現在の「僕」たち【36】「僕の過信」 | 彼と彼女と僕のいた部屋

現在の「僕」たち【36】「僕の過信」

 疑念を抱いたまま僕は後輩に教えるだけのことは教えた。
「お前に教えることはもうない」
 などと陳腐(ちんぷ)な台詞が言えるほど、後輩は飲み込みが早かった。
(先輩はああ言っていたけど、メモの意味はあるじゃん。後輩はメモをとることでしっかりとケーキ生地の焼き方の手順やコツをつかんでいる。それとも覚え方は人それぞれということなのかな?)
 僕が退職する一週間前には後輩は僕の指示なしでもケーキ生地を焼くことができるようになっていた。
 ときおり、僕はなまけた。焼き場のすみに椅子を置き、ぼんやりと後輩の動きを見る。後輩のうごきは機敏で見ているだけで気持ちが良い。ひとつひとつの動作に無駄がない。
(さすがに調理学校を出ただけある。食材を扱うことになれてる)
 僕は冷たい缶コーヒーを手にしていた。後輩がせっせと働くなか、のんびりとコーヒーを口に運ぶ。
 基本的に後輩はひとりでケーキ生地を焼くことができている。しかし不安があるのか、それとも一応先輩である僕の顔を立てるつもりなのか、ときどき僕のところへケーキの出来栄えを確かめにくることがある。
 この日も焼き場のすみで缶コーヒー片手にボーとしていると、後輩が僕の前に立った。
「シフォン、見てもらえます?」
「ああ、いいよ」
 僕は老人のように椅子から腰をあげた。
 退職一週間も切ると、僕は仕事に身が入らなくなっていた。智香の職場に入社することが頭から離れないのだ。
 後輩は僕に縦長の焼き型を見せた。縦長の焼き型はロールケーキを焼くために使う。今、後輩が焼いたものはシフォンのロールケーキのためのものだ。
 長方形のシフォン生地はこんがりときつね色に焼けている。香ばしい良い香りが鼻をくすぐる。
「まあまあの出来じゃない」
 僕は適当に口にした。が、本当は、「まあまあの出来」ではなかった。100パーセント、しっかりとした出来であった。
(ここで100パーセントと言うと、彼の向上心が止まっちゃうかもしれないからな。あえて、『完璧』と言わずにおこう)
 料理に関して素人の癖に、僕は後輩に対して上から目線であった。
 後輩は小さく頭をさげた。
「ありがとうございます」
 が、後輩は焼けたシフォンを焼き型からはがす作業に入らなかった。しばらく、じっとしている。
 焼き場にやや重い空気が流れる。
(?)
 僕は後輩が何を考えているのかわからなかった。
 後輩が下を向きながら、ようやく口を開く。
「このシフォン、食べてみてくれませんか?」
「べつに、いいけど。試食ってこと?」
「そうです」
 僕は縦長のシフォン生地を素手で引きちぎった。ひとつまみのシフォンを口に入れる。
(あれ?)
 僕は眉を寄せた。
(見た目、匂い、味は完璧だ。けど、僕が先輩に教わったシフォンと違う。もっと言えば僕が作ったシフォンとも違う。少し固い)
 シフォンケーキは独特の柔らかさが売りである。卵の白身を泡立たせ、それをベースに生地を作る。シフォンケーキは卵白のフワフワな食感が売りなのだ。
(卵白のフワフワが死んでる。しかし、これくらいならば店に出しても問題はないだろう。しかし、彼が本物のパティシエを目指しているとするならば、これはシフォンケーキと呼んではいけない。……僕の教え方がまずかったのか?)
 僕は率直に意見した。
「卵白はしっかりと泡立てた?」
「はい」
 後輩の声は弱々しい。どうやら、自分の作ったシフォンの柔らかさが死んでいることに気が付いているようだ。
 僕は四角い焼き型の隣に視線を落とした。そこには、ボロボロになったノートが置いてあった。ノートにはびっしりと文字が埋まっている。全部、僕が教えた言葉だ。
 僕の脳裏に先輩の言葉がよぎった。
「メモをとってもできない人間はできないからな。逆に、メモをとってるようじゃ頭に入らないだろう。体で覚えなきゃ」
 僕は自省した。
(彼が調理師免許を持ってるからって甘くみすぎていた。限られた時間だけど、もう一度、彼にケーキの焼き方を教えよう。これは僕のミスだ)
 僕は一呼吸した。
「メモをしまって。これから僕がシフォンを作るからよく見て、観察して。それから数をこなそう。たくさん作りまくるんだ。今度はしっかりと僕が口を出すから」
 後輩の顔が一気に明るくなった。
「はい。ありがとうございます!」
 それから、後輩は焼き型に入ったシフォン生地を生ゴミに捨てた。