思い出をたくさん作ろう。それがふたりで決めたことだった。
運よく命長らえたのだから、それでも、いつ何が起こるか分からないのだからと。
「プールもいいけど、今年の夏は海に行きたい」わたしの提案に、彼は大きく頷いた。
大事なことを忘れてしまった彼がかわいそうにも思えるし、自分がひとりでこれを抱えているという寂寥感に襲われたりもする。
人の心は一筋縄ではいかぬものです。ちょっとした心の動きで、お互いがぎこちなくなってしまったら、修復は容易ではないでしょう。たとえば、こんな方法もあります。
私の選択に彼が同意した形になるけれど、どうにも、彼を騙しているような気がして落ち着かない。
もうひとつの道もあったのだ。ふたりがすべてを飲み込んで、定められた大事な時間を、いつくしみながら過ごすという道も。
私の選んだ道は、間違えてはいなかっただろうか。
「じゃあ、湘南にでも行く? 茅ケ崎とかさ。あ、でもあそこ、きれいじゃないからなあ」
腕を組み、ドサリと椅子にもたれて蕎麦屋の天井を見上げた。

その姿勢のまま顎をポリポリと掻いている。
よれたジーンズに肩までまくったTシャツ。
図書館にやってきた彼も、いつもこんな風だった。つむじの辺りの髪の毛が跳ねていることも珍しくなかった。
真夏になったら、ジーンズがショートのカーゴパンツとスポーツサンダルに変わったりする。
見た目は悪くないのだから、もう少しおしゃれをすればいいのにと思うけれど、無頓着だ。いや、わたしが疎いだけで、これがおしゃれな恰好なのかもしれないけれど。
それがある日、たまたま仕事に出かける彼を見かけたのだ。
スーツにネクタイ姿で足早に歩くその姿は同一人物かと疑うほどだった。
ギャップは人の心をかき乱す。そしてわたしは、落ちるべきものに落ちた。
あの日を忘れない。彼がわたしの目の前に立った日だ。彼は小脇に袋を抱えてうろうろとしていた。それも落ち着きのない顔で。その目がわたしをチラチラと見ているようで心臓が高鳴った。
そして彼は、手が空いたわたしの前に、現場を離れるコソ泥みたいな素早さで立った。
話の内容は、図書館の本をなくしたという願ってもないシチュエーションだった。
チャンス到来。
心が浮き立ったわたしは、知的に見えるようにセルフレームの眼鏡をちょっと押し上げた。
「ううん、いいのよ。泳ぎたいわけじゃないから。海が見たいの。海の匂いを感じたいの」
「そうだ、千葉もよくない? 九十九里とか、行ったことないけど銚子とかどう? 行き先は美玖に任せるけど、旅行雑誌買ってさ」
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