さらばモスクワ愚連隊(1968) | 日本映画ブログー日本映画と時代の大切な記憶のために

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日本映画をひとりの男が見続けます。映画はタイムマシンです。そういう観点も含め多様な映画を解説していきます。範疇は作られた日本映画全てです。

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さらばモスクワ愚連隊

1968年 東宝

監督:堀川弘通 主演:加山雄三、伊藤孝雄、ピーター・アレクセフ


今日から、五木寛之の初期作品の映画化作品を5作。五木寛之はいまでこそ宗教小説家のようになってしまったが、デビュー当時の作品は今見てもセンシブルで恰好いい。私は、彼の小説で小説を読むことを覚えた。そういう意味ではおもいいれがある。しかし、映画化作品はどれも成功とはいえないものばかりである。五木文学は、あまりにも読者にその情景を想起させやすいので、皆、自分勝手なイメージを作っているからだと思う。映像的な小説ほど映像にはしにくいということである。そんな、五木寛之の処女作の映画化がこの作品である。何度も読んだ小説だが、加山雄三というイメージはちょっと違う気がする。そして、短編のさらりとした話をちょっと、ひきのばしすぎたかなという部分もあるが、モスクワロケを行って当時の空気をつめこんである映像を今見れることはなかなか貴重である。


加山は音楽のプロモーターだった。呼んだベテランのジャズ演奏家がヤク中で逮捕されてしまう。そして、加山は仕事の見切り時だと考える。そんな中、旧友の男(塚本信夫)が訪ねてくる。ソ連にジャズを持っていきたいという。加山はいきつけのジャズバーでベトナムにいくというアメリカ青年にあう。彼のジャズを聴き、心が踊る。加山はジャズをやめた人間だった。彼と触れ合い、ソ連の話を受けてしまう。ソ連の広場で服を売れと少年(ピーター)にいわれる。加山は彼が「聖者の行進」の口笛を吹いているので、ジャズをやってる店を教えれば取引するという。加山はソ連の官僚にあい、彼がジャズは娯楽だというのに反論する。それなりに手ごたえはあった。そして夜、少年がトランペットを吹くことを知る。加山は彼らに本当のジャズを聞かせたくなってくる。世話をしてくれている大使館員(伊藤)は加山のラジオでジャズを覚えたといい、クラリネットを吹いて見せる。その時、キーマンの政治家が死んだと電話が入る。ジャズバンドを呼ぶ話はなくなる。加山はモスクワを去る晩に伊藤や、広場でであったアメリカ人をつれて少年のいる店に行った。「ジャズとはこういうものだ」と演奏をしてやる。次の朝、少年に楽譜を持ってきてやると、少年は人を刺し鑑別所に入れられたと教えられる。


冷戦時の日ソ間の関係を保つためのジャズ公演のプロモートの話ではあるが、主題はジャズを捨てた男と、モスクワでジャズを演奏する不良少年の交流の話である。そういう意味では、もっと少年側の視点があったほうが、いい感じの映画にはなったのではないかと思われる。加山の視線で、さまざまな状況を表現するには無理があるのだ。


「青春の陰り」「冷戦」「規制された青春」「貧富の差」「外交の綾」「芸術と娯楽」など、1968年という時代に描くことはいっぱいある。それが、混沌と表現されるので、今見ると、時代感はわかるが、何がいいたいのかが今一ピントがあっていない気もする。


最終的には、音楽は国を超え、ジャズは魂をゆさぶるという事がわかればいいのかもしれないが、そういう高揚感にもっていけてない感じなのである。確かに最後の演奏シーンは盛り上がっているのだが、少年とのやりとりの描き方が今一な気がする。


冒頭の、プロモーターで失敗する話が長すぎるのだ。弟子の黒沢年男との話や、恋人と思われる野際陽子との話など、回想の話にしてもよかったのではないか?モスクワに決めるまで30分くらい費やしているが、あまり意味無い気がした。なお、ここで使われているホールは昔の渋谷公会堂である。とてもなつかしい風景だ。


そして、けっこく、加山が訴える、「ジャズ」とは?という問いの答えが耳から伝わってこないのも物足りないところだろう。そう絵で訴えるからには、観客の耳を捉えないとこういう映画は成立しない。まあ、この自分の日本映画にそれを望むのはヤボだが・・。しかし、五木寛之作品の映画化の難しさはそのあたりなのだ。彼の初期の作品には、確実に文章の中にサウンドが同居しているのだ。この辺は映画化する上でなかなか勝てない部分である。ソ連の要人にあって、ピアノで訴えるところは、それを絵にしようとしたところなのだろうが、なかなか無理がある。


モスクワの風景は何か重々しい感じで独特である。東ヨーロッパ諸国の旗がたち、緊張感がある。しかし、やはりかなりの規制を受けているのだろう。あまり一般庶民がカメラに写り込んでいない。そこがなにか不気味である。


昼間の風景はモスクワロケだが、夜のシ-ンはたぶんセットであろう。このあたりの質感がよくあっている。日本映画としてはめずらしい空気感があるのは、この映画の見せ場である。少年が友人に日本の歌を演奏させるシーンがある。「逢いたくて逢いたくて」が演奏される。何故、この歌なのかは、よくわからないが・・・。


加山という人間がしっかりと描かれているかと言えば、そうでもない。ただ、伊藤が加山のラジオを聞いていたとか、それに影響されて外交官の試験に受かったら、クラリネットを練習したというような話から、加山の人間が見えてくる。これはなかなかうまい手法であると思ったりもした。


正直、原作を読んだ個々人が描く映像には、とても及ばない映画であると思う。それくらい、五木寛之の原作はスタイリッシュであり、恰好いい。でも、その時代に撮った映画は、小説のサイドストーリーとして見れば、何か思いが膨らむものになったりもする。・・・そういう意味では好きな映画である。


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