小学校での読み聞かせ活動記録 -12ページ目

いっぱいやさいさん

斉藤 恭久, まど みちお
いっぱい やさいさん

24P/26×26/至光社/1992年初版/読み聞かせにかかる時間-3分/季節-野菜の瑞々し春~夏


詩人まどみちおのネームに、斉藤恭久が、本物以上に瑞々しい挿絵を描き、一冊の絵本に仕上げました。「きゅうりさんは/きゅうりさんなのがうれしいのね」と野菜に語りかけるような読者に語りかけるような美しい日本語。詩人ならではの感性が紡ぎ出した言葉といえるでしょう。


『いっぱいやさいさん』は、幼児絵本に分類されがちですが、野菜と一緒に描かれている昆虫は、くびきりぎりすだったり、おにくわがただったり、かなりマニアックな昆虫が描きこまれていたりします。韻を踏んだ美しい日本語は、読むほどに心に残ります。一回といわず、何回も子ども達の目に触れるところに置いておき、声に出して読みたい一冊です。


まどみちお-本名・石田道雄。1909年生まれ。25歳の時に雑誌に投稿した作品が北原白秋に認められ、本格的詩活動を始めます。「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」「ふしぎなポケット」などの童謡を次つぎと発表しました。幼稚園の卒園児によく歌われる「一年生になったら」も、まどみちおの作品です。

100まんびきのねこ

ワンダ・ガアグ, いしい ももこ
100まんびきのねこ

31P/20×27/福音館書店/1961年初版/読み聞かせにかかる時間-9分程度/季節-ねこのいる季節?通年でしょうか。


1928年に出版されたアメリカの本格的絵本『100まんびきのねこ』の作者といえば、ワンダ・ガアグですが、彼女は絵本作家としてはじめて市民権を得た人であり、その第一作がこの絵本なのです。100まんびきのねこたちが、美しさを競って喧嘩をし、食べっこしてしまって一匹も残らなかったというシュールな内容と、白黒の挿絵は、今も多くの子ども達に愛され続けています。


一見、残酷でシュールな内容ですが、残ったガリガリに痩せたチビねこが、おじいさんとおばあさんの愛情に育まれて、みる間に美しいねこになる様子は、前半の残酷さとは対照的に心温まるものを感じます。


そういえば、ワンダ・ガアグは、この作品の挿絵一枚を仕上げるために箱いっぱいの習作をしたそうです。バ夕ーぺーパーという半透明な紙を元の絵に重ねて手直しをし、さらに重ねて、膨大な手間暇かけて一冊の絵本を作り上げたそうです。


吟味に吟味を重ね、手間暇と愛情をかけた絵本は、無言で多くのことを訴えているように思えます。

マーシャとくま

E・ラチョフ, M・ブラトフ, うちだ りさこ
マーシャとくま―ロシア民話

12P/28×23/福音館書店/1962年初版/読み聞かせにかかる時間-7分程度/季節-春~秋の間


ある時、村の女の子達が連れ立って森へきのこやいちごをとりに行く事になりました。マーシャも祖父母に許可をもらって出かけることになりました。祖父母の注意を忘れてしまったマーシャは、みんなのそばから離れて、迷子になってしまいました。


森の奥深くを彷徨っていると、一見の小屋を発見しました。そこは、熊の家だったのです。マーシャはこの家に置いてもらうかわりに、くまの世話をしなければならなくなりました。家に帰りたいマーシャは、知恵をめぐらせます。


マーシャは、熊に一日だけ家に帰りたいと申し出ます。「おまんじゅうを持って行きたいの。」と。けれども熊は承知しません。「迷子になるよ。どうしてもおまんじゆを届けたいというのならわしが持っていってやろう。」と言い出します。マーシャは、おまんじゅう共々、つづらに入り、まんまと家に帰りつくのでした。


昔々あるところに・・・で始まる典型的な昔話の一つで、この作品は特に有名なロシアの民話です。さて、このお話の冒頭でマーシャは、守られているばかりの小さな子どもから、家族とはなれてでかけられる少女になった事を示唆しています。一人で外出できる歓びは、やがて何かに夢中になり、好奇心を抑えきれず、祖父母との約束を忘れるという愚かな失敗を招きます。


幼い好奇心は、時として大いなる危険を呼ぶのです。この作品でいえば、熊の家に軟禁されてしまうことがそれにあたります。けれども、マーシャは決して悲観せず、知恵を働かせます。しかし、その知恵だってギリギリの賭けみたいなものです。紙一重で見つかってつかまってしまうかもしれません。この、紙一重の冒険談に子ども達はハラハラするのです。


そして、ハッピーエンドになると判って、マーシャが無事に帰ってくれば心からほっとするのです。祖父母は、そんなマーシャを抱きしめてひと事言います。「おりこうさん。」と。


心と体が満たされ、マーシャは、森にでかれる前の小さな女の子から、知恵の働くしっかりした娘さんに成長するのです。日本の昔話でも、似たような内容として『三枚のおふだ』などが挙げられます。子ども達の心の機微というのは、深いところで一つなのかも知れませんね。

チム、ジンジャーをたすける

エドワード アーディゾーニ, Edward Ardizzone, なかがわ ちひろ
チム、ジンジャーをたすける―チムシリーズ〈3〉

48P/27×20/福音館書店/2001年初版/読み聞かせにかかる時間-17分/季節-通年


チムシリーズの第三作目です。原書の初版は1949年となっています。シリーズの時系列とは、若干の違いがあるようです。お話も面白くなってきたのですが、一冊を音読すると17分!読み聞かせという分野からは、卒業して自分で読む絵本に分類されるかも知れません。でもね、こども達はどんな長いお話でも、自分で読むのではなく、呼んでもらうのが大好きんなですよ。口伝のお話が出来なくなってき世代の私達、せめて時間の許す限り、朗読をしてあげられたらいいなと思っています。


さて、今回のチムは、仲良しのマクフィー船長と共に航海に出かけます。今回のお話の舞台は、3000トンクラスの蒸気船、フィデルティ号です。チムはこの船で二等ボーイの職を得ました。乗船すると待っていたのは、ジンジャーという赤毛で背の高い一等ボーイの男の子でした。


チムは、船の中でも勉強を怠らず、読み書きや算数・歴史を教えたり、コックのジョーじいさんのかわりに手紙を書いたり大忙しです。反対にジンジャーは怠け者で、しょっちゅういたずらばかりしていました。そして、ある日とうとう決定的ないたずらをしてしまいます。それは、三等航海士の強力な毛生え薬を全部自分の頭にかけてしまった事でした。


ジンジャーの髪は、何度切っても伸び続け、それに対処しょうとする人々の意見が割れて、船の中の人間関係がとげとげしくなってきてしまったのです。とうとうジンジャーはいたたまれなくなり、救命ボートの中に隠れて生活するようになってしまいました。チムはせっせと食事などを運んで世話を焼いていましたが、ある日、お決まりのように嵐がやってきます。そこで、チムはジンジャーも船室に入るように説得しました。でも、ジンジャーいう事を聞いてくれません。嵐の中、甲板に出ることは船長に硬く禁じられていたチムでしたが、ジンジャーを救いたい一心で、命令違反を冒して、ジンジャーを助ける事に成功します。


チムとジンジャーは船長に厳しく怒られますが、それは二人を心配してのことです。命を賭けて人命救助をしたチムは表彰されるし、ジンジャーの髪の毛は伸びるのをやめました。その後、航海が終わるまでチムもジンジャーも一生懸命に勉強をしたり働いたりしましたので、家に戻って学校に行き、テストを受けるととても良い成績をとることが出来ました。そんなチムをお父さんもお母さんもとても誇りに思ってくれました。おしまい。

チムとルーシーとかいぞく

エドワード アーディゾーニ, Edward Ardizzone, なかがわ ちひろ
チムとルーシーとかいぞく―チムシリーズ〈2〉

48P/27×20/福音館書店/2001年初版/読み聞かせにかかる時間-12分/季節-通年


チムシリーズの第二作目。原書の初版は、1958年というから、そろそろ50歳になる古い古い絵本です。今回は、チムはルーシー・ブラウンという7歳の女の子と2度目の航海に行くお話しです。ルーシーと仲良しのグライムズおじさんの出資でエバンジェリン号という船を買い、家政婦のスモウリーさん共々、海に出る事になったのです。


乗組員の募集は、チムが行いました。腕のいいコックさんに船長、乗組員も前の航海の時に知り合った人ばかりです。チムとルーシーとグライムズさんは、冒険に胸を躍らせていましたが、スモウリーさんだけは、ちょっと憂鬱そうです。スモウリーさんは、船酔いをするからです。海が荒れ始め、スモウリーさんが日に日に具合が悪くなったので港に引き返す決心をした時、チムが波の間に見え隠れするいかだを発見しました。


いかだに乗っていたのは、人相の悪い海賊達でした。いかだを乗っ取る相談を立ち聞きしてしまったチムとルーシーの活躍と気分が悪くて甲板に出ていたスモウリーさんの機転のお陰で、船を乗っ取られる事もなく、海賊達を軍艦に引き渡す事ができました。


スモウリーさんは、あんまり興奮したのと忙しいのとで船酔いを忘れてしまいました。そして、最後には「私、海の暮らしが好きです。何だかすっかり気分が良くなってしまいましたわ。」と言うのです。みんなは、この言葉を聞いて、大喜びし、海の彼方へ出発する決心をするのでした。


この作品の中で、ルーシーが散らかり放題の船員の部屋を片付けたり、針仕事やお料理、お茶汲みなど女性らしい仕事ばかりをしていて、性による役割分担を助長するものだという意見が出た時代もあったようです。ウーマンリブという懐かしい言葉が記憶の中をよぎりました。最近では、ジェンダーフリーとも言われているナイーブな問題です。


確かに、性による差別があっはいけないとは思いますが、男女は決定的に構造上に違いがあるのですから、役割分担はなくてはならないと考えます。骨格や筋肉のつき方が違うのですから、男性と対等に肉体労働のできる女性はほとんどいないでしょう。反対に、男性には子どもを産む事ができません。すべてを男女が同じ事をするとしたら、このほうが余程差別ではないかと考えるのです。


神様が男女を分けられたのは、お互いの未熟な部分を支え、補い合うためだと思うのです。だから、チムはしっかり船の仕事をして、ルーシーはそれを支えたり、励ましたりする役割をしているこの作品はとても良い作品だと思うのです。


役割分担をしながらだって、対等に意見を述べ合う事はできるし、人として平等な権利と義務を持っていると考えられないでしょうか。それよりも現実を直視しないで「何もかもを平等に」と言いすぎる現代社会の方が怖い気がします。


親がお金持ちだったり貧乏だったり、一生懸命勉強してもちっとも成績が上がらない子どもがいる反面、少しの努力で素晴らしい成績をとる子どもがいます。世の中って、かなり不公平に出来ていると思います。でも、色々な立場の人がいるからこそ、いたわり合ったり、愛し合ったりして、支えあう事を学べるのではないでしょうか。チムもルーシーも目の前にある自分にできる仕事を精一杯こなしながら、船酔いをするスモウリーさんをいたわっています。大切なのは、自分の立場でできる精一杯を実行するということではないでしょうか。

はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー

ばーじにあ・りー・ばーとん, いしい ももこ
はたらきもののじょせつしゃけいてぃー

40P/23×25/福音館書店/1978年初版/読み聞かせにかかる時間-8分程度/季節-大雪の降る季節って冬に決まっています。


ケイティーは、キャタピラのついている赤い立派なトラクターです。色々な部分品を取り替える事で、活躍の場を拡げています。雪のない季節、ケイティーは、ブルトケーザーをつけて道を直していました。冬になり、町がすっぽり埋まってしまうほどの雪が降ると、ケイティーの本領発揮となります。


警察も郵便局も電力会社も水道局も病院も消防署もみんなみんな、ケイティーを頼りにしているのです。ケイティーは、力の限り働き続け、町は元通り機能するようになりました。ケイティーは、大事な仕事を全部済ませてから家に帰りました。


ケイティーを見ていると、家族の中の大黒柱であるお父さんを思い出します。「頼みます!」と言われれば、黙々とするべき事をする。こんな父親の背中を見て育つ子どもはどんなにか幸せでしょう。こんなお父さんがいたら、どんなにか頼もしいと思うでしょう。実際に、ジェオポリスの町のお役所の道路管理部の人々は、ケイティーを自慢にしていました。「ケイティーに、やれない事は、何にもないんだ」と言っていましたからね。


子供たちは、働く車が大好きです。絵本には、働く車や乗り物を題材にした作品がたくさんあります。頑張りやだったり、かっこよかったり、力が強かったり、正義感にあふれていたり、さまざまな性格の乗り物たち。子ども達は、主人公達に自分や父親を重ね合わせて読むのかもしれません。『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』『きかんしゃやえもん』『しょうぼうじどうしゃじぷた』『のろまなローラー』等々、乗り物関係の絵本には、息の長い名作が多いように思われます。

やまこえのこえかわこえて

こいで やすこ
やまこえのこえかわこえて

32P/27×20/福音館書店/1992年初版/読み聞かせにかかる時間-4分程度/季節-秋祭りの時期。


『おなべおなべにえたかな?』で活躍したきつねのきっこちゃんが再登場です。山越えて、山越えて、きつねのきっこは、ふもとの町までお買い物です。お月様とふくろうのろくすけと、いたちのちぃとにぃが一緒に町までお付き合いをしてくれました。


秋の満月の夜、買い物に来る事を知っていたお豆腐やさんは、きっこの来るのを待っていました。あぶらあげ100枚お願いすると、おまけに10枚つけてくれました。お代は、きのこと栗とちぃとにぃの持ってきた川魚です。


帰り道、誰かがきっこの油揚げを狙っています。でも、お月様とふくろうのろくすけとちぃとにぃに助けられ、きっこは無事に家に戻って来る事ができました。


さて、それからが大忙し。ごはんを炊いて、油揚げを甘く煮て、ごはんを詰めて、夜が明ける前に大量の稲荷寿司を作り上げました。夜が明けると、今日は稲荷山の秋祭り。きっこの油揚げは、お祭りの名物なのりです。


『おなべおなべにえたかな?』も『やまこえ のこえ かわこえて』もメインは、手間のかかる食べ物のお話。なんでもないスープやお稲荷さんがとってもおいしそうに見えてくるから不思議です。それはね、きっこちゃんやきっこちゃんの友だちがお料理をしながら、精一杯の愛情を込めているからなんですよ。食べ物って、カラタだけじゃなく心も満たしてくれるんですね。

まあちゃんのまほう

たかどの ほうこ
まあちゃんのまほう

28P/20×27/福音館書店/1992年初版/読み聞かせにかかる時間-4分程度/季節-お母さんもまあちゃんも半袖だから初夏


まあちゃんは、魔法の本を読んでいました。ヒトを動物にするおまじないの言葉が載っています。まあちゃんは、お母さんに魔法をかけてみました。「れろれろ ぷぷんぷん ぺぺんぽん おかあさん なれなれ なんかの どうぶつになーれ らりるれ れろれの ぽん!」するとお母さんはたちまち狸になってしまいました。お母さんがすっと狸のままだったら嫌なので、まあちゃんはモトに戻るおまじないをかけました。すると、モトのお母さんに戻ったのですが・・・。


一体、どこから偽者のお母さんになってしまったのでしょう?狸が化けたお母さんは天真爛漫で、意外にもまあちゃんは、狸のお母さんと楽しそうに遊んでいます。いっつもこんなお母さんだと困ってしまうけど、たまには、こんなお母さんがいてもいいな。と思える一冊です。


『まあちゃんのまほうのかみ』は、女の子らしさを前面に出していましたが、こちらの絵本は男の子でも楽しめそうです。一緒に自転車にのってくれたり、つまい食いをしたり、洗濯物を飛ばしたりするなんてお行儀が悪くて、元気で、びっくりするような事は、男の子の方が得意な気がしますからね。

まあちゃんのながいかみ

高楼 方子
まあちゃんのながいかみ

28P/20×27/福音館書店/1989年初版/読み聞かせにかかる時間-4分程度/季節-お友だちもまあちゃんも半そでなので初夏


はあちゃんと、みいちゃんが長い髪の自慢をしています。でも、まあちゃんの髪は短いおかっぱです。まあちゃんは、二人に向って、自分も髪を長く伸ばすと宣言をしました。その長さといったら・・・


橋の上からおさげを垂らして魚が釣れる位で、牧場の柵の所からおさげのロープをビューンと飛ばせば牛だって捕まえられる位で、海苔巻きみたいにくるまれば、ふかふか布団になる程なのです。右のおさげと左のおさげをぴーんと張って木に結べば、うち中の洗濯物を全部いっぺんに干せるほどなのです。


まあちゃんの想像力には限りがありません。梳かしたり洗ったりするのだって、まあちゃんの想像力にかかれば何の問題もありません。石鹸を泡立てれば、天まで届く甘くないソフトクリームみたいになるし、川でゆすげば、川のこんぶになり、10人の妹が髪を梳かしてくれる・・・。長すぎて邪魔になったら、パーマをかけて森にする。三人はそれらを想像して、うっとり。まあちゃんの髪、早く伸びるといいね。


というお話です。女の子の想像力って無限だなぁと感心させられました。女の子は、一時期とても女の子らしさを大切にしたい時期があるみたいで、ピンクや赤の服しか着なかったり、スカートしかはかなかったり、髪を長く伸ばしたがったり・・・。そんな女の子らしさと想像力を上手に組み合わせた絵本なので、女の子にはとても人気がある絵本です。


ところで、次女が気づいたのですが、まあちゃんの髪で洗濯物を干しているとき、洗濯物が乾くまでまあちゃんは本を読んで待っているのですが、その時まあちゃんが読んでいる絵本が『どろんこハリー』なんですよね。次女は『どろんこハリー』が大好きなので、一気にこの絵本も大好きになってしまいました。


やっぱり、読み聞かせの時には『どろんこハリー』を抱き合わせて読みましょうかねぇ。何人の子ども達が気づくでしょうか。ちょっと楽しみです。


姉妹作に、『まあちゃんのまほう』(1992年)と『まあちゃんのエプロン』(1997年)があります。

げんきなマドレーヌ

ルドウィッヒ・ベーメルマンス, 瀬田 貞二, Ludwig Bemelmans
げんきなマドレーヌ

46P/31×23/福音館書店/1972年/読み聞かせにかかる時間-4分程度/季節-通年


マドレーヌシリーズの第一作です。前半は、マドレーヌたちがどんな生活をしているかを詩的でリズム良く描いています。エッフェル塔やコンコルド広場を描いているかと思えば、宝石泥棒や傷ついた兵士が描きこまれているシーンもあります。

後半は、マドレーヌが盲腸になって入院してしまう話。マドレーヌの表記は気の毒だけれど、お見舞いの品も、盲腸の傷跡も素敵!。お見舞いに行った日の夜、みんなは、声を揃えて「わーわー、盲腸を切って頂戴。」と泣きます。それを見た、ミス・クラベル「おやすみ、みなさん、元気で何より。」


文章も絵も模範的に素晴らしい絵本ですが、私が何より気に入っているのは、冷静なようでちっとも冷静ではない、子ども達の見方のミス・クラベルです。子ども達は、絵本の主人公に自分を重ねて物語の中に入り込みます。だから、読み聞かせには、主人公が大活躍するハッピーエンドな作品が推奨されるのですが、大人だって、作品の中の誰かが自分とダブって見えてしまうことがありますよね?


であるならば、ミス・クラベルは、私の理想の姿という事になりましょうか?たくさんの子ども達を平等に扱い、平等に愛するというのは至難の業ではありますが、せめて娘達が連れてきた友人達には、最大限の敬意を払って接してあげたいと思う今日この頃です。