荻原朔太郎 のこころに触れて | 和み日和

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荻原朔太郎 『 こころ 』

こころをば なにに たとへん
こころはあじさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思い出ばかりはせんなくて
こころは夕闇の園生(そのう)のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをば なにに たとへん

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり


この朔太郎(さくたろう)の「こころ」には
読む人によってどう映るかが沢山あると思う。
私なりの今日の解釈はこうだ。

『こころは紫陽花の花。』
心は小さな花が沢山集まって1つの花となる紫陽花みたいに
沢山の思い出が集まって1つの幸となる。

『桃色に咲く日はあれど薄紫の思い出ばかりはせんなくて』
(紫陽花は最初ピンク色で咲いても次の季節には紫になったり色変化する)
温かい幸せな思い出も次第に薄れて過去になっていくのは仕方がないこと・・・

『こころは夕闇の園生のふきあげ』
心は誰も見ていない夕暮れの公園の噴水のように

『音なき音の歩むひびきに』
もうそこにはいない人の歩みの音に耳を澄ませながら

『こころはひとつによりて悲しめども』
思い出に寄り添うて悲しんでみても

『かなしめどもあるかひなしや』
悲しんだところでもう戻らない

『あぁこの心をば なにに たとへん』
あぁ、この心を何と例えようか

『心は二人の旅人』
私の心はあなたと共に歩んでいたのだ

『されど道連れの絶えて物言ふことなければ』
だけど共にいたあなたがもうここにはいなくて何もモノさえ言うてくれぬならば

『我が心はいつもかくさびしきなり』
私の心はとにもかくにも寂しいものなのです


この詩は、ゲド戦記のテルーの唄の題材とされた詩で有名ですね。
♪こ~ころを何にたとえよう~鷹のよう~なこの心~♪
この朔太郎の詩は「失恋」を謡ったのか、
「死別」を謡ったのか、
はたまた「戦意喪失したもう一人の自分」に向けて言うているのか。。。
と私はこの3パターンで考えているのですが。
どうなんでしょう。
上の解説は私の超個人的解釈なので、何か調べ物をしてここに辿り着かれる方は
全く参考にしないでくださいね。(笑)

でも、私は詩を読むときには
「これはどういう風に解釈すればいいのだろう」としばし空を眺める時間が
とても好きなのです。
その時には、(今回ならば朔太郎氏)に思いを合わせて寄り添うような気持ち。
言葉の並べ方などに恋をしそうになるほど
朔太郎氏の詩は他にも繊細な恋心を読んだものが多いので、
恐らく愛する人とのお別れがあり、紫陽花を眺めながら
ふと思うことがあったのかなと思うのですが。

今の時代ならひとつの恋が終われど、カラオケじゃ~飲みにいくぞ~~じゃ、
パソコンに向ったり、携帯をいじったり。
今の自分のこころを何かに重ねてあらわにしてみたり、
悲しい気持ちをなんとたとえようとなどしたりしませんもんね。

私も出来ることならば、昭和初期あたりに生まれてみたかったです。

いや。恐らく生まれていたのだけど(笑)
記憶がないです!残念!

雨の降る日の松尾の山の茶店の中で
お茶を摘めながら窓の外の紫陽花を眺めながら
是非もう一度読んでみたいなと思います。

はぁ~~朔太郎さま~(恋)

目がハート顔はーと2個_pnk+yel