彼と彼女と僕のいた部屋 -9ページ目

現在の「僕」たち⑲「鶏口となるも牛後となる勿れ」

「はい?」
 僕は小麦粉を寸胴の中に入れながら首をかしげた。
「だから、その女性の会社に入れよ」
「冗談じゃないですよ。智香と大学が同じだからって理由で会社に入れないですよ」
「俺は縁故採用を否定しないぞ」
 ミキサーを低速にする。あまり、高速で回転させると小麦粉がしっかりと混じってしまい、クッキー生地が荒くなる。
「そもそも、僕は大学での成績が悪かったんです。そんな僕が社長の側近になれるとは思えません」
「けど、経営学科だったんだろう? それで、彼女は国文学だった。ちょうどいいアドバイザーじゃないか、お前は」
「他人のことだと思って、簡単に言ってくれますね」
 先輩はクッキー生地から型を繊細に抜いていく。
「だって、他人事だろ?」
 僕はそれ以上、反論できなかった。
 先輩が次の言葉を発する。
「それに、さっきも言ったけど、お前が社長になることを勧めた一人でもあるしな」
「それは友人としてアドバイスしただけですよ」
 先輩はタバコの煙を吐くように、口から息を大きく吐いた。
「この会社に未来はあると思うか?」
 あまりに唐突な質問に僕は即座に答えることができなかった。
「ある、と思います。大きな会社ではありませんが、経営はしっかりとしています。僕たちを本社から切り離したのも、会社の利益から考えたら当然の結論だと思います」
「模範解答だな」
「本当に思ってることです。自分がリストラの対象になったときは悔しかったですが、客観的に見れば、会社としては正常と言える思います。人員カットが一番の経費削減ですからね」
「お前はさ、夢とかないの?」
 またしても突飛な問いだ。
「夢?」
「ああ。部長になりたいとか、課長になりたいとか。露天商の販売人になりたいとか。あるいは、株で一発当てて、不労所得で暮らしたい、とか世界一周したい、とか」
 先輩が挙げるたとえは、どれも統一性がない。
「……あまり考えたことがありません。けど、普通になりたいな、と思ってはいます」
「普通?」
「会社に入って、恋人を作って、結婚して、子供ができて……。そんな人生を歩めたらな、と」
 先輩が鼻で笑った。
「小さいな。もっとデカイ夢はないのかよ」
「そういう先輩こそないんですか?」
 先輩は五秒の沈黙のあと、ゆっくりと口を開けた。
「誰にも言うなよ」
「はい」
「この店をでかくする。で、功績が認められて本社に呼ばれても、俺は本社行きを蹴る。それが、今の俺の夢だ」
 僕は思わず吹き出した。
「なんですか、それ」
「だから、誰に言うなよ。俺自身も恥ずかしいと思ってるんだから」先輩は本当に恥部をさらしたようだ。顔が赤い。「今度はお前が言えよ」
「だから、さっき話したのが本当ですって。あえていえば、少しお金持ちになりたいです」
「金、ね。お前、『鶏口となるも牛後となる勿れ』って言葉知ってるか?」
「『ケイコウ? ギュウゴ? なかれ?』」
「要は、でっかい組織の尻尾にいるよりも、小さな組織のトップになれってことだ」
「それって、智香の会社のことを言ってるんですか?」
「そう思ってもらってもかまわん」
「僕はそんな人間じゃありませんよ。他人を動かすのが下手なんです」
「それはお前じゃなくて、他人が決めることだろう。実は、お前は組織のトップに近い人間にいるべき人柄なのかもしれん」
「全部、憶測じゃないですか」
「俺が言いたいのは、お前に会社に来てくれるように頼んだ美人さんの気持ちを考えろってこった」
(智香の気持ちね)
 僕は最後の小麦粉をミキサーに投入した。サックリと仕上げるために、小麦粉は手早くかき混ぜる。あまり混ぜすぎると粘りが強く出て焼きあがったときの食感が悪くなる。
 僕はクッキー生地のタネが入った寸胴を業務用のミキサーから取り出した。
(今頃、智香は何を考えてるんだろう?)
 喫茶店から去る智香の姿を脳裏で思い返していた。

現在の「僕」たち⑱「先輩の提言」

 沈黙した僕を見て、先輩が苦笑いした。先輩の手は完全に仕事を放棄していた。
「当たりか。だったら、お前にも責任があるな」
 僕は声を震わせる。
「何の責任です?」
「そのヘッドハンティングの話だよ。お前が、加藤さんとやらに社長になることを勧めたんだろう? お前の言葉で彼女は院を捨てて社長になった。そして、今、彼女はお前に助けを求めている。社長になることを勧めたお前に、だ」
「そんな。僕は智香に、『智香なら社長になれる器だ』とかなんとか言っただけです。たぶん、智香を知る人間なら誰でもそういうと思います」
 先輩はローラーに腰をもたげた。全身を僕の方へ向ける。
「社長になることを勧めたことに変わりはないんだろう?もしも、お前の勧めがなかったら、彼女は社長になっていなかったかもしれん」
「それはないですよ。僕なんかの言葉に振り回されるような人間じゃありません」
「だから、『もしも』って付けただろう。言葉にはそれだけの責任がともなうって言いたいんだよ」
 僕はバターと砂糖、卵のペーストを見下ろした。そろそろ、小麦粉を混ぜて冷蔵庫へ入れてやらないと、バターが溶けてしまう。
(智香が僕の言葉に左右されるか? 先輩の言うように、『もしも』僕が智香に社長になることを勧めなかったら? 智香は社長にならずに、大学院に残っていたか?)
 僕の頭をたくさんの疑問符がよぎった。
(いや、僕なんかの言葉で決心をする智香じゃない。智香はものごとを慎重にかつ、責任を持って決める人だ。他人の意見は聞き入れるが、最終的な判断は自分自身でする)
 気が付くと、先輩が手洗い場で入念に左右の手を消毒していた。クッキー生地の型抜きを再開する。
「しかし、お前もけっこう頼りになる男なんだな。最初、この店に入ってきたときは、げんなりしたぞ。こんなやつがケーキを作れるのかって」
 僕もクッキー生地作りに戻ることにした。今は目の前の仕事を片付けなければならない。先輩が口にしたように、僕は洋菓子を作ってお給料をもらっているのだ。
「ケーキ作りはオーブンで夏は最悪に暑いし、かと言って冬は生クリームがあるから暖房がつけれないから寒いからな。お前みたいな貧弱そうな男はすぐに辞めると思った」
 先輩の語調はきつい。が、先輩が口にするとなぜか違和感なく心に届く。悪意を感じない。
 僕は寸胴に小麦粉を入れた。ミキサーを低速にしてかき回す。
「そんなふうに僕を見てたんですか? 心外です。先輩こそ、貧弱な体なのに力が強いですよね。初めて先輩がカスタードを作るのを見たとき、どっからこんな力でるんだろう、と思いましたもん」
 先輩が吹き出した。
「お前、けなしてんのか? 褒めてんのか?」
 僕も笑った。
「両方です」
 カスタードクリーム作りは体力勝負である。大量の牛乳と卵、砂糖を銅の鍋に入れて火にかける。それをホイッパー(一般家庭用よりも大きな泡だて器)で人力でかき混ぜる。牛乳と卵だけならそれほど力はいらないのだが、ここに大量の砂糖が入ると途端にホイッパーに負荷がかかる。さらに、火の熱によって牛乳の水分を飛ばしていくので、銅の鍋に入った材料はドロドロの液体になる。時間が経つつれ、粘度がさらにまし、ホイッパーにかかる重みが増えるが、ホイッパーの動作を止めてはいけない。ホイッパーを止めれば銅の鍋の底から牛乳が焦げていくからだ。
 火を目の前にし、銅の鍋を一生懸命かき混ぜる。これがカスタードクリーム作りだ。カスタードクリーム作りの作業は真冬でも汗だくになる。腕も疲労する。
 作業が終わると、皆、すぐに水分を補給する。誇張ではなく、汗で体の水分が奪われ熱中症になる恐れがあるからだ。それほど、カスタードクリーム作りは重労働なのだ。
 初めてこのケーキ屋に入った時、細身の先輩が楽々と銅の鍋を右左に動かして、ホイッパーを力強く姿を見て、たくましいと思った。また、
(ああ、この人は女の人にモテるだろうな)
 とも、同時に思った。
 先輩が第二陣のクッキー生地の型抜きを終えた。二枚の鉄板を二段目のオーブンに入れる。
 先輩がオーブンから手を引き抜く。
「お前さ、その社長の会社に入ってみたら?」
 先輩の言葉は実に軽々しいものであった。

現在の「僕」たち⑰「先輩の直感力」

 最後の卵を寸胴に入れると、僕は決心した。
「先輩、少し話を聞いてくれますか?」
 先輩はクッキー生地の型抜きを手放さない。
「俺が無理強いをした。別に、根掘り葉掘り聞く気はなかったんだ。気を悪くしたら、謝る」
「いえ、僕が本当に話をしたいと思ってるんです」
「……」
 今度は先輩が黙る番だった。が、仕事中の手を止めることはない。
 僕はバターと砂糖、卵を混ぜる攪拌機を見つめた。寸胴の中では薄淡い黄色のペーストがミキサーによってかき混ぜられている。ペーストが均一に薄淡い黄色に染まるのは、卵が分離せずにうまく混じり合っている証拠である。
 僕は先輩の姿勢を無視して勝手に語り出した。
「実は、ヘッドハンティングされたんです」
「ヘッドハンティング?」
 先輩が丸い型を持ったまま静止した。口を丸く開ける。
「お前、そんなに優秀だったのか? もしかして、MBAの資格なんぞを持ってたりするのか?」
 僕は笑った。
「まさか。そんなの無理ですよ。僕の大学の偏差値は高くないですから。とりわけ、僕が卒業した経営学科は大学の中でももっとも偏差値が低かったですから」
「そうだよな。そもそも、MBAを取得した人間がうちの会社に入社しようなんて考えるわけがないよな。ヘッドハンティングなんて言うから、実はお前がすごいやつなのかと勘違いしたぞ」
「すみません、少しからかってしまいました。ヘッドハンティングは言いすぎですね。そもそも、僕は、『ヘッド』じゃない。簡単に言っちゃいますと、あの元ルームメイトが、『うちの会社に来ないか』って言ってきたんです」
「『うちの会社』?」
「あの人、社長なんです」
 先輩が大きく口を開ける。
「あの美貌(びぼう)で社長か。どうりで頭が良さそうに見えたわけだ。天は二物を与えるな。……待てよ。社長がじきじきにお前を会社に入れようとしたんだろう?」
「話だけですよ」
 先輩はクッキー生地が付着した手を(あご)に当てた。
「やっぱり、それってヘッドハンティングじゃないか?」
「いえ、だからそれは冗談ですって。彼女、社長になってまだ日が浅くてうまく経営がいってないらしいんです。だから、身近に自分の見知った人間が欲しいんだと思います」
「あの女性も経営学科の出身なのか?」
「違います。文学部でした」
「全然、畑違いじゃないか。よく社長になれたな」
「もともと、お父さんがやっていた会社を継いだそうです」
「二世の女社長か。それにしても、今の時代、いくら父親が社長だからといって子供に会社を継がせるところは少なくなってるって聞くぞ。もともとから会社にいた重役に社長を任せたりとか」
 僕は攪拌機を止めた。これ以上混ぜすぎると、ペースト状になったバターと砂糖、卵が分離してしまう。
「智香も――彼女は加藤智香と言うのですが、同じ事を言ってました。二世の社長なんて時代錯誤だ、みたいな」
 先輩が一息ついた。
「それだけ人望があるんだろう。この人になら託せる、と思わせるような何かを持ってるんだろう」
「僕も智香には人の上に立つ資質があると思います。智香は大学で国文学をやっていましたが、もっと研究がしたくて大学院にまで進みました」
 先輩が顎から手を離した。感嘆の声を上げる。
「それはすごい。どんな学部でも院にいけるのは一握りの人間だけだぞ。やっぱり、頭がいいんだな」
「頭がいいだけじゃなくて努力家でもありました。ルームシェアをしていた部屋でもいつも勉強をしていましたし、学部内でも常にトップクラスの成績だったと聞きました。本人は、決して自分から口にはしなかったんですけどね」
 先輩はため息をついた。
「俺は大学時代、麻雀ばっかやってたな。レポートも提出期間ギリギリだったし」
「ときどき、パチンコに行ってるようでしたが、二、三ヶ月に一度、あるかないかでした。それも、パチンコが好きで行ってるわけじゃなくて他に行くところがないから、パチンコ屋に行っていたような気がします」
「院に行って、教授にでもなるつもりだったのか?」
 僕は首をかたむけた。あのころの智香の真意は今でもわからない。
「さぁ。ただ、『本に没頭したい』といつも言っていました」
「『本に没頭』ね」
「でも、大学院にいるときに智香の父が亡くなってしまいました。智香の父ははじめから智香に会社を継がせる気でいたらしいんです。智香は嫌がっていましたが、周囲の勧めもあり、大学院を辞めて今の会社の社長になりました」
 先輩が僕をじっと見つめた。先輩と視線が宙で交差する。
「その智香さんに社長になることを勧めた一人はお前じゃないのか?」
 僕の心臓がはねあがった。頭髪が逆立つ。
 先輩の口にしたことが図星だったからだ。

現在の「僕」たち⑯「楽しむに如かず」

 寸胴の中でかき回されるバターの中に、僕は三回にわけて砂糖を入れた。ほどよく練られたバターと砂糖のペーストが完成する。
 僕は攪拌機(かくはんき)によってかき回されるバターと砂糖のペーストの中に溶きほぐした卵を入れていった。卵もペーストと分離しないように、少しずつ寸胴に入れる。砂糖のときよりも分離しやすいので、初めの卵は微量に投入する。
 先輩はあいかわらずせっせとクッキー生地の型抜きをしている。が、口は動く。
「で、その元ルームメイトの美人さんと何の話をしたんだ?」
 卵が分離しないように僕は攪拌機から目を離さない。
「たいしたことないです」
「愛の告白か?」
「だから、そういうのじゃありませんよ」
「ただ、顔を見に来たってわけじゃなさそうだったしな。何か重要な話だったんだろう?」
「ええ、まぁ」
「俺には話せないか?」
「……」
 僕は黙って攪拌機から目をそらさなかった。最初に入れた卵がバターと砂糖のペーストとなじんできた。攪拌機のミキサーの速度を落とし、慎重に卵を寸胴に注いだ。次は、さきほどよりも多めに入れる。
「話せんか。プライベートのことを聞いて悪かった」
 先輩が謝罪の言葉を口にしたので、逆に僕は智香から受けた話を言いたくなった。
(やっぱり、先輩は友喜に似た面がある)
 僕は話を迂回(うかい)させた。
「先輩も本社にいたんですよね?」
「ああ」
「自分がケーキを作るとは思ってました? 今、この瞬間はクッキー作ってますけど」
 先輩は鼻で笑った。
「まさか。俺は営業志願だったんだ。自慢するが、俺は口がうまくてな。営業で優秀な成績をあげる自信があった。けど、会社全体の利益がああだろう? 俺も早期退職か即席のケーキ職人になるかを選択させられた。退職も考えたが、時期が悪い。不景気だ。このご時世、中途半端なリストラ組よりも企業としては新卒を欲しがるのはわかってたからな」
 僕は初めて先輩の経歴を耳にした。先輩は口数は多いが、自分のことを多くは語らない。
(先輩も僕と同じ境遇だったんだ)
 先輩は丸いクッキー生地を作りながら口を開ける。
「生活もかかってたからな。退職金がもらえるとはいえ、次の就職先が見つかるまで貯金がもつとは限らない。結局は金なんだ」
 先輩が手を止める。攪拌機とにらめっこをする僕に視線を移した。
「それにな、最近はケーキ作ってるのも悪くないかな、と思い始めてるんだ。なんて言うか、悪い気分がしないんだ。ケーキ作って、お店でお客の女の子が俺の作ったケーキを食って、『おいしい』って言うのを見るのも悪くないなって。そういうのもありかな、ってな」
 先輩は再びクッキー生地の型抜きに戻った。
「何かこんなこと言うの恥ずかしいな。ま、『楽しむに()かず』なんて言葉もあるしな」
 僕は攪拌機のスイッチを止めた。今度は僕が先輩を見る。
「『たのしむにしかず』?」
「与えられた仕事に楽しみを見出すんだと。どんなに、つらい仕事でも楽しみがある。それ見つけることができるんだと」
「へぇ」
 先輩の顔が赤くなった。照れているらしい。
「何だか説教くさくなっちまったな。俺らしくない。今の言葉は忘れてくれ。俺のキャラじゃない」
「そんなことないですよ」
 僕の言葉に嘘はなかった。
 僕は先輩に聞こえないように小さく言葉に発してみた。
「楽しむに如かず、か」
(先輩は自分の過去を話してくれた。僕も智香から受けた相談を先輩に話してみようかな)
 僕は攪拌機のスイッチを入れると、ゆっくりと卵を寸胴に入れた。

現在の「僕」たち⑮「先輩の疑問」

 床にぶちまけた小麦粉をほうきで集めると、ちり取りでゴミ箱に捨てた。もったいなかったが、捨てるよりほかにない。
 僕はもう一度、念入りに手を洗うと、小麦粉をボールに入れた。クッキーの生地作りに入る。
 先輩が二枚の鉄板を左右の手で持ち上げた。鉄板の上には油紙がのっており、その油紙の上には整然と丸く型どられたクッキー生地がのっている。
 先輩は温度を確認すると、二枚の鉄板をオーブンに入れた。オーブンの脇に磁石で付けられたタイムウォッチを押す。
 先輩は再び、ローラーを回して生地伸ばしの作業に入る。
「なぁ、あの美人さんと何を話したか教えてくれないか?」
 僕はバターの計量を行なっていた。洋菓子は計量が命である。決して、目分量では行わない。洋菓子はグラム単位で味が変わってしまうのだ。
「教えれませんよ」
「せめて、どこで知り合ったか教えてくれ」
「別にいいですけど。でも、僕なんかに女性と知り合った場所を聞いても意味ないんじゃないですか?」
 先輩がローラーを止める。先ほどと同じように、伸ばした生地を丸い型枠で抜いていく。お菓子作りは地味な作業である。しかも反復作業が多い。が、先輩はそのことに関して不平を言わない。
「何でそう思うんだ?」
 僕は砂糖の計量に移っていた。バターが入ったいたボールとは別のボールで砂糖の重さを計る。キロ単位なので、ときどき砂糖が食べ物に見えなくなる。
「先輩ってモテるじゃないですか。だから、僕なんかに聞かなくても、女性の方から寄ってきますよ」
「ハッハハハ。確かにな」先輩が遠慮なく笑う。「けど、あんなスタイルが良くて美人な女性はなかなかいないぞ。それに、頭も良さそうだ。何となくだけどな」
(洞察力も友喜に似てるな)
 僕は心の中でひとりごちだ。
「隠すようなことじゃないから言いますけど、大学の同期の人です」
「へぇ」
「ルームシェアをしてたんです」
「ルームシェア? あんな美人と一緒の部屋で住んでたのか?」
「はい」
「性欲だらけの大学時代にか?」
「はい」
「襲ったりしなかったのか?」
 僕は大量のバターを巨大な寸胴に入れた。バターを計測どおりに寸胴に入れるため、白いゴム製のヘラを使って、ボールからこそぎ落とすように寸胴に投入する。
「しませんよ。智香は――あの女性の名前は智香って言うんですけど、けっこう力強いですよ。襲ったらタマの一つでももってかれるでしょう」
 先輩が大きく笑った。
「お前がそんな冗談を言うのは珍しいな」
「いえ、本当ですよ」
 僕はバターが入った寸胴を業務用の攪拌機(かくはんき)に設置した。攪拌機は巨大なミキサーだ。力が強いので扱いには細心の注意が必要になる。作動中にミキサーに触れれば、手が飛ぶ。
 僕は寸胴を攪拌機にセットすると、機械を作動させた。バターを練るのだ。
「大学の同期でルームシェアの相手か。まさか、あの美人さんと二人きりでルームシェアをしたわけじゃないよな?」
「もう一人ルームメイトがいました。男です」
「三人の男女でルームシェアをしてたわけか。男女混合のルームシェアなんて、俺の大学時代では考えられんな」
 僕は攪拌機のスイッチを一旦止めた。バターに粘り気が出たところで砂糖を四分の一ほど入れる。一度に、砂糖を入れるとバターと分離してしまうので、小分けにする。
 僕は攪拌機のスイッチをもう一度入れた。攪拌機のミキサーが回転する。粘り気を帯びたバターに砂糖が入ったため、寸胴からは「ザリッ、ザリッ、ザリッ」という独特の音がする。ミキサーでかき回された砂糖が寸胴に当たっているのだ。ちょうど、裸足で砂浜を歩くときの音に似ている。
 先輩が名残惜しそうに言う。
「俺の時代にもそんな制度があったらなぁ」
(先輩と僕ってそんなに世代が離れてるとは思えないけどな。そういえば、先輩の年齢を聞いたことがない。けっこう年上なのかな? 見た目は若そうだけど)
 攪拌機によって大量のバターと砂糖が交じり合う音を聞きながら、僕は思うのだった。