彼と彼女と僕のいた部屋 -5ページ目

現在の「僕」たち【38】「後輩の素質」

「俺、ときどきレジに入りますよね?」
 後輩はケーキ作りだけではなく、レジ打ちに入ることもあった。接客もケーキ職にとって大切な仕事である。お客さんの声を生で聞けるからだ。
「ある日、常連のお客に言われたんす。『このあいだのシフォンケーキがあんまりおいしくなかった』って。『全然、ふんわりしてなかった』って。すげーショックでした」
 僕は眉間に皺を作った。
「そのシフォンってのは……」
「俺が作ったやつです。俺は先輩に教わったとおりに、レシピどおりにケーキを作ってる。なのにお客にあんなことを言われて落ち込みました。俺、先輩の作って廃棄になる前のシフォンと俺が作った出来立てのシフォンを食べ比べたことあるんです」
 ケーキはなまものだ。賞味期間は5日ていどしかない。イチゴのケーキなど青果がトッピングされると賞味期間はさらに短くなる。たとえば、イチゴ、キュウイ、バナナなどの果物を簀巻きのようにしたフルーツのシフォンロールケーキなどの賞味期間は長くて三日である。
 後輩は熱を発するオーブンに視線を向けた。オーブンの中では僕が作ったシフォン生地が焼けている。
「賞味期間が間近だというのに先輩のロールケーキはしっとりとしていてふんわりとしていたんです。俺のシフォンは焼きたてなのに、どこか硬さがあるんです。シフォンはふんわり感が命ですよね。そのふんわり感が出せなくて悔しかったです」
 僕は目を丸くした。
「僕のケーキ、そんなにうまいか?」
 後輩はオーブンから僕に視線を移した。気のせいだろうか。後輩の瞳が輝いているように見えた。
「先輩、自分が作ったケーキを食べたことないんですか?」
「そりゃあ、あるさ。けど、僕も僕の先輩から習ったとおりに作ってるだけだよ」
 僕は甘いものが好きだった。酒が呑めない代わりだろうか。僕の嗜好品は甘いものと言えた。
 後輩はなぜかため息をついた。
「先輩、この店辞めちゃうんっすよね?」
「……まぁね」
「ケーキ作りを続ける気はないんっすか?」
 僕は自分の顔を指差した。
「僕が? 調理師免許も持ってない僕が? そんなことしたら世のパティシエに失礼だよ。僕は本社から落っこちて仕方なくケーキを作ってる人間さ。パティシエとして頑張って欲しいのはきみのほうだよ」
 後輩はため息をした。
「俺、パティシエに向いてないのかもしれません」
「どういうこと?」
「俺、調理師免許は持ってますが専門学校では劣等生だったんです。いつもビリ。和食も洋食も中華も全部ビリに近い成績でした。でも、デザートだけは講師の評価が違ったんです。今でも講師が言った言葉が忘れられないんです。『お前のデザートの味はいまいちだ。けど、独創性がある。デザートは目でも楽しめるものだ。お前のデザートは目で楽しめる』って。俺、調理学校に入って初めて褒められたんでスッゲー嬉しかったんです。そのとき決めたんです。パティシエになろうって。でも、俺が評価されたのはデザートのデザインだったんです。味の評価は下の中でした。でも、せっかく調理師免許も持つことができたし、講師に褒められたんでパティシエを目指すことにしたんです」
「……」
 僕は初めて後輩がパティシエの道を選択する動機を耳にした。言葉が出ない。
(こいつのパティシエを目指す心意気は消去法的だ。けど、生活費を稼ぐために本社からケーキ屋に移った僕に比べて彼の行動はどうだ? 彼のほうが僕よりも立派じゃないか)
 後輩はふたたびオレンジ色に発熱するオーブンに視線を戻した。
「だから俺、お客さんに遠回しに、『まずい』って言われてショックでした。和洋中がダメなら見た目の繊細さが要求されるパティシエなら俺にもできるかな、と思ってたんですけどね」
 確かに、ケーキなどのデザート類はその見た目も重視される。絞りでデコレーションをしたり、フルーツで色とりどりの飾り付けをしたりして、「目」で食べさせる。実際、同じ材料、味でもデコレーションでケーキの印象は大きく変わる。当然、彩り豊かで華やかなケーキをおいしいと人は感じる。
「けど、どんなに綺麗に飾り立ててもうまくなければ意味がないっすよね。ケーキも食べ物なんですから。お客さんに言われて、改めて思い知らされました」
 僕は口をつくんだ。しばらく唇を噛んだのち、僕は思い切って言った。
「きみはデコレーションが完璧なんだろう? だったら、あとは味と触感だけじゃないか。世のパティシエたちはデコレーションで悩むって聞いたことがある。味はレシピ通りに作ればそれなりのものになる。けど、デコレーションは天性のものなんだと。色彩を学ぶことである程度、綺麗なケーキは作れるかもしれないが、本当にお客さんに心の底から綺麗だと思わせるには持って生まれたセンスが必要なんだ。残念ながら僕にはそのセンスがない。だから、この焼き場にいる。もしも、きみが焼き場をマスターしてデコレーションもマスターしたら、立派なパティシエになれると思わないかい?」
 後輩の口元がゆるんだ。
「それ、お世辞で言ってるんじゃないですよね?」
「僕はあと一週間ほどでここを去る人間だよ。お世辞を言っても仕方ないさ。それに、僕はケーキのデコレーションが大の苦手なんだ。正直、きみがうらやましいよ」
 後輩が笑った。今度は、苦笑いではなかった。
 後輩の笑顔につられて、僕も破顔したのだった。

現在の「僕」たち【37】「観察して覚えるということ」

 それから僕は後輩を隣にしてシフォン生地を焼くという作業に入った。
 ロールケーキ型のシフォン生地には様々なタイプがある。紅茶、メープル、抹茶などなどだ。
 僕は基本のシフォン生地を作ることにした。ノーマルで何もいれないシフォン生地である。このシフォン生地さえ作ることができれば、ほかの種類も作ることができる。
 僕は緊張していた。
(改めて思えば自分の作業を人に見られるってのはあまり気持ちがいいものじゃないな。いくら後輩とはいえ、こっちは即席でケーキを作ってるようなもんだし)
 途中、後輩が口を開いた。
「ここの卵白の泡立ては何秒くらいですか?」
 僕は手を止めなかった。
「口は出さない。自分の目で見て覚える。卵白の泡立ての時間なんて感覚だよ。その日の温度や湿度によって卵白の泡立ち加減は変わるんだから。まずは目で見て」
「はい」
 後輩は黙った。
(こんな偉そうなことを言える立場じゃないんだけどなぁ。本当は、『これくらいの泡立ちだよ』って教えたいんだけど、感覚だから教えられないんだよ。こんな言い方になって後輩に申し訳ない)
 自分で言うのもおこがましいが、僕は他人にきつく当たる人間ではない。というよりも、きつく当たることができない。他人と厳しく接し、その人との関係が崩れてしまうのが怖いのだ。
(僕は弱い人間だ)
 自覚していた。
 しかし、智香の会社に転職が決まったときから僕の中で何かが変わった。この店の体質にも疑問を抱くことができるようになった。それに、この店舗を運営する本社にも申し分を言いたくなっていた。
(この会社の体質はおかしい)
 本社からこのケーキ屋に事実上の左遷(させん)をされたときは、
(クビにならなかっただけマシだ)
 と思っていたが、同じく本社から流れ落ち来てた店長や先輩、そして意気込みはあるのにパートタイマーである後輩のことを考えると本社に対しての考え方が変わってしまう。
(もっと、別のやり方があるんじゃないのか? 本社のお偉いさんは何を考えて会社をまわしているんだ?)
 と。
 僕は生地づくりの工程を終えた。
 四角い焼き型にシフォン生地を流し込む。それを温度調整されたオーブンに突っ込んだ。
 オーブンのふたを閉めると、規定の時間にセットされたタイマーのスイッチを押した。
「焼き時間はきっちりと守ること。けど、オーブンも起源が悪いことがあるから、予定の三分くらい前になったら一度確認。予定の時間が過ぎても生焼けに近いと思ったら30秒単位で追加で焼いてみる。それでもダメだったらもう一度生地づくりからやり直すこと」
「はい」
 後輩の声は張りがある。教えているこちらも気持ちがいい。
(よっぽど、パティシエになりたいんだな)
 僕は笑顔を作った。
「メモをとらずに観察してどうだった?」
 後輩は難しい顔をした。
「不安でした。メモをとらないと頭に入らない気がしたからです。でも、メモをとってるときは字を書くことに必死になってたような気がします。目の前で生地を作ってるのに、字ばっかりを書いてました。今回はしっかりと生地づくりを集中して見ることができたと思います」
「それは良かった」
 後輩の頬がゆるんだ。
「しかし、少し驚きました。先輩もあんなふうにビシビシとものごとを言えるんですね。俺の中の先輩はもっとふんわりとした人だったんだすけど」
 僕は顔を赤くした。照れたのだ。
「いや、僕も教えるのに必死でね。きみには立派なパティシエになって欲しいと思うし」
「……」
 後輩が沈黙した。
「僕、何か悪いことをいった?」
 後輩は両手を胸の前で振った。
「いえ、俺の問題っす。ちょっと、考えちゃっただけです」
「良かったら少し話を聞かせてもらえる? きみはどうしてパティシエになりたいの?」
「少し長くなるかもしれませんよ」
「焼き時間の20分以上?」
「そんな深い話じゃないですよ」
 後輩が苦笑いした。とても好印象な苦笑いであった。

現在の「僕」たち【36】「僕の過信」

 疑念を抱いたまま僕は後輩に教えるだけのことは教えた。
「お前に教えることはもうない」
 などと陳腐(ちんぷ)な台詞が言えるほど、後輩は飲み込みが早かった。
(先輩はああ言っていたけど、メモの意味はあるじゃん。後輩はメモをとることでしっかりとケーキ生地の焼き方の手順やコツをつかんでいる。それとも覚え方は人それぞれということなのかな?)
 僕が退職する一週間前には後輩は僕の指示なしでもケーキ生地を焼くことができるようになっていた。
 ときおり、僕はなまけた。焼き場のすみに椅子を置き、ぼんやりと後輩の動きを見る。後輩のうごきは機敏で見ているだけで気持ちが良い。ひとつひとつの動作に無駄がない。
(さすがに調理学校を出ただけある。食材を扱うことになれてる)
 僕は冷たい缶コーヒーを手にしていた。後輩がせっせと働くなか、のんびりとコーヒーを口に運ぶ。
 基本的に後輩はひとりでケーキ生地を焼くことができている。しかし不安があるのか、それとも一応先輩である僕の顔を立てるつもりなのか、ときどき僕のところへケーキの出来栄えを確かめにくることがある。
 この日も焼き場のすみで缶コーヒー片手にボーとしていると、後輩が僕の前に立った。
「シフォン、見てもらえます?」
「ああ、いいよ」
 僕は老人のように椅子から腰をあげた。
 退職一週間も切ると、僕は仕事に身が入らなくなっていた。智香の職場に入社することが頭から離れないのだ。
 後輩は僕に縦長の焼き型を見せた。縦長の焼き型はロールケーキを焼くために使う。今、後輩が焼いたものはシフォンのロールケーキのためのものだ。
 長方形のシフォン生地はこんがりときつね色に焼けている。香ばしい良い香りが鼻をくすぐる。
「まあまあの出来じゃない」
 僕は適当に口にした。が、本当は、「まあまあの出来」ではなかった。100パーセント、しっかりとした出来であった。
(ここで100パーセントと言うと、彼の向上心が止まっちゃうかもしれないからな。あえて、『完璧』と言わずにおこう)
 料理に関して素人の癖に、僕は後輩に対して上から目線であった。
 後輩は小さく頭をさげた。
「ありがとうございます」
 が、後輩は焼けたシフォンを焼き型からはがす作業に入らなかった。しばらく、じっとしている。
 焼き場にやや重い空気が流れる。
(?)
 僕は後輩が何を考えているのかわからなかった。
 後輩が下を向きながら、ようやく口を開く。
「このシフォン、食べてみてくれませんか?」
「べつに、いいけど。試食ってこと?」
「そうです」
 僕は縦長のシフォン生地を素手で引きちぎった。ひとつまみのシフォンを口に入れる。
(あれ?)
 僕は眉を寄せた。
(見た目、匂い、味は完璧だ。けど、僕が先輩に教わったシフォンと違う。もっと言えば僕が作ったシフォンとも違う。少し固い)
 シフォンケーキは独特の柔らかさが売りである。卵の白身を泡立たせ、それをベースに生地を作る。シフォンケーキは卵白のフワフワな食感が売りなのだ。
(卵白のフワフワが死んでる。しかし、これくらいならば店に出しても問題はないだろう。しかし、彼が本物のパティシエを目指しているとするならば、これはシフォンケーキと呼んではいけない。……僕の教え方がまずかったのか?)
 僕は率直に意見した。
「卵白はしっかりと泡立てた?」
「はい」
 後輩の声は弱々しい。どうやら、自分の作ったシフォンの柔らかさが死んでいることに気が付いているようだ。
 僕は四角い焼き型の隣に視線を落とした。そこには、ボロボロになったノートが置いてあった。ノートにはびっしりと文字が埋まっている。全部、僕が教えた言葉だ。
 僕の脳裏に先輩の言葉がよぎった。
「メモをとってもできない人間はできないからな。逆に、メモをとってるようじゃ頭に入らないだろう。体で覚えなきゃ」
 僕は自省した。
(彼が調理師免許を持ってるからって甘くみすぎていた。限られた時間だけど、もう一度、彼にケーキの焼き方を教えよう。これは僕のミスだ)
 僕は一呼吸した。
「メモをしまって。これから僕がシフォンを作るからよく見て、観察して。それから数をこなそう。たくさん作りまくるんだ。今度はしっかりと僕が口を出すから」
 後輩の顔が一気に明るくなった。
「はい。ありがとうございます!」
 それから、後輩は焼き型に入ったシフォン生地を生ゴミに捨てた。

現在の「僕」たち【35】「商売としてのケーキ屋」

 それから僕にとってはある種の苦行が始まった。僕は先輩から学んだ生半可な知識を後輩に教えなくてはならなくなったのだ。
 この店舗で僕はある程度のケーキ作りの技術を得た。しかし、僕は調理師免許を取得していないし、調理学校へ行ったこともない。そんなドがつくほどの素人がケーキを作っていたのだ。
 ときどき、パートタイムでレジを担当している女の子が休憩中に口にすることがある。
「このあいだ、お客さんが、『私、ここのケーキのファンなの。とくにフワフワのシフォンケーキが大好きなの。いつか、テレビで紹介されるかもね』って言ってましたよ」
 僕は恥ずかしかった。
 その「フワフワのシフォンケーキ」なるものの生地を焼いたのは即席パティシエの僕なのだ。いや、パティシエなどと名乗るは本物のケーキ職人に失礼である。僕なんぞ趣味でケーキを作っている主婦よりもレベルが(おと)るだろう。材料と道具が僕を助けているだけなのだ。
 僕は先輩のもとから離れて焼き場に入ることにことになった。さらに、僕と一緒に焼き場に入る人物がいる。男性でちょうど二十歳の青年である。
 彼は僕と違い、調理学校を卒業してこのケーキ屋へ入った。しかも調理師免許を持っている。が、彼は正社員ではない。パートタイマーである。
 調理師免許を所持しているパートタイマーに素人の僕がケーキ作りを教える。正直、つらかった。自分でもうまく表現できないが、僕のやっていること、もっと言えばこの会社の素質が理不尽に思えた。
 彼は本物のパティシエになりたくてこのケーキ屋へ入った。パートタイマーだから正社員と待遇が違う。賃金も安定していない。
(どうしてケーキ作りにやる気のない僕や先輩が正社員で(こころざし)のある彼がパートタイマーなんだ。彼を正社員として雇うことは会社として投資になるんじゃないのか)
 心で疑念を抱きつつも、彼にケーキの焼き方を教えていた。
 ある日、先輩と休憩室で二人きりになった。
 パートタイマーの彼は休みであった。彼は働きたかったのかもしれないが、人件費削減のため休みになっている。
 僕は仕出し弁当を口にしながら、先輩に愚痴(ぐち)をこぼした。
「なんで彼を社員にしないんですかね」
「まだ、若いからな。もしかしたら、ケーキ職人になりたいってのはただの夢かもしれん」
 先輩は僕がこの会社を辞めることを知っていた。店長に退職願を出したあと、いちばんに先輩に報告したのだ。
「でも、おかしいですよ。調理師免許を持っている人間にケーキ作りを僕が教えるなんて」
「免許を持っているのと、実際に作るのとでは違うからな。実は俺、危険物取扱の免許持ってんだ。でも、高校のときに取ったやつだから中身なんてほとんど忘れた。今、ガソリンスタンドで働けって言われても無理だろうな」
「でも、彼には情熱がありますよ。僕が説明すると一生懸命メモをとるんですよ。目が真剣なんです」
 荒々しい声の僕に対して、先輩の声はのんびりしている。
「メモをとってもできない人間はできないからな。逆に、メモをとってるようじゃ頭に入らないだろう。体で覚えなきゃ。俺たちは職業でケーキ作ってんだ。免許あるやつがケーキ作ってもまずけりゃ売れない。本社から落ちこぼれて家で包丁さえ握らないやつでも、うまくて売れるケーキを作るのが商売だ。利益がでなきゃ意味がない」
 僕は黙った。先輩の言っていることがいちいち正論だからだ。
 先輩はゆっくりと言葉を続ける。
「それに、あいつも情熱があるからパートでもこのケーキ屋へ入ったんだろう? 本当にパティシエになることが夢ならパートでもやっていくさ。パートでもしっかりと仕事をこなせば、正社員になれるんだしな。それに、ここで技術を盗むだけ盗んでひとりで開業する気なのかもしれん。そこは会社と本人の契約なんだから、他人が口を出す権利はないさ」
 僕は(はし)を止めた。
『私、ここのケーキのファンなの。とくにフワフワのシフォンケーキが大好きなの。いつか、テレビで紹介されるかもね』
 お客さん言っていたという言葉が頭の中で再生されていた。
(いくら情熱があっても売れなければ意味がない。商売だからだ。先輩は大人だ。そこをしっかりと割り切ってる)
 僕は自分の思考回路が幼稚なことに嫌気が差した。

現在の「僕」たち【34】「僕がなるかもしれない姿」

 智香の会社に入ることを決めてから約三日後。僕はようやく上司に退職願を出した。
 遅れた理由は実に簡単だ。退職願の書き方がわからなかったのだ。馬鹿なことに、僕は本屋のビジネス関係の書籍が並ぶコーナーで退職願の書き方が載っている本を探し、それを参考にして退職願を完成させた。
 ケーキ屋に出社していちばんに、僕の直属の上司であり、この店の店長である人に退職願を提出した。場所は店長がいつもパソコンとにらめっこをしている小さな事務室だった。
 僕はキーボードを叩いている店長を呼んだ。そして、頭を下げて退職願を提出した。
 上司はキーボードから手を離すと、すんなりと退職願を受け取った。とくに、顔色は変わらない。
「参考までに聞きたいんだけどさ、どうして辞めようと思った?」
 僕も腹は決まっていた。が、いざ上司に質問されると体がかたまってしまう。
「い、一身上の都合です」
「そういう体裁はいいよ。きっと、この紙にもそう書いてあるんでしょ? 個人的に興味があって聞いてるだけだよ。上には報告しない」
 上司の口にした「上」とは本社のことである。
 僕はありのままを話すことにした。嘘を並べても意味はない。どうせ、この会社を辞めるのだ。
「知人の会社に入るように誘われました」
「新しく会社を立ち上げるの?」
「いえ、すでにある会社です」
「ふ~ん」
 それで上司の質問は終わってしまった。本当に、「個人的な興味」だったようだ。
 上司は確認するように言う。
「わかってると思うけどさ、最低でも一ヶ月はここにいてもらうよ。辞めるのは自由だけど、引継ぎはしっかりとしてもらうからね」
「承知してます」
「じゃあ、これは上に渡しとくから」
「失礼します」
 僕は事務室を出ようとしたときだった。
「ありがとうね」
 上司は意味のわからないことを言った。
「は?」
 僕は振り返って上司を見た。
 上司は退職願をデスクの引き出しにおさめようとしているところであった。
「これで僕の点数も上がるから」
「点数?」
「僕も本社から落ちてきた人間なんだよね。でさ、僕はいわゆる中間管理職なんだけど、そういう人間の仕事のひとつが正社員の整理なんだよね。簡単に言うと、正社員を合法的に解雇すること。きみがここを辞めてくれれば、僕の点数がひとつ上がる。点数が上がれば、本社に戻れる可能性が高くなる。きみには感謝するよ」
「……」
 僕は棒立ちになった。何と言って良いのかわからない。
(中間管理職の人はそういう仕事もしなければならないのか。ある意味で、かわいそうな役回りだ。普通の社員よりもつらいかもしれない。智香の会社に入ったら、僕もそういう役目をするときがくるかもしれない。今、目の前にいる上司は将来の僕の姿かもしれないんだ)
 僕は上司に向かって深々と頭を下げた。
「これまで、いろいろとありがとうございました」
 上司は何も言わずに僕を一瞥した。そして、パソコンに視線を戻し、キーボードを叩く作業に戻った。
 僕は事務室をあとにした。