「塩納豆」という商品が、
スーパーの食品売り場にあったので、
思わず買ってしまいました。
早速食べてみようと器に盛ってみました。
中身は、納豆、麹、それに昆布です(写真参照)。
味付けは商品名どおり、塩だけのようですが、
麹や昆布の味が効いて、アミノ酸が濃そうな味です。
ただ、保存のことを考えてか、塩が濃いようです。
話は横道にそれますが、
私の生まれ故郷熊本では、
納豆の味付けは塩と青のり。
と相場がきまっていました。
だから、こちらに来て、
醤油で味付けすると知った時はびっくりしたものです。
で、
お昼に、あったかいごはんの上に
塩納豆を少しのっけて食べてみたら、
♪ごはんがとってもすすむくん♪でした。
これは新たな楽しみができたと喜んでいます。
さてお昼のドンぶり飯2杯めは、卵かけごはん。
卵かけごはんといえば、
「日本たまごかけごはん楽会」
http://www.tamagokake-gohan.com
という団体があります。
うちのかみさんは、
私が卵かけごはんを食べるのを、
いつも白い目でうさん臭そうに見ているのですが、
こういう立派な団体が
卵かけごはんを推進しているのを見ると心強くなります。
「モノクロ写真の将来」は、
一体どうなるのだろう?と考えることがあります。
現在仕事でモノクロ写真を納品する場合は、
データではなく、富士のピクトロでプリントアウトしたものを使っています。
ピクトロは銀塩プリントにデジタルデータを焼き付けるもので、
印刷原稿としては問題ないと考えています。
ピクトロは高価なので、購入するわけにはいかず、
こちらから直接ラボに行って、オペレータと相談しながら出力しています。
肝心なデータ作成ですが、
モノクロプリントの「覆い焼き、焼き込み」、のテクニックは、
フォトショップに備わっている「覆い焼き、焼き込み」ツール、
トーンカーブ等を使って結構細かくできて、
焼きのコントロールという意味では紙以上でしょう。
紙の場合は、失敗プリントが山のようになり、
現像液も頻繁に換えたりと、
経済的にも、環境的にも(廃液の問題)問題がありました。
肝心な、展示用のオリジナルプリントですが、
現時点では、
インクジェットプリンタに頼る他はなさそうです。
私の知り合いのプロフェッショナルプリンターの第一人者、
久保元幸さんも、大型インクジェットプリンタを使って、
いろいろとトライされているようです。
引き延ばし機やコンタクトプリンタを使った銀塩プリント制作は、
もう100年以上も続けられてきて、
私自身30年近く経験があるので、
デジタルの優位さは分かっているようで、
何か大事なものが欠落しているような不安を感じています。
しかし、
銀塩フィルム&プリントはメーカーからの製品供給がなくなったら終わりなので、
どうなることか心配している今日この頃です。
「ある黒人カメラマン」
1988年、私がニューヨークに渡ってすぐに、
ある方の紹介で、
アメリカ人カメラマンのスタジオに
出入りすることができるようになりました。
撮影で使う時、払えるだけのお金を払い。
暗室も自由に使わせてもらうことになりました。
そのカメラマンの名はヒュー・ベル。
コマーシャル・エディトリアル系のカメラマンにはめずらしく黒人でした。
彼がこの道に入ったのは1950年代、
生まれも育ちもグリニッジビレッジという
生粋のニューヨーカーでした。
彼が活躍したころは
人種差別が激しい時代だったそうです。
当時、コカコーラの仕事が決まりかけた時に、
クライアントが
担当のカメラマンが黒人だということを知り、
キャンセルしてしまったそうです。
その事件は人種差別として問題になり、
新聞や雑誌に取り上げられ話題になったそうです。
彼はその記事の切り抜きを持っていて私に見せてくれました。
本当にくやしかったのでしょう。
彼は黒人ということもあって、
よくジャズミュージシャンの撮影を、依頼されたようです。
彼は、黒人という立場を生かし、楽屋や楽屋裏のストリートで、
伝説的な黒人ジャズミュージシャンの写真を撮っています。
その中に、楽屋で絶望的な表情をしている
ビリー・ホリデーの写真もあって、
驚きました。
時期的には、彼女の死の直前だったそうです。
意外なことに、
彼はジャズにはあまり興味がないらしく、
一連の写真は
仕事だと割り切って撮っていたようです。
しかし、ミュージシャンたちは、
ヒューがカメラを向けていることを
まったく意識していません。
白人や東洋人のカメラマンだったら
こうはいかなかったでしょう。
後に、彼の写真は、
アンディー・ウォーホール財団が所有する有名なギャラリーで
紹介されることになりました。
私は、暗室で、いろいろと手伝いながら、
彼が、個展用のプリントをする様子を見ているのが
楽しみでした。
ヒューは、当時独身で
娘さんと2人暮らしでした。
娘さんは大変な美人で、
当時(1989年ころ)、20歳くらいだったでしょうか
デザイナー志望のまじめな子でした。
別れた奥さんはかつてフォード(アメリカのトップモデルエージェンシーの)
の売れっ子モデルで、それが、彼の大変な自慢でした。
繰り返し何度ともなく
「おれの別れた女房はフォードの売れっ子モデルだったんだ」
と聞かされました。
それが始まるときまってヨーロッパ各国にいた彼女の話になり、
特にスペインにいた彼女はイイ女だったらしく。
これまた、耳にタコができるくらい聞かされました。
まあ、その辺が奥さんに逃げられた原因だったのでしょう。
彼は酒もタバコも一切やらず、
午前中はトレーニングセンター通い、
食事も質素でビタミンオタクでした。
かつては黒人公民権運動や左翼運動に身を投じ、
差別と戦ってきたとても真面目で、
正義感の強い男でしたが、
女の話になると
その辺のスケベオヤジと同じになってしまうところが、
とても愛嬌で、
彼のそんなところが大好きでした。
彼はグリニッジビレッジの幽霊の出そうな
古いアパートメントハウスに住んでいました。
そこは、とても広いところで、
部屋の一部を又貸ししていました。
当時そこにソ連から亡命してきた女の子が住んでいましたが、
生活はとても苦しそうでした。
聞けばKGBに務めていた叔父さんが、
「もうこの国には未来がない」と
彼女を秘密裏に亡命させてくれたそうです。
当時はそんな亡命者がニューヨークにはけっこういました。
あの当時は時期的には鉄のカーテン崩壊直前でしたが、
まさかソ連と共産圏が崩壊するとは夢にも思いませんでした。
あれからもう15年も経ちますが、
彼とは全く連絡をとっていません。
多分健康管理もよさそうだし、元気で生きていることでしょう。
すけべそうな黒人を見るたびに
彼のことをなつかしく思い出してしまいます。