、糖尿病専門医はどうでしょうか。
糖尿病の診療では、「食事に気をつけてください」「運動を頑張ってください」と、医師の方が患者に「努力」を求める場面がほとんどです。
そして、次回の外来でHbA1cの値が悪化していれば、「ちゃんと食事制限を守らないとダメですよ」「運動をサボってはいけません」と叱責されることもあります。
しかし、ここで疑問が生じます。医師自身は何を頑張っているのでしょうか。検査結果を見て「薬を増やしましょう」「今回は減らしましょう」と指示を出すだけでは、患者の努力に見合う医師の「頑張り」が見えてきません。
確かに糖尿病は、生活習慣が治療の結果を大きく左右する疾患です。手術や投薬で直接的な改善が難しい以上、医師がすべきことは、生活習慣を変えるための「働きかけ」に力を尽くすことではないでしょうか。
「本気で食事に気をつけよう」「運動を取り入れよう」と患者に思わせる。それこそが医師の専門知識と経験を活かす場面であり、最大の役割です。患者が食事制限を守れなかったとすれば、それは患者の意思の弱さではなく、医師の動機づけが不十分だったからかもしれません。
ただ「気をつけてくださいね」と言うだけでは足りません。専門家としての力量は、いかに患者の心を動かし、行動変容へと導けるかにかかっています。
他の診療科の医師が手術や処置で「目に見える」努力をしてくれるように、糖尿病専門医もまた、生活習慣の改善に向けた「目に見えにくい」働きかけに真剣に取り組むことが求められます。
糖尿病がなかなか改善しない背景には、患者の生活がだらしないからではなく、医師の動機づけが弱いという現実もあるのです。専門医自身がこの事実を自覚するようになることを、心から願います。
もちろん、最終的に病気を改善するために最も大切なのは、患者自身の強い自覚と行動であることは言うまでもありません。
1.「治らないのが当たり前」という糖尿病専門医
私たちが病院を訪れるのは、身体の不調や痛みを解消したいと願うからです。医師は、患者のそうした希望を理解し、専門的な知識と技術によって問題を改善しようと努めます。
たとえば、歯科では痛みを取り除いたり、義歯を使って日常の不便を解消してくれたりします。外科や内科、眼科でも同様に、たとえ完全な治癒に至らなくても、可能な限り症状の改善を目指してくれます。私たちはそのような医師に対して、信頼と敬意を抱くものです。
しかし、糖尿病専門医となると事情が異なるように感じます。もちろん、すべての医師がそうだとは言いませんが、私の知る限りでは、「いかに早く治して通院不要な状態に導くか」という姿勢で診察している専門医は、残念ながら見当たりません。
多くの専門医は「糖尿病は治らない病気だから、悪化しないように通院を続けてくれればよい」と考えているように映ります。
しかし、患者の本音は明らかです。「完治して通院を終えたい」「薬を減らしたい」「できればインスリン注射をやめたい」こうした希望に応えてほしいのです。
にもかかわらず、医師の側は「糖尿病は治らないのだから、薬を一生飲み続ける必要がある」と繰り返し、最初から「治すこと」に取り組もうとしません。
しかし「治療」とは本来、「病気やけがを治すこと。病気や症状を治癒あるいは軽快させるための医療行為」であるはずです。最初から「治らない」と決めつけて、治そうともしない姿勢には、疑問を感じざるを得ません。
専門医が知識と技術を尽くしても結果として治らなかった、というのなら納得できます。しかし、最初から努力を放棄しているかのような対応には、怒りさえ覚えます。
書籍やYouTubeなどを見ると、「治す」ことに真剣に取り組んでいる医師も多数存在するようですが、日常的に接する医師の中にそうした方がいないのは非常に残念です。
また、患者側も「糖尿病は治らない病気だから・・・」という言葉を信じ込み、あきらめてしまっているケースが多いように思います。こうした「思い込み」こそが、回復への可能性を閉ざしてしまっているのかもしれません。
患者の意識改革も必要ですが、何よりも糖尿病専門医には、医師本来の使命である「治療」に真正面から取り組んでもらいたいと強く願っています。
これはあくまで私個人の考えですが、「カロリー」という指標は、医療で使うべきではないと思っています。理由は、血圧や血糖値、体温のようにリアルタイムで測定できないからです。
カロリーは、食品が体内でどれだけのエネルギーになるかを示す目安として広く使われていますが、あくまでも計算上の概念に過ぎません。摂取カロリーも、消費カロリーも、実際には正確に測定することはできず、どちらも推定値です。
そして何より、私たちが本当に知りたい「今、体にどれくらいカロリーが残っているか(=残存カロリー)」は、実際には計測できません。車で言えば、ガソリン残量がわからないまま走っているようなものです。このように不確かな指標を医療行為に使うのは危険です。
そもそもカロリーは「熱量」を示す単位であり、食品を燃やして得られる熱から算出されます。脂やアルコールは火力が強く、野菜や穀物は弱い。でも、人間は食べ物を燃やして生きているわけではありません。大切なのは、食品が含む栄養素とその量です。

「何を食べたか」「どんな栄養素を摂ったか」といった質の面です。たとえば、同じ100キロカロリーでも、白砂糖とナッツでは体に与える影響がまるで違います。
もちろん、カロリーという指標が全く無意味だとはいうことではありません。美容目的でダイエットの目安に使うのはよいと思います。ただ命に係わる医療に測定できない指標を使うのは疑問が残ります。
糖尿病の栄養指導もカロリーを軸にするのではなく、栄養素ごとに摂取量を示した方が明確でわかりやすいし、「カロリー=血糖値」の誤解も発生しないと思います。
30歳代のころの話です。役職が上がって人前で話す機会が増えましたが、私はもともと極度のあがり症。声が震えるほど苦手で、克服したい一心で話し方教室に通い始めました。
ある日、先生から「1000人近い観客の前で行うスピーチコンクールに出ませんか?」と誘われました。
即座に「無理です」と断りましたが、先生は微笑んで「300回練習すれば大丈夫ですよ」と一言。その言葉に背中を押され、覚悟を決めました。
その日から毎日スピーチ漬け。出勤前、帰宅後、通勤電車の中でも原稿を繰り返し声に出し、気づけば300回以上練習していました。
迎えた当日、壇上に立つと緊張で頭が真っ白に。しかし、不思議なことに体が自然に言葉を覚えていて、最後までやり切ることができました。
結果は準優勝。何よりも「自分は大勢の前で話せた」という達成感が大きな財産になりました。
丁寧に準備を重ねれば、どんな苦手も乗り越えられる。あのときの300回の練習が、私に自信と勇気を与えてくれたのです。
人生ってのはね、バラバラにできてるもんじゃなくて、ずーっとつながってるんだよ。ある日突然、何かが変わって、急に別人のようになるなんてことは、ドラマの中じゃあるかもしれんが、現実にはそうそうない。
今日のわしがここにこうしているのも、全部、昔の自分が何をして、何を選んできたかの積み重ねなんだな。
あのとき、あの子に勇気を出して声をかけたから、今こうして連れ合いと暮らしているわけだし、逆に言えば、若いころに英語の勉強をサボったから、今のような仕事を選ぶしかなかったのかもしれん。
そうやって、過去のちょっとした選択や行動が、今の自分を作ってるんだよ。
だから当然、今この瞬間の自分の行動が、これから先の自分を作っていくんだ。
もし将来、「こうなりたい」「あんなふうに暮らしたい」と夢や希望があるのなら、そのために今、何をするか、そこが肝心なんだな。今と同じ毎日をただ繰り返していたら、将来も今と大して変わらんのさ。
たまに「そのうち、どこからか幸せが降ってくるんじゃないか」なんて考えてる人がいるけどね、自分が何もしないまま、星の王子様が現れて人生変えてくれる――そんな都合のいい話は、まあ、夢の中だけにしておいたほうがいい。
結局のところ、自分の将来ってのは、自分で作っていくものであって、誰かが用意してくれるものじゃないし、くれるものでもないんだよ。
そのことに気づくのが、ちょっと遅かったとしても、気づいた瞬間から、また道は作れる。年を取っても、わしはそう思っとるよ。
いやぁ、一人の時間っちゅうのは、年を取るとありがたみがよう分かるんじゃ。若い頃は誰かとおらんと落ち着かん思うとったが、今はこの時間が何より贅沢じゃ。
忙しかろうが、金持ちだろうが、ようできた人は一人の時間を大事にしとる。なぜかっちゅうと、自分を振り返る時間になるけぇじゃ。
「あのときの言い方はどうじゃったか」
「もっとええ方法があったんじゃないか」
そうやって自分と静かに話す時間が、成長にもつながるんよ。
それにの、自分の好きなことに没頭できる時間、本読んだり、ちょっと体を動かしたりするのもええ。
気持ちが前向きになって、ええ一日だったなと思えるもんじゃ。
「一人の時間なんてないわい」という人もおるけど、そんならスキマ時間を使えばええ。通勤中、風呂の中、たった数分でも、自分の世界に入れればそれで十分じゃ。
一人の時間は、自分を整える道具みたいなもん。
金も、心の余裕も、きれいな生き方も、そこから始まるんじゃよ。
一人時間を味方につけたら、ほんま、人生がちょっとずつ、確実に変わってくる。だからのう、若いもんも、せわしない毎日のなかで、ちょっと立ち止まってみてみい。
その静けさの中に、意外と大事なもんが見えてくるかもしれんけぇの。
まぁ、歳を取ってつくづく思うがの、結局いちばん大事なのは「心の持ちよう」なんじゃ。頭がええとか、体が丈夫とか、それも大事かもしれんが、ほんまにしぶとく生きとる人は、だいたい「メンタル」が強い。
そんでな、「強いメンタル」っちゅうのは、何も根性とか我慢だけやない。ちゃんとコツがあるんじゃよ。
メンタルが強い人ってのは、こういう人じゃ。
● 周りの評価を気にせん
あの人にどう思われるか、なんて気にしとったら、心が疲れてまう。人の目ばっかり気にして生きとると、自分が何者か分からんようになるけんな。自分は自分。それでええんじゃ。
● 気持ちの切り替えが早い
くよくよしとっても、時間は戻らん。転んだらすぐ立つ。まぁ、わしなんか年のせいで立ち上がるのはゆっくりじゃが、気持ちだけは早う切り替えとるつもりじゃ(笑)。
● ポジティブな発言が多い
「どうせダメや」じゃなくて、「なんとかなるじゃろ」って口に出して言うてみい。不思議と心がついてくるもんなんじゃ。
● 自分を客観的に見ておる
ええとこも悪いとこも、ちゃんと分かっとる人は、強い。わしも昔は自分に甘かったが、歳をとるとようやく見えてきたもんじゃ。
● ストレス発散の方法を持っとる
なんでもええ。散歩でもカラオケでも、猫としゃべるでも。自分なりの「気晴らし」を持っとる人は、しんどいときにも折れんのよ。