現在の「僕」たち【55】「遅い気が付き」 | 彼と彼女と僕のいた部屋

現在の「僕」たち【55】「遅い気が付き」

 今日のノルマであるスポンジケーキを焼き終えた僕は作業台にもたれかかってシフォンケーキ焼きと格闘する後輩を眺めた。本来であれば僕もシフォンケーキ焼きに入るべきなのだが、後輩にすべてを任すことにした。
(退職が決まってからサボりがちになったな)
 僕は苦笑いをした。
 退職願を店長に出してからというもの、変に腹が座ってしまった。それまでの僕はこのケーキ屋でどこかおどおどしながら作業をしていた。
 店長の機嫌を取ってみたり、先輩の話をさも興味ありげに耳をかたむけたり、パートタイマーの女の子たちにお金だけを渡してランチをおごったこともある。
 すべては保身のためだ。
(この店をクビになったら僕は収入はなくなる。健康保険もなくなる。無職になり世間体も悪くなる)
 僕は金銭と周囲の視線を気にしながら働いてきた。
 しかし、いったん退職が決まると僕の態度は変わった。堂々としている、と言えば聞こえはいいかもしれないが、横柄になったとも言える。
 店長、先輩に気をつかわなくなった。パートタイマーの女の子たちを自分を正社員であると認めさせようという意識もなくなった。
 その代わり、不思議な感情が芽生え始めていた。
(後輩の夢を叶えさせたい)
 自分が本社から落ちたからだろうか。後輩には自身の夢であるパティシエの道を進んで欲しいと思った。
(そのためには量をこなすことだ。一日中、嫌になるくらいケーキを焼き続ければシフォンケーキなど簡単にマスターするだろう)
 今までの僕は黙って作業を見ていることなどできなかった。必ず、手を出してしまう。店長や後輩にサボっていると思われたくなかったからだ。が、今は口を閉ざしたまま、後輩の仕事ぶりを見ることができる。
 焼き場に何度か先輩が足を入れた。先輩は業務用の冷蔵庫から材料を取り出すと、すぐに焼き場から出て行った。その間、僕は後輩の働きぶりを見ているだけだった。
 焼き場から立ち去る一瞬、先輩は僕を見た。が、何も言わなかった。
 焼き場を後にする先輩の背中を見送りながら僕は思った。
(もっと早くに後輩を育てるべきだった)
 店を退職する一週間を切って、僕はようやくそう思うのだった。