風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」 -8ページ目

「僕は騙されていた、と──そういうことですか?」
「いえ。誰もあなたを騙したりはしていません。それはあなたの記憶のせいです」

高瀬は、苦い薬を飲み込む猶予を与えるように、中指の先でメタルフレームの眼鏡を押し上げた。

「僕の、記憶?」

「あなたの記憶を書き換えることについては、彼女も、むろんあなたも了解していたことです。最後の日々をいつもと変わらず過ごすために」

「最後の日々?」
「そう。2年前でした。2年前のあの日──彼女はこの世を去りました」

「何を言ってるんですか? じゃあ、僕はいったい、誰と過ごしていたというんですか!?」

「美玖さんの記憶とです」
「馬鹿らしい。早く美玖を戻してください。彼女はこの部屋に入って行ったんですよ。僕の見ている目の前で」

「彼女が死んだのは、正確に言うなら2年と半年前になります」
僕の言葉に耳を貸そうともせず、高瀬は続けた。

「彼女の体の作動チェックに半年を要した、ということです」

「それは、あなたと彼女がここにきてから退所するまでの期間です」

「あなたの中の記憶は、もっと短くなっています。その記憶が、作られたものです」

高瀬の口から発せられる言葉は、とうてい信じられるものではなかった。

「アンドロイドである ZERO ONE に高い知性と身体能力、人と寸部も違わぬ肌の質感、声を与えることはできました」

「ZERO ONE は技術を確かめるための試作品でした。それを実在する人物にしようと言い出した人がいました。馬鹿らしい妄想です。やってはならないことです。神を冒涜するに等しい行為です」

置かれた状況に戸惑う僕の心など、さらさら斟酌する気もないらしい高瀬は、話を続けた。

「しかし、それは実行に移されました。アンドロイドは感情を含め内的要素に乏しいのが欠点です。それを補うのが、人として生きた記憶を移し替えるということだったのです」

この話は、あまりにも現実離れしていた。僕の思考は受け入れを拒むかのように動きを止めた。

「結婚を申し込まれたそうですね。ZERO ONE は、あぁ失礼──美玖さんは泣きました。なにしろ戸籍がないのですからね」高瀬は小さく何度も頷いた。

「記憶と人造の肉体との融和。それは大きな成功のひとつでした。しかし、やってはならない成功でした」宙の一点を見つめ眉を歪めた。

「あの日、あなたに付き添われた美玖さんはこの研究所を出ました。あなたの記憶では違う場所の病院になっているはずです。が、あの時、美玖さんはすでにこの世にはいませんでした。ZERO ONE の中で彼女の記憶が生き続けたのです」



冗談話にしては長すぎる。
僕をこんな状態に置いてどこかでほくそえんでるなんて状況は、美玖には考えられない。

この話は、嘘ではないのかもしれない。

夢の中にいるような浮遊感は、のべつ湧き出る思考を阻むかのように脳を薄もやのように包み込み、僕は意味もなく、壁に掛けられた丸くて白い時計を見たりした。
事の次第を上手く咀嚼できない僕は、ただ、ぽかんとしていた。


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「え? ここで降りるの? 病院、ここじゃなかったよね」
「先生は今日はここにいるらしくて」



高瀬先生に、今日はふたりとも呼ばれているからと連れてきた。
もちろんそれは嘘ではない。

昨日、それを聞いてからの彼は落ち着きを失っていた。
大丈夫だよ。体はぜんぜん平気だよ。

慰めても気の抜けたような返事しか返ってこなかった。

彼と高瀬が会うのは2年ぶりになる。
この2年のなんと早かったことか。

彼の横顔を見る。万感の思いを込めて見る。

あなたはわたしの勇気だった。
あなたといれば、何でもできるような気がした。

「ここ、病院じゃないよね」
訝し気に建物を見上げる。
「病院じゃないんだけど、検査機器は揃ってるらしいわ」

何か質問が来るかと思ったけれど、そか、と歩き出した。

「先に検査してもらうから。その後、涼ちゃんの番かな」
彼の手を握り、検査室の前のソファから立った。

ついにこの日がやってきたのだ。
手のひらは離れても、離れがたい指先が切なくてしょうがない。
これで、最後だ。けれど、それを伝える術(すべ)はない。

否応なく時は過ぎる。すべてのものには終わりが来る。

彼の肩を撫で、行ってくるねと呟いた。


「まず最初に」小さく咳払いをして、高瀬は少し苦しげな顔になった。
「美玖は?……」
ふたりで話を聞くはずだと思っていたが、彼女がいない。まだ検査の途中なのだろうか。

ゆるゆると首を振った高瀬は、目を閉じた。
「彼女は──美玖さんは、もうすでに、この世にはいません」

「え?」椅子から上半身を乗り出した僕は首を傾げた。
「な……何を言ってるんですか?」

余命宣告を受けてから紹介という形で会ったのが、高瀬と名乗るこの男だった。美玖の命の恩人だったはずだ。

閉じていた目を開けて、高瀬は話を始めた。
とても長くて、とても不思議な話を。


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「じゃじゃーん」袈裟に掛けたウエストポーチに手を忍ばせたとたん、美玖の眉が、ふん? と上がった。

「ご婚約おめでとうございます」指輪のケースを差し出し、恭しく頭を下げる。

顔を上げると、憂いいっぱいに眉をしかめた美玖の目は、うろうろと落ち着きを失っている。

「どうしたの」
「プロポーズ……だよね」
「これが、バカでかいチロルチョコに見えない限り、そうなんだけど……」

「涼ちゃん、ごめんなさい」美玖は俯くように頭を下げた。
「それは受け取れない」唇ときゅっと閉じた。

「今まで黙ってて申し訳ないけど──あたし、子供のできない体なの」
苦いものでも吐き出すように、言葉は連なり唇からこぼれた。

思いもかけない告白に僕は衝撃を受けた。けれど、子供が欲しいから彼女と結婚したいわけではない。

しかし、女性にとって子供ができないというのは、その存在を根底から揺るがすほどの負荷だろう。彼女はこんなものを背負っていたのか。

僕は言葉を探すように唇をなめ、つばを飲み込んだ。




「そ……そんなこと気にすることないよ。僕は子供が欲しいんじゃなくて美玖と一緒にいたいんだ。
子供ができないなら、できないなりの暮らしをすればいいんだ。ないものを望むより、あるものに感謝しながら生きることが大事なんだよ」

「でも」
こんなに悲しそうな顔をする美玖を見るのは初めてで、僕は混乱していたし、胸はひどく傷んだ。

「それでいいんだ。ふたりで生きて行けばいいんだよ。世界に意味のないことなんて起こらない。子供が生めないなら産めないなりの理由があるんだ。
上手く言えないけど──単に体のせいとかじゃないわけが絶対あるんだ。だから、それは悲観すべきことじゃないんだ。それが行くべき道なんだよ」

人生には、なぜだろう、どうしてあのとき、と悔やむことが少なからずある。その中には、人の力ではどうにもさからうことの できない力、不可抗力も存在する。

いずれにせよ僕は無力だったけれど、ここを、この場を、振り返ってみて後悔する場面にはしたくない。

「花に鳴く鶯(うぐいす)水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける──紀貫之だったよね」

うん。美玖が頷いた。古今和歌集、と目が少し笑った。
「僕はまだ君に、教わりたいことがたくさんある。歌を詠まずにはいられないことを僕たちはもっと経験できるはずだ」

「ありがとう」美玖が頭を下げた。
「だけど少し考えさせて。少しだけ時間をちょうだい。頑張ってみる」

「美玖……」
「頑張ってみるから」

自分の体のことで苦しむ美玖に僕はこれ以上何も言えずに、ただ頷いただけだった。


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「どうですか?」椅子に座った高瀬は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「はい、大丈夫だと思います」わたしは頷いた。

「どうぞお掛けください」言葉に従って腰を下ろした。椅子のスプリングがギシッと音を立てて、月に一度の憂鬱な時間が始まった。

「大丈夫とは、すべてのことにおいて、と受け取っていいですか?」
「はい」

「嘘はついていませんね」
「はい」
これは、どんな思考の流れで出てくる問いかけなんだろう。嘘をつく理由などどこにあるというのだろう。



人って、信じていても裏切られたりする。だからと言って疑ってばかりいると、美玖ちゃん、あんたの顔が醜く変わっていくよ。時間をかけて、ゆっくりゆっくり醜くなる。
美玖は別嬪(べっぴん)さんだから、そのままずっときれいでいなさい。
騙されるのはいやだけど、騙すよりまし。死んだおばあちゃんの言葉が蘇る。

「彼の──門脇さんの言動に何かおかしなところは感じませんか?」
「いえ」軽く首を振った。

この人の目は笑わない。いつもそうだ。だから目は合わせたくない。

「では」高瀬が立ち上がった。「こちらへ。いつものように着衣を脱いで横になってください」ドアの向こうにはベッドがある。

「メンテナンスを始めます」
「あの……」
「はい?」高瀬が肩口に振り返った。蛍光灯の光を弾いた眼鏡のレンズで、その目は見えない。

この人は、何を求めているのだろう。
お金だろうか、地位だろうか、研究によって得られる名声だろうか。

「あの──高瀬さん、メンテナンスという言葉はやめていただけませんか」追いすがるように声を掛けた。
「それは失礼。では、検査を始めます」

始めからそう言えばいいではないか。初めて会った時、わたしまだ──血の通った人間だったのだ。

この人に、心というものはあるのだろうか。
肌寒い日に、つるりと冷たい陶器が二の腕の内側に触れたような嫌な感じは、どうにも好きになれない。


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思い出をたくさん作ろう。それがふたりで決めたことだった。
運よく命長らえたのだから、それでも、いつ何が起こるか分からないのだからと。

「プールもいいけど、今年の夏は海に行きたい」わたしの提案に、彼は大きく頷いた。

大事なことを忘れてしまった彼がかわいそうにも思えるし、自分がひとりでこれを抱えているという寂寥感に襲われたりもする。

人の心は一筋縄ではいかぬものです。ちょっとした心の動きで、お互いがぎこちなくなってしまったら、修復は容易ではないでしょう。たとえば、こんな方法もあります。

私の選択に彼が同意した形になるけれど、どうにも、彼を騙しているような気がして落ち着かない。

もうひとつの道もあったのだ。ふたりがすべてを飲み込んで、定められた大事な時間を、いつくしみながら過ごすという道も。

私の選んだ道は、間違えてはいなかっただろうか。

「じゃあ、湘南にでも行く? 茅ケ崎とかさ。あ、でもあそこ、きれいじゃないからなあ」
腕を組み、ドサリと椅子にもたれて蕎麦屋の天井を見上げた。



その姿勢のまま顎をポリポリと掻いている。
よれたジーンズに肩までまくったTシャツ。

図書館にやってきた彼も、いつもこんな風だった。つむじの辺りの髪の毛が跳ねていることも珍しくなかった。

真夏になったら、ジーンズがショートのカーゴパンツとスポーツサンダルに変わったりする。

見た目は悪くないのだから、もう少しおしゃれをすればいいのにと思うけれど、無頓着だ。いや、わたしが疎いだけで、これがおしゃれな恰好なのかもしれないけれど。

それがある日、たまたま仕事に出かける彼を見かけたのだ。
スーツにネクタイ姿で足早に歩くその姿は同一人物かと疑うほどだった。

ギャップは人の心をかき乱す。そしてわたしは、落ちるべきものに落ちた。

あの日を忘れない。彼がわたしの目の前に立った日だ。彼は小脇に袋を抱えてうろうろとしていた。それも落ち着きのない顔で。その目がわたしをチラチラと見ているようで心臓が高鳴った。

そして彼は、手が空いたわたしの前に、現場を離れるコソ泥みたいな素早さで立った。
話の内容は、図書館の本をなくしたという願ってもないシチュエーションだった。

チャンス到来。
心が浮き立ったわたしは、知的に見えるようにセルフレームの眼鏡をちょっと押し上げた。

「ううん、いいのよ。泳ぎたいわけじゃないから。海が見たいの。海の匂いを感じたいの」

「そうだ、千葉もよくない? 九十九里とか、行ったことないけど銚子とかどう? 行き先は美玖に任せるけど、旅行雑誌買ってさ」


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ZERO ONE は椅子に腰を下ろし、研究員たちと談笑していた。すべてのチェックは私自身の手で終えていたから、今はまさに、ZERO ONE を囲む研究員の男女たちと世間話のようなものでもしているのだろう。

心底楽しそうな顔をしている。その笑顔を私に向けることはついぞなかったことが寂しい気もするが、それも致し方のないことだと己を慰めた。

「高瀬君どうしたんだねひとり離れちゃって」所長の声に形だけ振り向いた。
「いえ、私の役目は終わりましたから」

「しかしすごいな。君ならやると思ったんだよ高瀬君。あれと比べたら、他社のヒューマノイドなんて出来損ないのロボットだ」肩の後ろをバンバンと叩かれた。手の平を返すにもほどがある。

「ところで、抱き心地はどうなのかね。試したのかね」
下卑た笑いを漏らした。

「聞こえてないのか? だって、それは大事なことだろう? どう考えたってそうだろう?」返事をしなかったことに苛立ったのか、あるいは、己の発言の愚かさに恥じ入ったのか、所長は早口で同意を求めた。

「ZERO ONE はもう、ひとりの女性です」

「そうじゃなくて、抱いたのかどうかを訊いてるんだよ」恥じてはいなかった。
「それはしてはならないことです。繰り返しますが、彼女はひとりの独立した存在です」

「あとで所長室に呼んで、俺が触ってもだめなのか? 俺はここの所長だよ。確かめる権利はあるんじゃないのか」

軽い眩暈を覚えてため息をついた。
「ちょっと離れてもらえますか。何も話しかけないでください。でなければ、私がこの研究所を去りますよ」

「いや、軽い冗談だよ。君がいなくなるとね」
男は舌打ちひとつして離れて行った。

「近づかないでください」私の声を無視するように、ずんずんと ZERO ONE に近づいていく。

「ZERO ONE!」振り向いた ZERO ONE に所長の後ろ姿を目で示し、小さく首を振った。関わり合うな、と。

幼い妹を事故で失くした。その悲しみに飲み込まれるように、母はガンで逝った。

ふたつの命をこの世に生み、無事に育て上げた後には、孫というご褒美も待っていたはずなのに──38歳という年齢はこの世を去るのに早すぎる。今の私よりも若かったのだ。

天はなんとひどい仕打ちをするのだろう。

泣けど戻らぬ人たち。人生における出会いの数と別れの数は絶対的にイコール。

医者を目指したのは母の影響も大きいだろう。そんな道程で出会ったのが、ヒューマノイドだった。病の人を救う医療は自分より優れた人がやってくれる。その技術を極めて動物を創り出す。



母や妹との別れの悲しみを和らげてくれたのは、家で飼っていたチワワと、拾ってきた猫とその子供たちだった。だから彼らの持つその力を身をもって知っていた。

試作品を見て私に接近してきたのが、前所長とは考え方も人間性も対照的な、あの男だった。前所長は肩を叩かれる形でここを去った。

ペットを購入するより高くちゃいかん。リースにしよう。なんだかんだ言って手放さないから儲かるぞ。なんたって愛着があるからな。そうだな──リースの延長に制限をつけて、その後は買取もOKで高く吹っ掛けるか。

金なら心配はいらん。存分に研究を続けたまえ。

当初の志とは道が違ってしまったけれど、そんな研究者の自分だからこそ持ち得る、矜持というものがある。

誰にも隷属しない。自分たちの研究に必要なのは、なにより、痛みを知り、それに寄り添う心だ。失われたものと失った人たちに愛を注ぐことだ。


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実家の連絡先を尋ねることはできない。その意味を彼女に問われることははっきりしているからだ。もしもそれを訊かれなかったとしても、いらぬ詮索をさせるだけだ。

彼女は聡明だ。頭の回転が速い。嘘の裏側を読んで受け答えをされたら、僕は読み切れないだろう。

しかし、それでいいのだろうか。父母にとって彼女はかけがえのない家族だ。

それに引きかえ僕はどうだ、恋人は──家族ですらない。

御親族の方ですか?
いえ
御親族の方を呼んでください。

僕と彼女にとって恐ろしいものが、そこに待ち受けていることを察した。

婚約者です。
世間的な手順をそう呼ぶのなら、僕は嘘をついた。

そうですか。
担当の医師は痛ましそうに眉を曲げて頷いた。

「親には電話した?」
「ううん、心配させるだけだから」

飲み込んだ唾液が喉元と耳の奥で音を立てた。彼女の両親に伝えなければならない。でなければ僕はひどい罪を犯すことになる。

産声を上げたとき、おくるみに包まれたとき。お座りができた日、ハイハイをした日。
ものにつかまり初めて立った日、よちよちと歩いた日。

過ぎてきたそんな日々を、彼女を育てた父母は知っている。それに引きかえ僕は何も知らない。
だから僕には、知らせる義務がある。



「そんなことないよ。僕が電話してあげようか」
「かえってびっくりしちゃうよ。誰も涼ちゃんのこと知らないんだから」微笑んだ後、「そのうちね」とにんまりと目を細めた。

美玖に尋ねることはやはりできない。
彼女の勤める図書館なら、事情を話せば教えてもらえるかもしれない。

僕はなぜこんなことをしているのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。

彼女の両親に、娘の余命を知らせる手段を探すなんて──。

「門脇さん」声に振り向くと、とてもよくしてくれる若い看護師さんだった。

「先生がお話ししたいことがあるそうですけど、お時間大丈夫ですか?」
「あ、はい」椅子から腰を浮かせた。

話とは何だろう。これ以上の悪いことなどこの世に存在するのだろうか。

「一之瀬さん」微笑みを浮かべながらベッドに近づいてくる。
「はい」美玖も目元に笑みを浮かべた。

「お加減はいかがですか」
「ええ、寝てばかりですけど」美玖が弱く笑った。

「いいんですよ、いいんですよ。寝てていいんですよ」
笑みを浮かべたまま、看護師が僕を促すように小さく頷き、僕もそれに応えるように顎を引いた。


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重力に負けそうだった。立ち止まり、がくりと項垂れ、よく磨かれたリノリウムの床に立つ自分の靴先を見つめた。

ゆっくりと息を吸い、ふぅと吐いた。世界が根底から揺さぶられて、その揺れは、胸も息も震わせていた。

微笑まなくては。いつものような笑い顔を作ったつもりだったけど、それは頬を歪めただけのようにしか感じなかった。

前を向き歩き始めた。けれど世界は、悪い夢の中にいるかのように揺れて歪んでいた。

ベッドに横たわる彼女は眠っているようだった。その寝顔は場違いなほどに穏やかで、それがいっそう、僕の心を押しつぶしそうだった。

午後の明るい日差しが掛け布団の足元に降り注いでいる。少し開いた病室の窓から、風に揺れる葉擦れの音がする。



音をたてぬようにそばに歩み寄った。
長いまつげにかかる髪を手で梳(す)き、頬を撫で、折りたたみ椅子に腰を下ろした。

胸元に乗せられ規則的に上下する手の甲に、手のひらを重ねる。いつもと変わらず滑(すべ)らな手だった。

遠くカンカン・カンカンと聞こえるのは、鎮火後の消防車の警鐘だろうか。
こんな風に、彼女の病も消えてしまえばいいのに。

どうしてこんなことが起こるのだろう。彼女がどんな悪いことをしたというのだろう。
そう思った刹那、彼女の顔が涙で滲み、漏れそうになった嗚咽に口元を押さえた。

あぁ、という少ししわがれた声とともに、彼女が目じりを指先で拭った。
「寝ちゃってた」

「どうしたの?」
おどろいたように彼女の手が伸びてきた。りょうちゃん、枕から頭を上げて僕の頬に親指を滑らせた。

「欠伸した」けどられぬようについた嘘は、彼女の顔を滲ませたままだった。
「病人は寝てていいんだよ。頑張って治そうな美玖」

目に染みるような白い枕と白い掛け布団の間に埋もれた小さな顔は、はい、とあごを引くように頷き、力のない笑みを浮かべた。


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小説をちょっとお休みして、今夜はこれです。
素敵なギターを聴いてください。

かわしま たかおみ

でも、色んなテクを色々取り入れてたら結構ハードなアレンジになってしまっちゃった。。(笑)
そのせいか、疲れた顔で演奏しちゃってます(爆)


うん。確かに疲れた顔してます。
大丈夫ですか⁉ 放心してませんか⁉(笑)

音楽は人の心を癒し、時に人を勇気づけ、しばしば涙の自浄効果を生む。

「音楽」を調べてみると、音による芸術とある。

川島さんの手による、この「LEMON」は、言葉は悪いかもしれないけれど、一種の中毒性を持っているように感じる。

ギターって凄いんだなって、改めて思う。


LEMON  ギター:川島隆臣



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「高瀬君、どうだね」右手首の動きで、ソファに腰を下ろした。

たとえば目の前に池があって、そこに飼っている立派な鯉が泳いでいて、その鯉にエサでもまいているとしたらしっくりくる手の動きだ。

これが座り給えだから、慣れるまで戸惑ったものだ。



「詰めの部分が──」組んだ両手の肘を膝に付き、にごした語尾に現状を込めた。

男は、ゆるりと椅子を回し背後の窓に目をやった。しばし、重い沈黙が所長室に流れた。

「詰めが上手くいかないか。要は未完成ということだろう? それは困るねぇ」視線と椅子を戻した男は不愉快そうに眉を曲げた。

こうも簡単に口にするのは、このプロジェクトの繊細さがわかっていないからだ。ましてやこの男は科学者でもない。

「とにかく、急ぎたまえ」
「急いては事を仕損じます」

「君は」眉間を険しくしたと同時に、ふんッと鼻が鳴った。「扱いにくい男だな」
「そうですか?」

「そこにいるのが君でなければ、とっくに首が飛んでるよ」男はふたたび椅子を回して横顔を見せた。
「もう帰りたまえ。仕上げを急ぐことだ」

軽いため息が出た。こんな男がトップに座ってしまったのは、やはり背後にある資金力だ。

それがなければ自由に研究もできないのは事実だが、その先にあるものが利益の追求でしかないことが、現場から疎まれる理由のひとつだ。

「あなたにそれだけの力があれば、どうぞご自由に」ソファから腰を上げ、形だけ頭を下げた。
笑ったのか怒りがこみ上げたのか、男の肩がわずかに上下した。

「池でも作って鯉を泳がせましょうか?」
男の反応を待たずに踵を返した。

「はぁ?」
間の抜けた声を背中で聞いた。


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