小さいころから不思議でならないことがあった。
それは、自分が生まれた時の話をされると泣きそうになるということだ。
かーっと熱いものが身体を駆け上がり全身がギュッと縮こまる。
泣きそうになるというのは、泣く手前で話を変えるか、黙って聞き流すことで涙を我慢するからで、その話に乗って自分でも会話を続けていたら、多分泣いていただろう。
生まれたときの話とは、私が緊急の帝王切開で生まれたときの話で、父親の「母親か子供の命どっちをとるかって言われて、母親と言った。それがこんなに元気に育って」という話だったり、母親の「生まれたときは麻酔で寝ていて全く覚えていない」という話だったりした。
泣きそうになる理由として、父親が私より母親の命を選んだからかとか、母親が大変な思いをして産んでくれたからか、などとあれこれ考えたがどれもなんだかピンとこなくて、たまーに思い出したようにやってくる生まれた時の話に毎回同じ反応を繰り返していた。
ロルフィングのトレーニングに参加して、Unit1、Unit2と通過して、このトレーニングが終了すれば晴れてロルファーになるというUnit3でのことだった。
トレーニングの講師であるRayが帝王切開の話について少しふれた。
産道を通らずに産まれることで、子宮内から急に外に出るため、急激な圧力の差を受けるというような話だった。
その話を聞いている時もかーっと熱いものがこみ上げてきて、Rayならこの不思議を解明してくれるかもしれないと、その後タイミングを見計らって思い切ってRayに聞いてみた。
自分から自分の生まれた時の話をするのは、その時が初めてで自分で思った以上に早く涙が出てきてびっくりした。
でも話を止める訳にはいかない。
「こんな感じで涙が出てきてしまう。母親が大変な思いをして産んでくれたというのも分かる、でもそれだけで何でこんなに泣いてしまうのだろう?」もうその時は号泣でしゃくり上げるほど泣いていた。
そんな私の肩にRayは優しく手を置き、「あなたも大変な思いをして生まれてきたんだね。よく頑張ったね。」と言ってくれた。
その瞬間はっとした。
そうか私も生まれたとき大変だったんだ。
生まれたときの記憶はない。
記憶がないからこそ、自分の生まれた時の体験を自分の体験として考えていなかった。
人が語る私の生まれたときの話も私の体験として語られることはなかった。
Rayにあなたも大変な思いをしたんだねと言われて初めて生まれたときの体験が自分のものとして感じられた。
そして私の記憶になくてもそれを身体が記憶していたんだとわかった。
いや、実際にはわからない、でもそのときはそうだと思った。
「大変な思いをして生まれた。よく頑張ったね。」その言葉が私の身体にすとんと落ちてきた。
腑に落ちると言う感じだった。
その後、クラスメートが大丈夫?と優しく手を握ってくれた。
温かいその手に触れて改めて自分の手がとても冷たく、身体全体がギュっと縮こまっているのを感じた。
生まれたときの身体の記憶、生まれたときもこんなふうに身体がギュッと締め付けられるような苦しさを感じていたのだろうか?
もしそうだとしたら、よく頑張って生まれてきたね!自分で自分を抱きしめてあげたい気持ちになった。
筋膜は記憶の器官といわれる。
その人に記憶がなくても身体がそれを記憶している。
その因果関係は説明できない。
でも、それ以来、私は出産の話をしても泣くことがなくなった。