「ある黒人カメラマン」
1988年、私がニューヨークに渡ってすぐに、
ある方の紹介で、
アメリカ人カメラマンのスタジオに
出入りすることができるようになりました。
撮影で使う時、払えるだけのお金を払い。
暗室も自由に使わせてもらうことになりました。
そのカメラマンの名はヒュー・ベル。
コマーシャル・エディトリアル系のカメラマンにはめずらしく黒人でした。
彼がこの道に入ったのは1950年代、
生まれも育ちもグリニッジビレッジという
生粋のニューヨーカーでした。
彼が活躍したころは
人種差別が激しい時代だったそうです。
当時、コカコーラの仕事が決まりかけた時に、
クライアントが
担当のカメラマンが黒人だということを知り、
キャンセルしてしまったそうです。
その事件は人種差別として問題になり、
新聞や雑誌に取り上げられ話題になったそうです。
彼はその記事の切り抜きを持っていて私に見せてくれました。
本当にくやしかったのでしょう。
彼は黒人ということもあって、
よくジャズミュージシャンの撮影を、依頼されたようです。
彼は、黒人という立場を生かし、楽屋や楽屋裏のストリートで、
伝説的な黒人ジャズミュージシャンの写真を撮っています。
その中に、楽屋で絶望的な表情をしている
ビリー・ホリデーの写真もあって、
驚きました。
時期的には、彼女の死の直前だったそうです。
意外なことに、
彼はジャズにはあまり興味がないらしく、
一連の写真は
仕事だと割り切って撮っていたようです。
しかし、ミュージシャンたちは、
ヒューがカメラを向けていることを
まったく意識していません。
白人や東洋人のカメラマンだったら
こうはいかなかったでしょう。
後に、彼の写真は、
アンディー・ウォーホール財団が所有する有名なギャラリーで
紹介されることになりました。
私は、暗室で、いろいろと手伝いながら、
彼が、個展用のプリントをする様子を見ているのが
楽しみでした。
ヒューは、当時独身で
娘さんと2人暮らしでした。
娘さんは大変な美人で、
当時(1989年ころ)、20歳くらいだったでしょうか
デザイナー志望のまじめな子でした。
別れた奥さんはかつてフォード(アメリカのトップモデルエージェンシーの)
の売れっ子モデルで、それが、彼の大変な自慢でした。
繰り返し何度ともなく
「おれの別れた女房はフォードの売れっ子モデルだったんだ」
と聞かされました。
それが始まるときまってヨーロッパ各国にいた彼女の話になり、
特にスペインにいた彼女はイイ女だったらしく。
これまた、耳にタコができるくらい聞かされました。
まあ、その辺が奥さんに逃げられた原因だったのでしょう。
彼は酒もタバコも一切やらず、
午前中はトレーニングセンター通い、
食事も質素でビタミンオタクでした。
かつては黒人公民権運動や左翼運動に身を投じ、
差別と戦ってきたとても真面目で、
正義感の強い男でしたが、
女の話になると
その辺のスケベオヤジと同じになってしまうところが、
とても愛嬌で、
彼のそんなところが大好きでした。
彼はグリニッジビレッジの幽霊の出そうな
古いアパートメントハウスに住んでいました。
そこは、とても広いところで、
部屋の一部を又貸ししていました。
当時そこにソ連から亡命してきた女の子が住んでいましたが、
生活はとても苦しそうでした。
聞けばKGBに務めていた叔父さんが、
「もうこの国には未来がない」と
彼女を秘密裏に亡命させてくれたそうです。
当時はそんな亡命者がニューヨークにはけっこういました。
あの当時は時期的には鉄のカーテン崩壊直前でしたが、
まさかソ連と共産圏が崩壊するとは夢にも思いませんでした。
あれからもう15年も経ちますが、
彼とは全く連絡をとっていません。
多分健康管理もよさそうだし、元気で生きていることでしょう。
すけべそうな黒人を見るたびに
彼のことをなつかしく思い出してしまいます。