現在の「僕」たち【34】「僕がなるかもしれない姿」 | 彼と彼女と僕のいた部屋

現在の「僕」たち【34】「僕がなるかもしれない姿」

 智香の会社に入ることを決めてから約三日後。僕はようやく上司に退職願を出した。
 遅れた理由は実に簡単だ。退職願の書き方がわからなかったのだ。馬鹿なことに、僕は本屋のビジネス関係の書籍が並ぶコーナーで退職願の書き方が載っている本を探し、それを参考にして退職願を完成させた。
 ケーキ屋に出社していちばんに、僕の直属の上司であり、この店の店長である人に退職願を提出した。場所は店長がいつもパソコンとにらめっこをしている小さな事務室だった。
 僕はキーボードを叩いている店長を呼んだ。そして、頭を下げて退職願を提出した。
 上司はキーボードから手を離すと、すんなりと退職願を受け取った。とくに、顔色は変わらない。
「参考までに聞きたいんだけどさ、どうして辞めようと思った?」
 僕も腹は決まっていた。が、いざ上司に質問されると体がかたまってしまう。
「い、一身上の都合です」
「そういう体裁はいいよ。きっと、この紙にもそう書いてあるんでしょ? 個人的に興味があって聞いてるだけだよ。上には報告しない」
 上司の口にした「上」とは本社のことである。
 僕はありのままを話すことにした。嘘を並べても意味はない。どうせ、この会社を辞めるのだ。
「知人の会社に入るように誘われました」
「新しく会社を立ち上げるの?」
「いえ、すでにある会社です」
「ふ~ん」
 それで上司の質問は終わってしまった。本当に、「個人的な興味」だったようだ。
 上司は確認するように言う。
「わかってると思うけどさ、最低でも一ヶ月はここにいてもらうよ。辞めるのは自由だけど、引継ぎはしっかりとしてもらうからね」
「承知してます」
「じゃあ、これは上に渡しとくから」
「失礼します」
 僕は事務室を出ようとしたときだった。
「ありがとうね」
 上司は意味のわからないことを言った。
「は?」
 僕は振り返って上司を見た。
 上司は退職願をデスクの引き出しにおさめようとしているところであった。
「これで僕の点数も上がるから」
「点数?」
「僕も本社から落ちてきた人間なんだよね。でさ、僕はいわゆる中間管理職なんだけど、そういう人間の仕事のひとつが正社員の整理なんだよね。簡単に言うと、正社員を合法的に解雇すること。きみがここを辞めてくれれば、僕の点数がひとつ上がる。点数が上がれば、本社に戻れる可能性が高くなる。きみには感謝するよ」
「……」
 僕は棒立ちになった。何と言って良いのかわからない。
(中間管理職の人はそういう仕事もしなければならないのか。ある意味で、かわいそうな役回りだ。普通の社員よりもつらいかもしれない。智香の会社に入ったら、僕もそういう役目をするときがくるかもしれない。今、目の前にいる上司は将来の僕の姿かもしれないんだ)
 僕は上司に向かって深々と頭を下げた。
「これまで、いろいろとありがとうございました」
 上司は何も言わずに僕を一瞥した。そして、パソコンに視線を戻し、キーボードを叩く作業に戻った。
 僕は事務室をあとにした。