卑弥呼と三国志(午前0時の向こう側) | むかし日記

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僕の古い日記です。

中学の頃,漢和辞典を見るのが好きだった。

漢和辞典は不思議な辞書だ。

漢字の意味が載っているのはもちろんだが,巻末付録が多く,中国の歴史や歴史年表が結構詳しく載っている。

漢字が中国伝来のものであるからに他ならないが,”四面楚歌”,”三顧の礼”,”李下の冠”,”泣いて馬謖を斬る”などことわざが中国の歴史に起因していることから,歴史も知らなければならないからかもしれない。

 

僕は漢字の暗記は好きではないが,この漢和辞典の歴史年表を眺めるのが好きだった。

ちょうど,中学1年生の頃,夕方6時からNHKで人形劇「三国志」が放送されていた。

”しんしん”(島田紳助)と”ろんろん”(松本竜介)が狂言回しの役割をした歴史フィクションの人形劇である。

なぜ,歴史フィクションと書くかというと,いわゆる三国時代の「三国志」にもとづいて描かれた羅漢中による小説の「三国志演義」を日本では「三国志」として紹介されているから,混乱を避けるためにあえて,歴史フィクションと書いている。

テストの点がすっとこだった僕は家庭教師を付けられていた。

家庭教師を付けられた僕は,一応,5時から7時まで2時間,家庭教師に勉強を教えられることになった。

でも,6時から始まる人形劇「三国志」をどうしても見たいと願い出て,家庭教師の勉強時間を3時半から5時半に変更してもらった。

6時前にはテレビの前で,人形劇「三国志」が始まるのじっと待った。

砂嵐が吹き荒れ,そこに「三国志」という石に刻まれた文字が浮かび上がってくる。

同時に細野晴臣の曲が流れてくる。

これが何とも言えず,かっこいいというか,歴史の重みというか,幻想的な感じがした。

 

同じ頃,「コミックトム」という月刊漫画雑誌に横山光輝が「三国志」を毎月100ページ連載していた。

この漫画も歴史フィクションの「三国志」である。

当時,僕の住んでいた町の本屋には,「コミックトム」は置いておらず,隣町まで自転車で片道1時間かけて「コミックトム」をよく買いに行った。

漫画の「三国志」は単行本でかなりの数が発売されていたが,大判「三国志」なる単行本も別に発売されていた。

大判「三国志」は,単行本と違って,「コミックトム」と同じ大きさのB5サイズの単行本であり,巻末には読者からのお便りのコーナーなども掲載されていた。

僕は何となく,普通の単行本より大判「三国志」の第一期(1巻~18巻)を購入した。

第一期は薄いねずみ色の地味な装丁であった。

大判「三国志」の第二期は第一期と打って変わって,オレンジのド派手な装丁に変わっていた。

読者のコーナーを眺めると,僕のような中学生の男のファンなどおらず,”孔明さま”,”関羽さま”といった,いまで言う歴女のOLからの乙女チックなお便りばかりであった。

しかも,横山光輝と三国志のゆかりの地を巡る旅まで催されており,横山光輝を囲んだOLたちの記念写真などが掲載されていた。

海外はおろか国内旅行さえしたことがなかった僕には,何だか遠い世界のことにように感じた。

 

漢和辞典に,人形劇,漫画と,その頃の僕の中で,一種の三国志ブームがきていた。

そして,そのブームにさらに拍車をかけたのが,三国の一つである魏の皇帝,曹叡が倭の女王,卑弥呼に「親魏倭王」という金印を贈っていたという事実である。

曹叡とは,いわゆる三国志の英雄の一人,曹操の孫にあたる人物で,魏の始帝である曹丕の子供である。

卑弥呼は,これまた漫画であるが,手塚治虫の「火の鳥・黎明編」で,不老不死の薬とされている火の鳥の生き血を求める,ばあさんとして描かれていた。

すなわち,卑弥呼と三国志がつながったことに,僕はかなり興奮した。

 

しかし,現実の三国時代は劉備,曹操などの英雄が亡くなった後は,哀れな末路をたどっていた。

劉備の息子の劉禅の蜀は,すぐさま魏に滅ぼされ,魏も魏の軍師であった司馬氏に滅ぼされて晋という国に変わり,最後に呉も晋に滅ぼされてしまった。

中国を統一した晋もまた内乱により,短命に終わり再び,中国は分裂時代に入った。

三国時代は,何も特別な時代ではなく,分裂と統一を繰り返す中国の歴史の1ページに過ぎなかったわけである。

でも,僕には歴史に興味を抱かせるきっかけとなったことは確かである。