彼と彼女と僕のいた部屋 -7ページ目

現在の「僕」たち【28】「あり得ない質問と決められない答え」

 智香の元に、おかわりのナンが運ばれてきた。籐籠に入ったナンを笑みで受け取った。
「で、私の顔を見て何か考え直せれた?」
「智香はあいかわらず、大食いだな、と思った」
 智香がナンが入った籐籠を投げつける仕草をした。もちろん、智香は籐籠を投げたりしなかった。僕に、
(ふざけるな)
 と言いたかったのだ。
 僕は祈りを捧げる人のように左右の手を合わせた。一つになった両手の先端で幾度か顎をなでた。剃り残した髭の感触がザラリとする。
「女性でこの大きさのナンを食べるのは普通なの?」
 智香はもうおかわりのナンを口に運んでいた。
「だから言ったじゃん。女の人でもここのナンなら二枚は余裕だって。そんなことよりも、今のゆう太の考えを聞かせてよ」
「驚いてる」
 智香はナンを籐籠に戻した。
「何に?」
「本当に、僕の助言どおりに人事をしたことに」
 智香は右の眉を器用に上げた。
「当たり前じゃん。私がゆう太に相談したんだよ。私は経営に関しては、ズブの素人だからゆう太の判断が正しいと思ったの」
 僕は左右の手を離れ離れにさせた。拳を作ると、膝の上に置く。
「智香、社長業ってさ、知識とか経験じゃないんだよ。そりゃ、必要最低の経営力と経験は必要だよ。でも、どんなにいい大学で経済の論文を書いても、どんなにいい会社で実績をあげても、良い社長になれるとは限らないんだ」
「じゃあ、何が必要なの?」
「人柄」
 智香は、今度は眉を寄せた。理解ができないようだ。
「人柄? そんな人情っぽいことが必要なの?」
「これは僕の大学の先生の受け売りなんだけど、結局は人柄がものを言うんだって。たとえば、A社とB社、まったく同じ品質でまったく同じ値段の商品を取り扱ってるとする。智香はA社かB社からこの商品を仕入れなければならない。さて、商品の条件は同じです。あとは、何を基準に選びますか?」
 智香が眉をさらに寄せた。不快感を表しているようにも映る。
「私を試してるの?」
「そう思ってくれてもいい。どっちにする」
「……決められない。あえて言えば、運送コストが安いほうかな?」
「運送コストも同額とする」
「何、その問題?」
「大切なことなんだ」
「そんなの、『決められない』が答えに決まってるじゃん。だいたい、現実世界で同じ価格で同じ商品なんてあり得ないし」
「あり得ないから大事だと僕は思うんだ。じゃあ、逆に、A社とB社、何が違ったら選ぶことができる?」
 智香は腕を組んだ。
「商品の条件は一緒。運送コストも無視。あとは、A社とB社がどんな会社かを知りたい」
 僕は大きくうなずいた。
「うん」
「A社とB社が共に同じ商品を扱ってるなら、より永く、そして良い関係で取引をしたいと思う」
「じゃあ、そのA社とB社の違いを生み出しているものは?」
「会社員? もっと言えば、そこの会社の重役や社長さんかな?」智香が短く母音を吐く。「あ」
「そう、今、僕は智香に取引相手になってもらった。けど、逆の立場になって考えると、会社の重役や社長はとても大切な存在なんだ。会社のビジョンや雰囲気を作るのが社長の務めだからね。それに、さっきの問はまったく均質の商品で比較したけど、会社の質によっては高い商品でも、仕入れをすることも大事になってくる。たとえば、どんなに安い商品を入荷してくれても納期に間に合わせてくれない会社は失格だからね」
 智香は何かに納得するように、先ほどから左手で頬をさすっている。
「そう言えば、私があるときの会議で仕入れ先を変えようって言ったことがあるの。でも、今まで会社にいた人たちはいい顔をしなかった」
「それは、その会社としっかりとした信頼を結んでいるからだと思うよ。きっと、その会社の商品が高かったから別の会社から仕入れようって、智香は提案したんでしょ?」
 智香がうなずく。
「そのとおり。少しでも仕入れコストが安くなれば私の会社の利益になると思ったの」
 僕は智香に話をしていることが恥ずかしくなってきた。たぶん、声色は変えていないつもりであるが、顔が紅潮しているはずだ。
(僕は偉そうに智香に説教してる。こんなの経済学部にいた連中なら知っていて当然の理屈だ。いや、常識的に考えたらこういう結論に達することが当たり前なんだ。けど、智香はずっと文学と向き合ってきた。きっと経済のことなんて無頓着だったんだろう。この場に、智香と僕しかいなくて良かった。こんな初歩的な会話を偉そうに語っている自分自身が本当に恥ずかしい)
 僕は乱暴にナンをちぎってカレーに浸した。口いっぱいにナンを放り込む。
「このナン、本当においしいね」
 僕は恥ずかしさを打ち消すために、わざとおどけて言ったのだった。

現在の「僕」たち【27】「僕が提案した二人の処遇」

 智香はフォークでサラダを口に運んだ。
「じゃあ、ゆう太は私の会社に来てくれないつもりだったの?」
「もちろん」
「そういえば、私がゆう太の会社に行って、喫茶店で話をしたとき、ゆう太はこう言ったよね。『一応、考える』って」
「うん」
「『一応、考え』て私の話を断る気でいたんだ」
「考えもなしに一方的に断るのは智香に失礼だと思ったから」
 智香はフォークを置いた。サラダが入っていた器は空になっていた。
 智香はナンに手を伸ばした。
「それって、変じゃない? 断る前提でいるなら、『一応、考える』必要もないじゃない?」
「だから言ったじゃん。一方的に断るのは智香に失礼だって。それに、今は断るべきなのかすら迷ってる。すべてがわからなくなったんだ」僕は頭を抱える。「先輩に智香の話をするんじゃなかった。先輩に話をしなければ、僕は迷わずに智香の会社入りをきっぱりと断ることができたのに」
 智香は(おだ)やかな顔でナンを頬張(ほおば)っている。
「私からしたらその先輩に感謝ね。まったく断る気でいたゆう太を私の会社に引き入れることができるかもしれないきっかけを作ってくれたんだもん」
 僕は智香をにらんだ。
「他人事だと思って」
 智香はナンを()みながら笑った。
「だって、私はゆう太という人材が欲しいんだもん。願ったり叶ったりよ」
「あー、僕はどうすればいいんだ!」
 僕も自棄(やけ)になっておかわりをしたナンを左右に大きくちぎった。カレーをつけずに、そのまま口に入れる。そのまま、食べてもナンはおいしかった。おいしいナンに無性に腹が立った。いや、腹を立てていたのは自分自身に対してだったのだろう。
 智香はプレートに載っていたナンを食べきった。店員を呼び、ナンのおかわりを要求をした。
 店員から僕に視線を移す。
「とりあえず、ゆう太の言うとおりにしてみたよ」
 僕は目を丸くした。
「本当に、あの人事をしたの?」
「うん。だって、ゆう太がそうしろって言ったから」
 智香はパートの女性と配送係の男性を自分の側近として置いたのだ。それは、僕が喫茶店で助言したことだった。
 僕は冷や汗をかいた。額に右手を当てる。
「そんな状態で僕が智香の会社に入ったら、僕が智香を洗脳したみたいじゃないか。きっと、会社の人たちは僕が智香の会社を乗っ取る気でいると考えるよ」
「別にいいんじゃない? ゆう太が私の会社を乗っ取って経営がうまくいけば、私は満足だよ。むしろ、経営を学んだゆう太に会社を任せたほうが会社にとってはいいことかもしれない」
 智香は先ほどから顔を崩していない。むしろ、笑顔に近い表情を浮かべている。
「無茶苦茶だよ。で、その二人にはどういう役職を与えたの?」
「とりあえず、パートのおばさんには正社員になってもらった。本人は嫌がってたみたいだけど。勤務時間は今までどおりでいいからってことで正社員にした。パートのときも正社員とほぼ変わらない時間で働いていたんだけどね。扶養控除対策で年度末は休んでたことが多かったんだけど、とりあえず、その問題は後回しにした。それから、配送係のおじさんには、配送から外れてもらうことにした。ただし、こっちには条件があって、一ヶ月の時間が欲しいって言われた」
 このあたりから会話の主導権を智香が握り始めた。僕は弱々しい声で聞くしかない。
「社長としての智香にいることを考える時間が欲しいってこと?」
「違う。私のそばにいてくれることには同意してくれた。けど、配送の引継ぎをしたいから後輩に色んなことを教えたいんだって。それには、最低でも一ヶ月はかかるって言われた」
「真面目な人なんだね」
「そういう真面目なところも評価してるの。私って、人を見る目があるでしょ?」
 僕は五秒間黙った。そして、ゆっくりと口を開いた。
「僕を見る目以外は、ね」
 智香が(ほほ)をふくらませる。
「なんでそんな自虐的に言うかな」
 智香の目は本気で怒っているように映った。

現在の「僕」たち【26】「巨大なナンとゼロ回答」

 智香がスープを飲み終えると同時に、店員がプレートを持って来た。プレートには銀の器に入ったカレー、サラダ、小さなタンドリーチキン、そして巨大なナンが載っていた。
「チキンカレーノセットデス」
 店員がテーブルにプレートを置いた。
 僕は目を丸くした。テーブルの上のプレート、特にナンに釘付けになる。
「ナンってこんなにも大きいの?」
 ナンはプレートを(おお)うように載っている。成人男性の手の先から(ひじ)までの大きさはあるだろう。
 智香はすでにナンに手を付けていた。
「見た目は大きいけど、けっこう食べられるんだ。小麦粉よりも空気のほうが多いんじゃないかな? この店、ナンのおかわりが自由だし」
「この大きさのナンをおかわりするの?」
 智香はナンを左右の手でちぎると、カレーに(ひた)して口に入れた。
「食べられるよ。女性でも二枚は食べるんじゃなかな」
 僕は智香にならって、ナンを手でむしった。
(そういえば、インドって片手でものを食べるんじゃなかったっけ? 右手だっけ、左手だっけ?)
 僕が手を止めていると、智香が笑った。
「ここは日本なんだから、両方の手を使えばいいよ」
 確かに、智香は先ほどからナンを左右の手でちぎって食べている。
 僕も智香と同じように右手と左手でナンを一口ほどの大きさにちぎると、カレーにつけた。カレーはサラリとした液状になっている。カレーを付着させたナンを口に入れる。
「あ、おいしい」
 そんなありきたりな言葉しか出ない。しかし、おいしいのは事実だ。
 智香はフォークを右手にしていた。小さなタンドリーチキンを食べているところであった。
「でしょ? これなら、ナンをおかわりできそうでしょ?」
「パンとは違うんだね。スカスカって言い方は変だけど、思っていたよりも重量がない」
 それから僕と智香はナンとカレーを口に入れ続けた。
 どうやら僕は空腹だったらしい。大きなナンが次々に口の中に消えていく。
 智香も手慣れた手つきでナンを口に運ぶ。
 僕のナンがなくなり、智香のナンが半分になったところで、店員がテーブルに寄って来た。
「オカワリハイリマスカ?」
「お願いします」
 僕は軽く頭を下げた。
 店員が去る。
 そのとき、ようやく店の雰囲気に気が付いた。二十人ほどいた客がいつの間にか、ほぼいなくなっている。テーブル席に座る一組の男女しかいない。
 店は客たちのおしゃべりであふれていたのに、気が付くと静かになっていた。
 智香はナンをプレートに置いた。
「そろそろ、店も落ち着いてきたし、話してもいいかな?」
 どうやら、智香は店が混雑する時間帯を考慮していたようだ。そして、店内が静寂になるのを待っていたらしい。
 僕は軽くうなずいた。
「智香の会社のことだよね。ごめん、先に言っとくけど、僕、自分で自分がわからなくなってきたんだ」
「それでいい」
 僕はテーブルの端に置かれたペーパーナプキンで口を拭った。
「初め、僕は智香の誘いを完全に断る気でいたんだ。でも、ある人の言葉で考えが変わったんだ。いや、変えさせられたのかな」
「ある人?」
「僕の会社の先輩。ケーキ屋で智香も見たと思うよ」
 智香が視線を上に移動させた。記憶を探っている。やがて、ショートヘアーを小刻みで縦に振った。
「ああ、あの人」
「先輩に智香からの話をしたら、自分の気持ちがわからなくなってね。あの先輩、どこか友喜に似てるんだ」
 智香が吹き出した。
「冗談。友喜はあんなにイケメンじゃなかったよ」
「それは僕もわかってる。姿かたちじゃなくて、考え方とか話のもって行き方とかが友喜によく似てると思ったんだ」
「ゆう太がそう思うんなら似てるだね。で、私への返事は?」
 僕は肩をすくめた。
「ごめん。だから本当にゼロ。ここへ来たのは、もう一度、智香に会って一から考え直したかったからなんだ」
 そのとき、店員が僕たちの席にやってきた。(とう)()まれた(かご)を持っている。籐籠(とうかご)からは巨大なナンがはみ出している。
 店員が僕のプレートにナンを置いた。
「ゴユックリドウゾ」
 店員が智香と僕が座るテーブル席から離れて行った。

現在の「僕」たち【25】「智香と黒いスーツ」

 智香の言うとおり、インド料理屋は混雑していた。席数が二十席ほどしかないにもかかわらず、空いているのは先ほど出て行った四人の女性たちが座っていたであろう四人掛けのテーブル席しかない。
 店の中は男女の会社員、おしゃべりに興じる主婦、ゆっくりとスープを飲んでいる老夫婦など様々だ。が、圧倒的に会社から抜けだしてきたであろう会社員たちが多い。
 四人掛けのテーブル席にはまだ食器が残っていた。片言の日本語を話す女性が丁寧に頭を下げる。
「今、席ヲ用意シマスノデ、オ待チ下サイ」
 女性は浅黒い顔に満面の笑みを浮かべた。
 僕と智香は黙って店のドア付近に突っ立った。
 五分ほどして店員が戻って来た。
「オ待タセシマシタ。コチラヘドウゾ」
 智香と僕は四人掛けのテーブル席に通された。
 僕と智香は斜めに対面するように座る。
 お水とおしぼりが出される。
「ゴ注文ガ決マリマシタラ、オ呼ビクダサイ」
 店員がテーブルの中央にメニュー表を置いて去った。
 智香はチキンカレーのランチメニューを選んだ。僕もよくわからないので、智香と同じものにする。
 片言の店員に注文を告げる終えると、智香が大きなため息をついた。肩を落とす。
「なんだか、馬鹿みたい」
 僕はおしぼりで手を拭いている最中であった。手を止めて、智香の顔を見る。
「え?」
「自分で言うのも変だけど、私、緊張してたの。でも、ゆう太は全然そんなふうに見えない。てっきり、ゆう太も緊張してると思ってたのに」
 僕はおしぼりをテーブルに置いた。
「顔には出てないかもしれないけど、緊張してるよ。はっきり言って、何から話していいかわからないし」
 智香は首をゆっくりと右、左に傾けた。ポキ、ポキと小気味の良い音がする。
「肩が張った。店の前でゆう太のことを三十分くらい待ってたんだ。そのあいだ、色んなこと考えてた」
 僕は智香の服装に視線を移した。
「会社、大丈夫?」
「大丈夫。あの会社は私がいなくても、回るから。むしろ、私がいないほうが何かと効率がいいかもしれない」
「……」
 僕は何も言わなかった。
 店員が白いカップをテーブルに置いた。カップの中には透明のスープが入っている。
 店員が去ってから、僕はカップに直接口を付けてスープを飲み込んだ。薄い味だが、旨みがしっかりと伝わる。
「おいしいね」
 僕は話題をそらすように言った。
 智香はスプーンでスープをすくう。
「なかなかでしょ? 会社のパートさんたちにも評判がいいんだ」
「へぇ」
 僕は()が持たないので、スープを立て続けに飲んだ。三分でカップが空になる。
 手持ちぶさたになる。仕方がないので、僕は智香の服装について(たず)ねた。
「その服って、智香が大学の卒業式に着てたやつだよね?」
 智香がスプーンを止めた。
「よく覚えてるね」
「あれ、当たりだった? 黒いスーツだから適当に言ってみただけなんだけど」
「会社に入ったころは一応、社長だからいろんなバリエーションのスーツを着てたんだけど、選ぶのが面倒になって最近はずっとこのスーツを着てるの。けっこう、気に入ってるし」
「僕なんて、卒業式に着たリクルートスーツがきつくなってきてさ。たぶん、今じゃ、ズボンが入らないと思うよ。恥ずかしいけど、お腹が出てきちゃってね」
「ゆう太はケーキ屋さんでしょ? 太るのは職業病みたいものだから、仕方ないと思う」
「けど、スタイルの変わらない智香がうらやましいよ」
 智香が黙った。そして、顔を赤らめた。
 僕はあわてて次の言葉を発した。
「ごめん。セクハラみたいなことを言っちゃった。今のはなしにして」
 智香は首を左右に振った。ショートヘアーが軽く揺れる。
「ううん、嬉しいの。私、本当にこの服が好きだから」
「あ」
 僕はあることに気が付いた。
 智香が着ているスーツは卒業式間近に買ったものではない。まだ、友喜が健在だったころに、智香が購入したものだ。
 ルームシェアをしていた503号室のリビングで智香は友喜と僕に新品のスーツをお披露目した。そのとき、友喜が、
「似合ってるじゃないか」
 と、口にした。
 その瞬間、智香は顔を紅潮させた。その度合は、今さきほど、智香が僕に見せた顔と同一のものだった。
 スープを丹念(たんねん)に味わう智香を見て、
(智香の中には友喜の存在がしっかりと息づいているんだな)
 と、僕は思った。

現在の「僕」たち【24】「緊張、どうでも良い話」

 智香が僕の店に来てから数日後の平日。僕はもう一度、智香と直接会うことにした。
 僕たちケーキ屋の仕事は休日が勝負だ。金土日、そして祝祭日に売上が伸びる。そのため、僕の休日も平日が多く、不規則である。
 智香には事前にケータイへ電話をした。智香は大学のときからケータイの番号を変えていなかった。
 ケータイ越しに話す智香は嬉しそうだった。もしかしたら、僕が智香の提案を受け入れると思っていたのかもしれない。が、僕の心はまるでゼロになっていた。
 先輩のせいである。
 初めは智香の話を断る気でいた。智香の会社に入るなど、あり得ない、と思っていた。しかし、先輩の言葉に僕は心が動いた。
(自分でもどうしていいのかわからなくなった)
 それが、正直な感想である。
 僕が僕自身を納得させるためには、智香と直接会って話をするほかにない。僕はそう判断し、智香と再び会うことにした。
 智香は僕の職場近くに来てくれた。今度は、僕が智香の会社近くまで足を運ぶ番だ。
 僕は智香の会社付近で昼食を()りたい、と伝えた。智香は即座に職場近くでランチができる場所を告げた。そのときの、智香の口調は(はず)んでいた。智香が高揚していることが、鈍感な僕にもわかった。
(智香の気持ちを受け入れたわけじゃなかったんだけどな)
 僕は智香に胸中でわびながら、食事をする場所の住所をメモしたのだった。

 智香と会う当日の十二時半ごろ。
 僕はメモを片手に智香が指定した住所へたどりついた。駅から徒歩十分ほどの場所にその店はあった。
 店の看板に「インド料理」と記されている。
(カレー屋さん?)
 不審に思いながらも、僕は店舗に近付く。
 智香から店の種類は聞いていなかった。
 店の前に木製の椅子がある。黒いスーツを着た女性が一人、座っている。
(智香だ)
 僕は椅子に座る女性に近付いた。
「ごめん、待った?」
 智香が椅子から腰を浮かすと、首を左右に振った。
「私が少し、早く来たの」
 確かに、約束の時間は十二時三十分ちょうど、ということになっていた。
 智香は立ち上がらると、微笑(ほほえ)んだ。
「カレーで良かった?」
「カレーは好きだよ。でも、ここは本格的な店だから辛そうだね。僕、辛いのはあまり得意じゃないんだ」
「大丈夫、辛さは選べるから。ヨーグルトとか入れてマイルドにもできるし。ナンとかも好き?」
「なん?」
 智香は一音ずつ区切って発音する。
「ナ・ン。小麦粉を平たく伸ばしたパンみたいなもの」
「ああ、ナンか。インド人が手だけでカレーと一緒に食べるやつだよね」
「そうそう」
 僕たちはまったく本題に入ろうとしなかった。お互いが話し合いをすることに関して、緊張をしているのだ。だから、どうでも良い話題を作って話の路線を変えようとする。
 智香が腕時計に目を落とした。
「そろそろかな。この店、安くておいしから、ランチのときは混んでるんだ。この時間帯になると()いてくるの」
 智香がそう言った瞬間、店のドアが開いた。四人の女性たちが出て来る。三十代の後半だろうか。主婦らしい雰囲気で、皆、ラフな格好をしている。
 智香が開いたドア越しに店の中をのぞき込んだ。確かめるように、首を縦に振る。
「席が空いたみたい。中に入ろう」
 智香は閉まりそうになるドアの取っ手に右手を伸ばした。ドアを引っ張る。
 僕もあとに続く。
「イラッシャイマセ」
 片言の日本語が店の中から聞こえた。どうやら、本物のインド人が経営している店らしい。
(場違いじゃないかな?)
 堂々と店の中に足を入れる智香のあとに、僕は恐る恐るついて行った。