彼と彼女と僕のいた部屋
たしかに人間は、たがいの精神生活を知れば得るものは大きいだろうし、殺しあわずにいられるようになるかもしれない。しかし、相手本人にならずとも()、ほかの市民を敬い重んじることのできるのが、洗練された市民というものだ。
『ワンの絨毯』グレッグ・イーガン
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「自殺阻止」

 ちょうど0時をすぎた列車の踏切。下りの最終電車が線路を行く警戒音が鳴り響く。
 踏切の黄色と黒の虎柄模様のポールの前に一人の男が立っている。年格好からするに20代の半ば。男は警戒音をしっかりと聞くと降りてきた遮断機の下をくぐり、線路の上に突立た。
 そこへひとりの女が現れた。女の見た目は30代ごろだろうか。両手にコンビニのレジ袋をさげている。
 女性はひどく肥満していた。
 一方、線路に降り立った男はやや痩せ型であった。
 女は男が線路に入った瞬間を目撃すると、コンビニ袋を手放した。アスファルトにコンビニ袋からプラスチック容器に入った弁当、スナック菓子、チョコレートなどが散乱する。
 女は男の手を強引につかむと、線路からひきずり出した。
 体重がものをいったのだろうか。男の体はあっけなく線路から引きずり出された。
 女が息を荒げる。
「何やってんの?」
 男はアスファルトにへたり込んでいる。
「死のうとしてたんです」
「踏切で? そんな迷惑な死にかたされたら周囲に迷惑よ。死ぬならもっと考えて死になさい。他人様の迷惑のかからない場所で」
 女はアスファルトに散らばった食材をかき集めた。
 男は地面に座ったまま女を見る。
「なぜ助けたんですか?」
「目の前で人が死んだら気持ち悪いじゃない。それに警察の事情聴取とかもあるだろうし。面倒はごめんよ」
 男は上目遣いで女をにらんだ。
「自殺志願者を身勝手な都合で止めるのが趣味なんですか?」
 男はそうとう自虐的になってるらしい。
 女はため息をした。
「べつに。死にたいなら勝手に死ねば。でも、他人を巻き込まないでよね」
「じゃあ、どうして助けたんですか?」
「気持ち悪いから。あと、私が助けたいって思ったから」
 男が意地悪な顔をする。
「じゃあ、あなたは自殺は認めるけど、僕を助けたんですね? 矛盾してませんか?」
 女の表情は変わらない。
「してない。私は自殺をする権利があってもいいと思う。けど――」女が一呼吸置く。「けど、自殺を止める権利もあると思う」
 男が自嘲気味に笑う。
「自殺を止める権利? そんな権利だれにあるんです。第一、自殺を止めて、そのあとの責任はどうとるんです? 自殺は止めました。じゃあ、生き残った僕の悩みはあなたが解決してくれるんですか?」
 女はアスファルトに落ちていた食べ物をすべてコンビニ袋に入れ終えた。
「そんなの知らない。私は私の意志で自殺を止めただけ。いい? 私は自殺をする権利を認めてる。けど、自殺を止める権利もあると思ってる。自殺を止めてくれその人に生きる道を求めるなんて都合が良すぎると思わない? あなたは自分の意志で命を絶とうした。私は自分の意志であなたの自殺を止めようとした。それでイーブンじゃない?」
 暗がりの中、男の目が光った。
 その光が涙なのか、あるいはたった今、通りすぎた最終電車の窓からもれた光のかけらなのか女には判断できなかった。

現在の「僕」たち【55】「遅い気が付き」

 今日のノルマであるスポンジケーキを焼き終えた僕は作業台にもたれかかってシフォンケーキ焼きと格闘する後輩を眺めた。本来であれば僕もシフォンケーキ焼きに入るべきなのだが、後輩にすべてを任すことにした。
(退職が決まってからサボりがちになったな)
 僕は苦笑いをした。
 退職願を店長に出してからというもの、変に腹が座ってしまった。それまでの僕はこのケーキ屋でどこかおどおどしながら作業をしていた。
 店長の機嫌を取ってみたり、先輩の話をさも興味ありげに耳をかたむけたり、パートタイマーの女の子たちにお金だけを渡してランチをおごったこともある。
 すべては保身のためだ。
(この店をクビになったら僕は収入はなくなる。健康保険もなくなる。無職になり世間体も悪くなる)
 僕は金銭と周囲の視線を気にしながら働いてきた。
 しかし、いったん退職が決まると僕の態度は変わった。堂々としている、と言えば聞こえはいいかもしれないが、横柄になったとも言える。
 店長、先輩に気をつかわなくなった。パートタイマーの女の子たちを自分を正社員であると認めさせようという意識もなくなった。
 その代わり、不思議な感情が芽生え始めていた。
(後輩の夢を叶えさせたい)
 自分が本社から落ちたからだろうか。後輩には自身の夢であるパティシエの道を進んで欲しいと思った。
(そのためには量をこなすことだ。一日中、嫌になるくらいケーキを焼き続ければシフォンケーキなど簡単にマスターするだろう)
 今までの僕は黙って作業を見ていることなどできなかった。必ず、手を出してしまう。店長や後輩にサボっていると思われたくなかったからだ。が、今は口を閉ざしたまま、後輩の仕事ぶりを見ることができる。
 焼き場に何度か先輩が足を入れた。先輩は業務用の冷蔵庫から材料を取り出すと、すぐに焼き場から出て行った。その間、僕は後輩の働きぶりを見ているだけだった。
 焼き場から立ち去る一瞬、先輩は僕を見た。が、何も言わなかった。
 焼き場を後にする先輩の背中を見送りながら僕は思った。
(もっと早くに後輩を育てるべきだった)
 店を退職する一週間を切って、僕はようやくそう思うのだった。

現在の「僕」たち【54】「後輩が目指す仕事への姿勢」

 考え事をしながらも僕は黙々とスポンジケーキを焼いていった。材料の作り方は体が覚えている。もちろん、すべての材料はしかっりと計測はするが、手順はいつも通りである。
 後輩も必死にシフォンケーキ作りと格闘している。
 後輩が最初にできあがったシフォンを僕に持ってきた。
「どうでしょうか?」
 僕は焼きたてのシフォンを観察した。
(昨日よりは悪くない。100パーセント完璧とは言えないが、これなら店に出せるレベルだ)
 このまま余熱を飛ばせばショーケースに並べることは可能であろう。
 僕はとりあえずうなずいた。
「いいと思うよ」
 後輩の顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「うん。まだ余熱を取っていないからはっきりとは言えないけど、商品にはなると思う」
 後輩は頭を下げた。
「ありがとうございます!」
 僕は照れくさくなった。
「きみはセンスがいい。これくらいできて当たり前さ」
 僕は次の言葉をためらった。が、口にすることにした。
(どうせこの店を辞めるんだ。先輩とか後輩とか関係ない。今のうちに聞きたいことは聞こう)
 僕は小さなプライドを捨てた。
「さっき、きみは僕に経営者とかの素質がある、とか言ってたよね?」
 後輩はシフォンケーキを余熱を取り除くための棚に戻す所であった。顔を僕に向けると不思議そうな表情を浮かべる。
「はい」
「なんでそう思った?」
「なんでって言われましても……。そう思ったからとしか答えようがありません」
「少しでいいんだ。理由を聞きたい」
 後輩はシフォンケーキを棚に入れると、作業台に腰をもたれかけさせた。
「俺っておしゃべりっすよね」
「おしゃべりと言うか、周りの人間を盛りたてる人間だと思う」
 後輩が右頬をなでる。後輩が照れているときの癖だ。
「それはかいかぶりっすよ。俺は集中力がないんです。すぐに目の前の作業に飽きて、口が勝手に動くんです」後輩が顔を下に向ける。「本当は先輩みたく黙って作業をしたいんす」
 僕は意外だった。
(黙って作業をしたい? それじゃあ仕事が楽しくないだろう)
 僕は率直に聞く。
「でも、僕みたいな先輩が製造場にいたら士気が落ちないか? 普通、先輩は後輩にいろいろと話を聞かせたり、聞いてやったりが相場と決まってるんじゃないのか?」
 後輩が苦笑いをする。
「先輩って古風なところがありますよね」
「そうか?」
「そうっすよ。その考えかなり古いっすよ」
(友喜の影響かな)
 僕は思った。
 友喜は言動によらず、古風な思考回路の持ち主だった。
 年長者は敬う。ひとつでも年上ならば、敬語を使う。講師には逆らわない、などなど。
 僕が常識はずれな人間だったのかもしれないが、普段の行動様式とは裏腹に実は筋を通すことを好むタイプの人間だった。
(三年弱、友喜とルームシェアをしていたんだ。友喜の性格が僕に移っても不思議はない)
 後輩が続ける。
「先輩は仕事に熱心です。熱心すぎて声をかけにくいこともありますが、仕事だから熱くなるのは当たり前です。先輩は自分が仕事をしているところを見せて、俺たちみたいな後輩を引っ張っていく人だと思います」
 僕は呆然とした。そんな風に評価されていたとは想像だにしていなかったからだ。
「僕がひとを引っ張る? そんな格好のいいことはしてない」
「先輩にそのつもりはなくとも、俺にはそう見えました。ほかのパートがどう思ってるか知りませんが、俺は先輩が黙って仕事をしてる姿を見て格好いいと思ってます」
 今度は僕が照れた。
「退職間際の人間にお世辞を言っても何も出んぞ」
「退職間際だから言えるんです。こんな俺ですがパティシエを目指してます。本物のパティシエが作業中にベラベラと口を開けていたら話にならないと思います。目の前の作業に集中していない証拠ですからね」
 後輩はここで一旦、言葉を切った。一息つくと早口で言う。
「だから、俺は先輩のように黙って仕事に没頭する人間になりたいと思ってんす」
 後輩の意外な告白に僕はただただ口を開けるしかなかった。

現在の「僕」たち【53】「僕の短所と後輩の長所」

 焼き場に入り、手を洗った僕と後輩は早速、ケーキのスポンジ焼きの作業に入った。
 僕は左右の手に霧吹きでアルコールを噴きかけた。
「僕は普通のスポンジを焼くから。きみは普通のシフォンとロールケーキ用のシフォンを焼いて」
「はい」
 後輩がうなずいた。
 「普通のシフォン」とは丸型のシフォンケーキ用の生地である。丸型ではあるが普通のケーキとは少し違う。真ん中に丸い穴が空いている。形としてはドーナツに似ている。
 シフォンケーキは普通のケーキよりも大量の卵白を使う。そのため生地がしぼんでしまうのだ。しぼみはフワフワとした食感の副作用ともいえる。しかしその副作用のため、普通の丸いケーキ型でシフォンを焼くと中央がへこんでしまう。シフォンが自身の重みに耐え切れず、重心のある真ん中がくぼんでしまうのだ。
 そのため、丸型のシフォンケーキはドーナツのような形でしか作れない。
 ロールケーキ用のシフォンは前と同じだ。四角い型にシフォン生地を流しこみ、焼く。こちらはへこみを気にする必要はないが、型に生地を入れたとき、まっ平らにしないと生地に焼きムラが発生する。生地の厚さが均等でないと生焼けになったり、焼けすぎたりする。
 僕は後輩にシフォンを一任すると通常のスポンジケーキの生地づくりに入った。
(任せるとは言ったものの、やっぱり気になるな。バレない程度にときどき様子を見るか)
 僕は生地の材料となる大量の卵とバター、小麦粉を用意し始めた。
 後輩も材料の支度に取りかかる。
 その後、三十分間ほど僕たちふたりは黙々と作業をした。
 僕は作業中に言葉を発するほうではない。雑談をしていると集中力が欠けて仕事に身が入らないからだ。
 一方、ほかの従業員たちは作業をしながら、ときおり雑談をする。話題はあれこれだ。昨日のテレビドラマの内容だったり、芸能ニュースだったり、景気の話や政治家へ罵詈雑言だったりする。
 僕は作業をしながらおしゃべりができる人間をうらやましいと思っていた。皆が手を動かしながらも、同時に口を動かしている中、僕だけひとり作業に没頭しているのは単純に寂しかった。残念ながら僕には手と口を同時に動かす器用さがなかった。
 後輩は僕と違っていた。作業に余裕があるときは積極的に話をしていた。相手は正社員だったりパートタイマーだったりと、そのときどきだ。
 後輩の話は面白い。だから、後輩と仕事をしたがる従業員は多かった。毎日がケーキ作りに没頭していると、どうしても作業に飽きが生じてしまう。そんな倦怠を後輩は雑談という手段で打ち消してくれる存在であった。
(それはそれで立派な能力だよな)
 僕は後輩が人見知りをせず、誰とも親しげに話ができることを評価していた。
 しかし、この日の後輩は一切無駄口をしなかった。ときおり、スポンジケーキを作る僕のところにやって来て作業の確認をする程度で、口は閉じたままだった。目が昨日に増して真剣である。
(シフォンをぜんぶ任せたのは成功だったかな)
 残念ながら僕には職場を盛り上げる力はない。士気を高める力もない。それができるのは僕の先輩であろう。事実、先輩はパートタイマーの女の子たちに好かれているし、ほかの従業員からも一目置かれている。
 一方の僕は淡々と与えられた仕事をこなすだけの人間だ。一応、正社員という身分ではあるがパートタイマーのやる気を起こさせたりすることは僕の性質に合っていない。それは僕自身がよく理解していた。
 僕はラーメン屋で使うような巨大な寸胴でバターを湯煎しながら考えた。
(でも、智香の会社に入ったらそういうことも求められるのかな?)
 僕は後輩を見た。
 後輩はメモ帳を片手にブツブツと何事が口にしている。おそらく昨日の復習をしているのだろう。昨日の失敗を今日に活かそうというわけだ。
(いい心がけじゃないか)
 が、僕にいちまつの不安がよぎった。
(しかし、本当にこれでいいのか? 確かに、後輩にはシフォンの作り方をマスターしてもらわなければ困る。店長からも引き継ぎを頼まれている。僕の都合で勝手にこの店を辞めるんだ。大袈裟かもしれないけど、後継者を育ててから辞めるのが筋だろう。でも、後輩にシフォンを作ることを叩きこむことで、後輩の良い面――つまり、後輩が持っている店の士気を上げるという才能を潰すことにならないか?)
 僕は改めて後輩を観察した。
 後輩はメモ帳を閉じると卵白の泡立て作業に入った。後輩は口を真一文字に結んでいる。相当、気合が入っている。
(僕なんかのせいで後輩の長所を潰さなければいいけど)
 いつもと態度が違う後輩をこの目にして、前向きになったはずの僕の心がまた揺らぎ出していた。

現在の「僕」たち【52】「先輩の助言と僕の心の余裕」

 先輩に胸の内を明かし、爽快になった僕はすべてのものごとに対して前向きに考えることができるようになった。
(やっぱり、先輩は友喜にどこか似てる。もし僕が友喜に相談したら、先輩と同じような答えをくれるだろう)
 開店時刻の十五分前。この時間帯になると店長やパートタイマーの女の子たちが次々に出勤してきていた。
 開店二十分前になると、正社員、パートタイマー全員が主にデコレーションを行う調理場に集合する。朝礼をするためだ。
 朝礼では正社員がその日の日付と曜日、そして天気予報、予測温度を皆の前で発表する。ケーキ屋にとって曜日と天気は売上を大きく左右する要因である。
 週の始めよりも終末のほうがケーキはよく売れる。
 また、多くの飲食店と同様に、雨降りよりも晴天のほうが売上が良い。そのため、天気予報が雨天の場合は作るケーキを普段よりも減らさなくてはいけない。少しでも廃棄ロスをなくすためだ。
 天気の発表が終わると、正社員が
「いらっしゃいませ!」
 と声を張り上げる。
 続けてほかの従業員たちが一斉に、
「いらっしゃいませ!」
 と復唱する。
 その後、同じ要領で、「ありがとうございました!」も行う。
 この店に来た当初、僕はこの声出しが嫌いであった。しかし、いざ自分がレジに立つと、毎朝行われる声出しが意味のあるものだということがわかった。朝一に大声を出すと、お客さんに尻込みをせずに対応することができるのだ。
 このことは接客があまり得意ではなかった僕にとって大きな発見であった。
 この日、先頭を切って、「いらっしゃいませ!」と一番の声を出したのは先輩であった。先輩の声はよく通る。そのため、あとに続くほかの従業員たちの声も先輩に引っ張られるかたちで良い声を出す。
 僕も程よい音域で、
「いらっしゃいませ!」
 と、声出しをすることができた。
(この声出し、智香の会社に入ったら応用できないもんかな)
 僕はつい考えてしまった。が、小さく頭を振って思考を飛ばす。
(今はこのケーキ屋にいるんだ。智香の会社へ行くのは先の話だ。今はこのケーキ屋に尽くそう。せっかく先輩に勇気と元気をもらったんだ)
 日付と天気予報の言い伝えが終わると、従業員たちはそれぞれの持場に入る。
 店の開店準備をするのは主にパートタイマーの女の子たちである。彼女たちもここに勤めて長いので、それぞれの役割分担ができており、店を開ける手際が良い。むしろ、レジに滅多に立たない僕のほうが開店準備は遅いだろう。
 僕は焼き場に足を向けた。後ろからついてくる人物がいる。シフォンケーキの焼き方に苦戦している例の後輩だ。
 僕は朝の挨拶を抜きにして唐突に言う。
「今日のケーキ生地、全部きみに任せたから」
 後輩が足を止めた。
「え?」
「きみのセンスはいいはずだ。シフォンケーキをうまく焼けないのは、最初の失敗が尾を引いてるだけだと思う。そばに僕がついてるから安心して」
 後輩が駆け足で僕に後を追う。
「本当に俺に任せていいんっすか? 失敗したら先輩の責任になりますよ」
「それでいい。どちらにしろ僕はこの店を抜ける人間だ。きみに早くシフォンケーキの作り方をマスターしてもらわないとこのケーキ屋が困る」
 後輩が苦笑した。
「その言葉、けっこうプレッシャーっす」
「多少のプレッシャーは受けてもらわないと。きみ、ケーキ職人になりたいんでしょ?」
「はい!」
 後輩は勢い良く返事をした。
「だったらこれくらいのプレッシャーは簡単に越えてもらわなきゃ」
「わかりました。そのかわり、しっかりと教えてくださいよね」
「もちろん、そのつもりだよ」
 僕の心に余裕ができたからだろうか。今の僕ならこの後輩を育てることができるような気がした。
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