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むかし日記

僕の古い日記です。

僕の高校は5年制の学校であった。
ほとんどの人が就職するが,一部,進学する人もいる。
その場合,大学3年生に編入学することになる。

次の受験は東京都の武蔵小金井にある工科大学であった。
この大学は多くの編入者を受け入れることで有名な大学である。

僕の高校のクラスの二人だけいた女子の一人が,この工科大学の推薦入試を受験した。
彼女はクラスのテストの総合得点が,たいがい,1番か2番であったため,推薦入試の受験資格を得ていた。
彼女は牛乳瓶の底のような分厚いメガネをした見た目は大人しい女子であったが,実はカンニング魔であった。
そのやり口が,テスト前に机に書き込みをするというかなり古典的な手法であった。
ほとんどの同級生にカンニングがばれているのに,必死に書き込みをしている彼女を見ると哀れであった。
でも,そうやって推薦入試の資格を取ったのだから,それはそれで立派なのかもしれない。
僕は最初から,推薦入試で入れる大学など最初から度外視だった。

東京の大学なので,宿泊先を決めないといけなかったが,先の山口の受験のこともあり,今回も宿泊先を決めずに前日に受験会場に向かった。
夏場であったたので,最悪,公園のベンチで夜を過ごそうと思っていた。

武蔵小金井の駅は,宇部の駅とは違い,駅周辺にホテルは全くなかった。
それで,大学の教務係を訪ねた。
教務係のお姉さんに,受験に来た者だが,この辺で泊まれる所がないか尋ねた。
すると,
「この辺は,ホテルがなく,数駅行ったところにあるけど・・・どれくらいの予算を考えているの?」
と聞かれた。
僕は,
「できれば1泊5千円以内くらいで・・・」
と答えると,なかなかその値段ではホテルはないと言われた。
「先輩とか知り合いはいないの?」
と聞かれたので,
「先輩はいると思いますがが,よくはわかりません」
と答えた。
しばらくして,彼女は上司らしき人と相談し始め,電話をかけた。
そして,
「いま,あなたの先輩に電話して,泊めてもらえるように頼んだから,もう少しここで待っていて」
と言われた。
しばらくすると,少しやせて大人しい男性が現れた。
高校の先輩は,3年前にこの大学に編入しており,いまは大学院に進学して,近くに下宿している人だった。

初対面の人に悪いなとは思いつつ,先輩の下宿に2泊させてもらうことになった。
下宿にはお風呂がなく,先輩が大学院の研究室に行っている間に,彼の風呂桶を持って銭湯に行った。
風呂から帰って,下宿で待っていると彼が帰ってきた。
先輩が僕に1枚の紙を差し出した。
「これ,教授の部屋にあった試験問題,1問だけだけど参考に見て置いたら」
と言われた。
僕はその問題を見て,出題内容に関する教科書を彼から借りて眺めた。

試験は,数学,物理,化学,専門科目の4科目だった。

僕の受験する応用分子化学科の受験生はどれくらいなのか,わからなかった。
物理で,抵抗とコンデンサで作られたRC回路の微分方程式を解く問題で,初期条件がないことに気づいた。
僕は試験中に手を挙げ,
「あの,この問題,初期条件がないと思うんですけど・・・この手の問題は,たいがいQ(0)=Q0とI(0)=0という初期条件で解く問題が多いですが,それでいいですか?」
と質問した。
試験官は僕の指摘に大慌てで,出題者に問いあわせに行った。
戻ってきた試験官は,僕の言う初期条件が抜けていること,僕の言った初期条件で解くことを全員に告げた。
試験が終わると,同じ高校から受験に来ていたムラタと会った。
ムラタは成績がよく,社交的な男で,例のカンニング女子と1番を取り合ってた。
ムラタは関西から来ていた他校の生徒と仲良くなったらしく,いっしょに晩御飯を食べに行かないかと誘われた。
結局,4人でイトーヨーカドーのレストランで晩ご飯を食べた。
何を話したか記憶にないが,おそらく試験問題のことを話したのだと思う。
その後,僕はまた高校の先輩の下宿に泊めさせてもらった。
東京の深夜番組は関西と全く違って,華やかでおもしろい番組が多かった。
漠然と,東京っていいなと感じた。

翌朝,高校の先輩に礼を言って,面接試験に向かった。
面接試験は,教授らしき面接官が4人くらいいた。
面接官が,
「大学に入ったら何を勉強したいか?」
と尋ねた。僕は,
「量子化学を勉強したいです」
と答えた。
「大学院への進学は?」
と言われたので,間髪入れず,
「進学したいです」
と答えた。
次に,僕は予想だにしなかった質問をたたみかけられた。
「進学するにあたって,ご両親のサポートはもらえますか?」
「東京は物価が高いが,大丈夫ですか?」
「1か月の生活費とかどれくらいかご存じですか?」
おそらく,僕がホテルも取らずに教務係に泣きついてきたことが,面接官の教授連中に知れ渡っていたのだろう。
おまけに,身なりをも,よれよれのTシャツでみすぼらしかった。
「僕は,何とかいけると思います」
という言葉を繰り返すしかなかった。
ただ,こういう質問をされるということは,試験の点数では受かっているのだなと内心思った。

1週間後,ちょうど実家に帰省していた僕のもとに電話が鳴った。
下宿に泊めさせてもらった先輩からであった。
彼はわざわざ教務係の合格発表の掲示板を見てに行ってくれて,結果を連絡してくれたのだった。
数日後,大学からA4サイズのぶ厚い封筒が届いた。

高校に戻ると,一緒に受験したムラタが合格したということで,大阪の連中が騒いでいた。

 

 

僕の高校は5年制の学校であった。
ほとんどの人が就職するが,一部,進学する人もいる。
その場合,大学3年生に編入学することになる。

僕は就職したくないこともあり,漠然と進学を希望していた。
就職は学校推薦があるため,不採用ということはなく,希望会社が決定すれば,すんなり就職が決まる。
他方,進学は一部,推薦があるものの試験で受験する場合は,受かるかどうかわからなかった。
普通の大学進学でも,試験で合否が決まるため同じじゃないかと思うかもしれないが,編入試験の場合の募集人員は1学科で若干名である。
若干名なので,合格者ゼロもあるのだ。

僕は数学で高得点を出す自信があったため,数学が試験科目にある大学を選ぼうと決めていた。
僕が探し出した大学は,山口県の宇部にある大学だった。
この大学は,数学,物理,化学,専門科目が試験科目だった。

山口県は行ったことがなく,電車に疎かった僕は,鉄道に詳しいジョーシマに乗るべき電車の時刻表と値段を調べてもらった。
どうやら,新幹線で新大阪から小郡という駅に行き,ローカル電車に乗り換えて,宇部という駅まで行くとのことだった。
ジョーシマから,
「ホテルは自分で調べてくれ」
と言われたが調べる気になれず,ホテルを予約せずに宇部に向かった。

小郡から宇部に向かうローカル電車には,女子高生の一群が乗っていた。
女子と接することが全くなかったため,キャピキャピしている彼女らをずっと眺めていた。
車窓に目を移すと,地平線のかなたまで続く田んぼが広がっていた。

宇部に着くと,ホテルや旅館を探したが,それらしき建物を見つけることができなかった。
あせった僕は,バスの案内所のお姉さんに,大学受験でここに来たので,どこか泊るところがないか尋ねた。
お姉さんは,僕がホテルを予約せずに受験に来たことに驚き,探してきてあげると言って,案内所から飛び出して行った。
10分ほど待つと,お姉さんはホテル名と値段を書いた紙を持って帰ってきた。
僕は一番安い1泊3500円の旅館に2泊することにした。

翌日,バスで大学に向かった。

中学校のような教室に,同じ学科の受験生が縦に一列に座らされたため,受験者数がわかった。
僕が受験する物質化学の受験者は5名であった。
数学と英語は結構,簡単であったが,専門科目はあまり回答できなかった。
翌々日は,面接だ。
面接の控室で待っていると,山口県内の高校の人が話しかけてきた。
彼の話によると,大学の教授が,自分の高校に非常勤で教えに来ているので,出題されるところがあらかじめ知っていたということだ。それで,自分は多分,受かっていると思うと自信ありそうな口調だった。

僕の面接の番がきた。
おそらく教授と思われる面接官が5名ほどいた。
面接官の一人が,尋ねた。
「昨日の試験はどうでしたか?」
僕は,
「よくわからない問題がありました」
と答えた。
別の面接官が,質問した面接官に,
「数学,英語と専門科目の配点はちょっと違うのかな?配点はどうなっています?」
と尋ねた。面接官は,
「すべて同じ配点ですよ」
と答えた。別の面接官が,
「じゃあ,専門科目は,まだ習っていないところが出たのかな?」
とつぶやきとも質問とも取れるような口調で話した。
僕は,
「ちょっと,知らない内容でした」
ととっさにウソぶいた。
本当は,そんなことはなかった。
工業的な専門科目が嫌いだった僕は,授業中もほぼ寝ていて,試験勉強も全くしなかっただけなのだ。
別の面接官が,
「じゃあ,来てから,がんばってもらうということかな」
と言って少し笑った。
僕は内心,”これは受かったな”と感じた。

帰りに小郡の駅でせんべいのお土産を買った。
実は,同級生のオオボから忠告されていた。
「お前,最初の受験やろ?ツマやんにお土産でも買って行って,万が一の時にお願いしますって頼んどいた方がええぞっ」
ツマやんというのは,あだ名であり,ツマキという助教授は実は日蓮宗のお坊さんでもあった。
ツマやんのお寺には,会社の社長が結構,神頼みならぬ仏頼みをしにくるようで,いざとなったら,そのコネで就職を世話できるという噂が広まっていたのだ。

僕は高校に帰ると,翌日,ツマやんに会いに行った。
「あの~ちょっと山口に受験に行ってきたので,これ,よろしかったら…」
と言って,ツマやんにせんべいを渡した。
ツマやんは,僕の顔を覗き込み,
「わかった。あとは何も心配せんでもええから,受験がんばれよ」
と言って,せんべいを受け取った。

1週間後,大学からA4サイズの分厚い封筒が送られて来た。

 

 

高校の頃,寮に入っていた。

帰宅部だった僕は,よくラジオでリクエスト番組を聞いていた。

NHK-FMの夕べのひとときもそんな番組の一つだった。

 

秋頃に,夕べのひとときの公開収録があった。
往復はがきで申し込み,当選すると参加できるというものだった。
僕は,勉強の忙しさもあり,うっかりはがきを出し忘れていた。
すると,隣の部屋のサカが,
「公開放送に当たったんやけど,日曜日行けへんか?」
と誘ってくれた。
彼もリクエスト番組を聞いていて,僕のリクエストが放送されていたのを知っていたため,気をまわしてくれたんだと思った。

日曜日に二人で電車に乗って,1時間ほどかけて収録会場である体育館に向かった。
会場の入場は整理番号順で,自由席だった。

僕はサカと並んで着席すると,DJのナンデちゃんを探した。
舞台の上でひときわきらびやかな衣装の女の子を見つけた。
あれがナンデちゃんかな?と思った。

公開収録の番組が始まって,その女の子が自己紹介をした。

やはり彼女がナンデちゃんであった。

DJの声から想像する女の子とは違って,少し大人びた女性がそこにいた。
公開収録には生稲晃子がゲストとして出演していたが,僕はそちらには目もくれず,ナンデちゃんを見つめていた。
クイズ大会,ビンゴゲーム,生稲晃子ミニライブと番組は進み,公開収録が終了した。

番組の収録が終わると,ナンデちゃんの周りには彼女の学校の友人らしい女の子や,リュックサックをさげた,いかにもリスナーらしき男が10人くらい集まっていた。
僕がナンデちゃんを見つめていると,サカが,
「話にいくか?ちょっとぐらいやったら待っといちゃるけど」
と言った。
「いや,このまま帰るよ」
と小さく答えた。
僕は短パンに洗濯したしわくちゃのTシャツ姿であった。
そんな恰好で,彼女の前に行く気にはなれなかった。
つまりは気後れしてしまったのだ。
彼女の姿を見れただけでよかったんだと自分に言い聞かせた。

僕らを乗せたローカル列車は,暗闇の中を走り抜けていった。
 

 

 

高校の頃,寮に入っていた。
 

実は3年生の頃に老朽化が激しかった寮の第4棟と第5棟がつぶされて,全室一人部屋の寮として新築された。

僕らは運がよく,4年生に新築の寮の第4棟に入ることになった。

これまでの4人部屋や2人部屋ではなく,一人部屋になった。

なんと小さなベランダもあり,そこから太平洋に沈む夕陽を見ることできた。
僕はクラブ活動はやっておらず,授業が終わるとすぐさま寮の部屋に帰っていた。
夕方,ほとんど人のいないがらんとした薄暗い食堂で,一人,早めの晩御飯を食べた。
その後,持ってきていたバスタオル,下着,風呂桶を持って大浴場へ向かう。
人のいないお風呂は静まり返っていて,天井近くにある窓から明るい日差しが浴槽に注いでいた。
お風呂を上がると,部屋に戻り,ベランダからの夕陽を眺めながらラジオを聞いた。


ちょうど,夕方,6時からNHK-FMで「夕べのひととき」というリクエスト番組が放送されていた。
この番組は少し変わっていて,DJは大学や短大に通っている女の子が1年交代で担当していた。
4月になると,新しいDJに変わる。
変わりたての新人のDJは,何となくたどたどしく,ぎこちない語りであり,やっぱり,前の人の方がいいなと思ってしまう。
それでも,2か月ほど経つと,結構,耳になじんでくる。


彼女はミナミデヤエコという名前で,ミナミノヨウコをナンノと呼ぶようにニックネームはナンデだと言っていた。
僕は自分と同い年のナンデちゃんにリクエストハガキを書いてみることにした。
リクエスト曲は,当時よく聴いていたライブLPの「ギャクリュウ」にした。

しばらくして,いつものように「夕べのひととき」を聞いていると,番組の最後に僕のラジオネームと弾き語りの「ギャクリュウ」がかかった。
自分のラジオネームとリクエスト曲がラジオから流れたことにすごく興奮した。
残念ながら,お便りは読んでもらえなかったが。

それで,一気に火が付いてナンデちゃんの番組にリクエストハガキをせっせと書くようになった。
しかし,毎回,リクエストハガキが採用されるということはなかった。

ある時,僕のリクエスト曲「ナガイノボリザカ」がかかった。
リクエストに添えた,
"僕はこの曲のエンディングのメロディーの部分が特に好きです"
というコメントも読まれた。
僕のコメントに対して,
「私もこの曲のエンディングが昔から好きですよ。昔のナガブチツヨシの曲いいですよね。」
というナンデちゃんの言葉があった。
僕はその言葉にいたく感激した。
この女の子と気が合いそうだ,仲良くなれそうだ,と声だけのナンデちゃんに少し恋をした気分になった。

 

 

 

僕は高校時代,寮に入っていた。

学校が終わると,ほとんどの生徒はクラブ活動に参加していた。

帰宅部だった僕は,部屋に戻ると音楽を聴いて,寮の夕食の開始時間まで暇をつぶした。

4時になると,一番乗りで寮の食堂に入り晩御飯だ。

あまりおいしいご飯でなかったことを憶えている。

カレーや丼もののときは,おかわりOKであった。

 

ちなみに寮の食費は1日750円で,朝が150円,昼が250円,夜が350円と割り振られていた。

3日前までに欠食を申請すると,月末に食べなかった分のお金が返金された。

寮の部屋代は,光熱費込みで1日10円であった。

無料というわけにはいかないから,最低限の値段をつけているようであった。

 

僕は夕食を済ませると,たいがい図書室に行った。

図書室はすごく広く,ソファもあり,人がほとんどいなかった。

僕はソファに寝っ転がって,晩御飯後のひと眠りをするのが日課だった。

ひと眠りから目覚めると,図書室の本を見て回った。

小説もあったが,ほとんどが大学の数学や物理の教科書だった。

小説は「家族ゲーム」や星新一のSFものを読んだ。

元来,本が嫌いな僕は,読んでいるとすぐに眠くなり,またソファで眠り込んでしまうことが多かった。

 

あるとき図書室にいると,とある棚の一番下に図書ではない資料の束を見つけた。

何だろう?と思って見てみると,

過去の就職や進学の記録が自筆で書かれたレポートであった。

どうやら,就職や進学した先輩たちが,先生に言われて後輩のために書き残したものを資料としてまとめられたものだった。

就職の場合の主な内容は,面接での質問内容,会社の寮の間取り,寮費,具体的な仕事内容などが書かれていた。

進学の場合は試験問題が書かれており,見たところ,千葉,三重,東京の大学,長岡の工科大学,豊橋の工科の大学,東京の工科大学の試験問題があった。

ほとんどの大学の試験科目は,専門科目と英語だけであった。

関西の大学が全くないことに少し驚いた。

 

東京の工科大学は,物理,化学,専門,英語と4科目あり,東京の大学は,数学,物理,化学,専門,英語,ドイツ語と6科目もあった。

僕が一番得意な数学の問題を見ると,やはり,東京の大学の試験問題は他校に比べて,難解であることがわかった。

東京の大学の資料には,試験問題よりも重要なことが書かれていた。

それは,他校のように3年生に編入学できるわけではなく,2年生に編入学することになるということだった。

つまりは,東京の大学に合格したとしても,1年留年した扱いにされることを意味していた。

その事実が,僕に東京の大学への興味を失せさせた。

 

試験問題を見ることで,おぼろげだった進学のことがより現実味を帯びてきた。

 

 

 

僕の高校は英語が3種類の授業があった。

1つはリーダーと呼ばれる文部省検定の教科書を使った授業で,1つは文法だけの授業,最後がエルエルといって,カセットテープが聞けるエルエル教室でおこなわれるヒアリングの授業だった。

文法を担当している先生は,京都の大学を出たばかりの27歳の若い男のシモタオ先生だった。

シモタオ先生はいつも薄黄色か薄ピンクのシャツを着て,おしゃれなスーツを着こなしていた。

メガネをかけて,色白であり,日本人離れした顔立ちであった。

 

高校の若い教師は,当番制で寮の宿直をやらされていた。

夜8時くらいになると,宿直の先生が寮の部屋を見回る規則であった。

その時間になると,将棋やコンピュータ部などの文科系のクラブに入っている者も寮の部屋に戻ってきていた。

僕はクラブに入っていなかったので,勉強部屋で数学の問題を解いていた。

 

「お~い!なにやってるんだ」

とシモタオ先生が勉強部屋のドアを開けた。

「勉強なんて明日でいいから,こっちに来い!」

と言われた。

寝室にいくと,シモタオ先生が一番窓際の畳ベッドにあぐらをかいて座って,周りに数人の生徒が囲んでいた。

「これで,パンとジュースを買ってこい」

と言って,シモタオ先生は2千円を出してくれて,数人が買い出しに行った。

そこから,シモタオ先生の学生時代のバカ話などを聞いて,僕らは1時間ほど談笑した。

「それじゃ,そろそろ寮の管理棟に戻らないといけねえから」

と言って,シモタオ先生は立ち去って行った。

 

僕は何となく,シモタオ先生に気にいられているようであった。

というのも,シモタオ先生がプロレスや相撲が好きで,当時,格闘技に凝っていた僕は,梶原一騎の漫画で仕入れた知識をシモタオ先生に話していたからだ。

あるとき,市内の体育館に全日本プロレスが来た。

僕はテスト期間中であり,プロレスに行くかどうか迷っていると言うと,シモタオ先生から

「バカ野郎,テストはダメだったらまた来年受ければいいじゃねえか。」

「馬場のプロレスは来年は来ねえぞ」

と諭された。

「たしかに・・・」

とプロレスを見に行くことを決めた。

シモタオ先生も,当日は教員の連絡会があったが,その会を抜け出すとのことだった。

シモタオ先生の車で会場に向かうのであるが,駐車場が連絡会の会議室からまる見えであるため,二人で腰をかがめて,見つからないように先生の車に乗り込んだ。

「もっと,もっと腰を低く,低く。見つかったらやべえからな」

プロレスは,テレビ中継がないためか,かなり薄暗かった。

ただ,馬場が登場する6人タッグの試合だけは明るいライトが照らされていた。

僕は初めて見るプロレスラーの大きさに驚いた。

 

7月のある土曜日に寮で一人でいると,また宿直ということでシモタオ先生が午前中,寮に遊びにきた。

シモタオ先生が,

「白浜に行ったことがあるか?」

と言ったので,

「いえ,ないです」

と僕らは答えた。すると,

「これから白浜に泳ぎに行くか?この前,給料も入ったしな」

と,僕ともう一人,オオボは急遽,シモタオ先生の車で白浜まで行くことになった。

白浜は寮からかなり遠かった。

海をのぞむ公共の露天風呂があり,僕らは入ることにした。

しかし,公共の場所なので,かなりお風呂は汚く,たこ焼きの舟も浮いていた。

僕らは早々に湯船からあがり,海水浴場に向かった。

海水浴場に着くと,水着の女性がたくさんいた。

そこに,妙な男がいることに僕らは気が付いた。

彼は海水浴場でトレンチコートを着て,カメラを女の子に向けていた。

あきらかに無断で女性の写真を撮っているようであった。

顔をみると,なんと,同じ工業化学科の同級生のゴトウであった。

オオボが,

「ゴトウ!おまえ,こんなところで何しとんじゃ!」

と叫んだ。

驚いたゴトウは逃げるようにその場から立ち去った。

僕らは海で泳ぐでもなく,水着の女性を見て,陽が暮れる前に帰ることにした。

帰りにシモタオ先生が,

「ここでも寄っていくか」

と言って,ファミレスに車を止めた。

そして,給料が入ったばかりということでステーキをご馳走してくれた。

僕らは一気にそれを平らげた。

そして,寮まで送ってもらった。

 

シモタオ先生の官舎に泊めてもらったこともあった。

天井に蛍光の紙で,星座を作っていたのをよく覚えている。

真っ暗な中,布団に入りながら,星空を眺めるといった趣向だ。

 

シモタオ先生とは数えきれないくらい思い出があった。

先生というより,少し上の兄貴のような存在だった。

 

シモタオ先生は僕らが3年生のときに学校を去って行った。

残念ながら僕はシモタオ先生に別れのあいさつをすることができなかった。

数年前,インターネットでシモタオ先生の名前を検索すると,群馬県のある学校にいることがわかった。

いまも,あの頃と変わらないままであった。

 

 

 

僕は高校時代,ずっと寮に入っていた。

1年生は4人部屋であった。

勉強部屋では,部屋の四隅に勉強机があり,4人がお尻を向けあって勉強していた。

僕は,大阪の貝塚出身のゴトウ,湯浅出身のクワタ,箕島出身のサカと同じ部屋だった。

僕以外のみんなはラジカセを勉強机の上において,イヤホンで音楽を聴きながら勉強していた。

 

恥ずかしい話,僕は音楽と言えば,音楽番組の「ザ・ベストテン」を見るくらいで,そっち方面はとんと疎かった。

ゴトウが聴いていたのはYMOであった。

YMOはいわゆるコンピュータを使ったテクノポップであり,ゼビウスというゲームの音楽なんかも作っていた。

クワタが聴いていたのはアルフィーだった。

アルフィーはロックバンドで,当時,「ザ・ベストテン」にもよく出ていたので知っていた。

サカが聴いていたのはオフコースだった。

オフコースはテレビに出演しないため,全く知らなかった。

僕は彼らと部屋で二人だけのときは,イヤホンではなく,スピーカからそれらの音楽を聞かせてもらった。

 

いろんな曲を聴かせてもらっているうちに,僕もラジカセが欲しくなった。

サカが,

「いまはウォークマンでもオートリバースでカセットを聞けるので,買うんだったらウォークマンがええよ」

「オレのは東芝のウォークマンなので,カセットのところに,このカードを入れてラジオを聞くんやけど,いまだと,カード入れんでもラジオ聞けるやつある」

と教えてくれた。

サカの言葉で一番,印象的だったのが,

「オレ,乗り物酔いがひどいんやけど,ウォークマンを聞いていたら,なぜか酔わないんや」

という言葉であった。

僕も乗り物酔いがひどいため,実家に帰るのをためらっていた。

 

それで,じいちゃんにお金を出してもらって,日立のパディスコというウォークマンを大阪の日本橋のお店で買ってもらった。

オートリバースはもちろんのこと,ラジオもスイッチを入れるだけでAMとFMを聞くことができた。

 

寮にウォークマンを持っていくと,隣の部屋のクスミが,ウォークマンを買ったお祝いにLPをダビングしてくれることになった。

僕は急いで生協に46分のTDKのカセットテープを買いに行った。

ダビングしてもらったのは,ヤクシマルヒロコの「ユメジュウワ」だった。

僕は初めて,ウォークマンで音楽を聴くことに感動した。

というか,都会的でハイカラな感じがして,うれしさでいっぱいだった。

実家に帰る道中の3時間のバスと電車では,ウォークマンで「ユメジュウワ」を聴いた。

サカが言ったように,全く乗り物酔いがしなくなった。

 

3時間の道中では,「ユメジュウワ」を3回くらい聞くことになった。

それくらい聴いていると,何となく心待ちにする曲が出てくるもんである。

それが,何の曲なのかは曲名を書いていなかったためわからなかった。

後日,クスミから「クリスマス アベニュー」と「バンブー ボート」であることを教えてもらった。

時間は少しスキップして,大学の頃,中古レコード屋をよくうろうろしていた。

あるとき,中古レコード屋のCDコーナーに「ユメジュウワ」を見つけた。

ずっとTDKのカセットテープで聴いていたため,CDジャケットの写真を初めて見た。

赤と黒が印象的なデザインだった。

僕は懐かしさもあり,そのCDを購入した。

CDに挿入されている歌詞カードを見て,驚いた。

僕が好きな2曲だけが,そのアルバムの中でキスギタカオの曲だったのだ。

いい曲って,知られてなくても聴けばわかるんだということを知った。

 

アルバムはレコード以外にもカセットテープでも発売されていることを知った僕は,自分でカセットテープを買うことにした。

ゴトウが聴いていたYMOを買うことにした。買ったのは「アフター サービス」というアルバムだった。

そこにもお気に入りの曲があった。

「オンガク」と「カイコウ」という曲だった。

同じ頃の国語の授業で,邂逅という言葉が出てきて,驚いたことを憶えている。

 

次に買ったカセットテープは,当時流行っていたオザキユタカであった。

「ジュウナナサイ ノ チズ」と「カイキセン」の2本を買った。

「ダンスホール」,「シャリー」,「ソツギョウ」がいいなと思った。

のちに「ダンスホール」がオーディションの曲であり,代々木で弾き語りで歌われたラストソングであると知って非常に驚いた。

 

とにかく,テレビからは流れてこない若者に人気がある音楽をウォークマンで聴くということで,少しだけ大人になった気がした。

高校1年生の秋のことである。

 

 

 

 

 

 

僕は高校の寮に入った。

1,2年生は4人部屋で,学年が上がるにつれて部屋の人数が減っていくという部屋割りであった。

僕らの学校は,機械工学科,電気工学科,工業化学科,土木工学科と4学科があったから,1つの棟の各階を各学科で割り振られていた。

そして,半年に1回,階の入れ替えと部屋替えがあった。

1年生の最初は,姓のあいうえお順で部屋が割り当てられたが,次からはくじで部屋のメンバーを決め,承認印を押した名簿を寮の管理課に提出するという制度だった。

しかし,実態は好きな者同士が同じ部屋になるようにくじを書き換え,承認印を押すというねつ造がおこなわれていた。

 

クラスの半数が大阪から来ていた者であり,残りの半数の半分が県庁のある市内出身者で占められていた。

したがって,最大派閥が大阪出身者のグループであり,いつもどこかの部屋に集まってはダベっているという感じだった。

県庁のある市内出身者は,派閥を作ることはなく,どちらかというと大阪の派閥に身をゆだねる者が多かった。

 

僕はくじのねつ造のせいで,特に親しくもない相手とばかり相部屋になった。

したがって,部屋でいっしょにいても冷戦状態であった。

 

大阪の連中の大半が少林寺拳法部に所属していた。

少林寺拳法部では,先輩が過去のテスト問題を後輩に渡したり,就職などの情報を後輩に教えたりすることで統制を図っているようであった。

過去のテスト問題をいち早く入手した大阪の連中は,寮の自分たちのグループで共有することにより一体感を醸成していた。

 

僕はと言うと,中学の頃,家庭教師のスパルタ教育のおかげで,高校に入る頃には高校2年生の数学まで終えていた。

したがって,数学に関しては授業を聞かずとも,ほぼテストで満点を取っていた。

もちろん,大阪の連中なんかにへりくだって過去のテスト問題を見せてもらう必要などなかった。

そういうわけで,僕は大阪の連中と対立するようになった。

といっても,寮で大阪の連中が僕の悪口を言い合って発散するという程度であった。

よく聞こえてきた言葉は,

「あんな協調性がない者はどの会社も取らないって」

「会社は協調性が一番大事なんだから」

といったものであった。

しかし,大阪の下等動物を見下していた僕は気にも留めなかった。

 

土日ともなると,大阪や県庁所在地の市内出身の者は,寮にタクシーを呼びつけ,相乗りしてこぞって帰省していた。

僕は実家が寮から遠いこともあり,ほとんど帰省しなかった。

僕はいつもは人でごった返しているテレビ室で一人,テレビを眺めるか,数学の問題をひたすら解いて過ごした。

 

夕暮れ時のがらんとした寮の食堂で晩ご飯を食べていると,大阪グループの中で,たまたま帰省しなかった者が,話しかけてくることがあった。

いつもはあちらのグループにいるが,一人になると僕の方に寄ってくるのである。

1対1で話すと,当たり前だが僕の悪口を言うでもなく,勉強のことや将来のことについて聞いてきた。

僕は,

「どうなるかわかんないけど,進学するつもりだ」

「入試には協調性なんか関係ないからね」

と言った。

 

若干名だが,就職せずに大学に編入学をする者がいることを知っていた。

僕は親の期待するような一流企業に入る気など毛頭なく,何が何でも進学することを決めていた。

そこには,大企業への就職を希望する大阪グループのやつらに圧倒的な違いを見せつけてやると言う思いもあった。

 

 

 

僕は地元を離れて遠くの工業系の高校を受験することになった。

することになったというのは,特に行きたかったわけでもなく,親の強い勧めに従ったからだ。

 

僕は電気工学科を第1希望に,工業化学科を第2希望にした。

親が周りの人から,電気は就職先が結構多いと聞いて,そこを勧めたに過ぎなかった。

特に電気が好きなわけでもなく,化学が好きなわけでもなかった。

いや,どちらかというと理系は嫌いだった。

本当は中国の歴史が好きだった。

 

僕の中学校から3名,その工業系の学校を受験した。

同じ県内にある学校だったが,電車とバスを乗り継いで片道3時間近くかかるところにあったため,受験の前日は近くの民宿に宿泊することになり,なぜか僕の父親が付き添いとして受験に付いてきた。

僕の父親は中学校を出て,小さな織物工場で織機をガチャガチャ使いながら働いていた。

作っていたのは車のシートの元となる織物であった。

もちろん,僕の勉強には無頓着で,父親と勉強の話などした記憶が全くなかったのに付いてきた。

出歩くことが好きで,台湾旅行に数回行っていたので,たぶん,小旅行をしたかったのだろう。

2月上旬であったが,民宿の外はひどい雨だったことを憶えている。

 

試験はかなり苦戦した。

特に得意科目であった数学で,解けなかった問題が2問もあり,そのことにショックを受けた。

後から見直したら解けた問題だったので,やはり緊張していたのだろう。

 

合格発表のことは,もう忘れてしまった。

第2希望の工業化学に入学することになった。

もともと気乗りのしない受験だったため,特にくやしいとかはなかった。

他の2名は第1希望の機械工学科と土木工学科にそれぞれ合格したようであった。

 

親戚の人がうちに来て,寮生活でさびしくなるねえと言っていた。

あいにく,僕は全くさみしくなかった。

どちらかというと,親は嫌いだったし,友達もいなかったし,寮生活を想像することもなかった。

 

4月の入学式にあわせて,寮に入った。

はっきり言って,かなり汚くぼろっちい寮だった。

しかも4人部屋であった。

勉強部屋にはくたびれた事務机が4つとスチーム暖房のむき出しのパイプがあった。

廊下を挟んで向かいの部屋が寝室であり,畳ベッドが4つとスチーム暖房のむき出しのパイプがあった。

勉強部屋では同室の3人がせわしなく,段ボールの荷物を本棚や衣装棚に収納していた。

僕は,初めて顔を合わせる同室の3人に,軽く会釈した。

その日から20歳までの5年間の寮生活が始まった。

 

 

 

 

 

中学の頃,漢和辞典を見るのが好きだった。

漢和辞典は不思議な辞書だ。

漢字の意味が載っているのはもちろんだが,巻末付録が多く,中国の歴史や歴史年表が結構詳しく載っている。

漢字が中国伝来のものであるからに他ならないが,”四面楚歌”,”三顧の礼”,”李下の冠”,”泣いて馬謖を斬る”などことわざが中国の歴史に起因していることから,歴史も知らなければならないからかもしれない。

 

僕は漢字の暗記は好きではないが,この漢和辞典の歴史年表を眺めるのが好きだった。

ちょうど,中学1年生の頃,夕方6時からNHKで人形劇「三国志」が放送されていた。

”しんしん”(島田紳助)と”ろんろん”(松本竜介)が狂言回しの役割をした歴史フィクションの人形劇である。

なぜ,歴史フィクションと書くかというと,いわゆる三国時代の「三国志」にもとづいて描かれた羅漢中による小説の「三国志演義」を日本では「三国志」として紹介されているから,混乱を避けるためにあえて,歴史フィクションと書いている。

テストの点がすっとこだった僕は家庭教師を付けられていた。

家庭教師を付けられた僕は,一応,5時から7時まで2時間,家庭教師に勉強を教えられることになった。

でも,6時から始まる人形劇「三国志」をどうしても見たいと願い出て,家庭教師の勉強時間を3時半から5時半に変更してもらった。

6時前にはテレビの前で,人形劇「三国志」が始まるのじっと待った。

砂嵐が吹き荒れ,そこに「三国志」という石に刻まれた文字が浮かび上がってくる。

同時に細野晴臣の曲が流れてくる。

これが何とも言えず,かっこいいというか,歴史の重みというか,幻想的な感じがした。

 

同じ頃,「コミックトム」という月刊漫画雑誌に横山光輝が「三国志」を毎月100ページ連載していた。

この漫画も歴史フィクションの「三国志」である。

当時,僕の住んでいた町の本屋には,「コミックトム」は置いておらず,隣町まで自転車で片道1時間かけて「コミックトム」をよく買いに行った。

漫画の「三国志」は単行本でかなりの数が発売されていたが,大判「三国志」なる単行本も別に発売されていた。

大判「三国志」は,単行本と違って,「コミックトム」と同じ大きさのB5サイズの単行本であり,巻末には読者からのお便りのコーナーなども掲載されていた。

僕は何となく,普通の単行本より大判「三国志」の第一期(1巻~18巻)を購入した。

第一期は薄いねずみ色の地味な装丁であった。

大判「三国志」の第二期は第一期と打って変わって,オレンジのド派手な装丁に変わっていた。

読者のコーナーを眺めると,僕のような中学生の男のファンなどおらず,”孔明さま”,”関羽さま”といった,いまで言う歴女のOLからの乙女チックなお便りばかりであった。

しかも,横山光輝と三国志のゆかりの地を巡る旅まで催されており,横山光輝を囲んだOLたちの記念写真などが掲載されていた。

海外はおろか国内旅行さえしたことがなかった僕には,何だか遠い世界のことにように感じた。

 

漢和辞典に,人形劇,漫画と,その頃の僕の中で,一種の三国志ブームがきていた。

そして,そのブームにさらに拍車をかけたのが,三国の一つである魏の皇帝,曹叡が倭の女王,卑弥呼に「親魏倭王」という金印を贈っていたという事実である。

曹叡とは,いわゆる三国志の英雄の一人,曹操の孫にあたる人物で,魏の始帝である曹丕の子供である。

卑弥呼は,これまた漫画であるが,手塚治虫の「火の鳥・黎明編」で,不老不死の薬とされている火の鳥の生き血を求める,ばあさんとして描かれていた。

すなわち,卑弥呼と三国志がつながったことに,僕はかなり興奮した。

 

しかし,現実の三国時代は劉備,曹操などの英雄が亡くなった後は,哀れな末路をたどっていた。

劉備の息子の劉禅の蜀は,すぐさま魏に滅ぼされ,魏も魏の軍師であった司馬氏に滅ぼされて晋という国に変わり,最後に呉も晋に滅ぼされてしまった。

中国を統一した晋もまた内乱により,短命に終わり再び,中国は分裂時代に入った。

三国時代は,何も特別な時代ではなく,分裂と統一を繰り返す中国の歴史の1ページに過ぎなかったわけである。

でも,僕には歴史に興味を抱かせるきっかけとなったことは確かである。