現在の「僕」たち⑰「先輩の直感力」 | 彼と彼女と僕のいた部屋

現在の「僕」たち⑰「先輩の直感力」

 最後の卵を寸胴に入れると、僕は決心した。
「先輩、少し話を聞いてくれますか?」
 先輩はクッキー生地の型抜きを手放さない。
「俺が無理強いをした。別に、根掘り葉掘り聞く気はなかったんだ。気を悪くしたら、謝る」
「いえ、僕が本当に話をしたいと思ってるんです」
「……」
 今度は先輩が黙る番だった。が、仕事中の手を止めることはない。
 僕はバターと砂糖、卵を混ぜる攪拌機を見つめた。寸胴の中では薄淡い黄色のペーストがミキサーによってかき混ぜられている。ペーストが均一に薄淡い黄色に染まるのは、卵が分離せずにうまく混じり合っている証拠である。
 僕は先輩の姿勢を無視して勝手に語り出した。
「実は、ヘッドハンティングされたんです」
「ヘッドハンティング?」
 先輩が丸い型を持ったまま静止した。口を丸く開ける。
「お前、そんなに優秀だったのか? もしかして、MBAの資格なんぞを持ってたりするのか?」
 僕は笑った。
「まさか。そんなの無理ですよ。僕の大学の偏差値は高くないですから。とりわけ、僕が卒業した経営学科は大学の中でももっとも偏差値が低かったですから」
「そうだよな。そもそも、MBAを取得した人間がうちの会社に入社しようなんて考えるわけがないよな。ヘッドハンティングなんて言うから、実はお前がすごいやつなのかと勘違いしたぞ」
「すみません、少しからかってしまいました。ヘッドハンティングは言いすぎですね。そもそも、僕は、『ヘッド』じゃない。簡単に言っちゃいますと、あの元ルームメイトが、『うちの会社に来ないか』って言ってきたんです」
「『うちの会社』?」
「あの人、社長なんです」
 先輩が大きく口を開ける。
「あの美貌(びぼう)で社長か。どうりで頭が良さそうに見えたわけだ。天は二物を与えるな。……待てよ。社長がじきじきにお前を会社に入れようとしたんだろう?」
「話だけですよ」
 先輩はクッキー生地が付着した手を(あご)に当てた。
「やっぱり、それってヘッドハンティングじゃないか?」
「いえ、だからそれは冗談ですって。彼女、社長になってまだ日が浅くてうまく経営がいってないらしいんです。だから、身近に自分の見知った人間が欲しいんだと思います」
「あの女性も経営学科の出身なのか?」
「違います。文学部でした」
「全然、畑違いじゃないか。よく社長になれたな」
「もともと、お父さんがやっていた会社を継いだそうです」
「二世の女社長か。それにしても、今の時代、いくら父親が社長だからといって子供に会社を継がせるところは少なくなってるって聞くぞ。もともとから会社にいた重役に社長を任せたりとか」
 僕は攪拌機を止めた。これ以上混ぜすぎると、ペースト状になったバターと砂糖、卵が分離してしまう。
「智香も――彼女は加藤智香と言うのですが、同じ事を言ってました。二世の社長なんて時代錯誤だ、みたいな」
 先輩が一息ついた。
「それだけ人望があるんだろう。この人になら託せる、と思わせるような何かを持ってるんだろう」
「僕も智香には人の上に立つ資質があると思います。智香は大学で国文学をやっていましたが、もっと研究がしたくて大学院にまで進みました」
 先輩が顎から手を離した。感嘆の声を上げる。
「それはすごい。どんな学部でも院にいけるのは一握りの人間だけだぞ。やっぱり、頭がいいんだな」
「頭がいいだけじゃなくて努力家でもありました。ルームシェアをしていた部屋でもいつも勉強をしていましたし、学部内でも常にトップクラスの成績だったと聞きました。本人は、決して自分から口にはしなかったんですけどね」
 先輩はため息をついた。
「俺は大学時代、麻雀ばっかやってたな。レポートも提出期間ギリギリだったし」
「ときどき、パチンコに行ってるようでしたが、二、三ヶ月に一度、あるかないかでした。それも、パチンコが好きで行ってるわけじゃなくて他に行くところがないから、パチンコ屋に行っていたような気がします」
「院に行って、教授にでもなるつもりだったのか?」
 僕は首をかたむけた。あのころの智香の真意は今でもわからない。
「さぁ。ただ、『本に没頭したい』といつも言っていました」
「『本に没頭』ね」
「でも、大学院にいるときに智香の父が亡くなってしまいました。智香の父ははじめから智香に会社を継がせる気でいたらしいんです。智香は嫌がっていましたが、周囲の勧めもあり、大学院を辞めて今の会社の社長になりました」
 先輩が僕をじっと見つめた。先輩と視線が宙で交差する。
「その智香さんに社長になることを勧めた一人はお前じゃないのか?」
 僕の心臓がはねあがった。頭髪が逆立つ。
 先輩の口にしたことが図星だったからだ。