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むかし日記

僕の古い日記です。

3つめに受けた大学は,1次試験である筆記試験と2次試験である口頭試問まで2週間あった。
2次試験は,日帰りが可能であったため,朝早く試験会場に向かった。
口頭試問の待合室には,明石の学校が通信と電子で2名,久留米の学校が電気と建築で2名,鹿児島の学校が機械で1名,和歌山の学校が応用物理で1名,大阪の学校が材料で1名,神戸の学校が材料で1名と合計8名の男の受験生がいた。
大阪と神戸の学校の2人が,第1志望の電気工学科には受からなかったと言っていた。

面接室に入ると,10人ほどの教授とおぼしき面接官がいた。
面接を受ける側は,着席せず,発表者のように机にマイクが備えられている前に立った。
口頭試問ということで,受験する学科の学問的内容が尋ねられるとか身構えていた。
しかし,質問内容はいたって普通であった。
面接官から志望動機を尋ねられ,
「量子力学の理論の勉強をしたいためです」
と答えた。すると,
「量子力学以外の分野で興味があるものは?」
と聞かれた。
「いまは,量子力学の理論を勉強すること以外あまり考えていません」
と答えた。
大学院への進学希望を尋ねられ,
「進学したいです」
と答えた。

受験者8名の面接が終わると,全員解散となった。
鹿児島から来ていた機械工学科のヤツは,1次試験のときに僕の真横に座っていた男だった。
隣のヤツがシャーペンを右手の親指の付け根の上で回す音が,うるさくて,よく覚えていたのだ。
そのことを彼に告げると,
「ああ,それオレだ。すまん,すまん」
と認めた。

2次試験の合格発表は,夏休みが終わって,2学期が始まる頃だった。
学校に戻ると,ムラタが吹田の大学に受かったそうだと大阪の連中が騒いでいた。
ドイという助手が,自分の母校である吹田の大学に電話で問い合わせて合格者の名前を聞いたという話だった。
僕は2次試験の面接会場にムラタがいないかったこと,つまり1次試験で不合格であったことを知っていた。

しかし,大阪の連中と断絶していた僕はそのことについてあえて何も言わなかった。

僕らの寮の郵便物は,寮の事務室の自分の学年の学科のロッカーに入れてくれることになっていた。
合格発表の日の翌日,昼休みにロッカーを見に行ったが,僕への郵便物がなかった。
僕が寮の事務室を立ち去ろうとするとき,事務の栄養士をしているお姉さんに呼び止められた。
「大学から郵便物が来てますよ」
お姉さんがいる事務室に入って,郵便物を見ると分厚いA4の封筒があった。

僕はお姉さんからハサミを借りて,封筒を開封した。
取り出した封書の中身を見ると,入学金免除や授業料免除,バイクや車の駐車場の申請などの書類が大量に入っていた。
 

「合否の発表の瞬間を見るなんてものすごい,ドキドキしたよ」
とお姉さんが言っていたことを憶えている。

この日をもって,僕の大学編入の受験はすべて終わった。
 

 

 




 


僕の高校は5年制の学校であった。
ほとんどの人が就職するが,一部,進学する人もいる。
その場合,大学3年生に編入学することになる。

これまで受験した2校の学科は,いずれも高校と同じ化学系の学科であった。
実は,僕は化学が好きではなかった。
というのも,有機化学の仕事をしている人の半数がガンで亡くなると聞いていたからだ。
有機合成の実験でよく使うエーテル,アセトン,シクロヘキサンなどが発がん性物質と言われていた。
がんは抗がん剤の副作用がひどく,痛い思いをすると聞かされていたので,絶対無理と考えていた。
しかも,5年生の卒業研究の研究室は有機合成化学が専門であり,毎日,実験の日々であったからユウツなことこの上なかった。
4年生で習っていた量子化学という授業だけは,少し興味を引いた。
量子化学とは,量子力学の化学版のようなもので,化学反応を物理の法則を使って,数値計算で予測しようという学問である。

数学が得意だった僕は,おのずと量子化学寄りになっていた。
量子化学が,量子力学の化学版ということなので,本流の量子力学を勉強できる学科,物理学科に行きたいと考えた。
物理学科は普通,理学部に属しており,僕が編入試験を受験している工学部にはない学科である。
そこで,全国の主要な大学の理学部に編入試験をやっていないかハガキで問い合わせた。
ハガキだと電話と違って,お金がかからないからである。
その結果,東京と大阪の2校の大学から封書で返事が来た。
東京の大学の手紙には,理学部では編入試験をやっていないが,工学部でやっているようなので,そちらを受験し,大学院で理学研究科を目指してはどうかと書かれていた。
大阪の大学の手紙には,理学部では編入試験をやっていないが,工学部に応用物理学科という学科があるので,そちらを受験してはどうかと書かれていた。
高校の図書室で,全国大学職員録なる本を見て,応用物理学科を探した。
札幌,仙台,名古屋,吹田,福岡の大学にその学科名があった。
教員の専門分野を見てみると,ほとんどが半導体や分光学などの実験系が専門の先生ばかりであった。
ところが,吹田の大学には,専門が”量子力学,物性理論”と書かれた教授が一人いた。
そういうわけで,本命をその大学に決めた。

受験する大学の1次試験の試験科目が数学,物理,化学,英語,ドイツ語の5科目で,2次試験が口頭試問と書かれていた。
ドイツ語は辞書の持ち込み可であった。
僕のいっていた高校では2年生から4年生までドイツ語があり,ドイツ語にも自信があったのでラッキーだと思った。
試験科目に専門科目がなかったためか,第1希望から第3希望まで志望学科を書くことができた。

僕は,第1希望を応用物理学科,第2希望を応用化学科にした。

同じ頃,武蔵小金井にある工科大学をいっしょに受験したムラタも同じの大学の応用化学科を受験するということを聞いた。
その頃,ムラタは助手のドイという人と懇意にしていた。

ドイという人は,僕らの先輩にあたり,編入試験で武蔵小金井にある工科大学に編入し,その後,吹田の大学院に進学し,僕らの高校に教員として来ていた。
おそらくムラタはドイという人に影響を受けて受験を決めたのだろう。
僕はドイという助手については,太った浅黒いヤツという印象くらいしかなかった。

宇部,武蔵小金井と宿もとらずに受験会場に向かったが,さすがに吹田はホテルらしきものがなかったので,梅田のホテルを予約して1泊することにした。
ホテルの1階が普通のレストランになっていて,レストランの店内を通り抜けてフロントに入っていくような一風変わったホテルであった。
翌朝,阪急電車で試験会場に向かった。
この電車の色が,軍用列車のような色をしていて少し驚いた。
しかも降りる駅に近づいてくると,まるで囚人が入っているような番号が割り振られたビル群が現れた。
いまから思えば,そのビル群は府営の住宅だったのだろう。

受験会場は,これまで受験した大学の教室と違って広く,4人掛けの長机の右と左の端に1人ずつ座った配置であった。
これまでの大学は専門科目があったため,何となく自分と同じ学科を受験する人がわかったが,今回は全員が同じ試験科目なので,ランダムに配置されているようであった。
試験内容は,これまでの大学より難しく感じた。

得意な数学でさえ,最後まで解けない問題が1問あった。
ムラタも来ていた思うが,出会うことがなかった。

受験から2週間が過ぎた頃,大学から小さく薄っぺらい封書が届いた。
封筒を開けると,”応用物理学科”の部分だけが,ハンコで押されたA4の紙が1枚入っていた。
僕はそのA4の紙を何度も見つめた。
2次試験の日まで,まだ2週間もあった。
 

 

 

僕の高校は5年制の学校であった。
ほとんどの人が就職するが,一部,進学する人もいる。
その場合,大学3年生に編入学することになる。

次の受験は東京都の武蔵小金井にある工科大学であった。
この大学は多くの編入者を受け入れることで有名な大学である。

僕の高校のクラスの二人だけいた女子の一人が,この工科大学の推薦入試を受験した。
彼女はクラスのテストの総合得点が,たいがい,1番か2番であったため,推薦入試の受験資格を得ていた。
彼女は牛乳瓶の底のような分厚いメガネをした見た目は大人しい女子であったが,実はカンニング魔であった。
そのやり口が,テスト前に机に書き込みをするというかなり古典的な手法であった。
ほとんどの同級生にカンニングがばれているのに,必死に書き込みをしている彼女を見ると哀れであった。
でも,そうやって推薦入試の資格を取ったのだから,それはそれで立派なのかもしれない。
僕は最初から,推薦入試で入れる大学など最初から度外視だった。

東京の大学なので,宿泊先を決めないといけなかったが,先の山口の受験のこともあり,今回も宿泊先を決めずに前日に受験会場に向かった。
夏場であったたので,最悪,公園のベンチで夜を過ごそうと思っていた。

武蔵小金井の駅は,宇部の駅とは違い,駅周辺にホテルは全くなかった。
それで,大学の教務係を訪ねた。
教務係のお姉さんに,受験に来た者だが,この辺で泊まれる所がないか尋ねた。
すると,
「この辺は,ホテルがなく,数駅行ったところにあるけど・・・どれくらいの予算を考えているの?」
と聞かれた。
僕は,
「できれば1泊5千円以内くらいで・・・」
と答えると,なかなかその値段ではホテルはないと言われた。
「先輩とか知り合いはいないの?」
と聞かれたので,
「先輩はいると思いますがが,よくはわかりません」
と答えた。
しばらくして,彼女は上司らしき人と相談し始め,電話をかけた。
そして,
「いま,あなたの先輩に電話して,泊めてもらえるように頼んだから,もう少しここで待っていて」
と言われた。
しばらくすると,少しやせて大人しい男性が現れた。
高校の先輩は,3年前にこの大学に編入しており,いまは大学院に進学して,近くに下宿している人だった。

初対面の人に悪いなとは思いつつ,先輩の下宿に2泊させてもらうことになった。
下宿にはお風呂がなく,先輩が大学院の研究室に行っている間に,彼の風呂桶を持って銭湯に行った。
風呂から帰って,下宿で待っていると彼が帰ってきた。
先輩が僕に1枚の紙を差し出した。
「これ,教授の部屋にあった試験問題,1問だけだけど参考に見て置いたら」
と言われた。
僕はその問題を見て,出題内容に関する教科書を彼から借りて眺めた。

試験は,数学,物理,化学,専門科目の4科目だった。

僕の受験する応用分子化学科の受験生はどれくらいなのか,わからなかった。
物理で,抵抗とコンデンサで作られたRC回路の微分方程式を解く問題で,初期条件がないことに気づいた。
僕は試験中に手を挙げ,
「あの,この問題,初期条件がないと思うんですけど・・・この手の問題は,たいがいQ(0)=Q0とI(0)=0という初期条件で解く問題が多いですが,それでいいですか?」
と質問した。
試験官は僕の指摘に大慌てで,出題者に問いあわせに行った。
戻ってきた試験官は,僕の言う初期条件が抜けていること,僕の言った初期条件で解くことを全員に告げた。
試験が終わると,同じ高校から受験に来ていたムラタと会った。
ムラタは成績がよく,社交的な男で,例のカンニング女子と1番を取り合ってた。
ムラタは関西から来ていた他校の生徒と仲良くなったらしく,いっしょに晩御飯を食べに行かないかと誘われた。
結局,4人でイトーヨーカドーのレストランで晩ご飯を食べた。
何を話したか記憶にないが,おそらく試験問題のことを話したのだと思う。
その後,僕はまた高校の先輩の下宿に泊めさせてもらった。
東京の深夜番組は関西と全く違って,華やかでおもしろい番組が多かった。
漠然と,東京っていいなと感じた。

翌朝,高校の先輩に礼を言って,面接試験に向かった。
面接試験は,教授らしき面接官が4人くらいいた。
面接官が,
「大学に入ったら何を勉強したいか?」
と尋ねた。僕は,
「量子化学を勉強したいです」
と答えた。
「大学院への進学は?」
と言われたので,間髪入れず,
「進学したいです」
と答えた。
次に,僕は予想だにしなかった質問をたたみかけられた。
「進学するにあたって,ご両親のサポートはもらえますか?」
「東京は物価が高いが,大丈夫ですか?」
「1か月の生活費とかどれくらいかご存じですか?」
おそらく,僕がホテルも取らずに教務係に泣きついてきたことが,面接官の教授連中に知れ渡っていたのだろう。
おまけに,身なりをも,よれよれのTシャツでみすぼらしかった。
「僕は,何とかいけると思います」
という言葉を繰り返すしかなかった。
ただ,こういう質問をされるということは,試験の点数では受かっているのだなと内心思った。

1週間後,ちょうど実家に帰省していた僕のもとに電話が鳴った。
下宿に泊めさせてもらった先輩からであった。
彼はわざわざ教務係の合格発表の掲示板を見てに行ってくれて,結果を連絡してくれたのだった。
数日後,大学からA4サイズのぶ厚い封筒が届いた。

高校に戻ると,一緒に受験したムラタが合格したということで,大阪の連中が騒いでいた。

 

 

僕の高校は5年制の学校であった。
ほとんどの人が就職するが,一部,進学する人もいる。
その場合,大学3年生に編入学することになる。

僕は就職したくないこともあり,漠然と進学を希望していた。
就職は学校推薦があるため,不採用ということはなく,希望会社が決定すれば,すんなり就職が決まる。
他方,進学は一部,推薦があるものの試験で受験する場合は,受かるかどうかわからなかった。
普通の大学進学でも,試験で合否が決まるため同じじゃないかと思うかもしれないが,編入試験の場合の募集人員は1学科で若干名である。
若干名なので,合格者ゼロもあるのだ。

僕は数学で高得点を出す自信があったため,数学が試験科目にある大学を選ぼうと決めていた。
僕が探し出した大学は,山口県の宇部にある大学だった。
この大学は,数学,物理,化学,専門科目が試験科目だった。

山口県は行ったことがなく,電車に疎かった僕は,鉄道に詳しいジョーシマに乗るべき電車の時刻表と値段を調べてもらった。
どうやら,新幹線で新大阪から小郡という駅に行き,ローカル電車に乗り換えて,宇部という駅まで行くとのことだった。
ジョーシマから,
「ホテルは自分で調べてくれ」
と言われたが調べる気になれず,ホテルを予約せずに宇部に向かった。

小郡から宇部に向かうローカル電車には,女子高生の一群が乗っていた。
女子と接することが全くなかったため,キャピキャピしている彼女らをずっと眺めていた。
車窓に目を移すと,地平線のかなたまで続く田んぼが広がっていた。

宇部に着くと,ホテルや旅館を探したが,それらしき建物を見つけることができなかった。
あせった僕は,バスの案内所のお姉さんに,大学受験でここに来たので,どこか泊るところがないか尋ねた。
お姉さんは,僕がホテルを予約せずに受験に来たことに驚き,探してきてあげると言って,案内所から飛び出して行った。
10分ほど待つと,お姉さんはホテル名と値段を書いた紙を持って帰ってきた。
僕は一番安い1泊3500円の旅館に2泊することにした。

翌日,バスで大学に向かった。

中学校のような教室に,同じ学科の受験生が縦に一列に座らされたため,受験者数がわかった。
僕が受験する物質化学の受験者は5名であった。
数学と英語は結構,簡単であったが,専門科目はあまり回答できなかった。
翌々日は,面接だ。
面接の控室で待っていると,山口県内の高校の人が話しかけてきた。
彼の話によると,大学の教授が,自分の高校に非常勤で教えに来ているので,出題されるところがあらかじめ知っていたということだ。それで,自分は多分,受かっていると思うと自信ありそうな口調だった。

僕の面接の番がきた。
おそらく教授と思われる面接官が5名ほどいた。
面接官の一人が,尋ねた。
「昨日の試験はどうでしたか?」
僕は,
「よくわからない問題がありました」
と答えた。
別の面接官が,質問した面接官に,
「数学,英語と専門科目の配点はちょっと違うのかな?配点はどうなっています?」
と尋ねた。面接官は,
「すべて同じ配点ですよ」
と答えた。別の面接官が,
「じゃあ,専門科目は,まだ習っていないところが出たのかな?」
とつぶやきとも質問とも取れるような口調で話した。
僕は,
「ちょっと,知らない内容でした」
ととっさにウソぶいた。
本当は,そんなことはなかった。
工業的な専門科目が嫌いだった僕は,授業中もほぼ寝ていて,試験勉強も全くしなかっただけなのだ。
別の面接官が,
「じゃあ,来てから,がんばってもらうということかな」
と言って少し笑った。
僕は内心,”これは受かったな”と感じた。

帰りに小郡の駅でせんべいのお土産を買った。
実は,同級生のオオボから忠告されていた。
「お前,最初の受験やろ?ツマやんにお土産でも買って行って,万が一の時にお願いしますって頼んどいた方がええぞっ」
ツマやんというのは,あだ名であり,ツマキという助教授は実は日蓮宗のお坊さんでもあった。
ツマやんのお寺には,会社の社長が結構,神頼みならぬ仏頼みをしにくるようで,いざとなったら,そのコネで就職を世話できるという噂が広まっていたのだ。

僕は高校に帰ると,翌日,ツマやんに会いに行った。
「あの~ちょっと山口に受験に行ってきたので,これ,よろしかったら…」
と言って,ツマやんにせんべいを渡した。
ツマやんは,僕の顔を覗き込み,
「わかった。あとは何も心配せんでもええから,受験がんばれよ」
と言って,せんべいを受け取った。

1週間後,大学からA4サイズの分厚い封筒が送られて来た。

 

 

高校の頃,寮に入っていた。

帰宅部だった僕は,よくラジオでリクエスト番組を聞いていた。

NHK-FMの夕べのひとときもそんな番組の一つだった。

 

秋頃に,夕べのひとときの公開収録があった。
往復はがきで申し込み,当選すると参加できるというものだった。
僕は,勉強の忙しさもあり,うっかりはがきを出し忘れていた。
すると,隣の部屋のサカが,
「公開放送に当たったんやけど,日曜日行けへんか?」
と誘ってくれた。
彼もリクエスト番組を聞いていて,僕のリクエストが放送されていたのを知っていたため,気をまわしてくれたんだと思った。

日曜日に二人で電車に乗って,1時間ほどかけて収録会場である体育館に向かった。
会場の入場は整理番号順で,自由席だった。

僕はサカと並んで着席すると,DJのナンデちゃんを探した。
舞台の上でひときわきらびやかな衣装の女の子を見つけた。
あれがナンデちゃんかな?と思った。

公開収録の番組が始まって,その女の子が自己紹介をした。

やはり彼女がナンデちゃんであった。

DJの声から想像する女の子とは違って,少し大人びた女性がそこにいた。
公開収録には生稲晃子がゲストとして出演していたが,僕はそちらには目もくれず,ナンデちゃんを見つめていた。
クイズ大会,ビンゴゲーム,生稲晃子ミニライブと番組は進み,公開収録が終了した。

番組の収録が終わると,ナンデちゃんの周りには彼女の学校の友人らしい女の子や,リュックサックをさげた,いかにもリスナーらしき男が10人くらい集まっていた。
僕がナンデちゃんを見つめていると,サカが,
「話にいくか?ちょっとぐらいやったら待っといちゃるけど」
と言った。
「いや,このまま帰るよ」
と小さく答えた。
僕は短パンに洗濯したしわくちゃのTシャツ姿であった。
そんな恰好で,彼女の前に行く気にはなれなかった。
つまりは気後れしてしまったのだ。
彼女の姿を見れただけでよかったんだと自分に言い聞かせた。

僕らを乗せたローカル列車は,暗闇の中を走り抜けていった。
 

 

 

高校の頃,寮に入っていた。
 

実は3年生の頃に老朽化が激しかった寮の第4棟と第5棟がつぶされて,全室一人部屋の寮として新築された。

僕らは運がよく,4年生に新築の寮の第4棟に入ることになった。

これまでの4人部屋や2人部屋ではなく,一人部屋になった。

なんと小さなベランダもあり,そこから太平洋に沈む夕陽を見ることできた。
僕はクラブ活動はやっておらず,授業が終わるとすぐさま寮の部屋に帰っていた。
夕方,ほとんど人のいないがらんとした薄暗い食堂で,一人,早めの晩御飯を食べた。
その後,持ってきていたバスタオル,下着,風呂桶を持って大浴場へ向かう。
人のいないお風呂は静まり返っていて,天井近くにある窓から明るい日差しが浴槽に注いでいた。
お風呂を上がると,部屋に戻り,ベランダからの夕陽を眺めながらラジオを聞いた。


ちょうど,夕方,6時からNHK-FMで「夕べのひととき」というリクエスト番組が放送されていた。
この番組は少し変わっていて,DJは大学や短大に通っている女の子が1年交代で担当していた。
4月になると,新しいDJに変わる。
変わりたての新人のDJは,何となくたどたどしく,ぎこちない語りであり,やっぱり,前の人の方がいいなと思ってしまう。
それでも,2か月ほど経つと,結構,耳になじんでくる。


彼女はミナミデヤエコという名前で,ミナミノヨウコをナンノと呼ぶようにニックネームはナンデだと言っていた。
僕は自分と同い年のナンデちゃんにリクエストハガキを書いてみることにした。
リクエスト曲は,当時よく聴いていたライブLPの「ギャクリュウ」にした。

しばらくして,いつものように「夕べのひととき」を聞いていると,番組の最後に僕のラジオネームと弾き語りの「ギャクリュウ」がかかった。
自分のラジオネームとリクエスト曲がラジオから流れたことにすごく興奮した。
残念ながら,お便りは読んでもらえなかったが。

それで,一気に火が付いてナンデちゃんの番組にリクエストハガキをせっせと書くようになった。
しかし,毎回,リクエストハガキが採用されるということはなかった。

ある時,僕のリクエスト曲「ナガイノボリザカ」がかかった。
リクエストに添えた,
"僕はこの曲のエンディングのメロディーの部分が特に好きです"
というコメントも読まれた。
僕のコメントに対して,
「私もこの曲のエンディングが昔から好きですよ。昔のナガブチツヨシの曲いいですよね。」
というナンデちゃんの言葉があった。
僕はその言葉にいたく感激した。
この女の子と気が合いそうだ,仲良くなれそうだ,と声だけのナンデちゃんに少し恋をした気分になった。

 

 

 

僕は高校時代,寮に入っていた。

学校が終わると,ほとんどの生徒はクラブ活動に参加していた。

帰宅部だった僕は,部屋に戻ると音楽を聴いて,寮の夕食の開始時間まで暇をつぶした。

4時になると,一番乗りで寮の食堂に入り晩御飯だ。

あまりおいしいご飯でなかったことを憶えている。

カレーや丼もののときは,おかわりOKであった。

 

ちなみに寮の食費は1日750円で,朝が150円,昼が250円,夜が350円と割り振られていた。

3日前までに欠食を申請すると,月末に食べなかった分のお金が返金された。

寮の部屋代は,光熱費込みで1日10円であった。

無料というわけにはいかないから,最低限の値段をつけているようであった。

 

僕は夕食を済ませると,たいがい図書室に行った。

図書室はすごく広く,ソファもあり,人がほとんどいなかった。

僕はソファに寝っ転がって,晩御飯後のひと眠りをするのが日課だった。

ひと眠りから目覚めると,図書室の本を見て回った。

小説もあったが,ほとんどが大学の数学や物理の教科書だった。

小説は「家族ゲーム」や星新一のSFものを読んだ。

元来,本が嫌いな僕は,読んでいるとすぐに眠くなり,またソファで眠り込んでしまうことが多かった。

 

あるとき図書室にいると,とある棚の一番下に図書ではない資料の束を見つけた。

何だろう?と思って見てみると,

過去の就職や進学の記録が自筆で書かれたレポートであった。

どうやら,就職や進学した先輩たちが,先生に言われて後輩のために書き残したものを資料としてまとめられたものだった。

就職の場合の主な内容は,面接での質問内容,会社の寮の間取り,寮費,具体的な仕事内容などが書かれていた。

進学の場合は試験問題が書かれており,見たところ,千葉,三重,東京の大学,長岡の工科大学,豊橋の工科の大学,東京の工科大学の試験問題があった。

ほとんどの大学の試験科目は,専門科目と英語だけであった。

関西の大学が全くないことに少し驚いた。

 

東京の工科大学は,物理,化学,専門,英語と4科目あり,東京の大学は,数学,物理,化学,専門,英語,ドイツ語と6科目もあった。

僕が一番得意な数学の問題を見ると,やはり,東京の大学の試験問題は他校に比べて,難解であることがわかった。

東京の大学の資料には,試験問題よりも重要なことが書かれていた。

それは,他校のように3年生に編入学できるわけではなく,2年生に編入学することになるということだった。

つまりは,東京の大学に合格したとしても,1年留年した扱いにされることを意味していた。

その事実が,僕に東京の大学への興味を失せさせた。

 

試験問題を見ることで,おぼろげだった進学のことがより現実味を帯びてきた。

 

 

 

僕の高校は英語が3種類の授業があった。

1つはリーダーと呼ばれる文部省検定の教科書を使った授業で,1つは文法だけの授業,最後がエルエルといって,カセットテープが聞けるエルエル教室でおこなわれるヒアリングの授業だった。

文法を担当している先生は,京都の大学を出たばかりの27歳の若い男のシモタオ先生だった。

シモタオ先生はいつも薄黄色か薄ピンクのシャツを着て,おしゃれなスーツを着こなしていた。

メガネをかけて,色白であり,日本人離れした顔立ちであった。

 

高校の若い教師は,当番制で寮の宿直をやらされていた。

夜8時くらいになると,宿直の先生が寮の部屋を見回る規則であった。

その時間になると,将棋やコンピュータ部などの文科系のクラブに入っている者も寮の部屋に戻ってきていた。

僕はクラブに入っていなかったので,勉強部屋で数学の問題を解いていた。

 

「お~い!なにやってるんだ」

とシモタオ先生が勉強部屋のドアを開けた。

「勉強なんて明日でいいから,こっちに来い!」

と言われた。

寝室にいくと,シモタオ先生が一番窓際の畳ベッドにあぐらをかいて座って,周りに数人の生徒が囲んでいた。

「これで,パンとジュースを買ってこい」

と言って,シモタオ先生は2千円を出してくれて,数人が買い出しに行った。

そこから,シモタオ先生の学生時代のバカ話などを聞いて,僕らは1時間ほど談笑した。

「それじゃ,そろそろ寮の管理棟に戻らないといけねえから」

と言って,シモタオ先生は立ち去って行った。

 

僕は何となく,シモタオ先生に気にいられているようであった。

というのも,シモタオ先生がプロレスや相撲が好きで,当時,格闘技に凝っていた僕は,梶原一騎の漫画で仕入れた知識をシモタオ先生に話していたからだ。

あるとき,市内の体育館に全日本プロレスが来た。

僕はテスト期間中であり,プロレスに行くかどうか迷っていると言うと,シモタオ先生から

「バカ野郎,テストはダメだったらまた来年受ければいいじゃねえか。」

「馬場のプロレスは来年は来ねえぞ」

と諭された。

「たしかに・・・」

とプロレスを見に行くことを決めた。

シモタオ先生も,当日は教員の連絡会があったが,その会を抜け出すとのことだった。

シモタオ先生の車で会場に向かうのであるが,駐車場が連絡会の会議室からまる見えであるため,二人で腰をかがめて,見つからないように先生の車に乗り込んだ。

「もっと,もっと腰を低く,低く。見つかったらやべえからな」

プロレスは,テレビ中継がないためか,かなり薄暗かった。

ただ,馬場が登場する6人タッグの試合だけは明るいライトが照らされていた。

僕は初めて見るプロレスラーの大きさに驚いた。

 

7月のある土曜日に寮で一人でいると,また宿直ということでシモタオ先生が午前中,寮に遊びにきた。

シモタオ先生が,

「白浜に行ったことがあるか?」

と言ったので,

「いえ,ないです」

と僕らは答えた。すると,

「これから白浜に泳ぎに行くか?この前,給料も入ったしな」

と,僕ともう一人,オオボは急遽,シモタオ先生の車で白浜まで行くことになった。

白浜は寮からかなり遠かった。

海をのぞむ公共の露天風呂があり,僕らは入ることにした。

しかし,公共の場所なので,かなりお風呂は汚く,たこ焼きの舟も浮いていた。

僕らは早々に湯船からあがり,海水浴場に向かった。

海水浴場に着くと,水着の女性がたくさんいた。

そこに,妙な男がいることに僕らは気が付いた。

彼は海水浴場でトレンチコートを着て,カメラを女の子に向けていた。

あきらかに無断で女性の写真を撮っているようであった。

顔をみると,なんと,同じ工業化学科の同級生のゴトウであった。

オオボが,

「ゴトウ!おまえ,こんなところで何しとんじゃ!」

と叫んだ。

驚いたゴトウは逃げるようにその場から立ち去った。

僕らは海で泳ぐでもなく,水着の女性を見て,陽が暮れる前に帰ることにした。

帰りにシモタオ先生が,

「ここでも寄っていくか」

と言って,ファミレスに車を止めた。

そして,給料が入ったばかりということでステーキをご馳走してくれた。

僕らは一気にそれを平らげた。

そして,寮まで送ってもらった。

 

シモタオ先生の官舎に泊めてもらったこともあった。

天井に蛍光の紙で,星座を作っていたのをよく覚えている。

真っ暗な中,布団に入りながら,星空を眺めるといった趣向だ。

 

シモタオ先生とは数えきれないくらい思い出があった。

先生というより,少し上の兄貴のような存在だった。

 

シモタオ先生は僕らが3年生のときに学校を去って行った。

残念ながら僕はシモタオ先生に別れのあいさつをすることができなかった。

数年前,インターネットでシモタオ先生の名前を検索すると,群馬県のある学校にいることがわかった。

いまも,あの頃と変わらないままであった。

 

 

 

僕は高校時代,ずっと寮に入っていた。

1年生は4人部屋であった。

勉強部屋では,部屋の四隅に勉強机があり,4人がお尻を向けあって勉強していた。

僕は,大阪の貝塚出身のゴトウ,湯浅出身のクワタ,箕島出身のサカと同じ部屋だった。

僕以外のみんなはラジカセを勉強机の上において,イヤホンで音楽を聴きながら勉強していた。

 

恥ずかしい話,僕は音楽と言えば,音楽番組の「ザ・ベストテン」を見るくらいで,そっち方面はとんと疎かった。

ゴトウが聴いていたのはYMOであった。

YMOはいわゆるコンピュータを使ったテクノポップであり,ゼビウスというゲームの音楽なんかも作っていた。

クワタが聴いていたのはアルフィーだった。

アルフィーはロックバンドで,当時,「ザ・ベストテン」にもよく出ていたので知っていた。

サカが聴いていたのはオフコースだった。

オフコースはテレビに出演しないため,全く知らなかった。

僕は彼らと部屋で二人だけのときは,イヤホンではなく,スピーカからそれらの音楽を聞かせてもらった。

 

いろんな曲を聴かせてもらっているうちに,僕もラジカセが欲しくなった。

サカが,

「いまはウォークマンでもオートリバースでカセットを聞けるので,買うんだったらウォークマンがええよ」

「オレのは東芝のウォークマンなので,カセットのところに,このカードを入れてラジオを聞くんやけど,いまだと,カード入れんでもラジオ聞けるやつある」

と教えてくれた。

サカの言葉で一番,印象的だったのが,

「オレ,乗り物酔いがひどいんやけど,ウォークマンを聞いていたら,なぜか酔わないんや」

という言葉であった。

僕も乗り物酔いがひどいため,実家に帰るのをためらっていた。

 

それで,じいちゃんにお金を出してもらって,日立のパディスコというウォークマンを大阪の日本橋のお店で買ってもらった。

オートリバースはもちろんのこと,ラジオもスイッチを入れるだけでAMとFMを聞くことができた。

 

寮にウォークマンを持っていくと,隣の部屋のクスミが,ウォークマンを買ったお祝いにLPをダビングしてくれることになった。

僕は急いで生協に46分のTDKのカセットテープを買いに行った。

ダビングしてもらったのは,ヤクシマルヒロコの「ユメジュウワ」だった。

僕は初めて,ウォークマンで音楽を聴くことに感動した。

というか,都会的でハイカラな感じがして,うれしさでいっぱいだった。

実家に帰る道中の3時間のバスと電車では,ウォークマンで「ユメジュウワ」を聴いた。

サカが言ったように,全く乗り物酔いがしなくなった。

 

3時間の道中では,「ユメジュウワ」を3回くらい聞くことになった。

それくらい聴いていると,何となく心待ちにする曲が出てくるもんである。

それが,何の曲なのかは曲名を書いていなかったためわからなかった。

後日,クスミから「クリスマス アベニュー」と「バンブー ボート」であることを教えてもらった。

時間は少しスキップして,大学の頃,中古レコード屋をよくうろうろしていた。

あるとき,中古レコード屋のCDコーナーに「ユメジュウワ」を見つけた。

ずっとTDKのカセットテープで聴いていたため,CDジャケットの写真を初めて見た。

赤と黒が印象的なデザインだった。

僕は懐かしさもあり,そのCDを購入した。

CDに挿入されている歌詞カードを見て,驚いた。

僕が好きな2曲だけが,そのアルバムの中でキスギタカオの曲だったのだ。

いい曲って,知られてなくても聴けばわかるんだということを知った。

 

アルバムはレコード以外にもカセットテープでも発売されていることを知った僕は,自分でカセットテープを買うことにした。

ゴトウが聴いていたYMOを買うことにした。買ったのは「アフター サービス」というアルバムだった。

そこにもお気に入りの曲があった。

「オンガク」と「カイコウ」という曲だった。

同じ頃の国語の授業で,邂逅という言葉が出てきて,驚いたことを憶えている。

 

次に買ったカセットテープは,当時流行っていたオザキユタカであった。

「ジュウナナサイ ノ チズ」と「カイキセン」の2本を買った。

「ダンスホール」,「シャリー」,「ソツギョウ」がいいなと思った。

のちに「ダンスホール」がオーディションの曲であり,代々木で弾き語りで歌われたラストソングであると知って非常に驚いた。

 

とにかく,テレビからは流れてこない若者に人気がある音楽をウォークマンで聴くということで,少しだけ大人になった気がした。

高校1年生の秋のことである。

 

 

 

 

 

 

僕は高校の寮に入った。

1,2年生は4人部屋で,学年が上がるにつれて部屋の人数が減っていくという部屋割りであった。

僕らの学校は,機械工学科,電気工学科,工業化学科,土木工学科と4学科があったから,1つの棟の各階を各学科で割り振られていた。

そして,半年に1回,階の入れ替えと部屋替えがあった。

1年生の最初は,姓のあいうえお順で部屋が割り当てられたが,次からはくじで部屋のメンバーを決め,承認印を押した名簿を寮の管理課に提出するという制度だった。

しかし,実態は好きな者同士が同じ部屋になるようにくじを書き換え,承認印を押すというねつ造がおこなわれていた。

 

クラスの半数が大阪から来ていた者であり,残りの半数の半分が県庁のある市内出身者で占められていた。

したがって,最大派閥が大阪出身者のグループであり,いつもどこかの部屋に集まってはダベっているという感じだった。

県庁のある市内出身者は,派閥を作ることはなく,どちらかというと大阪の派閥に身をゆだねる者が多かった。

 

僕はくじのねつ造のせいで,特に親しくもない相手とばかり相部屋になった。

したがって,部屋でいっしょにいても冷戦状態であった。

 

大阪の連中の大半が少林寺拳法部に所属していた。

少林寺拳法部では,先輩が過去のテスト問題を後輩に渡したり,就職などの情報を後輩に教えたりすることで統制を図っているようであった。

過去のテスト問題をいち早く入手した大阪の連中は,寮の自分たちのグループで共有することにより一体感を醸成していた。

 

僕はと言うと,中学の頃,家庭教師のスパルタ教育のおかげで,高校に入る頃には高校2年生の数学まで終えていた。

したがって,数学に関しては授業を聞かずとも,ほぼテストで満点を取っていた。

もちろん,大阪の連中なんかにへりくだって過去のテスト問題を見せてもらう必要などなかった。

そういうわけで,僕は大阪の連中と対立するようになった。

といっても,寮で大阪の連中が僕の悪口を言い合って発散するという程度であった。

よく聞こえてきた言葉は,

「あんな協調性がない者はどの会社も取らないって」

「会社は協調性が一番大事なんだから」

といったものであった。

しかし,大阪の下等動物を見下していた僕は気にも留めなかった。

 

土日ともなると,大阪や県庁所在地の市内出身の者は,寮にタクシーを呼びつけ,相乗りしてこぞって帰省していた。

僕は実家が寮から遠いこともあり,ほとんど帰省しなかった。

僕はいつもは人でごった返しているテレビ室で一人,テレビを眺めるか,数学の問題をひたすら解いて過ごした。

 

夕暮れ時のがらんとした寮の食堂で晩ご飯を食べていると,大阪グループの中で,たまたま帰省しなかった者が,話しかけてくることがあった。

いつもはあちらのグループにいるが,一人になると僕の方に寄ってくるのである。

1対1で話すと,当たり前だが僕の悪口を言うでもなく,勉強のことや将来のことについて聞いてきた。

僕は,

「どうなるかわかんないけど,進学するつもりだ」

「入試には協調性なんか関係ないからね」

と言った。

 

若干名だが,就職せずに大学に編入学をする者がいることを知っていた。

僕は親の期待するような一流企業に入る気など毛頭なく,何が何でも進学することを決めていた。

そこには,大企業への就職を希望する大阪グループのやつらに圧倒的な違いを見せつけてやると言う思いもあった。