現在の「僕」たち【53】「僕の短所と後輩の長所」 | 彼と彼女と僕のいた部屋

現在の「僕」たち【53】「僕の短所と後輩の長所」

 焼き場に入り、手を洗った僕と後輩は早速、ケーキのスポンジ焼きの作業に入った。
 僕は左右の手に霧吹きでアルコールを噴きかけた。
「僕は普通のスポンジを焼くから。きみは普通のシフォンとロールケーキ用のシフォンを焼いて」
「はい」
 後輩がうなずいた。
 「普通のシフォン」とは丸型のシフォンケーキ用の生地である。丸型ではあるが普通のケーキとは少し違う。真ん中に丸い穴が空いている。形としてはドーナツに似ている。
 シフォンケーキは普通のケーキよりも大量の卵白を使う。そのため生地がしぼんでしまうのだ。しぼみはフワフワとした食感の副作用ともいえる。しかしその副作用のため、普通の丸いケーキ型でシフォンを焼くと中央がへこんでしまう。シフォンが自身の重みに耐え切れず、重心のある真ん中がくぼんでしまうのだ。
 そのため、丸型のシフォンケーキはドーナツのような形でしか作れない。
 ロールケーキ用のシフォンは前と同じだ。四角い型にシフォン生地を流しこみ、焼く。こちらはへこみを気にする必要はないが、型に生地を入れたとき、まっ平らにしないと生地に焼きムラが発生する。生地の厚さが均等でないと生焼けになったり、焼けすぎたりする。
 僕は後輩にシフォンを一任すると通常のスポンジケーキの生地づくりに入った。
(任せるとは言ったものの、やっぱり気になるな。バレない程度にときどき様子を見るか)
 僕は生地の材料となる大量の卵とバター、小麦粉を用意し始めた。
 後輩も材料の支度に取りかかる。
 その後、三十分間ほど僕たちふたりは黙々と作業をした。
 僕は作業中に言葉を発するほうではない。雑談をしていると集中力が欠けて仕事に身が入らないからだ。
 一方、ほかの従業員たちは作業をしながら、ときおり雑談をする。話題はあれこれだ。昨日のテレビドラマの内容だったり、芸能ニュースだったり、景気の話や政治家へ罵詈雑言だったりする。
 僕は作業をしながらおしゃべりができる人間をうらやましいと思っていた。皆が手を動かしながらも、同時に口を動かしている中、僕だけひとり作業に没頭しているのは単純に寂しかった。残念ながら僕には手と口を同時に動かす器用さがなかった。
 後輩は僕と違っていた。作業に余裕があるときは積極的に話をしていた。相手は正社員だったりパートタイマーだったりと、そのときどきだ。
 後輩の話は面白い。だから、後輩と仕事をしたがる従業員は多かった。毎日がケーキ作りに没頭していると、どうしても作業に飽きが生じてしまう。そんな倦怠を後輩は雑談という手段で打ち消してくれる存在であった。
(それはそれで立派な能力だよな)
 僕は後輩が人見知りをせず、誰とも親しげに話ができることを評価していた。
 しかし、この日の後輩は一切無駄口をしなかった。ときおり、スポンジケーキを作る僕のところにやって来て作業の確認をする程度で、口は閉じたままだった。目が昨日に増して真剣である。
(シフォンをぜんぶ任せたのは成功だったかな)
 残念ながら僕には職場を盛り上げる力はない。士気を高める力もない。それができるのは僕の先輩であろう。事実、先輩はパートタイマーの女の子たちに好かれているし、ほかの従業員からも一目置かれている。
 一方の僕は淡々と与えられた仕事をこなすだけの人間だ。一応、正社員という身分ではあるがパートタイマーのやる気を起こさせたりすることは僕の性質に合っていない。それは僕自身がよく理解していた。
 僕はラーメン屋で使うような巨大な寸胴でバターを湯煎しながら考えた。
(でも、智香の会社に入ったらそういうことも求められるのかな?)
 僕は後輩を見た。
 後輩はメモ帳を片手にブツブツと何事が口にしている。おそらく昨日の復習をしているのだろう。昨日の失敗を今日に活かそうというわけだ。
(いい心がけじゃないか)
 が、僕にいちまつの不安がよぎった。
(しかし、本当にこれでいいのか? 確かに、後輩にはシフォンの作り方をマスターしてもらわなければ困る。店長からも引き継ぎを頼まれている。僕の都合で勝手にこの店を辞めるんだ。大袈裟かもしれないけど、後継者を育ててから辞めるのが筋だろう。でも、後輩にシフォンを作ることを叩きこむことで、後輩の良い面――つまり、後輩が持っている店の士気を上げるという才能を潰すことにならないか?)
 僕は改めて後輩を観察した。
 後輩はメモ帳を閉じると卵白の泡立て作業に入った。後輩は口を真一文字に結んでいる。相当、気合が入っている。
(僕なんかのせいで後輩の長所を潰さなければいいけど)
 いつもと態度が違う後輩をこの目にして、前向きになったはずの僕の心がまた揺らぎ出していた。